9.とある少年の苦悩と、文字
少年の名前は、リュドといった。
年は、十二歳になったばかりだ。
暗い藍色の髪に、赤茶色の目を持つ、見た目は気弱そうな少年である。
そんなリュドは、自室のベッドの上で一人俯いていた。
左手の甲を見せる形で、シーツに指を広げている。
甲には、不思議な紋様が浮かんでいた。
二重の円に囲まれた、鳥の形をした青い紋様。
この鳥は、神の使いを意味しているのだとリュドは知っていた。
いや、リュドの住むニーナ王国で知らない者は居ない。ニーナ王国だけじゃない、世界中の人間がこの紋様の意味を知っている。
「……こんな、ものっ!」
リュドは苦く呻くように呟き、紋様を見つめた。
そして、右手を振り上げる。
その右手には──鈍く光るナイフ。
「僕は、僕には、こんな重大な役目、無理だ……!」
目に涙を浮かべ、リュドは紋様のある左手の甲に、ナイフを振り下ろした。
迷いは一切ない。
紋様はリュドにより切り刻まれる──はずだった。
「く、う……っ!」
リュドの握ったナイフは、左手の甲の真上で止まっていたのだ。リュドが止めているわけではない。リュドは今も、右手に力を入れ続けている。
原因は、リュドの左手にあった。紋様が、光を放ちナイフを止めているのだ。
何者にも、紋様を傷つけることは出来ない。
紋様は、証なのだ。
神に、世界に、人々の願いに、選ばれたという証。
だが、それをリュドは認めたくないのだ。
「くそっ、くそっ!」
悪態をつき、リュドは何度もナイフを振り下ろす。
しかし、ナイフは光に阻まれ、紋様を傷つけることは叶わない。
「何でだよっ、僕には、無理なんだよ……!」
リュドの目から涙がこぼれ落ちる。シーツに次々と染みを作っていく。
「何で、僕なんだよ……っ」
リュドの右手から、ナイフが落ちる。
部屋に嗚咽が響き渡った。
「僕みたいな出来損ないが、なんで……っ!」
リュドの嘆きは深かった。
それだけ、自身の左手に紋様がある現実を認めたくないのだ。同時に、恐ろしくもあった。
紋様は、力の象徴でもある。
ニーナ王国だけが有する、力なのだ。
それだけに、リュドは人々の関心を引くだろう。
そして、失望されるのだ。
「僕は、無力、なのに……っ」
呻くリュドの耳に、歓声が飛び込んできた。それは、外からだった。
のろのろと顔を上げ、窓を見たリュドの目に映ったのは、子供たちに囲まれた一人の女の子だった。
腰まである波打つ金色の髪を背中に流し、青い目を細めて子供たちを見つめている。
年の頃は、リュドと同じぐらいだ。
「エミリア……」
リュドはポツリと女の子の名前を呼ぶ。その声には、羨望の響きが込められていた。
「エミリア姉ちゃん、精霊さま見せてー!」
「水の精霊さまが、良いのー!」
子供たちが口々に、女の子──エミリアに願いを告げる。
「ふふ、良いわよ。じゃあ、虹を見せてあげる」
「わーい!」
子供たちは飛び跳ねて喜んだ。
エミリアは得意げに胸をそらす。
腰に当てた左手の甲には、リュドにある紋様と同じものがあった。色は黄色だ。
彼女は、紋様を隠さない。紋様を認めたくないリュドと違い、隠す必要がないのだ。
「さあ、水の精霊ウンディーネよ。私の願いに応えてちょうだい」
エミリアは両手を広げた。
すると、エミリアを中心にして水の渦が現れる。
エミリアが両手を上へと伸ばすと、水の渦もまた上昇した。
そして、エミリアが両手を下ろすと細かい水しぶきへと変わる。水しぶきは光に反射し、虹を作り上げた。
「すごーい!」
「きれー!」
子供たちは大はしゃぎだ。
エミリアは、ふふんと笑みを浮かべた。
「さすが、えらばれし者だね!」
「エミリア姉ちゃんは、凄いもんね!」
「当たり前よ!」
子供たちの賞賛の声に、エミリアはまんざらでもない様子だ。
「選ばれし者……」
エミリアたちを見ていたリュドは、力なく呟く。
「僕は、そんなものに、なりたくなかった……」
リュドの目から、また涙がこぼれる。
目を袖で拭うと、リュドはナイフを近くの棚に仕舞う。
そして、ベッドに放り投げていた黒い手袋を手に取る。
「僕には、エミリアみたいな力はない」
涙声で言うと、リュドは手袋をはめる。
──紋様を隠すために。
リュドの左手に紋様があるのは、リュドしか知らない。
紋様を傷つけることすら出来ない現状、リュドの苦悩は続くのだ。
◆◆◆
「……うーん。うーむ?」
魔の森にあるお家の居間で、私は唸っていた。
椅子に座り古い本を持ち、何度も首を傾げる。
台所で洗い物をしているラルクの、苦笑する声が聞こえた。
「む、ラルク。笑うなんてひどいよ!」
私は本から顔を上げると、ラルクを見た。
ラルクはタオルで手を拭きながら、こっちにやってくる。
「すみません、レナ。頑張って本を読むレナが、可愛かったもので」
「ぬ……っ」
ラルクのど直球な言い方に、私は押し黙る。
ラルクは天然タラシだ。
近づいてきたラルクが、私の持つ本を覗き込む。
「ああ、この世界の童話ですね」
「うん。部屋にあったから持ってきたけど、まだまだ読めない文字も多くて」
