苦難の従者
点滴中は動けないという事を悲観していたトワだったが、心配する必要はなかった。ベッドでじっとしていれば、誰しも眠くなる。体調が悪ければ尚更であり、微睡み寝息を立てるまでそう長くは掛からなかった。
《アマデウス》後部……通称展望室で、リオ・バネットは手摺りに腰掛けるようにして暗い宇宙を眺める。トワの寝顔を見ていたい気持ちはあったが、それだけをやっている訳にはいかない。
足音が聞こえ、その方向を見る。約束の相手……自分とは違い、第一線で戦い続けているリーファ・パレストだ。幾分か背が伸び、顔立ちも大人びてきた彼女は、それでもやはり少女と形容した方が正しいだろう。リーファは十七歳、かつての自分と同じ年齢なのだが、その立ち居振る舞いは遙かに大人びて見える。
世界の裏も表も見てきた目が、人懐っこい色を帯びていた。世界は決して平和でも、輝かしい物でもない。けれど、それだけでもないと知っている目……絶望を知って尚、それに染まらなかった目だ。
リーファはスレンダーな体型を維持しており、ランナーの制服を着こなす姿はやり手のキャリアウーマンといった様相だ。しかし低身長と綺麗に纏められたポニーテールが、どこかハイスクールな雰囲気を醸し出しているのもまた事実だった。
「お待たせしました、リオさん」
そう言うと、リーファはこちらの隣に並んだ。予想に反して、手には何も持っていない。情報は全部頭に入っているという事だろう。
「リオさんは元々くたびれ気味だったので、あまり老けたようには見えないですね」
早速辛辣な評価を貰ったが、間違っていると否定するだけの材料はない。困ったように笑うと、リーファは手をひらひらと振る。
「まあ、顔立ちとかそういうのは若々しいですよ。身体もたるんでる感じはないですし。トワさんが女の子みたいと興奮するぐらいですし」
「トワは外でもそんな事言ってるの?」
こくりと頷き、リーファは自らの口角を指で上げる。
「全体の雰囲気がいつにも増して暗いですよ。ここから先、悪いニュースしかないんですから。意識的に気持ちを上げていって下さい」
「努力する」
素っ気なく返すも、リーファは特に気にした様子はないようだった。
「それで、現在の状況ですね。リオさんはどこまで知ってますか」
前置き……或いは激励が終わったのか、リーファは本題を口に出す。リーファを呼んだ理由がこれだ。今の自分はしがない一般人でしかない。世界で何が起こっているのか、そして。これから何が起きるのか。専門家に聞いてみようという訳だ。
「自分が体験した事しか知らないよ。黒塗りのifに襲われて、スマートウィップに引っ掛かった。相手の装備や練度は悪くないけど、必死さは感じなかったかな。ビジネスライクみたいな感じ」
リーファの問いにそう答える。世界情勢を巡るニュースは、巧妙に操作されている為当てにはならない。となれば、自分が見たそれしか真実を計る材料はない。
「その感覚は正しいと思いますよ。今回の相手は、言ってしまえば傭兵集団です。雇われ兵士が、お金と引き替えに仕事をする。かつてのif戦争とは違う。必死に戦う必要がないんです」
少し腑に落ちない。頭に浮かんだ疑問を、そのままリーファにぶつけてみる。
「セクション一基の制圧なんて、雇われ兵士だとしてもやらないでしょ。どんなに大金を積まれても、ランナーに狙われたらそこまで。捕まったらお金も仕事もない」
雇われ兵士であるならば、尚更そこに執着する筈だ。この戦いに勝算はあるのか、生存確率は、退路は? 無茶苦茶な作戦に駆り出されるなんて、それこそ御免だと考える筈だ。
しかし、リーファは苦笑して首を横に振る。
「ランナーは敵対勢力を襲撃し、それの捕縛も行いますが。数は膨大で、その全てを管理しきれているとは到底言えません。かといって、私刑で処理するというのも論外です。ランナーは非正規の組織、持ち得る法も非正規で、膨大な数の彼等を収容出来る施設もありません」
リーファの目に、組織という枠組みの限界が見て取れた。それでも、ランナーは騙し騙し平和を維持してきたのだろう。
「結局、監視態勢を強化するぐらいの対処しか出来ません。しかも、捕まった彼等は非常に協力的であり、知っている情報は全て差し出してくれました。ビジネスライクでしょう?」
雇われ兵士である彼等は……少なくない報酬を得て、主立った処罰もされず、後は無罪放免という訳か。
「でも、今回ばかりはそうもいかない。ランナーは今まで、傭兵達が事を荒立てる前にそれを制圧した。今回は違う。セクション一基を奪うなんて」
リーファは、もう一度首を横に振る。その目が、悪いニュースはここからだと語っていた。
