確かな幸福
慣れ親しんだ廊下を歩きながら、警備に当たっている兵士の敬礼を横目で見る。前を歩くリシティアは、名残惜しそうに手摺りに触れていた。人を殺める事しか出来なくなった手の平が、さらさらと手摺りの上を滑っていく。
ここには、本当にお世話になった。そう思っている子は沢山いる事だろう。扉からひょいと顔を見せた友人が、お姉ちゃんが来たとこちらに手を振る。
手を振り返し、小さな友人に笑顔を見せる。ここは、要するに孤児院のような場所だ。中にいる子ども達は、それこそ家族のようなものだった。本物の家族がどんな物か、もう思い出せないから。想像の上で、という注釈が付くけれども。
「レティ。私、怒られるのかな」
歩みを止め、こちらを振り返りながらリシティアは問い掛ける。そこには冷たい笑みも何もなく。不安を隠そうともしない少女の目が揺れていた。
リシティアは十八歳になっている。でも、その身体も不安げな目も。出会った頃と何も変わらない。十五歳だった頃から、何も。小柄な身体に、黒く艶やかな長髪は。時が凍り付いたようにそこにある。
それはきっと、自分もそうなのだろう。レティーシャ・ウェルズは、小さいままの自分の手をちらと見る。十一歳の身体のまま、十四歳になってしまった。遺伝子から強引に作り替えられた身体は、元の色に戻る事はない。白い肌も白い髪も、煌々と輝く赤い目も。何一つ、自分の持っていた色ではない。
「怒っているところ、私は見たことない。リズは?」
今から会いに行く人の事を思い返しながら、レティーシャはそう返す。そして、いつものようにリシティアを愛称で呼んだ。
「私も見たことありません。怒られる人第一号になったらどうしよう」
心配そうに言うリシティアだったが、レティーシャは杞憂になるだろうと考えていた。彼はきっと怒らない。感情を、表に出さない人だからだ。そして、今も昔も優しい人だった。だから、怒りはしないだろう。むしろ。
「悲しんだり。そういうのならあるかも」
それすらも表に出さず、目の奥にひっそりと忍ばせるだろう。簡単に想像出来てしまうその光景に、リシティアも口のへの字に曲げて目を伏せる。
「それは……申し訳ないですね。怒られた方がマシです」
リシティアの言葉にレティーシャは頷いて返し、歩みを止めた彼女の代わりに前を歩く。
申し訳ないからここでやめよう。そう言えるような自分がここにいたら。どんなに良かった事か。誰も、誰一人、望む答えなんて得られないのに。それでも、こうして戦うしかないなんて。
「私も。怒られた方がマシかもね」
そう、誰にも聞こえないようにレティーシャは呟く。復讐を遂げる為に、リシティアはこうなるしかなかった。それを止める事も、見捨てる事も自分には出来ない。
リシティアの大切な人は、私のせいで死んだ。三年前の戦いで、自分が勝手な事をした代償がこれだった。どの口がやめようなんて言えるのだ。
リシティアは私を責めなかった。その事実が、レティーシャにとって何よりも強い後悔を手繰り寄せる。だから、ここまで来てしまった。ここまでやれてしまった。
木製の扉を前に、レティーシャは歩みを止める。
「着いたわ。どうするの、リズ。本当に会う? 本当に」
この戦いを始めるのか。レティーシャはリシティアを振り返り、言外にそう問い掛ける。いつでもやめたっていい。もう手遅れとか、そんな事実はどこにもない。そんな想いを込めた問いでもあったが、リシティアは迷わずに頷いた。
「うん。本当に」
こちらの胸中を見透かしたかのような答えに、レティーシャは押し黙る事しか出来ない。
リシティアが扉に手を掛け、覚悟を決めたのかそれを押し開く。その表情から、不安はもう感じ取れなかった。
扉の先は執務室になっている。彼はいつもそこにいるのだ。子ども達に好きなようにさせておく癖に、肝心な時には傍にいて。
執務室のソファに、彼はいつも通り座っていた。緊張した様子も何もなく、本当に、いつものように。
「……久し振りですね、リード。貴方もみんなも、元気ですか?」
リシティアがそう切り出す。執務室には、既に兵士が二人配置されている。目に見える場所に武器は持っていない。そもそも、使うつもりもないだろう。ここにいる兵士もまた、この家の出身だからだ。
