仄かな熱
通用路を歩いていく。思っていたよりも身体は動いてくれるようだ。頭痛も多少は収まっていて、考えを遮る程ではなかった。
何故起きる直前になってトワは部屋に戻ったのか。そもそもトワは自分と同じかそれ以上に消耗していると聞いたのだが。トワの考えている事がいつも以上によく分からず、どう声を掛けようか内心悩んでいた。もっともそれは今に限ったことではなく、出会ってからずっと思っている事ではある。一度顔を合わせてしまえば、するすると言葉が出てくるのに。その事実を知っていても、こうして一人でいると悩むのだ。
要するに、悩んでいても仕方のない事なのだ。自室の前に着き、意を決して部屋に入る。自分の部屋に気兼ねしながら入るというのも妙な話だったが、その決意とは裏腹に部屋には誰もいなかった。
「部屋に戻るって、トワ言ってたんだよね」
医務室で聞いた話を思い返すが、やはり部屋と言っていた。もしかしたら、珍しくトワ自身の部屋に戻ったのかも知れない。いや、普通ならばまずそちらを思い浮かべるのだろうが。トワはとにかく自分の部屋に戻らないのだ。
やっぱり、今日のトワは何を考えているのか分からない。すぐ隣、トワの部屋の前まで行き、そこではっとなる。左手を確認し、やはりと頷く。またエンゲージリングを付け忘れていた。このまま会ったら間違いなく怒られる。
出撃前にロッカーに入れて、そのままになっているのだろう。まず格納庫まで行って、エンゲージリングを取ってこなければ。
再び通用路を通り、格納庫まで歩いていく。こういう時小型BSは楽でいい。歩くと言ってもそこまで時間は掛からない。
扉をくぐり、思いの外穏やかな様子の格納庫へと入っていった。作戦終了後はもっと慌ただしかったと思うが、自分が眠っている内に粗方の作業は終わったのだろう。照明も落とされ、出番の終えた兵器達が黙々と佇んでいた。ここの照明が点いていないのであれば、整備士であるミユリも自室か、別の所で休んでいるのだろう。非常灯の灯りを辿って更衣室まで歩いていき、自分が使用したロッカーを探す。
中に入れていた洋服は今着ている物であり、医務室に置いてあったの物がそうだ。誰かが取ってきてくれたのだが、小物入れまでは確認しなかったのだろう。割れ物を扱うかのようにそっと開くと、外した時と何ら変わる事のない姿でそこにあった。
プラチナに輝くエンゲージリング。そこに入れたので当然と言えば当然なのだが、そこにあったというだけで何故か安心出来た。自分とトワの約束は、何ら変わることなくここにあったのだ。
左手の薬指にエンゲージリングを通し、更衣室を後にする。胸中にくすぶる不安も、幾何かは消えてくれただろうか。
そのまま格納庫を抜け、真っ直ぐトワの部屋まで行く。行きと同じであり、そう時間は掛からない。
扉の前に立ち、緊張し始めた頭を落ち着かせるために深呼吸をする。使った試しのないインターホンを押すが、当然のように反応はなかった。
「トワ? 入るよ?」
呼び掛けても応答はない。半ば予想していた事ではあるので動じないが、緊張は拭えぬまま扉に手を触れた。自動でスライドしていく扉に心情を気遣う機能はついてはおらず、一瞬で道が開けてしまった。
「トワ、いる?」
控えめに呼び掛けるが、やはり応答はない。応答はないが、奥のベッドを見ると明らかに誰か寝ている。相当に無茶をしていたらしいので、疲れて寝てしまったのかも知れない。休んでくれているのなら、それはそれでいいのだが。
一応、トワにもプライベートという物があるだろうし、ずかずかと入って良いものか悩む。引き返すという選択肢もあるが、顔だけでも見ておきたいという思いもある。
ただそう、何となく。それで何かを得られるとか、そうする必要があるとか、そういった事は何もない。心配だからとか、迷惑を掛けたというのも少し違う。ただそう、何となく。
「えっと、入るからね?」
まあ、トワ自身もずかずかと僕の部屋に入ってくるのだから、同じ事をしても問題はないだろう。そう考えをまとめ、今度こそ意を決して一歩踏み出した。
トワの部屋は半ば物置と化しており、乱雑に物が積まれ、そこから更に脱ぎっぱなしの衣服が積まれる。整理整頓とは程遠い部屋だったが、トワは寝に帰るどころか寝るのすら僕の部屋でやっている。つまりここは、名実ともにトワの物置なのだ。
