無くした欠片
AGS特殊研究施設、カーディナルと呼ばれるそのセクションは、幾重にも渡る隠蔽工作により存在を消していた。表向きは、しがない補給基地だ。AGSの支配する宙域の、中継点として用いられるだけの軍事セクションが、カーディナルの表向きの顔である。
この肩書きは非常に便利で、人知れずに様々な物を入手できる。物資も人も、ここを通過する際に受け取ればいい。
こうして数多くの命を飲み込んだカーディナルは、様々な恩恵をAGSにもたらした。正確には、H・R・G・Eも同様の恩恵を受けているが。
関係のない事だと、セイル・ウェントは興味のない事柄を切って捨てた。本当の事を言えば、興味のある事なんてありはしないのだが。ただ才能があって、どうしようもない成り行きがあって、結果として地獄を作っていただけで。科学者に好奇心は付き物らしいが、自分にはどうもそれがない。
課程も結果も、全く以て興味はない。どうでもいい。その前提で考えれば、自分はここの被験者達と大して変わらない。ここに囚われ、ただの物として使われている。使っている物が頭脳か身体かの違いでしかない。
だから、これに関してもそのスタンスは貫くつもりだった。つもりだったのだ。セイルは自室兼研究室でもあるその部屋で、投影モニターに映し出された情報をじっと見据えていた。
新たに舞い込んだ仕事は、とある少女を調べて欲しいという物だった。詳しい事情は知らされていないが、その少女が行った特異な事象については事細かに記載されていた。
訳が分からなかったが、興味がないという認識は変わらない。どうでもいい事柄でしかないからだ。上の求める事を調べ上げ、骸になった少女ごと送りつけてやればいい。
しかし、その少女は。トワは未だに生きていた。トワはあろう事か、自分を庇って重傷を負ったのだ。だから仕方なく。多少労力は使ったが助けてやった。
今表示している情報は、その時に調べておいた物だ。それに加え、目覚めてから測定した情報も記載してある。基本的な身体能力、と表現した方が分かりやすい。
トワが目覚めて、もう一週間は経った。だというのに、得られた情報はこれだけ。上に報告出来るような内容ではない。
「これじゃ、謎を深めるだけだし。あまりにも」
不自然で不釣り合いだと、セイルは思惟を広げていく。トワの身体能力は、年相応かそれ以下だ。もっとも、その年齢すら憶測でしかない。
自分が十七歳だから、おそらくそれよりも下だろうが。小柄で童顔だから十四、十五歳と言われても納得出来るし、十六歳だと言われても違和感はない。だから、その辺りの平均と照らし合わせて見ている。
その結果、トワは身体的に優れている訳ではないという事が分かった。むしろ虚弱体質と判断してもいい。
だが、その結果を踏まえて見ると矛盾が生まれてくる。トワは何度か、生身のまま兵士と戦い、これを無力化している。あの‘顔のない部隊’を相手にして、勝利しているのだ。訓練も受けず、強化処置も受けていない少女が、白兵戦のプロフェッショナルに勝てる筈がない。絶対にだ。
ifを用いた戦闘なら、まだ保留にしてもいい。遺跡から発掘されたキューブ、それを活用したBFSを用いて、遺跡から発掘された少女が怪異を引き起こす。論理も何もないが、納得は出来る。あり得る話だ。
でも、これはBFSを介している訳ではない。大した筋力も技量もない少女の拳が、特殊部隊を一撃で倒す。納得出来ない。
自分を庇った時もそうだと、セイルは深い所まで思惟の根を伸ばしていく。兵士二人が、しっかりと拘束していた筈だ。少女の力で、それを振り解く事など出来ない。
また、トワは電子的な物に対して特異な力を発揮している。電気錠や電子ロックの類は、その気になれば解除出来るようだ。本人に聞いても、ふわふわした答えが返ってくるだけで全く要領を得ない。
今得ている情報はそれだけだった。トワの引き起こした事象と、本人の能力が致命的に噛み合っていない。こんな物を報告した所で、何の意味もない。
現状の調査方法では、これ以上の答えは得られない。医療面からのアプローチでは、これが限界なのだろうか。
