崩壊の音
慣れ親しんだ空気が身体を覆い尽くし、肺に染み渡っていく。普段は気にも止めない振動や音が、五感を無視して脳に危険を知らせてくるような。
別段取り乱す事もなく、リオ・バネットは揺れる窓を見据えていた。これは、そこそこの質量が降り立った振動だ。何が降り立ったのか。改めて窓の外を確認するまでもない。
情報を得る為に、テレビを付けラジオを捻る。一連の動作をしながら、携帯端末……スフィアフォンを手元で操作していく。朝の八時、情報番組なんて飽きる程にやっている筈だが。
「繋がらない。ここまで大規模な障害なんて」
まるで軍事作戦だと嗤い、そういう事なのだと頭が理解を促す。平和は終わった。思っていたよりもずっと早く。
扉が開く音がして、その方向を振り返る。眠っていたトワが、音に気付いて起きてきたのだろう。パーカーを羽織り、小さく呻きながら窓へと歩いていく。トワはのそのそと眼鏡を掛け、数秒間外を凝視した。
「……if。なんで?」
小首を傾げ、トワは思ったままを口にする。そう、外に降り立ったのはif《カムラッド》だ。黒塗りの《カムラッド》が、見える位置に二機いる。破壊活動はしていない。ただ歩き、周囲に何やら呼び掛けている。
『……繰り返します。外出を控え、救助を待って下さい。従わない場合は、攻撃を加える場合があります。繰り返します』
男性の声で、抵抗はするなと言っている。家の中にいる限り、手は出さないという事だ。その言葉を信じるなら、という条件付きだが。
スフィアフォンを操作し、イリアやリーファと通話を試みる。当然のようにエラーが発生し、結局この球体が役目を果たす事はなかった。
「連絡も取れないか。トワ、窓から離れてこっちへ」
トワを手招きし、傍に近付いて貰う。さすがに異常事態だと分かったのか、ちょっと不安げな表情を浮かべている。
「リオ、あれは私の」
寝起きのトワは、言うべき単語が幾つも抜け落ちる。あのifの目標は、何かと聞いているのだ。それが自分を捕まえようとしているのかどうか、トワは聞いている。
「多分違う。巻き込まれただけだよ」
外出禁止しか指示がない上に、誰も門を叩いてはこない。もし狙いが自分やトワなら、もうとっくに踏み込んでいるだろう。
「……戦争になる?」
今の所は、ただの犯罪行為でしかない。まだ、外敵となる何かはここにいないからだ。だが、それも時間の問題だろう。イリア達が……ランナーがこの緊急事態を見過ごす筈がない。武力を持った勢力がぶつかれば、それはもう戦争状態と変わりない。
「多分、そうなる」
嘘偽りなく答えれば、そうとしか言えない。目を伏せてしまったトワには悪いが。外でifが歩き回っている以上、ここはもう戦場なのだ。
どうすべきか考える。じっとしているべきなのか、それとも。
「そうだ、あのブリーフケース」
動き出した頭が、かつての言葉を引き寄せた。リビングのソファに近付き、足下のクッションを外す。そこには、黒いブリーフケースが押し込んであった。
ここに住む事をイリアに伝えた際、渡された物の一つだ。適当な場所に隠して、緊急時に使えと言われていた。
ケースの存在を忘れてしまう程、これまでの時間は平和だったのに。少し埃の被ったブリーフケースを机の上に置き、これが何であれ使いたくはなかったと唇を噛む。
特別な鍵は掛かっていない。二カ所のロックを外すだけで、そのブリーフケースは開いた。開いてしまった。
「懐かしいなんて、あまり言いたくはないんだけど」
重苦しい黒が、照明の光を反射して鈍い光沢を生み出している。セリィア自動拳銃が一丁と、予備弾倉が二つ。ごつい形の通信機に、紙で記された地図が一枚、それだけだ。
「リオ、これ使うの?」
「相手次第かな」
トワの質問に素っ気ない返事をしながら、セリィア自動拳銃を手に取る。弾倉を叩き込んでからスライドを引き、初弾を装填してから安全装置を掛けた。その拳銃を腰に差し込み、予備弾倉は上着のポケットにねじ込んだ。
「通信機は、電源入ってるね。こっちはトワが持って、反応があったら教えて」
