心の裡
疲れている筈なのに、眠るという事が出来ない。リオは《アマデウス》に帰還後、報告だけ済ませて自室に籠もっていた。他にやれる事もない。せめて休んでおこうと、いつものように横たわり目を閉じていた。
時間だけが無為に過ぎていく。どんな状況に陥っても、眠る事だけは出来ていたのに。今、それすらも壊れてしまったようだ。
トワを助ける事が出来なかった。ここで助けなければ次はないと、冷静な自分が判断している。
この状況では、どう足掻いても後手に回るしかない。トワの居場所すら分からないのだ。居場所を割り出した頃には、もう遅いかも知れない。トワがトワのままでいてくれる保証は、もうどこにもないのだ。
だから、こうにも空虚になる。次が考えられなくなった頭は、清々しい程に空白のままだ。
そうして横になったまま、何の変化も見られない天井を眺めていた時だった。滅多に鳴らされることのない電子音が響き、空虚だった頭が多少は動き始める。インターフォンの音、誰かが訪ねて来たようだ。
上体を起こし、ベッドの端に腰掛けるようにして扉の方を見る。
「どうぞ。鍵は開けたままだから」
我が物顔で入ってくるトワの為に、ここ最近は施錠していない。そもそも、トワ以外のクルーがここを訪ねる事は稀だが。
返事は返ってこない。扉の向こう側から、緊張がここまで伝わってくるようだった。こういう気の遣い方をするのは一人しかいない。
「リーファちゃん?」
そう問い掛けてみるも、やはり返事はない。引き返した訳でもないだろう。向こうの決心が付くまで、しばらく黙っている事にした。それ程待つ必要もないだろうし。
数秒後扉がスライドし、思った通りの人物がそこにはいた。いつもの澄ました顔ではなく、申し訳なさそうな表情をしている。
「……その、私。あの」
リーファの言葉は続かず、視線は泳いでしまっている。何か言いたいようだが、どう言って良いのか分からないといった様子だ。そうこうしている内に顔も伏せてしまい、表情も見えなくなった。
誰がどう見ても無理をしている。それもそうだろう。リーファは自分の戦いを間近で見た。どんなに大人びていても、リーファは普通の女の子でしかない。あんな物を見せられれば、普通は遠ざかる。
「辛いなら、無理をしなくてもいいよ」
だから、そんな言葉を口にしていた。気を遣っている訳ではない。お互いに無理をしないで済むのなら、それに越したことはないからだ。
しかし、リーファは慌てたように顔を上げ、首を横に振る。
「違います! 違いますから、遠くに置かないで下さい。私は」
そう言ってリーファは一歩踏み出した。真っ直ぐこちらを見据えたまま、迷いを振り払うようにして歩き始める。
「私は近付きに来たんです」
リーファが何を言っているのかは分からないが、その表情は真剣だった。ベッドの端に腰掛けている自分の前まで近付くと、リーファは勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい、リオさん……! 怖かったのは事実です。でも、それだけじゃないのを私は知っているんです。ちゃんと知っていたんです。だから、謝らないといけないって」
頭を下げたまま、リーファは堰を切ったように話し始めた。リーファが謝るような事ではない。恐怖を振り撒いたのは、他でもない自分なのだから。
「リオさんは、私を見捨てても良かったんです。私がいなければ、トワさんを助けられた。でも、私を見捨てなくて。それでもきっと後悔してるだろうから、ちゃんと話さなきゃいけないって、それで」
小さく震えながらも、リーファは話し続ける。その頼りなくも懸命な姿を見て、空っぽだった頭と胸が軋んでいく。自分はこの小さな女の子よりも、ずっと子どもなのだろう。でも、それで構わない。
「リーファちゃん。顔を上げて」
