仄暗い熱
どうしようもなく軋んでいく。そんな言葉が、なぜかリオの頭には浮かんできた。
二人分の足音すら、軋んでいる心には堪える。《アマデウス》通用路は、重く湿ったままの空気が滞留していた。きっと、そう感じているのは自分だけだろうけど。
いや、もしかしたら。後ろにいるトワだって、そう感じているのかもしれない。トワは何も喋ろうとはせず、黙ってついてきていた。この三日間で、すっかりと変わってしまった日常の光景だ。
互いに何も言わず、何も言えずに。ただ黙って足を動かしている。
「……トワ」
どうしようもなく軋んでいく。これ以上は取り返しが付かない。そう思い、足を止めてトワへ呼び掛ける。後ろを振り向き、久しぶりに、本当に久しぶりにトワと向き合った。
「どうしたの、リオ」
同じように足を止めたトワは、表情を変えずにこちらを見遣る。感情が削ぎ落ちてしまったその表情からは、やはり何も読み取る事は出来ない。ひどく白い肌のせいで、赤い目がぼんやりと光を帯びているように見える。
トワの服装はいつもと違っていた。淡い黄色のブラウスは、腕の部分がレース加工されており、白い肌がレース模様の奥に見え隠れしている。ブラウスの色相に合わせたのか、下は淡い灰色をしたギャザースカートを履いており、丈は足首が見える程度の長さだ。
全体的にパステル調の物を着ているのに、当の本人は暗く重い。目に少し掛かっている灰色の髪も、寝癖を気持ちならしているだけだ。それに加えて、両目と口の辺りに青白いくまが出来ていた。元々肌が白いせいで、それがやけに目立つ。
「その……顔色、悪いみたいだから。部屋で休んだ方がいいよ」
その赤い目を直視出来ず、視線を逸らしながら言う。顔色が悪いのは本当だ。トワが心配な気持ちもあったが、それだけではなかった。少しの間でいい、別々に居たい。
あの恐怖の奔流は、消えて無くなっていたけれど。
軋んだままの心は、その事実を受け止めきれないでいるから。
だから理由は何でもいい、別々に過ごせば。少しでも頭が冷静になってくれれば、またいつものようにトワと話せる筈だと。今は、そう思うことしかできない。
「リオは、休むの?」
トワへ視線を向け直しても、目が合うことはなかった。トワは俯いており、赤い目は灰色の髪に隠れて見えない。
「僕は、その。用事があるから。先に休んでて」
こんな簡単な会話ですら、今はどこか不自然に思えてしまう。どんなに悩んでいても、本質なんて分からなくとも。こうして顔を合わせてしまえば何も心配はいらなかった。
それが、今では話す毎に軋んでいく。そんなことは望んでいないのに。
「……嫌、一緒がいい」
そう言って、トワは一歩近付く。そしてこちらの左手を、その両手でぐいと掴んだ。
どうしようもなく軋んでいく。掴まれた手に重苦しい熱を感じ、それは転じてあの恐怖を形作った。幻想に過ぎない、あの恐怖はもう跡形もなく消えている。
でも、それがあったという事はもう知っていた。どうしようもなくはっきりと、無視できない程に。
「え……?」
トワの小さな呟きを聞いて、自分が何をしたのか分かった。だから、気付いた時にはもう遅かった。
掴まれた左手を強引に振り払い、そのまま一歩二歩と後ずさりしていた。身体が勝手に、そう動いてしまった。自分が今、どんな表情をしているのか分からない。恐怖や後悔、焦燥や不信が、際限なく攪拌されているようだった。
この感情に比べれば、トワの表情は分かりやすい。顔を上げ、ただ呆然としている。何が起きたのか分からないといった様子だった。
「トワは、一体何者なの?」
そう訊いた。訊いてしまった。
トワは唇を噛み、今にも泣きそうな表情になってこちらを見る。答えられる筈がない。そんな事は百も承知だが、堰を切ったように言葉は溢れ出す。
「ずっと変だと思ってた、それでも良いって思ってた! でも違うんだ。訳が分からないよ……!」
その言葉は、きっと刃のように突き刺さる。分かっていても、一度決壊した心は止める事は出来ず。呆然としたままのトワに、そう吐き捨てるように言った。
トワは動揺を隠せず、泣きそうな表情のまま視線を泳がせる。唇を開き、ぽつぽつと話そうとしている。
「わ、私は……私、は」
でも、それ以上の言葉は出てこない。この少女は、今も空白のままだ。答えなどある筈がない。そんな事は分かっていたのに、こうして訊いてしまった。
ない交ぜになった感情は、元が何であったのかすら分からない。不確かなまま軋んでいく心に耐えきれず、踵を返し逃げるように駆け出した。
