小さな嘘
結局の所、事態は何も変わらなかった。トワが何者かは分からないまま、謎ばかりが増えていく。それは半ば分かっていた結末だったが、それでも沈んでいく気持ちを抑えることはできなかった。
或いは、これで良かったのかもしれない。トワが何者か分かり、それが自分にとって都合の良い存在であるとは限らないのだ。そんなことはずっと前から分かっていたはずなのに、今ほどそのことを意識することもなかった。
銃を押し当てて、殺そうとした。純然たる恐怖に拮抗するために、純然たる殺意を持って。そこには、リオ・バネットという存在もトワという存在もなかった。ただただ抗いようのない何かから逃れる為に、個人の意志など意に介さずに殺そうとした。
「殺して、たまるか」
誰もいない廊下の直中で、自然と呟いている。何度あの光景を思い描いても、最後に浮かぶのはその言葉だった。何もかも分からないとしても、その思いだけは本当だと信じている。信じていたい、の間違いかもしれないが。
そんなことを考えている内に医務室へ到着した。もしかしたらトワが起きているかもしれないと思い、格納庫から真っ直ぐこちらへ戻ってきたのだ。
「失礼します。アリサさん?」
医務室に入り、その部屋の主であるアリサの名前を呼ぶ。一声掛けてからトワの様子を見ようと思っていたが、アリサの返事はない。
「お医者さんなら、今ちょっと席を外してるよん」
声の方向を振り向くと、アストラルがベッドの横で柔軟体操をしていた。なんて事のない様子で前屈しているが、地面に手の平がしっかりとくっついている。仕方ないとは思うが、患者衣のまま運動するのはどうなのだろうか。
「アストさん、何してるんですか?」
「体操だね。軽い運動でも良いんだけど。新しい血液が馴染むにはちょっと時間が掛かるし、こうやって身体動かして慣らさないといけないんだ。型が古いとこーいう時に不便だね」
そう言うと、アストラルはベッドに腰掛けて深く息を吐いた。
「はあ、疲れた。リオ君はもう平気そうだね。ここに運び込まれた時は死んだように寝てたけど。ちなみにトワちゃんならまだ寝てるよ。さっき確かめた」
「まだ寝てるんだ。元々寝起き悪いから」
いっそ起こしてみようとは考えたが、寝入ったときのトワは何をしても起きない。起きない上に拳が飛んでくることもある。
「まあ、その内起きるからいいんじゃないかなあ。それより何があったか、私にも教えて欲しいんだけどな。ここにいると何の情報も入ってこないんだよね。まあ座って座って」
片手でベッドを軽く叩き、アストラルは座るように促していた。断る理由もなく、そのままアストラルの隣に腰掛けた。
話している分には元気に見えるアストラルだが、傍で見ていると違う印象が浮かんでくる。全体が青白く見えてくるのだ。
アストラルが使用している人工血液は対G処置を施している。そのためゲル状になっており、混同を避けるため青く着色されているが、それにしてもこの青白さは異常に思えた。
「身体、大丈夫ですか?」
「あはは、平気だよ? それよりほら、何が起きたのか教えてよ」
笑ってみせるアストラルだが、その言葉通りである筈がない。それでも大丈夫と言うのは、彼女自身の強さなのだろう。
自分自身、あの遺跡で起きたことをきちんと理解している訳ではない。それを踏まえた上で、何が起きたのか順を追って説明していく。
トワが強制的にifの操縦を奪っていった事や、遺跡の設備をいとも簡単に稼働させていたこと。二対の機体と、それを用いた戦闘に、その後意識を失う所までを話した。トワに対して抱いた恐怖心と、銃を突き付けたことは話さなかった。
「へえ。何か大変なことになってるんだね。私も寝てばっかいられないよホント」