話を遮るように声を掛ける。びくりと震え、リーファは恐る恐る顔を上げた。両目に一杯の涙を溜めて、こちらの言葉を待っている。
話を止めたのは、それが必要ないからだ。リーファが危惧しているような事は何もない。
「後悔も何もないよ。本当に……何もない」
そう、何もなかった。もう手は届かないと冷静な自分は言っている。それは呆れるほどに正しいから、後には何も残らない。
「やることは変わらない。戦えと言われれば戦うし、守れと言われれば守る。他にはもう、何もないよ」
何もなくなってしまった。だから、謝る必要はない。近付く必要だってない。
「……トワさんを助けるんじゃないんですか」
リーファの問いは、それこそ心臓を抉るような物だ。でも、今更貫かれた所で心は動かない。そこはもうとっくに壊れてる。
「助けられるのなら、助けるよ」
冷たい答えだと、自分でも分かっている。でも、冷静な自分はそれが正解だと伝えてくるのだ。ならば、それ以外に言葉はない。
「私とトワさんの話、しますね。あの輸送機で、捕まっていた時の事です」
その答えの温度など意に介さず、リーファはそう返してきた。
「私は、どこに連れて行かれるのか分かっていました。かつて私がいた所です。身寄りのない私を、これ見よがしに活用した施設。私だけのせいではないと信じたいですが、その結果BFSが開発されました」
その話に関しては、何となく知っていた。非人道的な実験の末にBFSは開発され、用済みとなったリーファは前線に送り込まれたという。
「色々な目に遭いました。あそこには戻りたくない。私は、輸送機でトワさんに縋ったんです。トワさんは迷っていたみたいですけど、結局私を助けてくれました。その時、顔に出ていたのかも知れません。トワさんは私に手を差し出して、悲しそうに言ったんです」
リーファはそう言うと、悲しげに微笑んで見せた。もしかしたら、トワも同じような顔をしていたのかも知れない。
「嫌かも知れないけど、私と行こうと言っていました。リオさんと似たような事を言っていると思いませんか?」
それは、自分がリーファに言った言葉と確かに似ている。操縦席で震えるリーファに、怖いかも知れないけど、もう少しだからと声を掛けた。
言葉自体は違うが、内包している意味は殆ど同じだ。自分自身が害悪だと知っているから、手を差し出す事自体が不遜なのだと。トワもそう考えたのだろう。
「トワさんの言葉は、凄く寂しかった。私は分からないけど、リーファはみんなの所に戻れるって言ったんです。ここへ戻りたいけど、自分では戻れない。その資格がない。だから、トワさんは諦めているんだと思います。それが本心じゃないって、分かりますよね?」
拉げた心に、リーファの問いが染み込んでいく。本心じゃない、嘘を吐いている。そんな事は分かっている。ポート・エコーでの一件だってそうだ。寂しげに、何かを諦めたように微笑んだトワは、自分はいいからリーファを助けてくれと言った。その裏側に潜む本心に、僕は気付いていた筈だ。
「リオさんがトワさんしか見ていないように、トワさんもリオさんしか見ていないんでしょうね。トワさんはみんなの所と言いましたが、それは私に合わせた言葉です。本心は違う……!」
そう言い放ち、リーファはこちらに歩み寄る。目と鼻の先まで近付くと、ひしと抱き付くようにこちらの胸倉を掴んだ。
こちらはベッドの端に腰掛けている為、少し顔を上げただけで目線が交わる。濡れたままの瞳が、必死に思いを伝えようとしていた。
「トワさんの戻りたい場所は、たった一つ貴方の所なんです。でも諦めてる。自分じゃ戻れないって諦めて、それでもきっと待っている」
光がリーファの頬を伝う。その軌跡が煌めく度に、胸の裡が小さく疼く。
「リオさん、貴方もそうなんですか? 自分ではどうしようもないからと、諦めて成り行きに身を任せるんですか?」
分かっている。でも、それ以外にやれる事なんてないじゃないか。
