1.出会い
ほうほうという鳴き声が聞こえる。
梟がいるのかもしれない。
草が鼻をくすぐっているようだが、この体では感触がないので、くしゃみは出ない。
私は、ため息をついた。
「あの野郎、覚えてやがれ」
悪態をつくが、私にはそれしか恨みを晴らす方法がない。
他に出来ることと言えば、視線を動かすことと、ため息をはき続けること。そして、私をこんな真っ暗な森に捨てたお爺さん……いや、くそ爺へ届かない罵詈雑言をはき出すぐらいしか出来ない。
「……縄でぐるぐるに縛って森に捨てやがって!」
私は森に捨てられた時のことを思い出し、歯噛みした。
私が人形の体になった衝撃で混乱していると、くそ爺はいきなり顔を上げたのだ。
「……破棄、せねば」
「は……?」
意味が分からず、視線をくそ爺に向ければ、くそ爺は大げさなまでに肩を跳ねた。
「ま、魔の使いめ……! よ、よくもわしの人形に宿りおったな!」
「な、にを……」
意味が分からず、私は聞き返したがくそ爺は聞いていなかった。
ふらふらと立ち上がると、壁に掛けてあった縄で、あろうことか素早く私の体を縛ったのだ。
「ちょっと、何を……!」
「ええい、うるさい! き、貴様なんぞ、魔の森に捨ててくれようぞ!」
そう言って、ご丁寧に私の手足まで縛ったくそ爺は、私を担ぎ上げ、この薄気味の悪い森まで捨てに来たのだ。
腹立たしい。何が一番腹が立つかって言うと、混乱していて魔法を使うのを失念していたことだ。魔女失格である。
今は多少は落ち着きを取り戻し、自分の周りに結界を張り、野生動物に襲われないようにしているのだが。人形の体でも、魔法が使えて良かった。
「……ここ、日本じゃなかった」
くそ爺への罵倒をあらかた終えた私は、先ほど見た街並みを思い出していた。
今の時間は夜らしく暗かったけど、煉瓦造りの家や、街の造形が日本のものとは大きく違っていた。
空に電線が無かったし、道もアスファルトではなく石畳だった。
「どういうこと……?」
疑問が尽きない。
私は朝に門に触れたのに、目が覚めたら夜だったのも変だし。
人形の体になってしまったことも、何故なのか分からない。
助けを呼ぼうと、魔女にしか出来ない拠点への通信を念じてみたけれど、思念は弾かれてしまった。
つまり、ここは境界の魔女の力が及ばない地なのだ。
地球上に、そんな土地はないはずなのに……。
魔法が使えるということは、ここは魔法が存在する場所だ。
なのに、拠点にアクセス出来ないなんて。
どうしようもない状況に、私はまたため息をついた。
「……エリシア先輩、心配してるかな」
発生してから、一番長く一緒にいた。私にとって姉のような存在だ。思い出したら、なんだか寂しくなってきた。
だけど、人形の目では涙が流れるはずもなく。ただ、私は息を浅くはき出しただけだった。
「結界も、私の魔力がどのくらい持つのか分からないし……」
境界の魔女の力が届かない、未知の場所だ。どんな生き物がいるのかも分からない。
今夜は緊張を強いられそうだ。
そう思っていた時だった。
さっきまで鳥の声でうるさかった森が、しんと静まり返ったのは。
「何……?」
空気が張り詰めた気がする。今の私には感覚はない。
だけど、肺はないはずなのに息ははける。その息が白くなったのだ。つまり、何らかの要因で空気が冷えたということで……。
「何が、起きてる?」
私は、唯一自由な顔を動かし周りを見る。
そして、異質な存在を見つけてしまった。
それは、ライオンに似ていた。だけど一回り以上大きい。そして、口の両端からは二本の鋭く長い牙が生えている。
体の周りには蜃気楼のように白い靄が漂っていた。見るからに、普通の野生動物じゃ、ない。
「……」
ライオンもどきは、じっと私を見ていた。
私は心が冷えていくのを感じた。ギュッと心臓を握りつぶされるような冷たい感情。
ないはずの心臓が、悲鳴を上げているような錯覚を覚える。
これは──恐怖心?
がさり。ライオンもどきが、一歩を踏み出す。
「ひ……っ!」
引きつった悲鳴が、口から出る。
怖い。
怖い、怖い!
ライオンもどきが、目を細める。捕食者の目だ。
「やだ……っ」
縛られて身動き出来ない状態で、悲鳴を上げる。
ライオンもどきはそれを合図に、走り出した。私を狙っているのだ!
「来ないで!」
私は叫んだ。
身をよじって、縄から抜け出そうともがいた。でも、きつく縛られた縄は、簡単には解かれない。
「グルオオォォ!」
ライオンもどきが私の方へと飛びかかる。
恐怖から、私はきつく目を閉じた。
だけど──。
「炎より生まれし刃よ、魔を打ち滅ぼせ!」
声が、した。
若い少年の声だ。
そして。
「ガアアアア!」
ライオンもどきの絶叫が、森に響いた。
何が起きたのか分からず、私は目を開ける。
そして、飛び込んできた光景に、絶句する。
ライオンもどきが炎に包まれていたのだ。ライオンもどきは転げ回っている。
炎は、ライオンもどきだけを燃やし、草木には燃え移らない。
意思の込められた炎──魔法だ。
「ガアッ! ガアア……っ」
炎の勢いは凄まじく、ライオンもどきを灰へと変えていく。ライオンもどきは絶叫すると、何も残らせず灰の山となった。そして、その灰の山も光の粒子となり消えていく。
──……ほうほう。
梟の鳴き声が聞こえた。息の白さも消える。
森の無音はなくなり、動物の息吹が溢れる。
異常は、去ったのだ。
「は……」
安堵から、浅く息が出る。
冷たい恐怖は、まるで血液が流れるように薄まって温まっていく。
助かった、んだ。
ゆっくりと、実感していく。
それでも、身動き出来ないでいると、月光による影が私の上に差した。
「大丈夫ですか……?」
先ほど聞いた声が、上からする。
私はのろのろと、顔を上げた。
そこには、夜の闇に溶け込むような黒い髪と、紫水晶を思わせる形の良い目を持った少年が立っていた。黒い髪は、後ろで縛っていて背中に流している。
たぼたぼのシャツと、ボロボロのズボン姿がもったいないぐらい可愛い少年だ。
少年の容姿を観察出来るほどには、思考の混乱は治まったみたいだ。
観察されているとは思っていないらしい少年は、困ったように笑った。
「あの、魔物はもういないから、大丈夫ですよ」
「ま、もの……?」
まものとは、魔物のことだろうか。エリシア先輩に貸してもらったファンタジー小説に出てくる、あの魔物?