暫くそのまま、出鱈目に走っていた。リオは暴れ出した心臓と、悲鳴を上げる肺に気付いて立ち止まる。数分間は走っていたのかもしれない。闇雲に足を動かしたせいで、身体のそこかしこが痛い。
肩で息をしながら振り返っても、そこにトワはいなかった。引き留めも追い掛けもせず、あの少女は今どうしているのだろう。
多分きっと傷付けた。身体の痛みなんてどうでもいい。別のどこかが、こんな筈ではなかったと軋んでは痛む。
「はあ、はあ……く」
そのまま通用路の壁に背中を預け、ずるずると床にへたり込む。荒い呼吸を繰り返し、胸中に燻る熱を吐き出そうとした。
「どうしたら、良かったんだろう。こんな」
こんな筈ではなかった。どうすれば良かったのかは何も思い付かないけれど、こんな筈ではなかったのだ。
「……手、震えてたのかな」
左手を掴まれた時の事が頭に浮かぶ。今更になって、トワの手は震えていたと思い至る。辛いのも不安なのも、自分だけではない。そんな当たり前の事ですら、こうして道を違えないと分からないなんて。
左手の薬指に通された、シンプルなエンゲージリングに視線を落とす。アストラルも、きちんと向き合って、と言っていた。
「……向き合おうとしたんです」
ただ逃げただけだったけれど。
停滞したままの心は軋み、終わらない痛みが波紋のように広がっていた。
※
怯えたように、そしてとても寂しそうに彼は行ってしまった。トワは一人残された通用路で、一層ひどくなった頭痛に顔をしかめた。どうでもいい。こんな物はただ痛いだけだ。それよりも何よりも、胸の奥が締め付けられてどうにかなりそうだった。
そう、だから。多くは分からなくとも、多分きっと傷付けた。それだけは、何となく分かるのだ。
手を伸ばそうとして動けず、踏み出そうとして一歩下がった。なりふり構わず掴みたいと思う一方、手を払われた時の感覚が、放たれた言葉が。刃のように突き刺さって動けないのだ。
「私は、一体誰なの?」
そう呟くも、答える者は誰もいない。寒々しく見える通用路は静寂しか返してくれなかった。自分は一体誰なのか。その答えさえ持ち合わせていれば、こんな事にはならなかったのだろうか。
リオを追い掛けたくて踏み出した一歩は、所詮一歩に過ぎず。トワは通用路の壁に背を預け、その場にすとんと座り込んだ。身体は動かない。彼を追い掛けられない以上、目的もなければ目的地もない。
視線を下げると、雑に座り込んでしまったからだろう。ブラウスとギャザースカートに皺が付いていた。最近ずっと、いつものように振る舞う事が出来ないでいた。話したくても言葉は出ず、理由のない不安だけが押し寄せてくる。アストラルはいなくなってしまった。訳が分からない。ずっとこのままだと思っていたのだ。こんなにも突然に、消えてしまうなんて知らなかった。幸せな場所は、突然に消えてしまうかもしれないなんて。
トワは皺の付いた服を右手で億劫そうにならす。長いスカートは動きづらいからやめた方が良いかもしれない。皺を伸ばし、じっとブラウスとギャザースカートを見る。可愛い服装でもしてみたら、また何か変わるかもしれないと思って着てみたのだけど。あまり効果は無かったようだ。
「手、震えてたよね……」
リオの手を掴んだ時、彼の手は震えていた。辛いのも不安なのも、もしかしたら同じなのかも知れない。今はもう、確かめる事も出来ないけれど。
なぜかそう思えた。自分ではもう、リオとうまく話せないかもしれない。幸せな場所は確かに脆く、突然に消えてしまった。それも多分、自分の手で壊した。手放したくなくて、失いたくなくて。握り続けていたら、跡形もなく消えてしまった。
ふと違和感を覚え、目元を手の甲で拭う。手に付いたその滴が、照明の光を受けて反射していた。それが何か気付いてしまったからだろうか。ずっと押し留めていた感情が際限なく膨らみ、次々と溢れ出していく。視界はぼやけて歪み、出てしまいそうになる声を必死に押し殺す。今は彼の名前を呼ぶことさえ、いけない事のような気がしたから。
両手を祈るように握り締め、それで唇を押さえた。身体は縮こまり、情けなく震えている。
左手の薬指に通された、シンプルなエンゲージリングが視界に入る。アストラルは、なるべく笑顔で、後悔のないようにと言っていた。
「アスト……どうしよう。私、笑えなくなっちゃった」
ただ一緒にいるだけで良かった筈なのに。
溢れ出す感情に為す術も無く。ただの少女となったトワは、祈るようにうずくまる事しか出来なかった。