紫の痕
リオは《カムラッド》を操縦しながら、頭の中で状況を整理していく。現状は悪くないが、時間が掛かり過ぎている。
先遣隊のif部隊はほぼ壊滅に追い込んだ。《カムラッド》が四機いたが、今やそのどれもが大なり小なり損傷を抱えている。その動きは消極的で、撤退こそしないものの近付こうともしない。散々近接戦闘を強要した後だ。自分から間合いに飛び込みたくはないのだろう。
今、敵の《カムラッド》は距離を大きく取り、散発的に制圧射撃を繰り返している。狙いは増援の到着だ。カソードC方面から、ifの反応が複数感知されている。数を揃えて、こちらを圧倒しようという腹だろう。確かに、現状でこれ以上の複数戦は不利だ。
「リーファちゃん、まだ《アマデウス》は動かないの? この《カムラッド》で、増援はさすがに抑えきれない」
操縦している《カムラッド》の状態は良くない。予備弾薬もバッテリーも残り少ない上に、損傷も大きい。補給も修理もせずに連戦をしているのだから、当然の状況ではあるが。
あまり時間を保たせられる状態ではない。だからこそ、不躾ではあったがリーファに《アマデウス》の状況を聞いたのだ。
『えっと、すいません。その、今状況が分からなくて』
申し訳なさそうにリーファが答える。責めるつもりはないが、もう猶予はない。
「イリアさんは? もしこれ以上時間が掛かるなら、前に出て増援を抑えるしかない」
そうなった場合、間違いなく自分は撃墜されるだろうが。時間を稼ぐには、もうそれぐらいしかない。
『それはダメです! お願いですから、もう少し待って下さい』
リーファの悲痛な声が聞こえ、思わず苦笑する。
「分かってる、あくまで最終手段だから」
そう返し、リオは《カムラッド》の操縦に集中する。壊れかけの《カムラッド》で出来る事は少ない。近接戦闘を仕掛けるように見せかけると、敵《カムラッド》が慌てて後退した。TIAR突撃銃で単発射撃を行い、他の敵《カムラッド》も牽制する。近寄らせなければいい。今は、まだ。
『……リオ君、直通回線でごめん。急いで《アマデウス》まで戻って。しばらく牽制して貰えれば、それで離脱出来る。頼んだよ』
イリアからの通信が入り、返事をする前に切られた。余程切迫しているのだろう。
「リーファちゃん、指示があった。後退するよ」
『了解です、こちらでも確認しました』
もう残弾を気にする必要はない。TIAR突撃銃で掃射を繰り返しながら、リオは《カムラッド》を一気に後退させる。そのまま《アマデウス》の下部ハッチに滑り込み、再装填済みのTIARを掴み、再び固定機銃として牽制を繰り返す。
敵《カムラッド》が動きに気付いた時には遅い。《アマデウス》は航行を開始し、見る見る内に速度を上げていく。暫くは牽制をしていたが、その必要も無くなった。敵《カムラッド》の速度では、もう追い付けないだろう。
「今回は随分ときつかったけど」
何とかなったようだ。AGSとの敵対という難題は控えたままだが、一先ずこの局面では勝った。
そう、だから。今だけは確かに安堵していたのだ。
リオが艦内の惨状を知ったのは、もう少し後の事だった。
※
《アマデウス》に侵入した特務兵は合計八名だった。それぞれが隔壁に閉じ込められ、酸素濃度の調整で無力化し確保したらしい。格納庫側にいた特務兵を確保する際は、リオもif《カムラッド》に乗って援護したのだ。抵抗すれば、という文言だったが、特務兵は一切抵抗しなかった。こちらとしても、ヒューマンターゲットをif用の武装でミンチにするのは避けたかったので、それは良かったのだが。
確保した特務兵は、空いている船室に閉じ込めているらしい。目立った負傷者もおらず、いずれどこかで降ろすつもりだろう。
《アマデウス》の基幹システムは、一度イリアの手で初期化された。ウィルスを除去する為の初期化であり、ウィルスだけを倒す事が出来ないのなら、患部を切除するという強引な施術をイリアは選んだ。結果として、《アマデウス》は機能の大半を失った代わりに逃げおおせた。
イリアはプログラミングを続けているだろう。今、《アマデウス》は必要最低限の機能だけで宇宙を航行している。
