封鎖地帯
照明が消え、一瞬の暗闇を経て非常灯が瞬く。輝度の落ちた通用路で、リオは辺りを見回した。無重力下なのは変わらない。足を止めると、独りでに身体が浮いてきてしまう。
《アマデウス》格納庫から医務室を目指している最中に起きた。何かの異常事態か、或いは。
考えても仕方がないだろう。今は、とにかく医務室に駆けつける事だけを考えるしかない。壁を蹴り動き出すが、曲がり角に差し掛かった所で足を引っかけて慣性を止める。直ぐそこに気配を感じたのだ。静かで狡猾な獣の気配を。
微かに感じるその気配は、間違いなく特務兵の物だろう。曲がり角の先を確かめると、ガスの抜けたような銃声がこちらを出迎えた。至近に着弾した銃弾が火花を散らし、非常灯のみの通用路を僅かに照らす。急ぎ顔を引っ込め、見えた敵を数える。
「距離は五十メートル。床に二人、天井に二人」
一瞬だけ見えた情報を口に出して整理する。制圧射撃は断続的に続いており、気配はゆっくりとこちらに近付いてきていた。
特務兵の装備は通常と異なっている。専用の防刃防弾フラット・スーツを着込み、ヘルメットにはゴーグルが増設されていた。胴体両手足に予備弾倉やポーチが括り付けられており、身体の線が出るフラット・スーツとは思えない程厳めしく太い印象を覚える。
特務兵が構えていた小銃は、全長を切り詰めて携行性と取り回しを重視したカービン銃だった。使用弾種にも寄るが、こちらのフラット・スーツは簡単に貫けるだろう。
対して、こちらの使える手札はセリィア自動拳銃一丁のみ。右手にすっぽりと収まったその拳銃を見ていると、情けなくて自嘲すら出てこない。
「特務兵四人に、素人が拳銃でどうするのさ」
一人呟き、見様見真似で壁に張り付く。四人の動きは、見ていなくても予想がつく。一人が制圧射撃を行い、再装填のタイミングで別の特務兵が制圧射撃を行う。こちらが顔を出せばそこを狙い撃つ。
こちらが顔を出さなければ、このまま近付いてきて撃てばいい。或いは、一気に踏み込んで来ない所を見ると捕縛するつもりなのか。
どちらにせよ、今の自分では勝てない。向こうは白兵戦のプロフェッショナルだ。そもそも、白兵戦用の装備をしている特務兵相手に、拳銃弾では太刀打ち出来ないだろう。
だから、今出来る行動なんて一つしかない。引き返して逃げる。それだけだ。
「……でも」
今逃げたらどうなるのか。特務兵は追ってはこないだろう。今こちらに向かっている特務兵の目的は、恐らく医務室とブリッジの制圧だ。
ifに乗っていないif操縦兵など、放置していても問題はない。格納庫はもう制圧されているだろう。ifは使えない。
そして、医務室にはトワがいる。このまま特務兵を通してしまえば、自分は助かるだろう。でも、トワはどうなる?
それを考えると、どうにも身体が動いてくれないのだ。
「……他人任せになるけど。仕方ない」
この状況を打破出来るのはイリアしかいない。今の自分が出来るのは、ここで時間を稼ぐことだけ。ifに乗っていようが乗っていまいが変わらない。イリアが状況をひっくり返すまで。数秒でもいい、やれるだけやる。
呼吸を整え、その瞬間を待つ。拳銃ではどうにもならない。特務兵が曲がり角の直前に迫った時に、飛び出して組み付く。撃たれるか捕縛されるかは分からないが、今出来る時間稼ぎの中では上等な方だろう。
発砲から着弾までの間隔が狭まっていく。あと少し。
気配が研ぎ澄まされたその一瞬を見極め、曲がり角を飛び出す。リオは地面を蹴り飛ばし、形だけの体当たりを仕掛ける。
出会い頭の一撃は、いとも簡単に防がれた。無重力下でいるのにも関わらず、特務兵はこちらの身体を片手で制し、勢いを殺すと同時に動いた。視界がぐるりと回転し、自分の右腕があり得ない方向に曲がる。背後に押し付けられている物は銃口だろう。
一瞬の攻防で、特務兵は体当たりを簡単に捌き、こちらの身体を回転させて捕縛した。無重力下での近接格闘術、その前には為す術も無かった。
背中に押し付けられた銃口は脅しではない。一言も発さず、目標以外を排除する。そういう気配だ。
『……リオ君。衝撃に備えて、展望室方面に飛んで』
呆気なく訪れた死の瞬間、ヘルメットの内側から小さな声が聞こえた。