「……私の目に見えない、そういう物が」
セイルは小さく呟き、思惟の底へ沈んでいく。何かが切り替わったような気がした。前提を取り払ってみたらどうだろう。報告を踏まえて見ると、どうしても遺跡やif、BFSが前提に存在してしまう。
BFSがあるから、トワは特異な能力を発揮した。その前提を取り払ってしまえば。
BFSや、それの根幹であるキューブは中継地点でしかないとしたら。トワの力、その大元は。
「セイル」
耳元で声が聞こえたような気がして、セイルはびくりと肩を震わせた。振り返ると、いつの間にか部屋に入ってきていたミサキがそこにはいた。
私の作り出した地獄、その住人だとセイルは自嘲する。度重なる実験により、常人以上の身体能力を発揮した少年だ。従順な兵士であり、セイルが唯一信用している人物でもあった。
「ミサキ。無言で入るのはやめてって言っているでしょ。忘れたの?」
注意のつもりで言った言葉だが、ミサキは怪訝そうな表情を浮かべている。
「声もかけたし、ノックもしたし。呼び鈴だって鳴らしたけど? 気付かなかったの?」
ミサキの容赦ない指摘に、むしろセイルが渋面を作る羽目になった。
「そう。で、何?」
まあ、たまにある事だ。セイルは特に気にせず、ミサキにそう問い掛けた。わざわざ部屋に来たのだから、何か用があっての事だろう。ミサキは無駄な事はしない。
しかし、ミサキは黙ったままこちらをじっと見つめていた。何かを言おうとしているが、踏ん切りがついていない。ミサキらしくない様子に、今度はセイルが眉をひそめる。しかし追求はせず、ミサキが言い出すまでじっと待ってみた。
「……そいつ、どうするの?」
ようやっとミサキはその言葉を吐き出した。ミサキはトワの事を、一貫してそいつ呼ばわりしている。これも、ミサキらしくない姿だった。
ミサキは人の名前を覚えようとしないが、その代わりに干渉もしない。ミサキの中にある名前は私、セイルだけであり、他は殺すか殺さないかぐらいの分け方しかしていない。殺意に感情が入らないのだ。だが、トワの事となると話は別だった。その理由は本人にも分かっていないし、こちらは尚の事分からない。
「どうするも何も。調べて上に報告するだけでしょう」
違う。ミサキが聞いているのはそういう事ではない。セイルは分かってはいたが、自然と嘘を吐いていた。そして、ミサキは嘘や虚勢を簡単に見破る。
「セイルがそれを望むなら、俺は止めはしない」
見破った上で、ミサキはそれに従うと言う。分かっている。自分が矛盾しているという事も、その感情に溺れてしまえば後戻りは出来ないという事も。今まで積み重ねてきた負債が、自分自身を啄むのだと。分かっている、知っている。
「貴方はどうしたいの、ミサキ」
セイルは、分かり切っている筈なのにその質問を投げ掛けた。ミサキは目を細め、表示されたトワの情報を見据える。
「手遅れになる前に殺したい。そいつは本当に」
怖いんだ。そう、ミサキが続けたような気がした。
ミサキが自分から殺意を発する事なんて、今までなかったのだ。そのミサキが恐怖し、殺せる内に殺したい、なかった事にしたいと思わせる少女とは。
「その時が来たら貴方に任せるけど。今じゃないわ」
嘘か本当か、その時が来るまで分からない言葉で煙に巻くしかない。ミサキには見破られているだろうけど。
セイルは時間を確認する。そろそろ、件の少女が目を覚ます頃だろう。
ベッドに脱ぎ捨ててある白衣を掴み取り、少し大きいそれに袖を通す。
「話を聞いてくるから。貴方はどうするの、ミサキ」
黙ったままのミサキにそう問い掛ける。ミサキは少し眉をひそめたが、私に反対するような事はしない。
「ついて行くよ、セイル。その時がいつ来るか、俺には分からないからね」
トワを収容している白亜の牢獄は、人を監視し閉じ込めておくには最適な物だったが。この少女にどこまで通用するのかは分からない。少なくとも、電子錠の類は信用出来ない。だから、三重の扉それぞれに鎖と錠前を施した。
これまでに得た情報から、こうした物の破壊には至っていない。結束バンドでの拘束を引きちぎった事はないし、扉その物を吹き飛ばしたりはしていない。それも、いつ覆されてもおかしくはないが。