今は物が少ないため何とかなっているが、もっと物品が充実してくれば足の踏み場もなくなってしまう。片付けをきちんと教えた方がいいのかもしれないと考えながら、ゆっくりと進んでいく。
ベッドの傍に立ち、タオルケットにくるまっているトワの様子を伺う。不自然な迄に微動だにしていない。これは多分起きている。
「トワ? 起きてる、よね?」
動きはない。頑なに反応しない様子に、早速どうしたらいいか分からなくなった。さりとてここで引き返すのも情けないと思う。第一に、トワは多分起きてる。どんな形にしろ、声は掛けておかないと申し訳が立たない。こちらが望んでいなかったとしても、結果的にトワを戦場に引き込んだ。無茶までさせて、また怪我を増やした。額の傷から始まった裂傷が、塞がるその前にだ。
謝らなければいけない。もう大丈夫という事も伝えなければ。礼も言った方がいいだろう。伝えなければいけない事も伝えたい事も沢山ある筈だ。ある筈なのに。
滞留した思いが何一つ言葉に変わらないまま、じっと立ち尽くしていた。どうしたらいいのか分からない。
人殺しの術は内奥から滲み出てくるというのに、自分を慕ってくれる少女に掛ける言葉は湧いてくれないなんて。微かにぼやけた視界が、自分の不甲斐なさに拍車を掛ける。寂しさと悔しさが入り交じり、虚しさだけが残っていく。
震えそうになる手を握り締め、じっと耐える。何に耐えているのかも分からないまま、そうやって立ち尽くしている。一体、自分は何をしているのか。
本当に、情けない。不意に視界がぶれ、両の手を熱が覆った。小さく頼りない手が、やんわりと僕の手を握っている。言葉を発する間もなく、トワは両手を引っ張るようにして僕の体勢を崩した。事態を飲み込む前に、トワに覆い被さるような形でベッドへと倒れ込んでしまった。
掴まれたままの両手から熱が伝わり、凍ったままの心身を溶かしていくようだった。両手だけではない。身体ごと覆い被さっている為、徐々にトワの熱が浸透していくように感じる。
トワが冗談で抱き付いてくる事は何度かあったが、こうして自分が上に位置しているのは初めてだった。込み上げてきた羞恥心に身を捩るが、両手を握られたままであり、中途半端に崩れた体勢は直りそうにない。
また、この熱に身を委ねてみたいと思っている事も事実だった。身を焼くような熱ではないのだ。仄かな温かさを感じさせてくれるこの熱は、焦土と化す事はないと思える。この熱が、光があったからこそ、自分はこうしてここにいるのだろう。
心臓が脈打ち、身体がゆっくりと弛緩していく。トワと自分はそこまで体格差がある訳ではなく、頭一つ分トワが小さいといった程度だ。その程度しか変わらないというのに、どうしてこうも小さく見えるのだろうか。
柔らかそうに広がる灰色の髪が揺れ、白い肌に良く映える、赤い虹彩の眼がこちらをじっと見つめている。小さな唇に一瞬だけ目線が移り、慌てて正面へ向き直る。トワを真っ直ぐ見つめ返す形になり、性懲りもなく高鳴っている心臓が、鼓動と共に顔を熱く染めていく。
ふと、昔に見た映画を思い出した。取るに足らない内容であり、別段思い入れがある訳でもない。死の淵から生還した主人公とヒロインが、どちらからともなく身を寄せ合い、そして。
ごつ、と鈍い音が響く。伴い生まれた痛みにまず驚き、そして困惑した。この状況下で、トワは頭突きをかましてきたのだ。
「い、痛いって! いきなり何するのさ!」
相も変わらず両手を握られたままなので、患部をさする事も出来ない。久々に感じる直接的な痛みで、色々と吹き飛ばされた。
トワは悪びれる様子もなく、むしろ不機嫌極まりないという表情をしている。そもそもトワが頭突きをするという事は、大体が気に入らない時であり、今がその時なのだろう。
「よく分からないけど、そうした」
素っ気ない上に、よく分からないと来た。見ようによっては無茶苦茶な行動だが、こういう事がなければ自分はここには居ないし、居ようとも思っていない。
だから、そう。両手を包む仄かな熱も、重なり合った心身が呼応する光も、前後はともかく今はここにあった。
「トワ、その」
ごつ、と鈍い音が響く。二回目が来るとは思っていなかった。
「人が心配してるのに、なんでリオは笑ってるの?」
不平不満の込められた一撃は何よりも重い。まずはトワの機嫌を直さなければ話どころではない。
「ご、ごめん。悪かったとは思ってるから、怒らないで話しようよ」