「……イリアさん?」
小さくノイズ混じりの音声だったが、確かにイリアの声だ。何を言われたのか考える間もなく、非常灯が次々と消えていく。僅かな光源も失い、完全な暗闇が通用路を侵食する。この状態では何も見えない。だが、特務兵の装備に対しては無意味だろう。ヘルメットに増設されたゴーグルには、暗視装置も付いている筈だ。
銃口が小さく揺れる。視界が塞がれた訳ではなく、何が起きているのか判断しかねているのだろう。その判断の迷いが、今一瞬だけ死を遠ざけている。
『よし、今』
イリアの声だ。同時に照明が点灯する。暗闇に包まれた通用路が見慣れた色に染まり、何かと判断する間もなく、次は身体にもの凄い負荷を感じた。
これは特務兵がしている事ではない。それを証明するかのように、天井にいた二人の特務兵が上から落ちてきた。音を立てて落下し、小さな呻き声を漏らしている。
重力係数の変化だ。無重力から、通常の重力係数への急な変更を行ったのだろう。背中に押し付けられていた銃口は完全に床を向き、押さえられている右腕も緩い。何の準備も無しに通常の重力に切り替われば、一瞬だけとはいえ隙が生まれるものだ。
右腕を払い、イリアの指示通りに展望室方面に飛ぶ。特務兵は慌てた様子もなく、銃口をこちらに向けようとする。一瞬で判断し、こちらを射殺する事を決めたのだろう。
なりふり構わず、飛んだ勢いでそのまま床を転がる。顔を上げると、まず銃口と目が合った。
自分では確かに飛んだつもりだったが、そこまで距離を稼いだ訳でもない。特務兵から一メートルも離れていなかった。ぴたりと頭を狙う銃口見て、次にその銃を持つ特務兵を見る。不気味なゴーグルを付けた、無機質な顔だ。人の筈なのに、人という概念を削ぎ落としている顔が、何の表情もなくこちらを見ている。
今度こそ撃たれる。その瞬間、目の前の隔壁が音もなく閉じていく。放たれた銃弾はその隔壁に阻まれ、こちらに届くことはなかった。
「……閉じ込めた?」
各エリアを分断する、緊急用の隔壁だろう。損傷による被害を拡散させない為に行う、ダメージコントロールの一種だ。
操作したのはイリアだろう。一瞬の隙を狙って、この隔壁の中に特務兵を閉じ込めたのだ。
『そういう事。間に合ったみたいだね』
ヘルメットの内側、通信機器からイリアの声が聞こえる。通信が復旧したのだろうか。
「イリアさん、これは」
『全部リセットして、再プログラミングした感じ。中に入り込んだ奴は私達に任せて。まあ、もう格納庫側の特務兵も確保したけど。ミユリちゃんとクストちゃんに指示出して、同じように閉じ込めてる』
内心驚いた。イリアは何てことのないように言うが、そう簡単なことではない。軍艦のプログラムを一から組み直し、遠隔操作で特務兵を無力化したのだ。
「さすがですね。今回ばかりは駄目かと」
安堵の溜息を吐く。《フェザーランス》の強襲に、特務兵の奇襲、かなりの危機的状況だったが、何とかなったようだ。
『それがまだまだで。私がプログラミングしたのは今の機能だけ。まだこの《アマデウス》は動けない。リオ君が展望室側にいるのはラッキーだったよ』
イリアが何を言っているのか分からず、首を傾げる。
『まだ戦いは終わってないって事。カソードC、if本隊が多分向かってきてるよ。私は《アマデウス》を動かせるようにするから、リオ君は格納庫に向かって。敵ifの迎撃をお願い』
状況を顧みれば、確かにその通りだった。白兵戦で《アマデウス》を内側から制圧し、その後にif部隊が駆け付ける。作戦の成否に関わらず、カソードCのif部隊は迫ってきている筈だ。
「分かりました。でも、道が」
閉じた隔壁を一瞥する。これを開けるわけにはいかない。だが、この道以外に格納庫に行く方法はない。
『ちょっと恐いかもだけど』
イリアは申し訳なさそうに続ける。
『リオ君には宇宙遊泳の訓練を思い出して欲しいんです』
イリアの指示は耳を疑うものではあったが、それしか手段がないというのも確かだった。リオは閉じた隔壁の向こう、格納庫に行くために展望室まで来た。
重力係数が損傷によりゼロ・ポイント、無重力に変化している。それもそうだろう。《アマデウス》後部に位置する展望室の壁には、今や大穴が空いている。爆薬を用いての突入、先程閉じ込めた特務兵達の仕業だ。