アストラルはそう言うと、すっと口を噤んだ。話を聞いて納得したのだろうと思っていたが、何の気配も感じさせずにアストラルはもたれ込み、こちらの顔を覗き込んだ。
「ねえねえ、何か隠してない?」
完全な不意打ちに心臓が高鳴る。大きく動揺した心中が見透かされていることは想像に難しくなく、真っ直ぐに見つめてくるアストラルから目を逸らすことしかできない。
「うん、やっぱり。何か雰囲気違ったから、言いたくないことでもあるのかなあって。話したくなければ、それは話さなくてもいいけど」
少し考え、そっと溜息を吐く。
「トワと初めてあった時もそうでした。ただただ恐くて、眠ったままのトワを撃とうとしたんです。その時は直ぐに収まりましたけど」
倒れ込んできたトワを抱き留めて、次に浮かんできたのがこの恐怖だった。今撃たなければ手遅れになると、そう警鐘を鳴らされたような気分だった。
「その次はアストさんと戦場に出た時です。トワが《カムラッド》で出て、その時も異様な恐怖を感じて」
そして結果として、アストラルが負傷することになった。こうして話しているのも、その負い目があってのことかもしれない。
「今回も、同じようなことがありました。遺跡の深部であの機体へ辿り着いたときに、ひどい頭痛がして。気付けば銃を抜いて、トワを押し倒して銃を突き付けました。なぜそうしたのかは分かりません。なぜ撃たずに済んだのかも、分からないままです」
まったく抵抗しなかったトワの様子も、その言動も理解できないままだ。リオが望むならそれでいい、そうトワは言っていた。何もかも見透かしているかのように。
「それ、他の人には言ってないんだよね?」
アストラルの問いに小さく頷く。
「まあ、イリアさんとかは何となく分かってるんだろうけど。私が分かったぐらいだし。この事、黙ってた方がいい?」
そもそも今まで黙っていた理由が何なのかさえ、自分の中で整理が付かないのだ。だから、アストラルの問いに対して答えられる言葉は、相も変わらずこれしかない。
「それも、分かりません」
「そっか」
随分と身勝手で、情けない答えだと思う。それでもアストラルは、何を咎めるでもなく隣に座っていてくれた。
しばらくそうしていたが、アストラルはベッドから跳ねるように立ち上がり、踵で地面を何度か叩いた。
「知ってる? 今から二十年前の人達にとって、宇宙は生活の場じゃなかったんだよ。この宇宙は、私達にとって身近な存在になったように思えるけど、まだ二十年ちょっとしか経ってないんだ」
それは、初等部の歴史で学ぶ程度の知識であり、常識の範疇と言ってもいい。だが当たり前に生活しているこの宇宙は、まだまだ解明されていない事の方が多い。アストラルの言う二十年という時間で、宇宙と人類は少しでも対話できているのだろうか。
「二十年って長いよ。赤ん坊が成人するし、世界の在り方も変わっていった。戦争の形も私達の生き方も変わった。それでも、それだけの物が変わっていくのに、私達はこの宇宙についてほとんど何も知らないんだ」
二十年の歳月を経て人類は、形や犠牲はどうあれ宇宙という新天地を手に入れた。それは宇宙で生きるという方法を見出しただけであり、宇宙の全てを理解した訳ではない。それはみんな分かっている。分かった上で、生きていく為にこの宇宙にいるのではないか。
「遺跡なんてそれ以上によく分からない物だよ。BFSだってそう、訳が分からないけど便利だから使ってる、必要だから使ってる。異常に思えるかも知れないけど、それって私から見たら自然なんだ。何でこの馬鹿でかい戦艦が動いてるのか、私もリオ君も説明出来ないでしょ? 専門家に聞けば分かるんだろうけど、多くの人達はこれの動力が何かも知らないし知る必要もない。だって用意されててそれが動くんだもん」
