11.身支度
――退かり出て来――
――退かり出て来――
(……わたしを呼ぶのは、誰?)
――我のために、退かり出て来。
(出るって、どこから? ……あなたは誰なの?)
――汝は我。我の器となる者よ、我に躯を捧げよ――
突如目前に迫り来る闇の気配に、台与は身をすくめた。
(いや! 来ないで!)
―――喰われる!!
「や――……あ?」
気付くと、台与は呆然と座り込んでいた。傍らに腋付が転がっているところをみると、恐らくものすごい勢いで飛び起きたのだろう。絡んだ長い黒髪が、卓の上に無造作に広がっている。
「……はっ、夢……」
安堵のあまりに声が漏れた。
心の底から凍り付くような、あの戦慄が夢だったとは信じがたかった。
あんな恐怖は現実ですら感じたことはない。
しかし台与は、どこかであの恐慌を知っている、と思い至った。そして。
(そうだ、昔よくうなされた凶夢だ……)
九の年までは毎晩のように台与を嘖んだ悪夢。十で自分の立場を悟ったあのときからはついぞ見ることのなかったそれが、二年もたって突如鮮明に蘇ってきた。
昔は覚醒と同時に霧散した夢の記憶も、今ならはっきりと思い出せる。
震えるほどの真実味を帯びて、あの悪夢がふたたび台与を襲ったのだ。
(ひどい目覚め……よりにもよって、こんな日に)
気分が悪い。このまま二度寝するような気分にはとてもなれなかった。
台与は重い体を両腕で支えて起きあがり、窓辺へ赴いた。
格子窓から覗く、あわく幽かな光。月光と陽光が混じり合い白霧の中を頼りなくただよう様子は、まるで今の自分のようだった。
(前もこうやって、朝日をみたっけ……)
あれは確か、掖邪狗が魏から帰ってくる日の朝だった。
なんて対照的な、と台与は自嘲にも似た笑い声をあげた。
九つだったあのころは、何も疑うことなどなく、ただまっすぐに前だけを見て生きていられた。
もう、戻れない。
台与は「台与」としては最後になる涙を流しながら、夜明けをつれて空を昇る朝日を見つめた。
(ここから始まる。わたしの本当の試練は、多分、この朝から……)
「帯は萌葱色のでいいかしら」
「髪に飾る菱の花が足りないわ、ちょっと取ってきてちょうだい」
いつもは閑静な西の館も、今日ばかりは厨なみの熱気に包まれていた。
「はーい姫様、じっとなさってくださいよ。動くと歪みます」
(さっきから微塵も動いたつもりはないのに……)
辟易としながら台与は目だけを動かして天井を見上げた。長い間人形のように棒立ちにさせられ、体のあちこちがぎしぎしとこわばってきていた。帯はむちゃくちゃに締め上げられるし、額や頬を滑る柳の小筆は尖って痛いし、どうにも憂さがたまって仕方がない。
少しでも巫女らしく見えるようにと顔中に模様を描かれているらしいが、そんな自分の顔を見るのは死んでも嫌だと思った。きっと世にも恐ろしいことになっているに違いない。台与の視界の端にちらりと映った枝を細く裂いた筆の上には、目が瞬くほど鮮やかな丹がこってりと乗っていたのだ。
「ちょっと、何よその領巾は。姫様は巫女よ、婚いの儀式でもあるまいし、そんな派手なのやめなさい。栲領巾がいいわ、そこにあるでしょう」
ひときわ大きな声で他の婢たちを制しているのは菜於だった。さすがというべきか、長年台与に仕える従婢だけあってその誇りは十二分、若さに見合わないほどの貫禄で群がる年上の婢たちを指揮している。
婢達がはしゃぐのも無理はなかった。今日は初めて、自分たちの主人が日の目を見る日なのだ。長年台与に仕えてきた者にとっては、台与はいくら主人といえども、精魂込めて育て守ってきた手中の玉も同然だった。
今日は自分たちの主をどれだけ立派にみせるかの力の見せ所で、それは対立する派閥があるからこそ余計に燃えるものらしい。落ち着いているように見せかけて、菜於もその例外ではなかった。
「よしっ、姫様、お綺麗です! 決して、けっして、総羽様には見劣りしません!」
拳を握りしめて力んだ菜於の言葉に、他の婢達も一斉に頷いた。
「まったく! あのように派手な格好ではとても巫女には見えませんでしたけど、姫様はそれはそれはもうご立派な巫女様です。さすが、わたくしたちのご主人様ですっ」
婢たちのざまあみろと言わんばかりの口調に、台与は苦笑した。総羽の名がでるといつもこうだ。
総羽というのは、同じムラの少女で台与の従姉にあたる。
台与より二つ年上の十四で、台与と同じく日巫女の後継者候補だった。血筋も容姿も巫女としての才能も、全てにおいて完璧だった。……唯一、その性格を除いて。
「本当に、あの派手好きの総羽姫ときたら! 真紅の袴に金の足結をじゃらじゃらぶら下げて。東の館の婢達は一体どんな世話をしてるんだか」
中年の婢が憤りもあらわに言ったのは、一年前の総羽の謁見の時の話だ。彼女は一年前に初月立を迎え、台与よりも大分早くに日巫女との謁見を終えていた。
(総羽さんか、懐かしい名前)
総羽が月立を迎える一年前まで、台与は彼女と同じ館に住んでいたのだ。そのため顔を合わせることは多かった。彼女が暇で仕方がない時などは、夜中に忍んで台与の部屋までやってきたこともあったくらいだった。
だが仲がよいのかといえば、決してそんなことはなく。
(なんせ、あの人の気性の激しさといったら……)
成長すればするほど二人の性格の差は歴然としてきた。時には羽目を外すことがあっても普段はおとなしく控えめな台与に対して、総羽はどんどん派手に、破天荒なほど勝気に育っていった。その激烈な気性と負けず嫌いな性格はまさに恐れるところを知らず、誰と話していてもすぐに一方的に怒鳴り散らす様子を思い出して台与は苦笑した。その気性のせいでこちらの館の者には評判は悪いのだが、なぜか総羽に仕える者は彼女のことを悪く言う者はいない。彼女なりに優しいところもあるのだろうと、台与は思っていた。
灼熱の如き東の姫、清流の如き西の姫。
あまりに対照的な女王候補を指して、二人を炎と水に喩える者もいたくらいだった。
(炎と、水……)
そういえば、と強い力で髪を梳かれながらも台与は思いを巡らせた。
(あれきり総羽さんは館を移ってしまったし、会えなくなったけれど。最後に何か……言っていなかったかしら?)
妙にそれが胸に引っかかる。台与は目を閉じ、そのことを思い出そうと試みた。