大穴が空いている為、勿論空気もない。本来はダメージコントロールによって封鎖されている筈だが、その機能は死んでいるようだった。もっとも、今はその状況に感謝しなければならないが。
大穴の空いている所まで、慎重に飛んでいく。有機的な黒、掴み所の無い黒、人の身ではあまりに過酷な環境が、その先に待っている。投影モニターではない、本物の宇宙がそこには広がっていた。
腰に付けた装備を確認する。小型の噴出器で、無重力下での移動をサポートしてくれる物だ。ガスの噴出により生じる反動を利用して、慣性を作り出す。
あまり使った事はない。それこそ、宇宙遊泳の訓練ぐらいなものだ。
「ちょっと恐い? ちょっとじゃないよこれ……」
今からする事は、言葉にしてしまえば簡単だ。
展望室に空いた大穴から、まず宇宙空間に飛び出す。そうして宇宙空間を漂い、格納庫に繋がるハッチまでぐるりと回り込むのだ。
「《アマデウス》の慣性から落とされたら、真っ逆さまだよね」
今《アマデウス》は、慣性だけで進んでいるらしい。こうして宇宙空間を眺めていると分かりづらいが、実際は慣性の濁流が目の前にはあるという事だ。《アマデウス》の慣性から落ちないように、慎重に進む必要がある。
恐いが、不可能ではない。自分は担当しないが、船外の修復等で行う場合だってある。現状との差違は、命綱の有無ぐらいだ。
「……行こう」
時間が迫っている。恐怖で止まっている訳にはいかない。
大穴から外に出て、外装を伝って格納庫方面へと動いていく。星空の煌めく夜空は、確かに綺麗に見えたものだが。今こうして宇宙空間を泳いでいると恐怖しか感じない。あまりにも所在がない、覚束ないものなのだ。宇宙の黒を眺めていると、自分の輪郭すらぼやけていくような錯覚に襲われる。
加えて、宇宙は死の世界だ。今着ているフラット・スーツ一枚を挟んで、そこには死が広がっている。この広大すぎる世界では、人一人の命なんてそう大した面積ではない。
宇宙の黒を眺めていると、嫌な事ばかりが浮かんでくる。意識を一旦切り替え、何も考えずに進んでいく。
《アマデウス》の外装を伝い、ようやく下部ハッチまで辿り着いた。開いたままのハッチの中に滑り込むと、ようやく人心地つけた。無重力下ではあったが、何かに囲まれているというのはそれだけで一つ安心出来る。
自分の乗っていたifを探し、床を蹴ってそれに取り付く。ここまで来れば後はいつもと変わらない。《カムラッド》に搭乗し、システムを立ち上げる。
「よし、これで」
呟き、《カムラッド》の状態をチェックしていく。
『リオ、無事だったようだな』
通信が入り、動作を捉えたカメラが人影を映す。ミユリの姿だ。こちらにひらひらと手を振っている。
「ミユリさんも、無事で良かったです。特務兵は?」
格納庫に残した時はもう会えないかとも思ったが、イリアの策が間に合ったようだ。
『私とクストで、格納庫の入り口に誘導して閉じ込めた。お陰で私とクストは格納庫に閉め出しを食らったが、銃弾を浴びるよりはマシだな』
ミユリの横にもう一つ人影が増えた。短機関銃を構えておりそれをちょっと掲げて見せていた。フラット・スーツを着込んでいる為はっきりとはしないが、クストの姿だろう。
「なら、問題は外のif部隊だけか。こいつを使います」
《カムラッド》の状態はよくない。左腕は形こそ残っているものの、過負荷により内部が損傷、使い物にならない。左足は拉げており、まともに動くかどうかは微妙だった。
先程の戦闘で無茶をした分のしわ寄せだ。要するに左腕と左足は使えないが、右手と右足はまだ使える。
『そのオンボロでか? せめて腕ぐらいは』
ミユリが整備しようと動き出すが、構わず操縦する。床に放り出したままの装備を取り付けていく。
「確かに腕が動かないのは致命的ですが、時間がありません。こうしてる間にも」
カソードCのif部隊が追い付いてきてしまう。出来る限り早く会敵して、撹乱しなければならない。
《カムラッド》の右肩にE‐7ロングソード、右手にTIAR突撃銃、手の届く位置に予備弾倉を装着し、最終チェックを手早く済ます。