その論理は理解出来る。何も戦艦で考えなくてもいい。自家用車をどう運転するか知っていても、どういう仕組みで駆動しているのかは知らなくていい。それは、一般的に考えて必要のない知識だ。
「だから、何が起きても不思議じゃないと思うんだ。その遺跡で何が起きても、BFSを積んだifが何をしでかしても、トワちゃんが何者でも。私達の常識が通用する世界なんて、とっくの昔になくなってたんだ」
常識の消失ということか。アストラルにとってのそれは、その身体になってからの世界だろう。重傷を負い、人工臓器で生き長らえた末に見た世界は、アストラルにとっては今までの常識との決別に近いものだったのか。
自分にとっての消失もそうだ。全部を押し潰したあれに乗り込んだ時点で、自分の常識は消えてしまった。
「どうなっているのか、どうすればいいか分からなくてもいいよ。まだトワちゃんは生きてくれてるし、そうやって思い悩んでいるなら生きていて欲しいんでしょ」
何者か、何なのかすら分からなくても、トワに死んで欲しくはない。何度も何度も繰り返した答えは、まだ変わってはいない。
小さく、それでも出来る限り強く頷くことで答えを返す。
「それなら、一先ずはそれでいいんじゃないかな? 謎だらけになってても、妙なお土産持ってきてても、私は二人で帰ってきてくれて良かったよ」
そう言うとアストラルは、またベッド横で体操を始めた。手際良く柔軟体操を行っていく。
「アストさん、無理して倒れないで下さいよ」
「無理矢理強引にが私のモットーだからね。ふふん」
元気そうに見えて青白いアストラルを心配して言ったのだが、当の本人はさっぱりとした笑みを浮かべてそう答えた。
「こう見えてちゃんと自分の身体は理解してるつもりだよ? それよりトワちゃんの傍にいてあげなって。何なら起こしちゃえばいいよ」
「傍には行きますけど起こしはしません。拳が飛んできますから」
アストラルのベッドから腰を上げ、今度はトワのベッドへと近付いていく。カーテンがきちんと閉められていて、開けるのを躊躇わさせてくれる。
考え倦ねている内に後ろから手が伸び、カーテンをばさりと開け放った。
「大丈夫だって。トワちゃんだってリオ君になら見られても別にいいんじゃないかな。ね?」
そう言うと、アストラルは強引に背中を押してカーテンの中へとこちらを押し込む。
「じゃ、ごゆっくりとー」
アストラルは素早く退去し、ご丁寧にカーテンも閉めていった。無理矢理強引にがモットーと言うだけはある、アストラルらしい背中の押し方だった。
ゆっくりとトワが横になっているベッドへ近付いていく。近くにあった椅子に腰掛け、その静かな寝顔をただ眺めた。
トワの周りだけ時間が静止しているような錯覚を覚える。それは、まるで精巧な人形を眺めているような、触れてはいけない何かを前にしているような、そんな思いすら浮かんでくる。
仰向けのまま、トワは静かな寝息を立てていた。その様子は普段と違う。トワは寝ている間もよく動く。それが、今は微動だにしない。余程疲れているのだろうか。
目を瞑ったままのトワは、静か過ぎるために生が欠落した人形のように感じられた。
昔何かで見た、防腐加工を施された綺麗なままの死体を思い出す。今にも目を開きそうな程瑞々しく、そして生々しいままの死体だ。それは幼いながらに不気味で、言いようのない恐怖を連想させるものであったが、どんな意思がそこにあるにしても、その死には、その死体には尊厳が感じられた。死という概念に尊厳があった時代は、いつの間に終わっていたのだろう。
それでも構わなかった。自分の死に尊厳など必要ない。狭い操縦席の中で、あの日の赤に包まれて死ぬ。それが世界にとって最低限であり、自分にとっての最大限だった。実際は、その最低限を押し付けて歩いている。いつか全ての負債が、自分に返ってくることを信じて。
