手を伸ばす為に
岩石群の囲いから強引に包囲網を食い破った《アマデウス》は、偵察機と追撃を避けながらもこの宙域に留まった。それは綱渡りの連続でもあったが、艦載機のほとんどを撃破されたBSの取れる行動はたかが知れている。注視すべきは包囲を掛けていた三隻のBSではなく、それらが呼びつけるであろう増援部隊だった。
つまり、今《アマデウス》には時間的猶予がほとんど残されていないということになる。
《アマデウス》ブリッジクルーであるリーファにも、それぐらいのことは分かった。通信士なんて役職は、今この瞬間には何の意味もない。呼び掛けるべき対象が何処にもいないのだから。
《アマデウス》には時間がない。時間が傾けば傾くほど危険は迫ってくる。それでも尚この宙域に留まっているのは他でもない。この宇宙という砂漠に落ちた一滴の水を探し出す為に、こうしてイリアは無数の情報と睨めっこを続けている。
この砂漠を砂場に変えることが出来なければ、何も見つけることは出来ないだろう。そして、そんな芸当が出来るのはイリアただ一人だけなのだ。
「やっぱり、どんなに絞っても三つ」
ブリッジに戻るや否や、イリアは片っ端から情報を表示して広域レーダーに線や丸を書き加えていった。艦長席を中心に広がる電子ウインドウの群は、イリアを中心に回るネオンの光だ。
ぶつぶつと独り言を繰り返しては情報を追加していく。その情報量は人が追える量を遙かに越えているようにも見える。現に、イリア以外の人間は誰一人としてその数字の意味が分からなかった。
「これが限界かな、よし」
イリアが両手を合わせ、快音が場を支配する。無数の電子ウインドウは広域レーダー以外全て消え、そこに書き加えられた線も幾つか消えていた。
「みんな注目ね。リオ君の現在地はこの内どれか。途中でどんな障害があるか分からないから、それも含めてこの領域設定になるんだけど」
イリアが広域レーダーに書き加えた箇所は三つ。そのどれもが広大で、また会敵の危険がある。
「くそ、広すぎる。これを時間内に回り切らなきゃいけないのか」
操舵士であるリュウキが悪態を吐く。if操縦可能な人員として、リュウキは捜索メンバーに数えられている。実際に捜索するのだから、その悪態は正論にも聞こえる。
イリアとリュウキが捜索に入るとして、手分けをしてもこの範囲は手に余るだろう。
「その点だけど、私とリュウキ、あとトワちゃんも捜索メンバーとして数えるから。どうやってもトワちゃんは探しに行くだろうし、何より人手がないから。これがベストだと思うんだ。位置情報の予測マトリクスは各ifに転送したから、それで」
イリアが駆け足で説明していく。
「待って。まずきちんと話しましょう。そもそもリオは生きているのか、生きているとしたらどれぐらい保つのか。私達にも分かるように説明して。焦っているのは分かるけど、知らないでいるっていうのは辛いことなの」
副艦長であるクストがその言葉を遮る。確かに、イリアはここに帰ってきてからまったく説明も無しに情報解析を始めた。
「簡潔でいいわよ。時間がないってことだけは分かってるから」
クストが付け足す。イリアが何も説明しなかったのは、それだけ事態が切迫しているのだろう。必要最低限だけ説明し捜索に入りたいイリアの心情も分かる。
「言いやすい方から言うね。順当に脱出していれば、時間はあと三十分ぐらい保つと思う。ただ、途中で何かにぶつかったり、意図的に急制動を掛けたりしていればもっと短くなるかもしれない。それで、肝心のリオ君が生きているかどうかだけど。うまくすれば生きてる程度かな。if用脱出装置なんて銘打ってはいるけど、要は操縦席周辺の隔壁ごと緊急射出してるだけだから。あまり、頑丈ではないね」
イリアはそこで一旦言葉を切り、じっと考えるように目を伏せた。
「だから、今からやろうとしてる事はちょっと無謀なんだ。生きてるかどうか怪しい人を、こっちの生死もぎりぎりの中で探すってことだから」
有り体に言ってしまえば確かにその通りだろう。だけど、そう簡単に切って離せる問題ではないのだ。