「レナは文字の練習を始めたばかりですからね」
「うん……」
慰められたけど、私は肩を落とす。
この世界に残ると決めてから、私は文字の練習を始めた。
まずは簡単な読み書きから、と。子供用の単語を習い、そして、部屋にあった絵本らしき本に手を出したのだけど。
上手に読めないのだ。
……私の文字習得は、まだまだってことなのかな。
「あれ?」
ラルクが何かに気づいたのか、不思議そうに声を上げた。
「どうしたの?」
「いえ、レナ。この本は、絵本じゃないですよ」
「そうなの?」
古そうだけど挿し絵がついていたから、てっきり絵本だとばかり……。
ラルクが私の手元を覗き込む。
「これは……、古語で書かれてますね。僕にも読めません」
「そうなんだ!」
何だ、私の出来が悪くて読めないわけじゃなかったんだ。
良かったー。
「この本は、お爺ちゃんの部屋にあったんですよね?」
「うん。本棚にあったんだよ」
私がそう言うと、ラルクは考え込むように顎に手を当てた。
「もしかしたら、お爺ちゃんの研究資料かもしれませんね」
「研究資料……」
「ええ、お爺ちゃんは魔法と古代の言語を研究していましたから」
「そうなんだ」
絵本だと思っていたものが、予想以上に高尚なもので私は驚いた。
古代の言語か。
私は、ペラペラとページを捲る。
確かに、ニーナ王国の公用語に似ているけれど、教わったものとは微妙に綴りが違う。
「ふむ、古語とは恐れ入ったぞ」
「レナ、口調がおかしいですよ」
そう言うと、ラルクは台所に戻っていく。汚れた水を捨てに行くのだろう。
「ラルクのお爺ちゃんは、凄い人だったんだなぁ……」
古語を読めるとか、現在のニーナ王国の文字に四苦八苦している私にしてみたら、神様みたいな人間だ。
「そうですね。一度研究を始めると、寝食を忘れるぐらい没頭する人でしたよ」
「研究者気質だね!」
私は感心しきりだ。
ラルクは苦笑を浮かべた。
「まあ、家族としては心配してしまいますがね」
そう言うと、水の入った桶を持ったラルクが台所から出てくる。
「それじゃあ、レナ。すぐ戻りますから」
「うん」
ラルクは外へと出て行った。
その間、私は読めもしない本を捲る手を止めずにいた。
描かれている古めかしい絵を、気に入ったのだ。
ペラペラと捲り、そして、私は手を止めた。
そこにも、絵が描かれている。
だが、その絵が問題だったのだ。
「これって……」
そのページには、頭に角の生えた黒いローブ姿の人物と、その人物に剣を向ける西洋風の甲冑姿の人物が描かれていた。
だが、私が注視したのは、その人物たちの背景にある。
彼らの頭上に描かれた紋様に。
文字がびっしりと書かれた二重の円に囲まれた、鳥の紋様。
私は、つい最近この紋様を見たことがある。
ばっと、家の玄関を見る。
たった今、外に出て行ったラルク。
彼の背中に、この本に描かれた紋様と同じものがあったことを思い出したのだ。
上半身だけとはいえラルクの裸を見てしまったという羞恥心と、その後の言い合いですっかり忘れていた。
ラルクが帰ってくる気配は、まだない。
玄関から視線を本に移すと、私は食い入るように見入った。
絵の描かれたページにある文字を読み解こうとしたのだ。
「……」
しばらく無言で集中したけれど、駄目だった。
古語というだけあって、全く読めない。
ラルクですら読めないのだから、仕方ないことだけれども……。
「気になる……!」
本から顔を上げて、私は足をばたつかせた。
ああ、この紋様は何なのだ!
悶々としていると、ラルクが帰ってきた。
「あれ、何暴れているんですか」
「ラ、ラルク!」
私は咄嗟に、本を閉じた。
ラルクの秘密を暴こうとしていた気がして、何となく気まずくなる。
いや、ラルクに背中の紋様のことを聞けば早いのだろうけど……。
でも、これって聞いていいことなのかな。
だって、古代の言語の本に載っていたんだよ?
もしかしたら、触れちゃいけないことなのかもしれないし……。でもなー……、気になるし。
「あ、あの。ラルク、背中……」
「うん?」
聞き返され、私は黙る。
ラルクの優しい笑みを見て、紋様のことを聞いてしまい、ラルクから笑顔が消えてしまうのが怖いと思ったのだ。
だから、私は別の話題を探す。
「レナ?」
「あっ、えっと。も、文字早く読めるようになりたいから、教えてもらっても良い……?」
ぎこちなく笑いながら、私は言った。
「ええ、いいですよ。ただ、古語は教えられませんけど」
「あ、はは……、そうだね」
悪戯っぽく言うラルクに、引きつった笑いが出る。
本にあった紋様は気になるけど、ラルクに嫌な思いをさせたくない。
だから、私は黙っていることにした。
これからの穏やかな、ラルクとの生活を守るために。
「それでは、夕食の準備をする時間になるまで、練習しましょうか」
「うん! あ、その前に、本片付けてくる!」
本を抱えて、私は部屋に向かった。
そして、本棚に押し込める。
二度と取り出さないと、誓いながら。




