10.日巫女の影
“そなたを待っていた……傷ついた可哀想な児”
がらにもなく、台与は打ちひしがれていた。
館を抜け出し、マナシや張政と出会い、そして掖邪狗との対峙があってから、七日が経とうとしていた。
あの日混乱の極みにあった台与を館で待ちうけていたのは、鬼のような形相の菜於だった。館の前で十数人の衛士に松明を掲げられ、その中央で舞い散る火の粉を浴びながら、仁王立ちで自分を出迎える菜於を見た時は背筋が凍ったものだった。
丸一日食事抜きの上大巫女には長々と説教をくらい、その後も館の回りにはこれまでの倍ほどの衛士がうろつくようになり、おまけに菜於は台与のそばを離れなくなってしまった。それだけ心配をかけたということもわかったので、もう一度脱走しようとはさすがに思わなかったけれど。
それ以上に、自分の心の整理に没頭する時間が長かった。
あの日、掖邪狗に言い放った言葉の真意。それをずっと考えていた。
(絶対嘘じゃない。じゃあ、あれがわたしの本心だったんだ……)
自分の思いもかけないところで、本当の気持ちを知ったことは台与にとって驚くべき収穫だった。そしてその返事は分かり切っているのに、聞くのが怖くて逃げ出した。あのときの掖邪狗の目を見れば、その動揺は容易にうかがい知れたというのに、なおも怖がっているのだ。その口からはっきりとした拒絶を聞くのを。
(困らせるつもりじゃなかったのに)
掖邪狗の端正な顔に浮かんだ明らかな戸惑い。思い出すと胸が痛む。
(あんなこと言うんじゃなかった……)
「掖邪狗様にお会いになられましたか? 姫様」
「えっ!」
手にしていた太い針を思わず指に突き刺しそうになり、台与は慌てて縫い物を放り投げた。脇で仕立物の選別をしていた菜於が射るような眼差しでじっと自分を見ている。
台与が咄嗟に何も答えられず黙っていると、菜於は物問いたげに小首を傾げて口を開いた。
「姫様が抜け出されたあの日、掖邪狗様はとても心配なさってらっしゃいましたわ。それはもう、見ているのも辛いほどにあちこち走り回られて。会っていらっしゃらないのならせめて、使いをやってお詫びの言葉だけでもお伝えすべきだと思います」
菜於の目は暗にまだ少し険しさを残している。責めるような視線を頬に受けて、台与は小さくなって答えた。
「……会ったよ、あの日、あの晩にやぐらの前で……」
上目遣いにちらりと見た菜於の顔に、一目で分かる感情は乗っていなかった。一つ大きく息を吐いたあと、娘らしい澄んだ瞳を伏せて「そうですか」と答えただけだった。それきり、訪れる沈黙。
(この後ろめたさは何……)
正直に生きることが、正しいことではなかったか。心のままに行動することで救われるのではなかったのか。しかし今台与の心を嘖んでいる罪悪感の固まりは、押しても引いても動きそうにない。自分は間違っていないと、声を大にして言えないのは何故なのか……
(張政さんにもう一度会いたい。この迷いと不安を、消し飛ばしてほしい……)
その日の夜、台与が腋付にもたれてうつらうつらし始めていた時だった。
「姫様、起きていらっしゃいますか? 失礼いたします」
帳をかきあげて部屋に入ってきた菜於の声で目覚めた台与は、瞼をこすって頷いた。台与がちゃんと部屋にいるか確認に来たのだろうかと思ったが、それはどうやら違ったらしく、寝ぼけ眼でぼんやりしている台与の前に座り込んだ菜於は、居住まいを正して口を開いた。
「おめでとうございます、姫様。急な日取りですが、明日に決まりました」
「……? 何のこと?」
一つぽかりとあくびをしながら台与が訊ねると、その緊張感のなさを諌めるかのごとく、菜於は大げさに裾をさばいて身を乗り出した。
「日巫女様との、謁見でございます」
台与は何を言われたのか理解できず、あくびの途中で凍った口を情けなく開けたまま菜於を見つめた。
「……はえ?」
「日巫女様との、謁見でございますー」
根気よくもう一度繰り返した菜於の言葉で、台与はやっとそれを理解した。
殴られたような衝撃とともに。
「あっ、あ……あした――!?」
急に体重をかけられた腋付がけたたましい音を立てて倒れるのも凌駕する程の大声で、台与は叫んでいた。
「落ち着いて下さいませ。私も驚いておりますわ、あまりに急なお話で」
頬に手を当てて戸惑ったようにため息をつく菜於には目もくれず、台与はあまりに衝撃的な報告を消化するのに専念していた。だが頭は分かりたくないと言っている。理解することが怖い。
「明日――なんで明日なの? いやよ、勝手に決めないで」
「日巫女様のお達しです。直々に占われた結果とか……」
うそだ、と思った。
日巫女が本当に台与のことを占えば、吉兆なんて出るはずがないのだから。
「急すぎるよ、総羽さんのときはずっと前から分かってたじゃない。なんで前日の夜にそんな、こんな……」
「姫さま? 何か不都合なことでも?」
台与の慌て方を尋常ではないと見て取ったのか、菜於は蒼白になった主の顔をのぞき込んだ。
はっとした台与は顔を背け、乾いた声で呟いた。「……何でもない」
その震えをかみ殺す少女らしくない声に、菜於は眉をひそめて何か問いかけたが、やめて身を引いた。会う相手があの日巫女なのだ、緊張するもの仕方がないことだと思ったのだろう。
「姫様、気をしっかりお持ち下さいね。日巫女様への謁見がかなうのは血縁の巫女のみなのですから、光栄なことです。明日はお支度でいつもより早いので、今晩はもうお休みなさいませ、あ……それと」
帳をかき上げて出ていこうとしていた菜於は、ふと振り返った。
「大御館までの先導は掖邪狗様がお受けになられました」
「――!」
台与の瞳がこわばるのを知ってか知らずか、静かにそれを受け流したあと、菜於は帳を下ろして立ち去った。
(日巫女様に、会う――)
しんと静かになった部屋に、庭の篝火がはぜる音がやけに大きく響く。台与はびくりと引きつった体を両手で抱え込んだ。
この世に生を受けてからずっと、台与の前にあった大きな影、女王日巫女。ついにその影がこちらを向くときがやってきたのだ。
そしてそのとき台与にとって決定的なことが起こる、その予感はもう拭えようもない。
(わたしは恐れているの、それとも悦んでいるの? もう分からない……)
『そのとき』、わたしはどうすればいいのか。
誰か教えて欲しいと、叫びたいような気分で台与は両手で顔を覆った。
(なんて長い夜なの……!)
恐れることはない、自分は「巫女」ではなく、「台与」なのだから。
けれど自分の価値はきっと、「巫女」であることによって成り立っている。
(じゃあわたしが「巫女」でなくなれば、わたしはどうなるの?)
不必要、無意味、無価値。存在意義の消失。
(今更何を怯えているのよ、わたし)
“だって怖いんだもん、「見破られる」のが”
(それがなんだっていうの、自由になりたいんじゃなかったの)
“みんなの反応が怖い、軽蔑されるのはいや、独りはいや――”
“――チカラが、欲しい!”
(ちがう、そんなものいらない! あなたみたいな弱い心、どこかに消えて! わたしから消えて!)
“……ワタシは、ワタシよ……”
信じがたい自己の分裂。その激しい喧噪の中、台与はいつしか眠りについていた。