「ねえ、いいかな? 無茶で無謀でも、助けたいんだ。だって脱出装置を使ったってことは、生きたいって一瞬でも思ったんだよね? じゃあ助けないと。無茶で無謀でも、無駄にしたくないんだ」
それはきっとイリアの本心だろう。勝算があるかないかの話ではない。差し伸べられた手を、身を乗り出してでも掴みたいと。そういう次元の話なのだ。
「三十分しかないんだよな。俺はもう準備に入るぜ」
リュウキはそれだけ言ってブリッジを後にした。それはどんな言葉よりも雄弁に彼の意志を語り、そして皆の意志を代弁していた。
「私がブリッジクルーを指揮して、中継地点としてこの《アマデウス》を指揮すればいいのね。まあ、危なくなったらすぐ逃げるけど」
クストがそう言い、イリアを押しのけて艦長席へ座る。
「本音と建て前とは良く言った物だけどね。頭の良い人ほど本心をうまく使うものよ。ね?」
そう言ってクストは手を振ってイリアを追いやった。ぞんざいな扱いだが、イリアはまんざらでもないようだった。
「うん。皆をお願い」
短く、けれど感情の籠もった言葉を返してイリアは駆けていった。
「さて。リーファ、if各機及びトワとの通信網の形成。バイパスは《アマデウス》のフローをあるだけ使っても構わないわ」
不意にクストからの指示を受け、びくりと身体を震わせる。
「あ、はい。了解です」
それだけ返し、通信網の形成に傾注する。
「頼むわね。ギニー、貴方はそこじゃなくて操舵席に座りなさい。大まかな操舵で構わないわ。ポイントまで移動するから」
「え、あ、了解しました」
ギニーも短く返事を返し、普段の武装管制席から操舵席へと移った。てきぱきと準備を進めながら、ギニーがこちらにちらと視線を寄越した。
「クストさんが艦長やると、何か凄くきびきびしちゃうよね」
微笑みながら、小さな声でギニーが言った。
「そうね。そうして貰わないと私、困るから」
同じく微笑みながらクストが答える。慌ててギニーは視線を戻し、何故か背筋も伸ばした。
「肩の力抜きなさいよ。まあいいけど」
呆れたようなクストの一言に、ギニーは困ったような笑みを返す。
「あはは、何だか調子狂いますね」
割とのほほんとしている様子は、平常運転にも見えるのだが。
「そうね。まあ、早くいつも通りに戻りたいわね。幸い、信じて待つ以外にもやれることがある。しっかりしないとね」
いつも通りに戻る。何て事のない一言の筈なのに。その未来を得ることはきっと想像以上に難しいのだろう。だというのに、自分が出来ることは限りなく少ない。
信じて待つ以外にもやれることがある。今は、クストのその言葉に縋るしかなかった。
※
凍てついた空気とはこの事を言うのだろう。《アマデウス》格納庫にある更衣室は、今その状態にある。イリアはそれでも物怖じせずに入室し、準備を進めていた。
はだけているフラット・スーツを整え、しっかりと気密性があることを確認する。後はヘルメットを被るだけだったが、イリアはそうはせず、凍てついた空気の発生源に向き直った。
ゼロ・ポイント、つまり無重力状態の中、両膝を抱えながらゆっくりと自転しているトワがそこにいた。既にフラット・スーツを着用しており、後はイリアと同じくヘルメットを被るだけである。その被るべきヘルメットは、主と同じくゆっくりと自転し漂っていた。
その表情は一切の感情が抜け落ちたように見え、白い肌も相俟ってさながら人形だった。押し黙ったままであり、何を思っているかは手に取るように分かるが、何を考えているかは想像すら出来ない。
「トワちゃん。これ」
誰がどう見ても近寄り難い雰囲気だったが、イリアは気にする素振りも見せずに近付いていた。トワはまったくの無反応だったが、差し出された小型端末に気付くとゆっくり顔を向けた。
「このPDAにある座標は、トワちゃんにお願いするね。あと、ヘルメットは被っといてね。変わったこと困ったこと、何でもいいから喋ってくれれば伝わるから」