トワの眼がすっと細められる。これは頭突きをしてくるに違いない。
「頭突きはなしで! それ本当に痛いから!」
出鼻を挫いて動きを止める。これをやっても頭突きされる時はされるだろうが、今回は渋々踏みとどまってくれたようだ。
と言っても不機嫌顔は変わらず、いつ頭突きが再発するかは未知数だった。
「トワ、怪我は大丈夫? 大変だったって聞いたけど」
こうして見る限り、機嫌が悪いだけでいつものトワと変わらないが。
「別に大丈夫。もう休んだ」
「本当に? 何か鼻血凄い出てたってアストさん言ってたよ?」
トワが一瞬言葉に詰まり、少し目線を逸らした。
「それ、恥ずかしいからやめて。もう大丈夫なの!」
頑なに大丈夫と言う所が不安だが、恥ずかしいと言われると突っ込んで聞く気にはなれなかった。頭突きのキレは悪くなかったし、体力的には問題ないのかもしれない。
「まあ、それならそれで良いんだけど。あと、この格好重くないの? 結構思いっきり上に乗ってるけど」
両手を握られたまま、されるがままにトワへ覆い被さっている今の格好の事だが、自分はともかくトワは辛いだろう。
「重いのは重いけど、うん。まだこれで良い」
そう言うと、トワはやっと表情を緩めた。ふわりとした笑みを浮かべ、心なしか力を抜いたようにも感じた。今の今まで、ずっと気を張っていたのかもしれない。
「心配掛けちゃったね、ごめん」
自然とそんな言葉が出てくる。トワはこくりと頷き、右手だけを離してこちらの頬に触れた。仄かに熱を持ったその手が、ここにある輪郭を確かめていく。
「トワ、くすぐったい」
その温かさを感じながら、空いた左手でトワの髪を撫でてみた。細い髪が手の平を滑り、トワは満足そうに微笑んだ。
「私は、リオのその笑顔が良いと思うの。寂しくない気がするから」
トワのその一言は、自分にとっては驚きと発見だった。寂しい笑顔と、そうではない笑顔。僕自身はトワに寂しい笑顔をして欲しくないと思っていたが、その実トワも同じような事を考えていたのだ。自分自身の笑顔の在り方なんて、考えたこともなかった。
「そっか。僕も、トワのその笑顔が良いと思うよ」
こうやって、お互いが思う一番の笑顔で居られたら。それはきっと、お互いにとっての理想だろう。それを望む資格が自分にあるのかは分からないままだが、そんな理想を想う事ぐらいは許されると信じたい。
「そう? じゃあやっぱり、一緒にいた方がいいんだよ」
トワは弾むように言いながら左手も離した。その薬指に通されたエンゲージリングを見つめ、やはりふわりと微笑んだ。ふと、その眼が悪戯っぽくこちらの左手に向けられた。
「今はちゃんと付けてるんだ。さっきアリサの所では付けてなかったけど」
言葉に詰まる。さすがと言うべきか、中々目聡い。医務室で付けているか否かをさりげなく確認していたとは。直前で気付いて取りに行ったのは正解だった。
「えーと、ほら。宇宙で無くしたら困るでしょ? 大事な物なんだから」
取り繕う言葉を探すが、体の良い理由は浮かんではこない。
「いいよ、ちゃんと今付けてるし。リオが帰ってきたから」
言葉の使い方一つ取っても、初めて逢った時とは大違いだと感じた。名も知らぬ少女が、トワという少女になり、こうして微笑んでいる。
「……良かったんだよね、帰ってきて」
そんな呟きが、或いは独白が零れた。本来であれば、この宇宙で死んでいた。無数の鉄鋼弾に貫かれた赤い世界か、何も出来ぬまま窒息していた黒い世界か。どちらの世界にしても、その様が自分にとっては妥当であり、そうあるべきだと信じている。
それは今も変わらず、それを変えてしまえばそれこそ終わりなのだ。意味がない事は気付いている、意思もとうに消えている、それでもこれだけ殺してきている事実に、死以外にどうやって報いればいいのか。
こつりと額に額が触れ、そのままトワが背中に手を回しぐいと引き寄せる。強く抱き留められ、柔らかな髪と微かなボディソープの香りが目の前に広がった。
「良いんだよ、帰ってきて」
小さく呟き返された一言も、熱を伝え続ける心身も、この少女だからこそ飾らずに届いてくれる。それだけでも、こうしてここにいる意味はあるのかもしれない。こうしてここに居たいという意思はあるのかもしれない。
ぼやけた視界を覆い隠すため、リオはトワの髪に顔を埋めた。