仄かな熱を感じて顔を上げる。いつの間にか目を開けていたトワが、こちらの手をふわりと握っていた。
「トワ、その」
突然の不意打ちに驚いていると、トワは大きく欠伸をし、のそりと起き始めた。手は握ったまま、むしろそこを支えにしようと力を入れている。
「動けない引っ張って」
早々に諦めて脱力したトワが、眠そうな声で助けを求めた。
「眠いなら、その、寝ててもいいよ」
トワを気遣った一言だったが、当のトワは脱力したまま首を横に振った。
「リオがいるから起きる」
「ああ、ごめん。それじゃ外に出てるから」
さすがのトワも、誰かが横に座っていたら寝付けないのだろうと思い席を立とうとする。が、トワは手を離そうとしない。
「違うの。いじめないで起こして」
眠そうな声のままトワが訴える。今のやり取りのどこにいじめるような要因があったのかは分からないが、ひとまず引き寄せるようにトワの上体を起こした。
「何だかぼおっとする」
「だから寝ててもいいって言ったのに」
異議申し立てなど意に介さず、トワは手を握ったまま寝ぼけ眼で周囲を見渡していた。
「身体は大丈夫なの?」
空いている方の手で目を擦っているトワに問いかける。
「だいじょぶ。それよりお腹すいた」
欠伸を交えながら答えている所を見ると、特に異常はないのだろうと思える。先程まで人形みたいだと思っていたというのに、今のトワは確かな生を感じさせてくれていた。
「えっと、アリサさんが帰ってきたら聞いてみるから」
色々聞きたいことや、聞かなければいけないことがあった筈なのに。いつもそうだった。トワに関しても自分に関しても、どんなに悩んでいてもこうして一緒にいる時だけは気にせずにいられる。今こうして目の前にいるトワは、紛れもなくいつも通りのトワだった。それが分かっただけでも、どこか安堵している自分がいる。
トワはこちらの手を握ったまま、ベッドサイドにあるカゴを片手で漁り始めた。ベッドサイドと言ってもこちらから見て反対側にあるため、トワは手を目一杯伸ばしている状態になっている。
「その体勢、きつそうだけど」
どう見ても四苦八苦しているトワに聞くと、手を伸ばしたまま無言で頷いた。きついのだろう。
「手、離した方が楽だと思うけど」
恐る恐る助言すると、トワはちょっと顔をしかめてこちらに向き直った。概ね予想通りの反応だ。
「先に言っておくけど、僕が手を離したいって訳じゃないからね」
こう付け足しておかないと、トワは不機嫌になるだろうと、自分なりに考えた結果だ。
「ふうん。じゃあ逃げない?」
トワがちょっと疑り深くなっている。
「逃げない。トワに会いに来たのに逃げてどうするのさ」
こくりと頷き、トワは名残惜しそうに手を離す。こちらに背を向け、再度カゴを漁り始める。
「あった」
向き直ったトワが持っていたのは、見間違えるはずもない。シンプルなネックレスと、それに繋がれたエンゲージリング。その輝きがなければ、自分はトワを殺していたのかも知れない。自分とトワの、約束の証だ。
「これはイリアがくれたの。指輪をしたままじゃ、あの変な服は着れないって言われた」
ネックレスから指輪を外し、トワは嬉しそうに左手の薬指にそれを通した。あの出撃前に、そんな一悶着があったとは。指輪をしたままフラット・スーツを着ることは出来ないが、ネックレスなら大丈夫だろうとイリアが判断したのだろう。
「後でイリアさんにお礼言わないと」
「もう言ったよ?」
イリアの私物であろうネックレス。決して安くはないだろうそれを、無料で手に入れたトワのお礼がどれほどの物かは定かではない。きちんとお礼を言わないと。
それに、結果としてこのネックレスは自分達を救ってくれた。
「あれ、リオ。両手見せて」