そして、扉の傍には車椅子に座ったセイル・ウェントもいた。この場にいる、唯一の他人だ。彼女はもう二十歳だが、元からあまり成長しないタイプなのだろうか。それとも、足がないからだろうか。小さいという印象を振り撒く彼女は、もう白衣を着てはいなかった。大きなサイズの上着を羽織り、それに合わせたロングスカートは……不自然な位置で平たくなっている。
特殊実験施設、通称カーディナルで地獄を作り上げたセイル・ウェントは、結局地獄に落ちた。そして、こうしてまた別の地獄に引き上げられ、地獄を作り上げる手伝いをさせられている。
「アンダーの指揮官だけあって、時間にルーズなのね」
車椅子の手摺りに頬杖をつきながら、セイルがリシティアの背に向けて言葉を投げ掛ける。この言葉に、本質的な意味などない。ソファでこちらを見据えている彼に向けて、この娘が犯人だと告げ口をしただけだ。
レティーシャはセイルをちらと見てみる。だが、その目には何の興味も浮かんでいなかった。ただ火種だけを撒いて、自分は知らんぷりという訳だ。
「ユーリが風邪で、少し参っている。あいつは、知っての通り風邪でも平気で外を駆け回る。お前達からも、少しは安静にするよう言っておいてくれ」
本当にいつものように。リード・マーレイはそう答えた。三十一歳となったが、昔から強面な人だったので今もそこは変わらない。だが、全身に纏った雰囲気は随分と柔らかくなった方だろう。
リードは、《フェザーランス》の艦長補佐を勤めていた人だ。あの戦いで生き残り、クルー達の面倒を見た上で私達の面倒まで見てくれた。そして今、帰る場所のない子ども達の居場所になっている。
本人は向いていないと愚痴を零す時もあるが。こればっかりは、向き不向きもないのだろう。リードはいつも真剣で、子どもだってそれぐらいは分かる。だから応えるのだ。そこに向き不向きなどない。真剣に向き合えるかそうでないかの違いだけだ。
「大変。言っておきます。ユーリはやんちゃさんだから」
リシティアも何て事のないように返し、そして言葉に詰まった。背中しか見えなくとも、その表情は容易に想像出来る。きっと押し殺したような、苦しげな表情を浮かべているのだろう。
「……貴方を監視します、リード。通信は我慢して下さい。ここから先、少し騒ぎになりますから」
リシティアがその言葉を、苦しそうに吐き出す。こうなると分かって、尚こうするしかなかった。その背中から、そんな感情が染み出ている。
「抵抗は、しないで下さい。リード、貴方を傷付けたくない」
本心から、リシティアはそう言っているのだろう。それが分かってしまうからこそ、レティーシャも居たたまれない思いを抱く。
「抵抗はしない。君のやろうとしている事を止める権利も、私にはない」
リードはいつも、答えだけを簡潔に伝える。何が出来て何が出来ないのか。いつも。
「艦長も同じだった。復讐という目的を胸に抱き、その熱を頼りに動いていた。そうでなければ一歩も動けないと。君も同じなのだろう?」
リードの問いに、リシティアはこくりと頷く。
「……私は。キアの熱になれなかった。私を選んではくれなかった」
リードは首を横に振る。それは違うと、リシティアに伝えるように。
「艦長は、守る事を選んだ」
「そう。私じゃない」
でも、そこにある溝を埋める事など出来ない。キア・リンフォルツァンは、クルーやリシティアを守る為に命を捨てた。リシティアの望みは、潰えるとしても傍にいたかったのだ。だから、その溝は絶対に埋まらない。
キアは守る事を選んだ。リシティアではなく、守る事を。
「……君の復讐に。私は含まなくてもいいのか? 私はあの時、艦長の嘘が分かっていた。帰ってこないと知って尚、それを隠して君をここに連れてきた。私が嘘を暴いていれば、リシティア。君は艦長と共にそこにいただろう」
ここではなくそこに。リードの語る真実を前に、リシティアは目を伏せた。小さな背中が、より一層小さく見える。
レティーシャは、この期に及んでも何も言えなかった。その背中を見詰めるだけで、何も。
「だから、私を恨んでくれてもいい。私はあの時、艦長の意思を選び。君の意思を裏切った。復讐の対象に、充分なり得るだろう」
リードがその言葉を言い切ると同時に、リシティアは動き始めていた。リードとの距離を一息に詰め、その胸に飛び込んだ。
リードに抱き付きながら、リシティアはその胸に顔を埋める。
「貴方を……恨んだことなんて。一度もない。私の話を聞いて、私の望みを沢山叶えてくれた。初めて握手した時の事、今でも思い出せる。でも……でも私!」
リシティアの背中が震える。