『状況は分かってるつもりだが、交換する余裕もないのか?』
「恐らくないです。練度が高ければもう追い付く」
開いたままのハッチを潜り抜け、再び宇宙に戻る。先程は生身だったが、今度は《カムラッド》だ。恐怖は霧散し、やるべき事だけが頭に浮かんでくる。
『リオ、お前がそう言うなら仕方ないが。気を付けろよ』
「分かってますよ」
ミユリに返事をして、以降は操縦に集中するよう意識を切り替える。《カムラッド》の速度を上げ、TIAR突撃銃を右手だけで保持して直進する。見る見る内に《アマデウス》後方を抜け、その白亜の船体が小さく見える位置まで一気に進む。
《カムラッド》のアクティブレーダーが敵ifの反応を捉える。先遣隊だろうif部隊で、機種は全て《カムラッド》、数は四機だ。
「後は時間を稼げば、これで終わる」
イリアが《アマデウス》を再び動かせるようになるまで、こいつらを近付かせなければこちらの勝ちだ。
こちらの《カムラッド》の損傷は大きいが、周辺の地形は開けている。地の利は取った。
充分に勝機はある。《カムラッド》に構えさせたTIAR突撃銃を、向かってくる機影に向けて立て続けに発砲していく。戦闘開始だ。
四対一、本来なら戦闘にすらならない戦力比だが。それでも戦場の流れは、リオの思うままに進行しつつあった。
※
《アマデウス》ブリッジにて、イリアは電子キーボードを用いてプログラミングをしていた。投影型の電子キーボードも、今し方復旧した機能だ。未だに《アマデウス》の機能は空白のまま、必要最低限だけをまずプログラミングする。電子キーボードを復旧させたのは、そちらの方が早いからだ。現に、作業効率は一気に上がった。
リーファは席に座ったまま、所在なさげに周囲をちらちらと見ている。何も出来ない自分が歯がゆいのだろう。クストとギニーは銃を持たせ援護に回したが、リーファに、十四歳の少女にそれはさせられない。
「よし、これでカメラは」
イリアは呟き、次のプログラミングに移る。動力源は稼働済み、後は操舵出来るようにすれば、ここから離脱出来る。
出来合いの操舵プログラムを組み、それを適応させている途中だった。
復旧した艦内カメラの映像が次々と表示されていく中で、映ってはいけない影が映っていた。勘違いであって欲しいと、イリアはその艦内カメラをじっと見る。
「特務兵、閉じ込め損ねてるなんて」
格納庫側ではない。展望室側の部隊だろう。リオと会敵した連中であり、四名いる内、二名は隔壁が閉まる寸前に逃れていたらしい。今の今まで気付けなかったのは痛い。
二名の特務兵は、そのまま医務室を目指している。隔壁封鎖は間に合いそうにない。全ての隔壁を操作出来るようにした訳ではないのだ。急造で数カ所だけ、優先して復旧させた。むしろクラッキングに近い手口で、あの隔壁は操作していた。今からでは間に合わない。
通信回線を開き、医務室に繋ぐ。警告は間に合うだろうか。
「アリサちゃん、ギニー、特務兵が二名そっちに向かってる。今から」
イリアは作業工程を確認し、電子キーボードのエンターキーを押す。出来合いだが、簡単な操舵なら可能だろう。
「そっちに向かう。持ち堪えて」
一瞬の内にもう一つプログラムを作成し、それを流す。《アマデウス》艦内の重力係数が、再び地上のそれに変化する。重力の重みを受け、リーファが小さな呻き声を上げた。急な重力変化は身体に負荷を掛ける。きついのは特務兵も同じだ。多少の足止めにはなるだろう。
艦長席の横に、ホルスターごとぶら下がっている拳銃がある。イリアはそのホルスターから拳銃を取り出し、スライドを引いた。初弾が装填されたのを確認して、艦長席を立つ。
「イリアさん、どこに」
リーファが動きに気付き、控え目に声を掛けてきた。
「ちょっとそこまで。危ないから動いちゃ駄目だよ!」
イリアは駆け出しながらも答え、ブリッジを後にする。冷静になればなる程、嫌な未来が浮かんでくる。
医務室に警告もしたし、特務兵の足止めもした。だが、位置関係から考えると特務兵の方が早く医務室に到着するだろう。
間に合って、と祈ることも出来ない。どう急いでも、今の自分は後手に回るしかない。
特務兵との決着は、医務室で付ける事になるだろう。