セイルは牢獄の監視についている兵士が錠前を外していくのを待ちながら、ベッドの上で目をこすっている少女を見つめていた。
扉全てのロックが外され、セイルとミサキは牢獄の中に入る。ミサキは最後の扉の前で立ち止まり、それ以上は近寄らないという姿勢を取っていた。いつもの事だ。
セイルはベッドに近寄り、近くにあった椅子に腰掛ける。そして、寝起きの悪い少女が意識を取り戻すまでじっと待った。
その間に、部屋に備わっている監視装置がオフになっているのを確認する。監視していた兵士も退出しており、ここには自分とミサキと白い少女しかいない。そういう風に取り決めたのだ。
「……セイル、おはよう。今日も早いね」
まだ少し寝ぼけ眼だったが、少女は、トワはこちらを視界に入れるとそう言った。警戒も何もない、透明な声が耳に心地良い。
「貴方が起きるのが遅いだけでしょう。随分とぐっすり眠るのね」
欠伸を一回挟み、トワは小首を傾げた。
トワは淡い黄色をしたニットセーターを着用し、ロング丈の裾からはタイツに包まれた足を覗かせていた。デニール数の大きいタイツを使用しており、艶やかな黒に包まれた足はとても細い。これらは、全部自分が用意した物だ。
あの時にトワが負った傷は、決して浅いものではなかった。下半身を中心に深い裂傷、腹部周辺にも幾つか破片が突き刺さり、運の悪い事に顔、眼球にも少なくない損傷を与えていたのだ。
破片の除去、再生医療を駆使した縫合と、最新医療のオンパレードでここまでこぎ着けた。傷が浅かった箇所の傷は、殆ど消せただろう。足まわりと腹部は、もう少し大がかりな再生医療が必要になる。今はタイツに隠れて見えないが、痛々しい裂傷の痕が幾つか刻まれている。腹部も同様だ。
それでも、及ばなかった部位もある。顔に付いた傷は、出血の割には小さかった。すぐに目立たなくなるだろうし、再生医療を用いる必要もない。
しかし、眼球はその限りではなかった。破片によって出血し、眼球が内側から圧迫されてしまったのだ。両目ともその度合いはひどく、急ぎ血を抜いたが少し遅かった。出血による圧で眼球に損傷が見られ、視力が著しく低下してしまったのだ。見た目は完璧に治せただけあって、これは少し悔しい。再生医療の限界だった。見てくれは治せたが、軸の伸びてしまった眼球はどうしようもない。
今のトワは、極度の近眼に近い症状にある。近距離のピントは合うのだが、少し離れるとぼやけてしまう。もっとも、近距離のピントが合うだけでも奇跡的と言える。
正直な話、ここまで損傷した眼球なら新しい物に交換した方が早い。眼球はデリケートなので、再生するよりも代替え品を用意した方が精度がいいのだ。
だが、本人は嫌だと言っているから保留にしている。よって今もまだ、トワの両目は赤い光彩に装飾されたままだった。
「難しい事を考えていると眠くなるよ」
なんて事のないないようにトワはそう返してきた。まあ、真理だ。
「貴方が難しい事を考えるんですか? 一体何を?」
そうセイルが問うと、トワは困ったように微笑んだ。
「うん、色々と。考えても仕方のない事とか、色々と」
トワはあんな目に遭ったというのに、何も気にしていないようだった。むしろ、どちらかというと協力的だ。質問には答えるし、真摯に考えている。その殆どはふわついた答えであり、あまり有用ではないが。
「何で貴方はスカートを穿かないんですか。せっかく用意したのに」
備え付けの棚の上に、スカートが無造作に置かれている。自身の私物でもあるそれを見ながら、セイルは指摘する。
このスカートは、裾に控えめながら可愛らしいフリルが施してあった。今着ているニットセーターと合わせると、ロング丈の下から少しだけスカートが見え、フリルが良いアクセントになるのだ。今は棚のクロスと化しているけれど。
「これ、穿いてるじゃない?」
そう言いながら、トワはタイツに包まれた自身の足をぺしりと叩く。それボトムじゃないしとセイルは思っていたが、それを正す前にトワがタイツを指で摘んだ。