「襲撃を受けたセクションは十二基です。その内二基は、付近に駐留していたフィールドランナーによって防衛されています。つまり、リオさんがいたセクションを含めて、十基のセクションが制圧された事になります」
言葉に詰まる。今の今まで、その危険性には気付きもしなかった。自分がたまたま、あの場に居合わせたとか。自分やトワ、リリーサーを知る者の犯行だとか、そんな事ばかり考えていたが。
つまりあれは、場当たり的な犯行ではない。むしろ、理路整然とした堅牢さすら感じる。要するに。
「……軍事作戦なんだ。陽動を絡めた、決して回避も無視も出来ない一撃。でもなんで」
目的も意図も分からない。リーファを見ると、彼女も小さく頷いて見せた。
「敵対勢力の名前はアンダー。雇われ兵士達の雇用主で、相当規模の資金と軍事力を有している事が分かる集団です。その手腕は合理的で強固、そして……驚く程に不透明です」
不透明という言葉が引っ掛かり、怪訝な表情を浮かべてしまう。リーファも散々同じ表情をしてきたのか、ふっと口元を緩めると説明を始めた。
「敵対勢力の名前はアンダーと言いましたが。分かっているのはこれだけです。構成員や勢力は勿論、目的は何なのか、何の為にこんな事をしているのか。それすら分かっていません。我々ランナーは、ずっとアンダーを追い掛けてきました。武装勢力を潰し、兵器取引を防ぎ、その度にアンダーの名前が出てくる。でも、それ以外は何も分からない」
なるほど、確かに不透明だ。敵である事は明白、だがそれ以外は分からない。
「そうなると、テロリストかどうかも分からないね」
同じ感想を抱いていたのか、リーファがくすりと笑う。
「政治的な理由か、宗教的な理由か。何の主張もない以上、一番近いのはパブリックエネミーとか、そういうのになるんでしょうけど」
社会の敵、反社会集団、そう表現するしかないという事だろう。
「だから、今回の件は前例がありません。アンダーの名を掲げる勢力を幾つも潰しましたが、そのどれもが行動前です。こんなにも早く、正確に動ける集団だったことすら、私達には分からなかった」
結果だけを見れば、全てブラフだったという事だろう。アンダーの目的はセクションの同時制圧であり、今までの小競り合いはただの陽動に過ぎなかった。
「現在、全てのランナーは待機状態にあります。アンダーはセクション十基、そしてそこに住む住人を得ました。人質と向こうが宣言していないとしても、状況は立派な立て籠もりです。無闇な攻撃は出来ません」
待つしかない。もし動くとしたら、そう。
「セクション十基を同時に、迅速に奪い返す」
こちらの導き出した答えに、リーファは小さく頷く。
その為の待機だが。果たして、そんな事が可能なのだろか。
「実力だけで言えば、ランナーは。特に、現地での戦闘を任されているフィールドランナーは精鋭揃いです。セクション十基の同時奪還作戦も、事実上可能だと思います」
リーファの声色は、内容とは裏腹に暗い。最も悪いニュースが、そこには潜んでいるのだろう。
「……血は流れるね。どうやっても、何人かは死ぬ」
リーファの思考を読み、その答えを突き付けた。奪還出来る、アンダーに勝つ事は出来る。だが、何人かは死ぬ。被害を出したくないとか、死者は出したくないとか、そんな上辺の話ではない。
「はい。リリーサーが再起動する条件を、多分。満たす事になると思います」
戦闘行為の原則禁止……人と人が殺し合う戦争状態こそが、リリーサーの始動キーと。リリーサー・システムの管理者、シア・エクゼスは言っていた。
ランナーの真の目的でもある、戦争状態の回避は。今度ばかりは守れそうもない。
「そう、だよね。分かってる。そうなるだろうから、ここに来たんだ」
人と人の戦いに、さしたる意味はない。我が儘な言い分になってしまうけれど、少なくとも自分には。だが、それが引き起こす結末については。
「リリーサーは再起動する。だから、自分もトワもここに来た。あれと戦うのは、僕達二人じゃないといけないんだ」
自らに言い聞かせるよう、そんな言葉を口にした。再起動したリリーサーと戦い、それを斬り捨て。今度こそサーバーを破壊する。それでようやっと、自分とトワの戦いは終わるのだ。
トワを治す術も、永遠に失われるけれど。その事実が再び脳裏にこびり付き、聞き飽きた自問自答が反響する。答えは決まっている。
「……分からない。僕は、本当は」
どうしたいのだろうか。平和? どうでもいい。セクションの制圧? 勝手にやっていればいい。リリーサーは斬る、あれがいるとトワが笑えない。サーバーも破壊する、約束があるしトワもそれを望んでいる。じゃあ、その結果トワはどうなる?
