遠い背中
《アマデウス》ブリッジにて、リーファ・パレストは買い物リストなる物を眺めていた。通信士の席に座ってはいるが、現状やれることなどない。例によって買い出し担当に任命されているので、こうしてクルーの個人的な買い物も請け負ったのだ。それぐらいしか自分にはできない、という思いもある。《アマデウス》の整備は、ちょっと無理だろうし。
「ノヴェンバー・コミュニティまで三十分切ったか? 随分遠いところまで来たけど、AGSやH・R・G・Eにばったり出くわすなんてオチだけは勘弁だよな」
操舵席に座っているリュウキが、くつろいだ様子でそう言った。やはり、リュウキがそこにいる方がしっくりとくる。いつもの光景、といった感じだ。
「だから、それを見越した上でここを選んだんだってば。AGSは追跡の時点で難航してるだろうし。仮に近づいてきても、H・R・G・Eとの領域線が近いから、お互い睨み合ってくれるし。私達は、やることやってまた行方を眩ませる。それだけです」
どこか不満げにイリアは言い返す。イリアはブリッジ中央、艦長席から身を乗り出して、顔一面に不満を敷き詰めてリュウキを睨み付けている。
すると、今度はギニーがイリアの方へ顔を向けた。
「H・R・G・Eの部隊が周囲にいるってことですか? じゃないと、牽制にならないですよね?」
イリアは頷き、手元の簡易キーボードを操作する。目的地であるノヴェンバー・コミュニティ周辺の広域地図が映し出され、イリアの手書きで線が足されていく。ノヴェンバー・コミュニティを大きく囲う形で、その線は表示されていた。
「部隊の巡回は定期的に行われているから、その間隙を縫って私達はノヴェンバー・コミュニティに行くけど。実は、この範囲内はH・R・G・Eの監視下にあるんだ。無人偵察機とセンサーが隠してあるの。だから、私達が侵入した時点でH・R・G・Eはそれに気付いてるんだよね。所属不明艦が一隻入ってきた、ぐらいしか分からないけど」
イリアは広域地図を消し、話を続ける。
「警戒はするだろうけど、中立セクションに入った私達を強襲なんてことはしないでしょうね。領域線を跨がなければ、わざわざ相手にする必要もないから。でも、AGSの艦隊が迫ってきたら話は別でしょ? 既に警戒状態にあるH・R・G・Eが、一気に戦闘態勢に入る。それぐらいAGSも分かっているから、敢えて近寄らないと思うんだよね。それでも近寄るのならば、戦闘状況を誘発させて私達は逃げる。ま、大体そんな感じかな」
イリアがそう締め括り、得意げな笑みをギニーに向ける。ギニーは納得したように頷いていた。
「分かっていても結構恐いですね。H・R・G・Eに警戒されちゃってる中動くのは」
しれっとギニーはそう付け足した。納得していても、本音がぽろぽろ出てくるのがギニーの良いところと悪いところである。
「いっそ、H・R・G・Eが味方になってくれると良いんだけど」
そう呟いたのは副艦長であるクストである。その意見は彼女にしては珍しく、希望観測的な一言だった。
「それも考えたけど、最終手段だね。亡命する以上、交渉としては最低値からのスタートだし。まずは、AGSとの再交渉が一番現実的だと思うんだ」
AGSとの再交渉を行う。今イリアが言った通り、それが《アマデウス》の目標となっている。それについては以前説明を受け、《アマデウス》のクルー全員が納得していることだ。しかし。
「本当に、AGSは交渉を受けるんでしょうか。兵士を送り込むような人達ですよ」
そう、リーファは声に出していた。ずっと抱え込んでいる、不安の正体がそれだ。形振り構わず、複数の部隊を派遣して《アマデウス》を拿捕する。それで、この件は決着が付いてしまう。そこに交渉の余地はないだろう。
「交渉って言い方は、柔らかい言い方なんだよね。本質的には人質だよ。AGSが何をどうしようと、トワちゃんはこっちが確保してる。その上で私達を相手取るのがほとほと面倒だって証明出来れば、何とかできるかもしれない」
イリアは苦笑しながらそう答えた。その表情を見て、リーファは嫌な事を聞いてしまったと押し黙る。気付いてしまえばその通りだ。トワを目に見える人質として扱うことで、AGSの動きを牽制する。今の自分達にできることは、実質そのぐらいだろう。
「まあ、とりあえずはそんなところ。今はとにかく、修理と補給を急がないとね」
イリアのその言葉に、リーファは小さく頷いて返す。今は、目の前のことを一つずつ片付けていくしかない。情けないことだが、それぐらいしか自分にはできない。