通信機をトワに手渡す。些か大き過ぎるのか、トワはそれを両手で受け取った。
「地図が示す場所は……ここから遠くない。工事現場を抜けて、地下ルートに入ればきっと」
きっと、何なのか。この事態が丸く収まる、なんて事にはならないだろう。
最後に、本当にこれが正しいのかどうか考える。指示に従い、ただその時を待つ。その方が平和的かも知れないと、もう一度よく考えてみる。
「トワ。これは多分戦争になる。規模は小さくても、人と人の殺し合いだ。リリーサーが動く」
もしかしたら、なんて考えはしない。ここが戦場である以上、事態は常に最悪へと傾く。
トワは顔を上げ、その赤い瞳でこちらを見据える。トワなりに言葉を噛み砕き、飲み込んでいく為に。
「僕達が行かないと。多分、みんなもそう考えてる」
《アマデウス》のクルーならそう考える。そして、意思があるのならリリーサーも。あの白い女性、シア・エクゼスも。その時をきっと待っている。
「……うん。えっと、じゃあ」
トワが玄関の方を指差す。と同時に、もう片方の手で自身の足に触れていた。
「スカートでもズボンでも、動きやすい方を着るように。待ってるから」
こくこくと頷き、トワは寝室へと向かう。しかし、何かに気付いたのか、或いは目が覚めたのか。こちらを振り向き、最終確認と言わんばかりに深刻そうな顔をした。
「リオ、私走る?」
「凄く走る」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら、トワは寝室へ今度こそ戻った。
着替え終わるまでの時間、もう一度地図を見て目的地を再確認する。窓に近付き、外に佇む巨人の姿を探す。
気付けば、もうあの音も振動もなくなっていた。ifは動き回るのを止め、待機状態に入ったのだ。センサーを総動員して警戒し、歩兵と共に住民を監視する。そんな所だろう。
「……まともにやったら、逃げるなんて無理か」
自分もトワも、足に自信がある訳ではない。センサーに引っかからないよう、歩兵に見つからないように進むしかない。だが、それすらもこちらは本業ではない。
机に近付き、もう一度地図を見返す。指で想定されるルートをなぞり、工事現場の表面を擦る。
指を止め、その区画を指先で叩く。老朽化したビル群を、都市開発の為解体しているのだ。工事の様子を見た事がある。
「あれ? 何かある」
指先が、何か固いものに当たったのだ。地図を退けてみると、その下に一枚のクレジットカードが転がっていた。拾い上げて見て、それがクレジットカードを模した何かだと気付いた。
「これ、もしかして」
両面を見て、脇にあるコネクターを見る。カード状のクラッキングツールだろう。自動的に制御を奪い、一時的に主導権を得るあれだ。
車を奪えば、大分楽が出来る。そう考えるも、すぐに撃たれて終わりだと結論が出た。車の運転に関しては素人だ、どうにもならない。
「車じゃ無理だけど」
もう一度、地図に描かれた工事現場を見据える。
「……働く車に頼ってみるか」
クラッキングカードを胸ポケットに入れ、寝室の方へ視線を向ける。
着替え終わったトワが、丁度そのタイミングで扉を開けた。パーカー姿は変わらず、というか全体的な印象は全く変わらない。余り気味の裾の下から、タイツに包まれた足が伸びている。
「トワ、何か着てるのそれ?」
「ん。ズボン」
トワはパーカーの裾をひょいと上げ、その下に穿いたショートパンツを見せてきた。
「分かりづらい物を……」
裾を戻し、トワはこちらに駆け寄ってくる。肩から下げたシンプルなポシェットに、ごつい通信機が刺さっていた。
「これ、全然反応ない」
通信機の件だろう。敵の通信阻害は、入念に行われているという事だ。
「連絡はその内来るよ。準備は出来た?」
一瞬、その表情が陰ったように見えた。だが、その真意を見抜く前に、トワはこくりと頷いた。
「じゃあ行くよ」
右手にセリィア自動拳銃を、左手でトワの右手を握る。
仮初めの日常……その殻を破るかのように、外界へと続く扉に手を掛けた。




