戻れない道
いつになく重苦しい空気を感じ、リーファ・パレストは緊張した面持ちでコンソールに向き直っていた。元々《アマデウス》には作戦会議室等の場所はない。主要クルーのほとんどがブリッジにいるため、ブリーフィングもブリッジで行われる事がほとんどである。このブリーフィングも、そんな数ある話し合いの一つでしかない。
だというのに、今ブリッジには嫌な重みを感じさせている何かがあった。それは言葉にすれば何て事はない。要するに先の見通しが付かないという事なのだが、そう感じることすら甘えなのだろう。私も皆も、イリアにずっと全てを任せてきたのだから。たとえ、それが最善だったとしてもだ。
「そういう訳でね、皆の意見もちゃんと聞かないとって思ったんだ。それを踏まえて、もう一回説明するね」
艦長席に座り、遠い目をしたままのイリアが言う。今イリアが話している事は、他でもない《アマデウス》の今後についての話だ。
「《アマデウス》に向けて、AGSが命令を出しているのはさっきも言ったよね。内容は簡単、AGS勢力下にある軍事セクション、カソードCへの寄港。表向きは補給と修理だけど、そんな訳ない」
ブリッジ中央を占める広域レーダーが消失し、投影型ディスプレイへと切り替わった。セクションの画像を表示し、細かなスペック表示が横に書き込まれていく。
遠目から見れば、他のセクションと何ら変わりはない。円形の居住ブロックの中心に、細い管制ブロックが突き立てられている。トーラスダガータイプのセクションであり、もっと簡単に表現するならば宇宙に浮かぶ馬鹿でかい独楽だ。
「これがカソードシリーズの概要だね。軍事用の対制宙拠点セクション。文字通りの代物で、宇宙におけるAGSの壁そのものだよ」
そのカソードシリーズを写した画像が拡大されていく。異常は直ぐに見て取れた。宇宙に浮かぶ馬鹿でかい独楽の周囲に、ワイヤーのような物が張り巡らされている。
「これがその壁の正体。可動式有線粒子砲、まあ短縮して有線砲って言われる事が多いかな。これがセクションの周囲に張り巡らされていて、センサーポッドが周囲を巡回してる。異常があればすぐさま火が入って、対象にありったけの粒子砲を叩き込むの」
拡大されたワイヤーケーブルには、刺々しいデザインの有線砲が無数に付けられている。有刺鉄線、という言葉が頭に浮かび、生理的な嫌悪感がこみ上げてくるように思えた。
「本来セクションの居住ブロックに当たる所を、丸ごとジェネレーターに取り替えてあるんだ。だから、この有線砲は出力が段違いに高い癖に息切れしない。無効化するにはこのジェネレーターブロックを破壊するか、ワイヤーを切断するか、とんでもない数の粒子分散材をばらまくしかない。どれも現実的ではないから、H・R・G・Eもあえて近付こうとはしない。それ自体が空間でしかない宇宙に壁を設けるには、これが一番手っ取り早いってね」
再び全体像を写した画像に切り替わり、有線砲の守備範囲が色付けされていく。壁という言葉が形容するように、その色は滲むように押し広がっている。
「まあ、それ自体は良いんだけど。問題は、そういうバリバリの戦えます拠点に、《アマデウス》を呼ぶって事。補給と修理なら他でも良いんだよね。隠す気もない罠だよ、これに《アマデウス》は応えなきゃならない。命令の種別はクラスA。命令違反が即刻処罰対象になる程優先度が高いんだよね。おまけに、カソードCまでの道中は随伴艦が二隻付いてくる。逃す気はないんだね、きっと」
となれば必然、その見え透いた罠に飛び込む必要がある。組織の庇護を失った時点で、大半の未来は消え失せる。軍艦なら尚更だろう。
「AGSがそこまでして《アマデウス》を呼び寄せたい、或いは敵対したいのには理由があってね。皆も何となく分かると思うけど、トワちゃんの事だろうと思うんだ。出来ればバレないように立ち回りたかったけど、色々な妨害や問題でトワちゃんは外に出ちゃうし、あの秘密一杯な搭乗兵器も見られただろうし。AGSはその事について色々聞きたいんでしょうね。もしかしたら、聞くだけじゃ済まないかもしれないけど」
トワの引き起こした現象は数多くある。ifに搭乗し、敵ifを未知の方法で撃破したり、未だにはっきりとしていない遺跡に関しても並々ならぬ適正を見せ、挙げ句詳細不明な搭乗兵器を持って帰り、それが戦果を上げたのだ。これらの事実を隠蔽しただけでも、《アマデウス》はAGSに対して背信していると言われても不思議ではない。
「そこが付け込めるかなって。優秀な部隊を引き連れて、《アマデウス》を包囲拿捕すれば話は全部片付くのに。見え見えの罠を張って、何かワンクッション置こうとしてる。綱渡りだけど、話し合いに持っていけるかもしれない」