トワは無言のままPDAを受け取ると、もぞもぞとヘルメットを被りだした。その動作は緩慢で、見ようによってはふてぶてしくもある。だがイリアは、それが激情の果てに表れていることをよく理解していたし、それは他ならぬ自分の所為だとも思っていた。
イリアもヘルメットを被り、今度こそトワに背を向けた。
「私のこと、恨んでるよね。ごめん」
何を伝えるべきか分からず、結局はそんな言葉しか出せなかった。これは自分が判断を誤った結果であり、トワからしてみればイリア・レイス自体が加害者だと思っていてもおかしくはない。自責の念から来るその小さな呟きを、ヘルメットに内蔵された通信機は律儀に拾っていた。
『恨んでない。ただ、ちょっと考えてただけ』
通信機を介したトワの呟きが、仄かに熱を帯びていた。
『今凄く私は辛くて、嫌な気持ちだけど。リオも、みんなもそういう気持ちになるんだってアストに聞いて。リオも辛いんだって。よく分からないけど、そんな事ばっかり考えてたら身体も動かなくなってきて。でももう大丈夫。動かないと』
イリアは、もう一度トワの方へ振り返ってみた。トワはトワの考え方を用いて、この状況を清算しようとしていたのか。その努力の結果があの凍てついた空気だった。どうしようもないこの現状に、トワはトワなりに立ち向かっていたのだ。
もうトワを、何も知らない少女だと割り切って考える事はできない。これだけ人の思いについて考え、理解しようとしているのだ。
だから、ここでリオを失う訳にはいかない。この思いを無下にしてはいけない。
「連れて帰るから。まだ少しだけ、私を信じて」
他ならぬ自分に言い聞かせるように、イリアは手を差し伸べる。こくりと頷き、トワはその手を握り返した。
その手を引くようにして、イリアは更衣室から出る。
『女性の身支度ってのは時間が掛かるな。先に準備させて貰ってるぜ』
リュウキの声が通信機から聞こえる。本来操舵士のリュウキだが、if操縦兵としての訓練も受けている。実力は中堅といった所だろう。自他ともに認める援護気質で、後方からの索敵と援護射撃に長けている。今の《アマデウス》にとっては数少ないif操縦可能な人員であり、今回の捜索に参加してもらうことになっている。姿が見えない為、既にifに搭乗しているのだろう。
「はいはい。トワちゃん、準備できたら教えて」
トワは頷き、床を蹴って中空へ飛び出した。誰に教えられるでもなく、羽のような意匠を持つ機体、《プレア》へと乗り込む。リオとトワが持ち帰った、詳細も正体も分からない機体だ。ifとは違う技術理論で構築されており、分かっていることの方が少ない。今は、その分かっていることのみしか視野に入れていない。詳細も正体も関係なく、ただトワが動かすことの出来る‘搭乗兵器’であり、捜索要員である。
イリアも自らのifに搭乗すべく、同じように床を蹴った。黄色に塗装されたif‐02《シャーロット》、相手の流儀に合わせて呼ぶのなら《マリーゴールド》になる。別にそう呼んでほしいと頼んでいる訳ではなく、向こうが勝手に呼んでいるだけなのだが。
もっとも、今から行う作戦行動ではそう呼ばれる事自体が命取りになる。限られた時間の中で広大な宇宙を飛び回るのだから、交戦など論外だ。もし戦うのであれば、視認すらさせずに無力化する。それが大前提となるだろう。発見されて無闇に名を売り歩く必要はない。
頼りになる相棒、そう言える程好きな訳でもなかったが、今はこの《シャーロット》の性能が頼みの綱となるだろう。粛々と出番を待っている《シャーロット》に搭乗し、準備を進めていく。
『イリア、私はいつでもいいから』
トワからの通信を受け、イリアはほっと胸をなで下ろす。通信機さえ使えていれば何の心配もいらないだろう。
『リュウキだ。いつでもいいぞ』
トワの言葉を待っていたのか、即座にリュウキの返答が入った。
「よし、私も大丈夫。トワちゃん、ここから先は直接話せないから、何かあったらリーファちゃんに言って。リーファちゃんからも何か言ったりするから、ちゃんと話を聞かないとダメだからね」