「ところで、ノヴェンバー・コミュニティに降りるのはリーファちゃんとリオトワの三人だっけか?」
リュウキの質問に、リーファはこくりと頷く。
「はい。そうなる予定です。でも」
リーファはどう言葉にしていいのか分からず、そこで口を噤んでしまった。今のリオとトワは、端から見ても様子がおかしいのだ。リオは以前の、出会った頃の彼に戻ってしまった。見ようによっては、以前よりも危うく見えるぐらいだ。トワはいつも伏し目がちで、見ていて痛々しく思う。声を聞かなくなって、どれぐらい経つのだろうか。
二人の間に何があったのかは分からない。これも情けない話だが、こうなっていることに気付いたのはごく最近なのだ。少し様子がおかしいと思っていたら、あっと言う間にこうなっていた。もっとも、殆どのクルーが同じように感じているだろう。ことリオとトワに関しては、何の問題も軋轢もないと思っていたのだ。
「ああ、何かぎくしゃくしてるんだっけ? 一過性の物だと思ったんだけどな。そんなにひどいのか? あれ以降、あんまり会わないんだよな。こんな狭い船なのに」
それもそうだろう。リュウキの言うあれ以降とは、《アマデウス》に帰ってきてからの話だ。今思い返してみれば、リオとトワがぎこちなくなったのはあの辺りからだと思う。リュウキが戻ってきて以降、二人して部屋に閉じ籠もっているのだから出会う訳がない。
「ただ喧嘩してるだけなら良いんだけど、何だか二人して自分を追い込みに掛かってるよね。あんまり良くない傾向だなあとは思うけど」
ギニーが困ったように言う。そこまでは分かるが、どうしたら良いのかは分からないのだろう。自分も同じだ。今の状態が良いとは思えないけれど。どうしたら良いのかは分からない。
「個人的な関係だからと重要視していなかったのは事実だけど。二人して死人一歩手前の顔をしているとは思わなかったわ。まずは修理と補給だけど。どうにもならないようなら手は打たないとじゃない?」
クストの意見にイリアは頷き、溜息を一つ吐いた。
「そーなんだよね。忙しくて、任せっきりにした私のせいかもなんだけど。どーすれば良いのか見当も付かないよ」
「イリアの苦手分野だものね。人の心をどうこうするっていうの」
「うん、苦手。それこそ、アストちゃんの専門分野なんだけどね、こういうの」
イリアとクストのやり取りを聞きながら、リーファはアストラルのことを思い返す。確かに、アストラルなら重い空気など物ともしないだろう。強引にでも近付き、その心で心を繋ぎ止めてくれる。そういう人だった。そういう人がいなくなってしまったから、こんな事態になっているのかも知れないが。
「……あんまり話せてないんですね、私」
リーファは小さく呟き、コンソールに視線を落とす。あまりアストラルとは話せなかった。トワに付き合って医務室に寄った時ぐらいしか、まともに向き合ってない気がする。今更になって、そんなことを思い出すなんて。
小さな独白を聞いた者は誰もおらず、ちくりとした痛みが内奥に染み込んでいく。
二人が抱えているだろうその痛みは確かに重く、そして辛いものだった。
※
何かしていれば、気も紛れるかも知れない。そうリオは判断し、自室を後にしていた。すぐ隣にはトワの部屋があり、扉は閉ざされている。
トワも同じように、一人悩んでいるのだろうか。暗い部屋にいた自分の姿が、そのままトワの姿に置き換わる。もし、そうであるのならば。
部屋の前で立ち止まり、暫くその光景を見据える。その光景を少しでも変えられるならと、前後もなくインターフォンに手を伸ばした。このままじゃいけないことぐらいは分かっている。このままでは嫌だと気持ちも嘘ではないのだ。
震える指でインターフォンを押し、じっと反応を待つ。どうしたら良いのかは分からないままだが、これで何かが変わってくれるなら。
そんな心とは裏腹に反応はなく、物音もしない。扉越しに声を掛ける気は起きず、扉を開ける勇気もない。
また、向き合わずに済んでしまった。確かに安堵している胸中を疎ましく思いながら、その扉から目を離す。本当に情けない。こうも身体が動かないなんて。
一層重くなった足を動かし、当初の予定通り何かをしようと歩き出す。何かをする、と言ってもあてがある訳ではない。そうなると、仕事がありそうなのは格納庫ぐらいだ。
「何もない、って言われそうな気がするけど」