「これまでずっと、トワさんが手を伸ばしてきました。でも、今それを諦めてる。貴方が手を伸ばさないと、届くはずがないじゃないですか……!」
それも分かっている。それに甘えていたのも事実だろう。でも、自分は手を伸ばせるような人間ではない。手を伸ばす資格なんて。
「他でもない貴方が、助けると言えなくてどうするんですか!」
その言葉は、あまりにも短絡的で無責任で。何の意味もない筈なのに。
どうして、こんなにも心が揺れ動くのだろう。もう、とっくに壊れてしまった場所なのに。
口を結んだまま、リーファは涙を拭うことすらしない。こちらの胸倉を掴んだまま、じっと僕の言葉を待っている。操縦席で震えていた女の子はもういない。ずっと強く、ちょっとお節介な女の子になった。
リーファの目を真っ直ぐに見詰め返し、自分の心の裡を開いていく。
「諦めるのも、逃げるのも楽なんだ。何も考えなくて済む」
それも一つの真実だと思う。不明瞭な現在と未来で、それでも歩み続ける為の手段の一つ。
「でも諦めたくない。逃げるのも御免だ。誰に言われなくとも分かってる」
壊れている心が、それでも熱を吐き続ける事由なんて一つしかない。
「トワだけは終わらせたくない。僕が助ける」
そう言い切って、今度はこちらがリーファの言葉を待つ。芯から込み上げてくる熱はただひたすらに熱い。空虚だった身体に、確かな温度が広がっていく。
呪いが消えた訳ではない。罪が赦された訳でもない。でも、今はどうでもいい。そう割り切ってしまう事自体が不遜だと知りながら、それでもやはりどうでもいい。
悲しげに微笑んだあの少女が、きちんと心から笑えるまでは。
「……そうです。そうじゃないと、あまりにも悲しいですから」
そう言い、リーファはこちらの胸倉から手を離す。そうして一歩だけ下がり、取り出したハンカチで涙を拭い始めた。
拭う度、ちらとこちらを見ている。まだ言いたい事があるのかも知れない。言い出すまで待っていると、ばつが悪そうにハンカチで口元を隠す。
「その、私。本当はちゃんと謝りに来たんです。それが何だか、よく分からない感じになって。更に失礼を重ねたような気がするんですが」
リーファはそう言うと、申し訳なさそうにこちらの様子を窺っている。ハンカチで口元を隠しているのは、彼女なりの羞恥心なのだろうか。
「僕が不甲斐ない時にリーファちゃんが怒るのは、いつもの事じゃないかな」
言っててちょっと情けないけれど、割と事実なので仕方がない。
「いつもは筋が通ってますけど。今回は感情のままだったので、申し訳なさが込み上げてるんです、今」
それはそうだろう。心の機微に筋道なんてない。しかしリーファの表情を見ていると、彼女は本気で申し訳なく思っているように見える。と言っても、口元はハンカチで隠れているが。
「気にしないでいいよ。それより」
リーファの手を掴み、ハンカチごと下ろす。口を真一文字に結んで、また泣きそうな顔をしているリーファに、ちゃんと伝えないと。
「トワの心を、持ってきてくれてありがとう。確かに預かったから」
左手の薬指に通ったエンゲージリングを、右手で包むように握りしめる。
「今度は、僕がトワに届けるよ」
冷静な自分は、未だにそれが夢物語だと嗤っているけれど。他でもない自分自身が、それを叶えたいと強く思っている。
だから言葉にした。考えているだけでは形にならないから、せめて今は言葉に。
「……はい!」
リーファは嬉しそうに返事をし、その気持ちを隠すことなく顔に出している。それは普段の彼女がしまい込んでいる、年相応の笑顔だった。
トワにも、こういう風に笑って欲しい。今は遠い少女を想い、そっと目を瞑る。自分はまだ諦めていないと、真っ直ぐ伝わればいいのに。
状況は何一つ好転していないが、一番大切な所は確かに変わった。
まだ終わっていない、終わらせたくない。
血の通った身体は、もう冷える事なく熱を発し続けていた。