「これ、暖かいのはいいけど。締め付けが凄いの。変な感じ」
人がせっかく、傷跡が目立たないように濃い目のタイツを用意したのに。この言い草である。
「いいから着ていなさい。締め付けが嫌だと言うなら、服なんて着ていられないでしょう」
セイルの軽口のような言葉にも、トワはじっくりと考えて言葉を探す。
「下着が隠れていればセーフってみんな言ってた」
そのみんなは、多分この子の教育方針を間違えているとセイルは考えながら、溜息を一つ吐いた。
「ねえ、セイル。指輪、あった?」
トワの控え目な問いを受け、セイルは迷いながらも首を横に振った。
「探してるけど。まだ、見つかってない」
「……そう」
トワは肩を落とし、左手の薬指を右手で包んだ。自分は嘘を吐いている。手術をした際に回収し、服と一緒に保管してあった。
その指輪が、トワにとって大切な物だというのは分かっていた。トワが目覚めた時に、自分の傷も不調も、不自由になった視界も全てかなぐり捨て、問いかけてきた言葉がそれだった。指輪がないと、大粒の涙を流して。
別に隠すつもりはなかったのだ。でも何だか渡せなくて。これは渡してしまえば、どこかに行ってしまうような。そんな、漠然とした恐怖があったから。今もまだ、探していると嘘を吐いている。
「セイルは、やっぱり似ているね」
目の前で声がして、セイルは意識を切り替える。思惟の底に沈もうとした意識を引っ張り上げ、目の前を見た。
「あ……」
セイルは小さな声を漏らし、目の前のいる少女を見た。トワが乗り出すように顔を近付け、懐かしげな瞳を向けている。あともう少し近付いたら鼻先がぶつかってしまうかも知れない。
分かっている。トワは視力が低下しているのにコンタクトは怖いと言うし、眼鏡はおでこが変になると言って矯正しないのだ。だから、じっくりと物を見ようとすれば近付くしかない。この距離が、トワにとっての明瞭な視界なのだ。だから、ここから何をされる訳でもない。それは分かっている筈なのに、勝手に頬が染まっていく。
「あのね、顔が似てるって訳じゃないの。リオも可愛いけど、女の子じゃないし。寂しい顔をしてる時? こう、難しい事を考えている時? 凄く似てるんだ」
こちらの沈黙を疑問と受け取ったのか、トワは饒舌に話し出した。大体の話題は、しどろもどろで答えるのだが。ことリオの事になると、この子はよく喋る。
「そう、じゃあ。そのリオって人も、ろくでもない奴なのね」
内面が似ているという事をトワは言いたいのだろう。そうセイルは考え、そう返していた。
仮に、本当に私と似ている心臓の持ち主であれば。それは地獄を作り出す側にいるのだろう。私と同様、ろくでもない奴だ。
「ずっと悩んで、苦しんでるけど。それでも、私を助けてくれたんだよ。だから、誰かにとってはどうでもいいの。私にとっては大事なの」
私だって貴方を助けたのに。不意に目頭が熱くなり、負けたくなくてぐっとそれを抑え込む。それも分かっている。トワの語るリオへの想いは、何を言っても覆る事はない。
「でもね、セイルも私を助けてくれたでしょ? そういう所も似ているなって」
「それ、本気で言ってるの?」
最初に私を助けようとしたのは、他でもない貴方でしょうに。トワの言葉はどこかアンバランスで、利害と損得が抜け落ちている。多分、それでも良いと思わせてくれる何かを、この少女は得ているのだろう。
「リオもそんな感じの事、言ってたよ。二人とも変だね」
貴方に言われたらおしまいだとセイルは小さく笑い、トワも微笑んだ。しかし、その笑みが続く事はない。
遠い目をしたトワが、また左手の薬指を右手で包む。
「……戻りたいの、貴方は」
だから、分かりきった事をまた聞いてしまった。戻りたいと言われたら、どうすればいいのか。そんな簡単な事すら、自分は分からなくなっているのに。
「……戻れ、ないもの」
絞り出したような答えは、トワにとっては慟哭にも等しいのだろう。しかし、セイルにとっては安堵出来る答えだった。まだ、この子を捕まえておける。
歪な自分の、歪な胸のうちを自覚しながら。セイルはトワの左手に、自分の右手を重ねていた。