何よりも大事な人の未来を奪ってまで、自分は何がしたい?
「……分からないな、やっぱり」
聞き飽きた自問自答は、やはり聞き飽きた結論しか割り出してくれなかった。頭を蝕む割には、何一つ役に立たない思考ばかりしている。
「トワさんの事、聞いていいですか」
リーファもまた、こちらの表情から何かを悟ったのだろう。さりとて目を背けるでもなく、それを知ろうとしている。多分、自分とトワの為に。
「今すぐにとか、そういう訳じゃない。無理をしなければ、それこそ気にする必要もないのかも知れない。でも、このまま戦えば。多分、あの子の身体は保たない」
アリサの発した、延命という言葉を思い浮かべる。治療ではなく延命……それぐらいの違いは分かる。
「私も、イリアさんから簡単な話は聞きました。サーバーとの接続によるリスタート……再構築を繰り返して、その命を保っているんじゃないかって」
そこまで聞いているのなら、話は早い。無言のまま頷き、それ以上はないと意思表示をした。
「誰も、言いませんでしたけど。それ、こっそり使ったりとか。出来ないんですか?」
確かに、誰も言わなかった。苦笑しようとしてうまく出来ず、結局無様に顔を歪めたまま。流れていく宇宙の黒へ視線を向けた。
「僕、トワにさ。リリーサーにしないって言っちゃって。永遠なんてないとか言って」
その言葉に偽りはない。でも、まさか。こんなに短いなんて思ってなかった。
「多分、トワなら。頼めばやってくれると思う。あの頃の、元気なトワに戻れると思う」
くいと袖口を引かれる。リーファの方を見ると、じっとこちらを見据えていた。睨み付けている、と表現してもいい。強い想いを携えた瞳が、逃がさないと言わんばかりにこちらを射貫く。
「それは、ダメな事なんですか? 他の誰かがダメだと言っても、私はそうは思わない。どっちかじゃダメなんです! リオさんもトワさんも、二人で生きてくれないと! 私は……」
報えない。言外に付け足されたその言葉に、律儀なままだと胸中で苦笑しながら。実際の表情は、やはり悲痛に歪む事しか出来ない。
「分からない。ずっと考えてるけど、分からないんだ」
聞き飽きた自問自答も、改めてぶつけられる質問も。結局、答えは同じ色でしかない。
「何をしてでもトワさんを助けるのがリオさんです。私は、今も昔もそう思ってます」
その通りだ。壊れた自分が見出した答えは、結局それしかない。それだけの為に、どんな戦いだってやるしどんな相手でも斬る。でも、これだけは。
「リーファちゃんは覚えてる? トワがさ、健康なのに血が出たって半べそかいた時。リーファちゃんにも連絡してたでしょ?」
女の子の日騒動の時、トワの慌て振りは凄かった。
「覚えてます。ほんと、いつも何かしらで騒ぎますから、トワさんは」
くすりと笑みを零すリーファだったが、その表情はやはり悲しげだ。
「トワが成長したのは、サーバーとの接続を切っているからじゃないかって。背も伸びた。身体を初めからに戻せば、きっと」
トワは元気になる。出会った時のように元気に。痛みに震えるなんて事はしなくて済むだろう。
けど、トワだけあの時のままに戻ってしまう。それがきっと、何よりもあの子を傷付ける。過ごしてきた歳月を、トワはきっと覚えている。けど、身体はそれをなかった事にしてしまう。
「だから、分からないんだ。僕が本当にどうしたいのか、何も!」
トワの事は、手に取るように分かる。何が少女を傷付けて、何を求めているのかも分かる。だけど、自分の事は分からない。今も昔も何一つ、何がしたいのか、何を求めているのか。分からないまま、ここに来てしまった。
その場で座り込み、壁に背中を預ける。涙は出ない。ただ、虚しさと憤りだけが胸を突き刺す。なぜ虚しいのか、何に憤っているのか。それすらも不明瞭なのに。
ぽすんと音がした。リーファも隣に座り込んだのだろう。
「難しいんですね。色々と」
頷きを一つだけ返す。リーファがどんなに考えてくれていても、結局答えは一つだけなのだ。その事実を前に、申し訳なさと不甲斐なさを覚える。
「あの、リオさん。これ、聞こうかどうか迷ってたんですけど。せっかくなので聞きます」
改まった様子のリーファに、ちらと視線を向ける。割と真剣な表情をしているが、先程までの強い意思は感じ取れない。