AGSとの直接交渉、それが《アマデウス》の選ぶことの出来る現実的な道なのだろうか。
「私が選びたい結末は、AGSと敵対せずに、トワちゃんの身柄をこっちで確保するってこと。難しいだろうけど、交渉の余地があるなら。情報提供だけでこの場は見逃して貰おうって感じかな」
いや、もっと現実的な道は存在する。存在するからこそ、イリアは迷い、私達はこんなにも不安になるのだろう。
「ただ、もっと簡単な方法もあるんだよね。トワちゃんの情報と身柄をAGSに渡してしまえば、全部そこで片が付く。少なくとも皆は安全なんだけど」
それは、誰しもが考えつく最も現実的な道だろう。被害者は一人だけで、他の全員の安全が確保できる。いや、トワを引き渡すのだから、リオも必然的に被害者になるのだろうか。
AGSに確保されたトワの行く末はどうなるのだろうか。自分の時はどうだったのだろうか。清潔なベッド、清潔なシーツ、静謐な人に静謐な言葉、凄惨な薬と凄惨な……。
「どうしたらいいかな。私はそうはしたくないんだけど、皆を巻き込んでやるような事じゃないとも思うし。皆の未来でもあるから、聞いておかないと」
切り離せはしない過去の光景が、冷たい器具ごと頭蓋から差し込まれたように感じた。こみ上げてきた吐き気に抗いながら、せめて涙だけは流すまいと身構える。リーファは考えるべきじゃなかったと後悔しながらも、自分なりの答えは決まっただろうという確信を得た。
「あの、イリアさん」
確信があっても、こうも情けない声しか出ないのか。自分の不甲斐なさに呆れながらも、声を上げた以上は最後まで喋らなくては。
「どうしたの、リーファちゃん」
イリアがちょっと驚いたように見えるのは、きっと私が涙目のままだったからだろう。ちょっと落ち着いてから話せば良かったと思う反面、ここを逃せば話す機会はないのかもしれないとも思っていた。
「私は、AGSにトワさんを渡すのは嫌です。私が見たような物を、トワさんに見せたくありません。あんな目に遭うのも、遭わせるのも嫌です」
たとえAGSという組織を裏切ることになっても。他の事柄ならともかく、こういった話で自分が出来る選択はそもそも一つしかないのだ。地獄を見てきたからといって、地獄を誰かに押し付けてはいけない。そんなことするものか。
「綱渡りだか何だかはよく分からないが。要するにうまく行けばAGSとはこれまで通りで、トワちゃんもこっちに居られるって事だろ? 多少厳しいだけで大体いつも通りだよ。今に始まった事じゃない」
操舵士であるリュウキが、何てことはないと言わんばかりの、あっけらかんとした調子で喋り出す。
「まあ、そうだよね。よく分からないけど、やってて気分の良い方で良いんじゃない?」
それ以上にあっけらかんとしているのが、この武装管制官であるギニーだろう。リュウキは努めて明るい声を出しているが、ギニーの場合素がそもそもこんな感じである。
「やるだけやってみるしかないでしょうね。それに、イリアのことだから一人でも何とかしようと無茶をするでしょうし。ここにいない人達にしてみても同じじゃないの? 切り捨てるには、向き合った日が長すぎるのよ」
副艦長であるクストが淡々と答えるが、その表情は呆れているようにも見える。
「大体、こういう時は無理矢理にでも命令って形で通せばいいのに。中途半端な選択肢なんて、頭を締め付けるだけなんだから」
クストからの駄目押しの一言は、皆の気持ちを代弁したものだろう。素直に力を貸してと言って貰えれば、悩む必要すらない。でも、それができないのがイリアという人であり、それを補うのがクストという人なのだ。
「そっか。うん、そうだよね。ごめん」
しどろもどろに答えたイリアは、そっと目を伏せて黙ってしまった。見通しの付かない不安を抱えているのは、もしかするとイリアも同じなのかもしれない。
「そうだよね。やってみせないと。うん」
呟き、イリアは顔を上げる。不安は消せないまでも減らすことはできると、その表情は語っているように見えた。
「じゃあ改めて始めよっか。トワちゃんも皆も、こうしていられる為のブリーフィングを」
イリアの一言が熱を帯び、続いて立ち上がった広域レーダーに新たな情報が開示されていく。
少し輝度が上がったようにも見える広域レーダーの光が、重苦しい空気を霧散させていくように思えた。
※
「はい、今向かいます」
短い通信を終え、リオはほっと胸をなで下ろした。役目を終えたPDA、個人携帯用端末をポケットにしまい、不安そうにこちらを見るトワに向き直った。自分は通話の為席を立っていたが、トワはじっと座って待っていたようだ。