格納庫の主こと整備士のミユリは、用がなければ人を呼ばない。今は呼ばれていないから、仕事もまずないだろう。無駄足になるかも知れないが、それでも、あの部屋に戻るよりはましに思える。
格納庫に向かって足を進めるも、頭に浮かぶのはトワの事だけだった。比喩ではなくいつも一緒にいたから、一人で何をしているのか想像も付かない。この数日間、あの少女はたった一人でいる。自分が、手を振り払ってしまったから。
一体、どうしたら良かったのだろう。溜息を吐き、左手の薬指を見遣る。そこにあるエンゲージ・リングは、いつもと変わらずに煌めいて見えた。トワとの約束の証だ。今尚こうして身に付けている時点で、自分の考えなど決まっているようなものなのに。
「あ……」
鈴のような声が聞こえ我に返る。歩きながらも、この目は別の誰かを追っていた。自分が傷付けてしまった、白い少女の影を。だから、目の前にその少女がいたというのに気付けなかった。
ぶつかり、よろめくトワに手を伸ばす。驚いたまま縮こまっているトワの手を掴み、ぐいと引き寄せる。
力の籠もっていない身体は、軽く引いただけでも倒れそうだった。お互いに気付いていなかったのだろう。会わなければ、話さなければと思ってはいたが。まさか、こんな出会い方をするとは思っていなかった。
赤い瞳に白い肌、灰色の髪に寝癖がぴょこんと跳ねている。その表情は確かに驚いており、小さく開けられた口から吐息が漏れていた。
Tシャツにショートパンツといった出で立ちは、いつもの見慣れた格好だ。突っ掛けただけのサンダルから、小さな素足が覗いていた。
追い求めていた白い少女の影が、現実となって今目の前にいる。何か言わなければと考えを巡らすが、何をどう言葉にしていいのか分からない。この期に及んでもまだ、臆病者の論理に縋っている。
互いに何も言えないまま、掴んだままだった手を離した。仄かな熱が指の先を掠めていき、手放したくはなかったのだと今更になって思い至る。触れようと思えばすぐに手が届く距離なのに。こうして手を離してしまうと、途方もなく遠くに感じる。
トワの小さな唇が微かに揺れるが、何を言ったのかは分からない。トワは唇を噤むと、諦めたように顔を伏せてしまった。
諦めているのはトワだけではない。役に立たなくなった頭が、何も出来ないから立ち去れと喚いている。何かが変わってくれなければ、自分は一歩も動けないのだと。そんなことは、ずっと前から知っているのに。
足はすんなりと動き、何事もなかったかのように歩みを進める。トワの横を通り過ぎ、最初の目的だった何かをする為に足を動かし続けた。
「……目的、なんて」
何もない。今ここから逃げたいだけだ。結局自分には無理だった。どうしようもない事なんて、どうしようもない程あると、もう知っている。
そんな思いとは裏腹に、ここから逃げようと動いていた足は徐々に力を失い、完全に止まってしまった。逃げたいという思いは嘘ではない。それでも。
どうしようもない事だけど。どうしようもないで片付けたくはないのだと、そう思ったのも事実だった。軋んだ心が、それでも役目を果たそうとなけなしの熱を生じさせる。
だから、そう。目的なんて、最初から決まっていた。
「……トワ」
背後を振り返り、震える声でその名を呼んだ。小さく縮こまったままの背中に向けて、考えつく限り言葉を絞り出す。
「あと、三十分もしない内に。ノヴェンバー・コミュニティっていうセクションに着くんだ。前に一緒に行った所と比べると、つまらない場所かもなんだけど」
一緒に行った所、中立のリゾートセクション、ガーデンブルーの事だ。あの時のトワは楽しそうで、ふわりとした笑みを浮かべていた。エンゲージリングが欲しいとねだられ、結局買ってしまったのもそこだ。動機や経緯が無茶苦茶だったとしても構わない。二人の約束の証は、まだここにある筈だから。
「幾つか、そこで買い物をしなくちゃいけないんだ。だから、その。トワさえ良かったら、また一緒に行けたらって。そう、思うんだ」
小さな背中は何も語らない。軋んだ心を覆い尽くす熱も、その沈黙の前に少しずつ消えていく。
「……考えておいて欲しいんだ。待っているから」
消えかけた熱を振り絞りそう言うと、踵を返し歩き出す。今の自分に出来る最大限がこれなのだ。今の自分には、これしか出来ないということだけど。
きちんと伝わったかどうかも分からない。答えを聞くのが恐かったから、結局こうして背を向けてしまう。何も変わらない。変えられず、変わらず臆病なままだ。
無力感に苛まれながら、逃げるように足を動かし続けた。