「もうこれしかないんです! これがなくなったら、一歩も動けなくなる。だから、私は行きます。でも、でも本当に」
リードは、分かっていると言わんばかりにリシティアの背に手を添える。
「ごめん、なさい。幸せに、連れてきてくれたのに。聞き分けのない子で、ごめんなさい」
リードの手が、リシティアの背をぽんぽんと叩く。リシティアは、一頻りを吐き出しのだろうか。リードから離れ、ぐしぐしと目元を袖口で擦っていた。
「好きな時に帰ってくるといい。子ども達も、君達の言葉はよく聞いてくれる」
そう、やはり何て事のないようにリードは言う。
リシティアも、やはり何て事のないように頷き、リードに背を向ける。
こちらに戻ってきたリシティアが、照れ臭そうにはにかむ。
「感動的ね。ホームビデオに撮っておけば良かったわ」
欠片も興味がないといった表情で、セイルがそんな軽口を吐く。
「はい。良い人なんです、リードは」
そして、軽口を軽口として捉えずにリシティアはそう返した。
リシティアは扉を抜け、また廊下に戻った。今度は、セイルも車椅子を操作してその横に付いていた。
「レティーシャ」
後に続こうとした時、リードがこちらを呼び止めた。レティーシャは振り返り、リードの目を見る。
「二人揃って、あまり食べていないように見受けられる。リシティアに献立を握らせない方がいい。軍用の携帯食料を食卓に出されるぞ」
何度かその場面を見ている身としては、笑えない話である。
リードは懐を探り、一枚のカードを取り出した。そして、当然のようにそれをこちらに差し出す。レティーシャは歩み寄り、迷いながらもそのカードを手に取った。
「食事ぐらいはしっかりとした物を出してやってくれ。それなら自由に使えるだろう。追跡も出来ないようにしてある。不安であればセイルに解析させるといい」
ふるふると首を横に振り、レティーシャはカードをポケットに仕舞う。
「解析なんかしない。信用してるから」
レティーシャはそれだけ返し、やはり迷い、結局迷いを断ち切れずにリードに抱き付いた。
「……私は私で、リズを守ってみる。そんな権利、ないって知ってるけど」
そして、小さな声でレティーシャはその想いを告げる。何もかも分からなくとも、迷ったままでも。それだけは変わらない。
「仮に権利がないとしても。君には実力がある。戦場において、どちらが重要なのか君なら知っているだろう。あの子を頼んだ」
こくりと頷き、レティーシャは身体を離す。そして、そそくさと部屋を後にする。
廊下では、リシティアとセイルがこちらを待っていた。二人に近付き、身体に宿った温かい熱を奥に仕舞い込む。消えないように、消されないように。
「で、私はお役御免なのよね。魔法は出来上がってる。他に出来る事なんて何もないけど」
リシティアに向け、セイルがそんな事を聞いている。
「はい。セイルの仕事はこれで終わりです。でも、自由には出来ません。この戦いが終わるまで、ここで大人しくして貰います。部屋は使っていてもいいです」
「あっそ。子どもと一緒に童謡を歌ってればいいって事ね」
確認したい事はそれだけなのか、セイルの車椅子が走り出した。
「あまり、みんなに近付いて欲しくはないんだけど」
そう、レティーシャはぽつりと言う。何せ、あれは地獄を作り上げるタイプの人間だ。
「大丈夫。セイルも昔みたいなやんちゃはしないと思います。やる気、ない感じですし。そうだ、ユーリにちゃんと寝るように言わないと」
きちんと言われた事をやろうとしているリシティアに、それも大事だけど、とレティーシャは引き止める。
「囮の部隊は全滅。ランナーの足は、思っていた通り速いみたいね」
偽の拠点を設営し、偽の部隊を各地に配置した。彼等は仕事を果たし、充分に時間を稼いだ。
「でも、追い抜かす時が来ました。その時は、さすがに背中を見せる事になってしまいます」
今まで追跡されなかったのは、私達がランナーの後ろを走っていたからだ。囮を前に出し、ランナーがそれを捕まえていくのを、じっと後ろで見ていた。全ての準備を終えるまで、三年間ずっと。
「忙しくなります。その前に」
「ユーリに寝ろって言いに行く。でしょ」
こくりと頷き、リシティアは無邪気に微笑んだ。
そういう笑顔が、ずっと続いてくれればいいのに。そんな夢物語を想いながら、レティーシャもふっと口元を緩める。
だがやはり、仄暗い行く末が脳裏にちらついて。どこか苦しげに、レティーシャは口を噤んだ。