トワが急に不安げな表情になり、じっとこちらの手を見ている。突然の変化の理由が分からず、言われるがまま両手を差し出した。
「付けてない」
その両手にそっと触れ、ぽつりとトワが呟く。その言葉の意味を理解する間もなく、トワは見る見る内に泣きそうな表情になった。
「トワ、いきなりどうしたの。両手に何かあった?」
全身から悲しみのオーラを噴出しているトワに困惑しながら、自らの両手を見返してみる。どう見ても、いつも通りの手でしかない。
「手に何もなかった」
「そりゃあ何もないけど」
ふて腐れたようにも聞こえるトワの言葉に、訳が分からずそう返す。が、トワが左手の薬指に触れていることに気付き、はっとなる。
「えっと、もしかして僕が指輪付けてないってこと?」
控え目にそう聞いてみる。トワは無言でこくりと頷き、じっとこちらを見た。
「だって、これはずっと一緒にいる約束の証で、いつも付けておく物なんでしょ。リオ付けてない」
特に深くは考えず、出撃前に外してきただけなのだが。そもそも、出撃にエンゲージリングを持っていくという認識自体がなかった。
「指輪をしたままフラット・スーツは着られないから。部屋に置いてきてあるんだけど」
「だから、こうやって持ってきたんでしょ」
そう言ってトワがネックレスを指差す。
「うーん。僕はそういうの持ってないからね」
トワは不満なのか、口をへの字に結んでそっぽを向く。
「じゃあ、イリアにお願いしてリオの分も貰ってくる」
「物を貰う前提はやめようよ。それに僕はネックレスいらないから」
これ以上イリアの私物を分けて貰うのは、さすがに気が引ける。トワの私物のほとんどはイリアからの提供品だ。そう思っての言葉だったが、トワは不満と悲哀が入り交じった視線をこちらに向けた。
「だって。一緒にいるって約束で、これを付けてて。付けてくれないって事は、約束が、約束じゃなくなっちゃって」
今にも泣きそうな表情で、トワはぽつりぽつりと呟いていく。
「二人で付けて、それで。そうじゃないと、意味がなくて」
言葉を重ねる度に落ち込んでいくトワに、慌てて言葉を返そうと四苦八苦する。トワの事が心配でここまで来たのに、これでは本末転倒だ。
「えっと、何だかよく分からないけどごめん! その、指輪今から取ってくるから!」
とにかく指輪がないことにはどうしようもない。そう判断し席を立とうとする。
「私も行く」
不機嫌なままのトワが、ベッドから降りようともぞもぞ動き出した。
「トワはここで、アリサさんを待ってて欲しいんだけど。ちゃんと診て貰わないと、具合悪くなってからじゃ遅いから」
ベッドに腰掛けたまま、トワはじとりとこちらを見ている。もう表情からして不機嫌極まりないという事が分かる。
「すぐ戻ってくるから。えっと、そうだ。トワが服を着替えるまでの間に戻ってくるよ。そこのカゴに入ってるでしょ?」
トワはカゴとこちらを交互に見て、不服そうではあるが頷いた。
「すぐ戻ってくるから、ちゃんと待っててね」
席を立ち、急いで医務室から出る。通用路を走り自室へと向かう。こんな事をしている場合ではないのに。何一つ分からないこの状況下で、自分はこうしてエンゲージリングを取りに走っている。
自室へ着き、もうすっかり施錠しないことが当たり前となった部屋へ入る。固定棚にある引き出しの中からエンゲージリングを取り出し、少し戸惑いながらも左手の薬指へ通した。どうもこの動作は慣れない。エンゲージリングを指に通すなんて、今の自分に一番似つかわしくない行動に見えた。
その行動がどうであれ、これ以上トワを待たせるのは色々と良くない。今来た道をまた走って医務室まで戻る。
とりあえず機嫌を直して貰わないと、これでは何だかやるせない。気の利いた言葉でも浮かんでくれれば楽なのに。医務室に入り、どうするべきか考えながらトワのベッドまで歩く。