AGSからの追撃もあるだろうが、まだ追い付けはしないだろう。ばったりと出くわさない限りは、戦闘にはならない。
AGS所属だった《アマデウス》は、今やAGSの敵となった。かといって敵であるH・R・G・Eが味方になるわけではなく、板挟みの状態にある。どちらに出会っても撃たれる上に、もう補給も修理も受ける事は出来ない。
それでも、今の所《アマデウス》は安全だった。
だから、たとえ一瞬でも。何事も無かったと安堵していたかったのだ。
様々な状況が一段落した後に、リオは医務室に向かった。その現状を正しく把握していたのはイリアとアリサの二人だけ。それでも、《アマデウス》艦内には不穏な空気が漂っていた。
だから、リオは自らの足で確かめに来たのだ。情報が錯綜しているだけで、彼女はいつものように強がって笑っているのではないかと。
そう、思っていたかった。
「……嫌だな」
来た事を後悔する。ベッドに横たわるアストラルと、傍に佇むトワを見て現状が分かった。分かってしまった。
情報は確かに錯綜していたのだろう。まさか、ここまで酷いとは。
本音を言えば逃げたい。事実、トワがこちらに気付かなければ背を向けていた。
死には慣れ親しんでいる。だからアストラルがもう保たない事が直ぐに分かったし、それが穏やかな物である事も分かった。乗っていた機体ごと火球に包まれる事もなく、馬鹿でかい弾丸に啄まれる事もない。熱帯雨林に上半身だけ投げ出されて腐乱する事も、宇宙で残骸と同じように冷え固まる事もない。
だから、これは充分に穏やかで。決して、目を背けるような事ではない。
ならばどうして、ここから逃げたいと思うのだろう。
「リオも、助けられないんだよね」
トワの言葉は空っぽだった。まるで初めて出会った時のように。いや、あの時よりも、今の方が空っぽだ。その根底にある筈の感情が、まったく感じられない。
そのベッドに近付き、トワとアストラルを見た。トワは憔悴しきっており、アストラルは小さく早い呼吸を繰り返していた。アストラルの身体には、何の器具も繋がっていない。それは、もう何も出来ないという事を雄弁に語っていた。
笑顔ばかり浮かべていたアストラルの顔は、感情が全て削ぎ落ちた無に見えた。その様は、人形よりも人形らしい。触れなくても分かる。冷たく、人の熱が消えかけた身体だ。
「少し前までお話してたんだけど。もう、聞こえてないのかな」
トワの呟きに応える気は起きず、何が起こったのか聞く気も起きない。
トワが身に着けているワンピースは、白かった筈なのだが。今は所々が青と赤、紫のグラデーションに染まっていた。二人分の血が、そのワンピースを染めたのだ。
そして、それが要因となり。こうしてアストラルは最期を迎えようとしている。
「ねえリオ」
トワが顔を上げ、感情の消えた赤い目でこちらを見据える。
「こんな筈じゃなかったの。私は確かに、ここにいたかったけど。こんな筈じゃなかった」
そう言ってトワは顔を伏せる。きっと、感情が消えてしまった訳ではない。ただひたすらに後悔して、後悔し尽くして後には何も残らなかったのだ。その姿が、いつかの自分に重なる。
言外に自分自身を責めているトワに、どう応えていいか分からない。思考は端から止まっている。何も考えられず、何も思い付かない。
そして、否応なしにその時はやってきた。
アストラルの呼吸が、転じてゆっくりになっていく。ゆっくりと呼吸している筈なのに、深く息を吸えていない。血の気の失せた肌が、冗談のように白く見える。
アストラルの口が小さく動く。何かを喋ったように見えたが、その言葉を聞くことは出来ず。
それが、アストラルの最後の呼吸となった。小さく息を吸った音、それが全ての終わりを告げた。
「あの人は、迎えに来てくれるのかな」
そうトワが呟く。アストラルの最後の言葉を、トワだけは聞き取ったのだろう。
「……そっか。私、もう。アストに会えなくなったんだ」
トワは顔を伏せたままであり、その表情は見えない。だが、想像に難しくはないだろう。今トワが言っていた通りだ。
いつもからりと笑っていたアストラルは、もういない。
リオは何も応えず、応えられず。その亡骸から目を離した。