「リーファちゃんから。とりあえずは大丈夫そうで、これから動く作戦次第だって。それの話し合いを今からするみたいで、僕もトワもそれに出席」
トワは、よく分からないといった表情でこちらを見ている。随分と言葉を話すし、理解するようにもなったが。こういう所は出会った時と何ら変わっていない。
「つまり、問題なし。これまで通りにしましょうよって事」
しばらく考え込んでいたが、トワは立ち上がると傍に寄ってきた。表情はまだ不安に傾いでるように見える。
「それじゃ、私はいなくならなくても大丈夫って事?」
やはり、トワの答えはそれだけだったのか。真っ直ぐな言い方に、身構えてはいても心が軋んだ。そんな選択を強いてしまっているのは他ならぬ自分であり、未だにそれを覆せずにいる。単純な言葉の重ね合いで、どうにでも出来る筈なのに。
「いなくならなくても大丈夫。だから……」
風に乗って運ばれてきたボディソープの匂いが、続く言葉を封じてしまった。仄かな熱と共に飛び込んできた匂い、トワの匂いだと知覚する間もなく、無意識に動いた手がその背中に触れた。ゆっくりと広がっていく熱がトワの輪郭を形作り、頭一つ分小さな身体を受け止める。抱き留められたまま動かないトワに、声を掛けるべきか戸惑う。
こちらの胸に顔を埋めている為、表情を見ることは出来ない。それでも、こうやってしがみついてくる手が微かに震えている事は確かだった。
あの寂しい笑顔の裏がこれなのだ。自分がいなくなれば全てが片付くと言いながら、その実こうして震えているのだから。一人の少女をここまで追い詰めて、結局今も何か言葉が出てくる訳ではない。その熱を一身に引き受け、どうすべきかと模索している内にトワはぴょこりと離れた。そのままふわりとした笑みを浮かべ、両手をぱちんと合わせる。
「良かった。それなら心配いらないよね」
あの寂しい笑顔とは違う。トワ本来の柔らかな笑顔を見て、重石の幾らかは消えてくれたように思えた。それでも、こうしてトワが笑ってくれたのはイリア達の選択の帰結であり、結果として自分は何一つ成し遂げてはいない。
「うん。だから大丈夫」
そう答えると、トワは両手を合わせたまま頷いた。本当に嬉しそうに見える仕草を見て、こちらもぎこちないながらも笑顔で返す。
「それで、どこかに行くとか言ってた?」
トワは小首を傾げながらそう問い掛ける。そう、ブリーフィングに参加だというのに一歩も動いていない。うっかりしていた事もそうだが、何よりトワに指摘されるというのは新鮮かもしれない。少し驚いてもいる。
「リオ、何か失礼な事考えてない?」
この子の鋭い勘は健在のようだった。さすがと言うべきか。
「考えてない。ちょっとびっくりしただけ」
気持ち不服そうだが、大して気にしている訳でも無さそうだ。
「ふうん。それで、どこに行くの?」
「ブリッジまでだから、ここからだと真反対だね。少し急がないと」
《アマデウス》の構造上、現在地である展望室は後部、ブリッジは前部に位置している。催促の着信が来る前には現着したい。幸い《アマデウス》自体が小型BSに該当する為、反対に位置するといってもそこまでの距離はない。急げば間に合うだろう。
「そっか」
そう呟くと、トワはこちらの右手をそっと握った。仄かな熱を帯びたトワの左手が、ゆっくりと染み込んでいく。その繋がれた手の中で、エンゲージリングの質感を微かに感じる。自分とトワの、約束と祈りの証を。
「じゃあ、ちょっと走る?」
悪戯っぽく微笑んだトワを見て、心音が一つ高鳴る。時々こういう表情をするようになったのだが、どうも扇情的に見えてしまうのは自分が邪だからなのだろうか。
「ちょっとはね。あまり思いっきりは嫌かなあ」
そう釘を刺しても、横にいらっしゃるのは加減を知らないトワである。覚悟はしておくべきだろう。
本当にいい加減な精神構造をしていると、自分の事ながら苦笑した。散々悩んだ時間が嘘みたいに、今こうして手を繋いでいるのだから。こうして熱に触れていると、もしかしたら頭が麻痺してくるのかもしれない。思惟を巡らす暇すらない、という事もあるのかもしれないが。
少なくとも、今からブリッジに着くまでの数分間はそうなるだろう。何せ、横にいらっしゃるのはやる気充分なトワである。
「ふうん。じゃあ行こう」
手を繋いだまま、トワは一歩を踏み出す。それに負けじとこちらも一歩踏み出し、せめて付いていけるように意識を切り替えた。
結果は想像に難しくないだろう。何せトワは手を離そうとしないのだ。ブリッジに辿り着くまでに総計六回は転倒し、痛みと謎の充実感を抱えてブリーフィングに望むことになった。