相も変わらず何も浮かばないまま、閉められたカーテンに近付く。一声掛けてから開けるべきだろうかと考えながら手を伸ばすが、話し声が聞こえ反射的に手を止める。
「見た所、機嫌が悪い以外は健康そのものって感じだな。気分は?」
医務室の主であるアリサの声が聞こえる。
「お腹がすいた」
トワは素っ気なく答えている。機嫌が悪いままなのだろう。
「よく寝てたからな。身体に異常もないなら自由に飲み食いしていい。ああ、動くな。額の傷、ガーゼを取り替えとくから」
額の傷。その言葉に全身が強張る。
「しかし妙な傷だな。どうしたんだ?」
どうしたらいいのか。今割って入り、適当な言い訳をして逃れるのか。正直に銃を突き付けたのだと告白するべきなのか。手が震え、頭が意識とは裏腹に真っ白になっていく。焦燥感だけが高まり、結局何一つ行動すべき指標が見えない。
「これは転んだの」
何の気負いもなく、トワはごく自然にその質問に答えた。少なくとも、こうして聞いている分にはいつもと変わらない。
「転んだ? 遺跡でか?」
違う。その傷を付けたのは他ならぬ自分であり、トワもそれは分かっている筈だ。
「そうだよ。転んだの」
溜息を吐き、アリサはトワに幾つか注意を返す。その他愛のない言葉の数々など、今はどうでもいい。トワは今何て答えたのか。なぜ本当の事を言わなかったのか。
困惑した意識は五感すら鈍らせるのか、気付いたときにはアリサの靴音がすぐ目の前まで迫っていた。カーテンが揺れる。
何一つ行動できず、開いていくカーテンをただ目で追いかけていた。出て行こうとしたアリサがこちらに気付き、少し驚いた様子で脇を抜けていく。
「何だ、戻ってたのか。トワ嬢なら大丈夫そうだ。腹減ったってずっと言ってるよ」
ただその場に立っているだけの自分を、アリサは特に気にしてはいない。
「その、額の傷は」
声が掠れてしまわないように、最大限注意して声を絞り出す。
「軽い裂傷だ。下手にいじらなければ痕が残ることもないだろう。転んだって言ってたが、ヘルメットは付けるように言っとけ」
やはり、気のせいでも何でもない。額の傷は転んで負った物だと、トワは嘘を吐いている。
「ガーゼも変えたし、暫く自由にしてていい。何か食わせてやれ」
アリサの言葉に頷きながら、その嘘の意味を考える。あのトワが嘘を吐いた、そんな事一度もなかったのに。
アリサはそのまま奥に行ってしまう。既に着替えの終わったトワがベッドから下り、サンダルを突っ掛けていた。
「ちゃんと付けてる」
トワは近付くや否や、左手の薬指に通されたエンゲージリングを確認した。
「良かった」
やっと笑顔に戻ったトワだったが、嘘を吐いたという事実が重くのし掛かって離れない。
「お腹がすいたから、とにかく何か食べないと」
こちらを引っ張るようにして医務室を出て、廊下をぺたぺたと歩いていく。
「どこに行けばいいのかな。リオの部屋?」
こちらの手を掴み、トワは返答を待たずに進んでいく。その無邪気な様子はいつも通りのトワだったが、その様子が余計に不安にさせる。繋がれた手をぐいと引っ張り、トワをその場に引き留める。
「ちょっと待って、トワ」
特に気にした様子もなく、トワは振り返り小首を傾げる。
「リオ、どうしたの?」
聞かずに済むのなら、聞きたくはない。けれど、それでは自分自身が納得出来ない。意を決して、ゆっくりと言葉を探していく。
「どうして、転んだって嘘を吐いたの?」
トワの笑顔が、一瞬揺らいだように見えたのは気のせいなのだろうか。
「リオは私を助けてくれたから、それ以外はないよ」
トワはそう言い、ふわりと笑顔を浮かべた。
「だから、それでいいの」
遺跡で見せた悲しげな表情と同じ。生も死もかなぐり捨てたトワの、優しくて寂しい笑顔がそこにあった。