いや、待って。地球上に、魔物はいない。魔女はいるけど。
……ここは、地球じゃ、ない?
そうだとしたら、拠点と連絡がつかない理由も分かる。拠点の範囲は、地球の中までだ。
でも、そんな……。
辿り着いた答えに呆然としていると、少年が労るように私を見た。
「はい、魔物です。魔物は人を襲い、人の中にあるマナを奪うと、お爺ちゃんが言ってました」
「そう、なんだ」
マナは私の中にもある。今は人形の体だけど、魔法が使えたのだからマナはあるということだ。魔女はマナを宿して、魔法を使うから。
……魔法?
そうだ、私、結界張ってたんだ。
だから。
「君、結界の魔法が使えるんですね。だったら、僕も慌てて魔法を撃たなくても良かったかもしれません」
「あ、はは……」
そうだ。結界は防御。ライオンもどき……魔物を弾くことも出来たのだ。
恐怖ですっかり忘れていた。
乾いた笑い声を出す私に、少年はコンコンと結界を叩いた。
「これ解いてもらえませんか?」
「え……?」
「縄です。酷いことをする人もいますね。危険な魔の森に、小さな女の子を縛って放り出すなんて……」
少年は痛ましそうに私を見た。
……そうだった。私はくそ爺に縛られていたのだ。身動き出来ないの、そろそろ辛い。
私は、結界を解いた。
すると、少年は私に近づき腰に下げたナイフを取り出した。
「こんな縄、すぐに切りますから」
「お、お願いします」
少年は手慣れた様子で、シュッシュッと縄を切ってくれる。
体が自由になり、私は体を起こした。
その際、地面についた手が丸見えになり、私の心は現実を突きつけられ沈んだ。
そうだった。私は人形の体に……。
そこまで考えて、私はハッと少年の存在に思い至り、少年の方を振り返った。
少年は両目を見開き、私の手を見ている。
「その手、は……」
「あ、あの……」
今の自分が、異質な存在になっていることを少年の様子から思い知り、私は俯いた。
少年も、くそ爺みたいに私を異端として見るだろうか。
気味がられるかもしれない。
私は怖くなった。
私は、人間が怖い。
初めて会った人間のくそ爺は、私を酷く扱ったから。
この優しそうな少年に、怖がられたりしたら立ち直れそうになかった。
「異端、なんですね……?」
少年の言葉に、私の体がピクリと動く。
ああ、やはり。この少年も……。
諦めにも似た感情が、沸き起こる。
ギュッと口を引き結ぶ。すると、かさりという音がした。
見れば、少年が膝をつき私と目線を合わせいた。
そのまま、目を逸らすことなく少年は、私の……人形の右手をそっと両手で包み込んだ。
驚いた私は、手を引っ込めようとした。だけど、ギュッと力を込められたのか、人形の手はびくともしない。
「逃げないで」
「え……?」
少年を見れば、驚いたことに微笑んでいた。でも、優しいけれど泣き出しそうな、不思議な笑顔だった。
「僕も、同じなんです」
少年は、私の目を見つめたまま言う。
少年の視線に射抜かれた私は、縫い止められたように動けなくなった。
「僕も、強すぎる魔力を生みの親に疎まれて……ここに、捨てられていたんです」
少年の悲しみに溢れた言葉に、私は何と言えば良いのか分からない。
だけど感覚のない人形の手なのに、少年に触れられた場所が熱くなったような気がして、私は少年の言葉に聞き入った。
「幸い僕は、お爺ちゃんに拾われて事なきを得ました。だから……今度は僕の番なんです」
「それは、どういう……」
戸惑いを隠せない私に、少年は優しく語りかけてくる。
「僕の名前は、ラルク。君の名前は?」
優しい少年──ラルクの声が、私の心に染みる。
「れな」
気が付けば、名を告げていた。エリシア先輩からもらった、大切な名前を。
ラルクは、真っ直ぐ私を見る。
「レナ、僕と一緒に行きましょう」
ラルクの言葉に、私は目を見開く。
一緒に行こう。
ラルクは、そう言ってくれた。
初めの人間に捨てられた私に、共に在ろうと。
こんな気味の悪い体を持っているのに。私自身、まだ受け入れられてはいないのに。
ラルクは受け止めてくれたのだ。
「うん、行く……っ」
私は頷いた。
ラルクは、嬉しそうに笑ってくれる。
「レナ、これから賑やかになりますね」
「うん。ラルク、よろしく」
私たちは、ギュッと手を握り合った。
温度は感じないけれど、私はラルクの優しさで心は温かかった。
エリシア先輩。
見知らぬ世界で、よく分からない体になってしまいましたが。
私は、優しい人間と出会うことができました。