「トワさんとの、その。お子さんとかって、何か難しかったりするんですか。女の子の日騒動から、概算三年は経ってますよね? 私、どこかでそういう報告を受けるんじゃないかって思ってたんですけど」
言葉に詰まる。その表情を見て、瞬時に察したのだろう。リーファの目が、すっと細められる。
「もしかしてですけど。三年間何もなかったんですか。目を逸らさずちゃんとこっち見て下さい」
そこを突かれると痛い。が、リーファはこちらの顎を掴むと強引に視線を絡めた。
「はあ。呆れました。最低ですね。くそ、こんな事なら私がもうちょっと介入しとくんだった」
舌打ち混じりにそう言われた。今まで聞いた事のない口調にちょっと肝を冷やすが、リーファはそれだけこちらの事を気にしていてくれたのだろう。
「リーファちゃんが‘くそ’だなんて言うの初めて見たんだけど」
「言ったの初めてかもですね。そんな事より、ほんとにそうなんですか? 三年間ほんとに、一度たりとも?」
物凄く切り込んでくる。だが、ここでプライバシーだ何だと屁理屈を捏ねると、本気で殴られそうで怖い。
「まあ、その。結果的に」
気付いたら、三年経っていた。
「なるほど。てっきり孕みにくいとかそういう事を心配してたんですが」
「リーファちゃん、言葉が直接的過ぎ」
「それ以前の問題でしたか。ほんと最低です」
ひどい。でも言い返せない。返す言葉もありません状態だ。
リーファは頭を抱え、自分の事のように溜息を吐く。
「はあ……原因はなんです? あまりにトワさんが子どもっぽいとかそういうのですか?」
十七歳の女の子に本気で説教を食らっているなんて、笑ってしまいそうな構図だが。実際は怖い。普通に怖いし申し訳ない。
「トワに問題はないよ。子どもっぽい所はあるけど、本当に大切で。この子が好きなんだなって見る度に思ってる」
「思ってるだけですか」
このチビッ子は本当に容赦がない。
「あとは、その。そういう気になった事は少なからずあるというか。まあ少なくもないんだけど。こう、いつも一緒に寝てるから。なんか凄く安心するというか。気付くとどっちかが寝てる」
「……スタートがそもそもそこでしたね。普通、異性と同じベッドで寝るなんて結構な段階ですけど」
左手の薬指を見遣り、何なら指輪の交換だってもうやってしまったと胸中で付け足す。
「トワにも、三年間こんな感じで過ごしちゃったって謝られたし。ほんとしっかりしないとなんだけど」
考えなしの発言だったが、リーファの目付きは一層怖くなった。
「女の子に謝らせるってどういう事ですか。もーほんと。ここまでとは思わなかったです。最低です」
本当に返す言葉もない。
「まあいいです。俄然やる気が湧いてきました」
そう言うとひょいと立ち上がり、リーファはこちらに手を差し出す。その手を掴むと、ぐいと引っ張ってきた。迫力はともかく、力はさすがに十七歳の女の子なので、殆ど自分の力で立つ事になった。
「私はフィールドランナーではありませんが、裏方ではそれなりに実績を積んだランナーです。この事態を収束して、貴方達二人を日常に送り返す」
リーファの目に、確固たる自信と意志を感じ取れた。これまで積み重ねてきた時間を、余すことなく自らの力に変えた目……精鋭の眼差しだ。
リーファはこちらに向け、指をぴっと突き出した。
「今回は送り返すだけじゃありません。お節介と言われようが嫌がられようが、夫婦生活もサポートします。リオさんはダメですし、トワさんは肝心な所でへたれます。自分達はへたれ夫婦なんだってほんと肝に銘じた上で重々覚悟していて下さい」
この少女、目が本気だ。
「えっと……お手柔らかに」
苦笑しつつ、そう返すしかない。リーファがここまで本気になるのも、それだけトワや自分を思っての事だろう。何かと窓口になってくれている事もあるが。トワにとって一番の友人はきっとリーファだろうし、自分にとってもまあ、そうなのだろうと思う。
「三年間動けなかった人の言う事ですか」
たとえ冷ややかな目で辛辣な事を言っているとしても、だ。
そして悲しい事に、リーファの言う事はいつも大体正しい。
説教モードに切り替わった友人の言葉を真摯に受け入れつつ、二人は展望室を後にした。