通信の調整やチャンネル変更は、全て《アマデウス》で制御する。if部隊は広範囲に分布してリオの探索を行い、《アマデウス》はこの地点を維持しつつ、通信の中継を行う。今から行う作戦は、概要だけ言ってしまえばそれだけの事である。
『分かった。そうしてみる』
トワの返答はどこまでも真摯であり、それに応えなければとも思う。どちらにせよ、ここから先は時間との勝負だ。充分過ぎる程の気合いを再度入れ直して、イリアはグリップを握り締めた。
「作戦開始、見つけ出すよ!」
思いの丈を声に込め、イリアはその言葉を発した。見つけ出すという、呆れるほど単純で困難な目標に向けて、三機は宇宙の黒へと染み込んでいった。
※
見知った筈の宇宙が、何か得体の知れない物に変わってしまったような。言いようのない損失感と、どうしようも出来ない焦燥感。それに加えてこの宇宙とくれば、もうどこを向いていればいいのかすら分からない。
トワの操縦している《プレア》は、最高速度を維持したまま宙域を横切っていった。幸い障害はなく安全ではあるが何もない。何もないという事は、ここに留まる必要はないという事だ。
操縦と言っても、《プレア》の操作体系はifと大きく異なる。まるで自らが機体その物になったかのように動くことが可能であり、その高い没入感は自分の本当の身体や感覚を意識できる類の物ではない。にも関わらず、今のトワは宇宙を高速で飛来しながらも、その中で胎動している自分を知覚していた。光一つない操縦席の中で、亀裂の走った心、その埋めることの出来ない距離を呆然と眺めている。
勿論、そんな亀裂は幻想に過ぎない。トワは頭を振り、その抽象的なイメージを拭おうとした。拭い切れずに傷跡だけ残り、それは額に付いている傷その物を連想させた。
その傷自体に意味はない。大切なのは、彼が傷を治してくれたという事だけだった。その傷が、今は何故か痛く感じていた。
目頭が熱くなり、不安が押し寄せてくる。その度に、ネックレスに通したエンゲージリングの感覚を辿っていた。仄かに熱を感じるそれその物だけが、背中を優しく押してくれるような気がする。
「……リオ」
小さく彼の名を呟き、トワはまたエンゲージリングの感覚を辿った。
その熱が彼にも伝わるように。
※
鈍い痛みを覚え、ゆっくりと意識が戻っていく。微睡みを漂う余韻はなかった。それよりも頭痛や、肌寒さに意識が傾いたのだ。
リオは痛みの引かない頭を片手で押さえた。ヘルメット越しでは何の意味もないが、それでもやらざるを得なかった。鈍い痛み。誰かに呼ばれたような、そんな気がしたのだが。
状況は変わらず、この操縦席で宇宙を流れているのだろう。数十分は寝ていたようで、この状況下でも眠ってしまう自分に少し驚いていた。
余計なバッテリー消費を押さえるために、操縦席内は今も暗闇の中にあった。バッテリー残量だけが、数字化されて瞬いている。
もう頭痛は大丈夫なようだ。頭を押さえていた手を下ろし、そっと溜息を吐く。白い息が、ヘルメットのバイザーを一瞬だけ不透明にする。
生命維持に必要な空調以外は切ってある為、操縦席内はひどく寒い。これはまだましな方であり、太陽に晒された場合は逆にひどく暑くなる。どちらの場合も最低限の温度までは調整してくれるが、それ以上となるとバッテリーの消耗が激しい。よって、今はこうして寒さに震えている必要がある。
人が宇宙という領域で生きるには、温度一つ取っても文明で対抗しなければならない。最早共存しているとは言い難く、それは地上においても変わらない。より便利に、より楽に、より人のために、人のためだけに。そうして積み重ねた人類の進化は、こうして宇宙まで手が届くようになった。
代償は大きい。文明を用いて生きていた筈が、今は文明に生かされている。文明なしでも生きていけた筈が、今は文明がなくては生きていけない。
考えても仕方のないことだ。自分自身、その文明に生きることも死ぬことも頼り切っている。
あと三十分、それが自分の今を意味する数字だ。
今一つ実感の沸かぬまま、ひどい肌寒さに蝕まれていた。




