二対の異形
蜘蛛の糸が、戦いの光を受けて妖しく煌めいている。不可視の糸が、その時だけは銀糸のように宇宙の黒を舞う。
巨大な急造砲台、ダスティ・ラートを巡る攻防は一つの終着点を迎えていた。
遙か遠方に広がる戦場を、その中枢にいる人類の敵を、人類ごと焼き払う悪辣な砲台だ。それを根本からへし折る為に、《アマデウス》はここまで来た。
そんな《アマデウス》を追い、キアの率いる《フェザーランス》もここにいる。かつては敵であり、これからどうなるのかすら分からないが。今は、あの砲台を討つという共通の目的で動いている。
何もかも全て、簡単に片付くような問題ではない。それを象徴するかのように、一機のifが目の前に立ち塞がっていた。異形のif、《レストリク》だ。
《レストリク》の主兵装であるスマートウィップは、条件付きで粒子砲すら切断、無力化する魔の鉄糸である。
《アマデウス》は残る右舷を最後の切り札とし、それをダスティ・ラートに叩き付けるべく上方を取っている。
キアが指揮を務める《フェザーランス》は、そんな《アマデウス》を援護するべく下方に滑り込みながら、適宜援護の火線を上げていた。
そして自分は、《シャーロット》を駆り《レストリク》を追い詰めている。最後の一手を、後は振り抜くのみだった。イリアは裂帛の気合いを込め、このイタチごっこに終止符を打つ。
イリアの《シャーロット》は、接近と同時に両脚にあるシャープナー投擲ナイフを両手で引き抜いていた。逆手のままシャープナーを引き抜き、近付いた勢いのままそれを振り上げる。
呆けている《レストリク》に、それが回避出来る筈もない。蜘蛛の糸を吐き出す異形のif、《レストリク》は為す術なく両腕を失った。袖口が肥大化したように見える両腕が、慣性を受けてそこらを漂う。切断された両腕は、僅かに残っていたスマートウィップに絡め取られ、赤熱化するそれの中でぐずぐずに溶けていく。
決着が付いた。その瞬間、白亜と黒の艦もまた動いていた。
クストの指揮する《アマデウス》が、ダスティ・ラートの上方から急降下を仕掛ける。《アマデウス》の右舷を切り離し、ダスティ・ラートにぶつける為だ。
キアの指揮する《フェザーランス》も、下方から援護を続ける。《アマデウス》の進路を塞ぐスマートウィップを、狙える物は片っ端から粒子砲で撃っていた。
それぞれの随伴に付いている黒塗りの《カムラッド》も、スマートウィップを除去するべく手持ちの武装を撃ち続けている。
そして、肝心の《レストリク》は両腕を失い何も出来ない。仮に何かを仕掛けてくるとしても、その時は私が止める。
『ああ、全く』
だから、少年の声に落胆や憤怒が混ざっていてもおかしくないというのに。
『あんた、噂通りの《マリーゴールド》だ』
どうして、そんなにも落ち着いているのか。
『……甘い奴が相手で助かった』
微かに込められた嘲笑が、イリアの思考を停止させる。
そして、攻防は運命を嘲笑うべく流転した。
両腕を失った《レストリク》は、イリアの《シャーロット》から距離を取る。イリアが取れる選択肢は一つだけ。距離を詰め直し、追撃する。だが、それを選択する前に信じられない事が起きた。
右舷を叩き付けるべく、ダスティ・ラートの上方から全速力で迫っていた《アマデウス》に、無数の糸が絡み付いていく。重点的に接合部を狙ったスマートウィップの一撃により、右舷は《アマデウス》が切り離す前に……充分な推力を得る前に脱落した。
ダスティ・ラートの下方から援護していた《フェザーランス》にも、スマートウィップは絡み付いている。長剣を横倒しにしたような船体を持つ《フェザーランス》が、四方八方から飛来するスマートウィップに絡め取られていた。長剣に無数の蜘蛛の糸が食い付き、赤熱化しては装甲を焼き切っていく。
それぞれの随伴に付いていた黒塗りの《カムラッド》も大なり小なり被害を受けている。糸が四肢や武器に絡み付き、引き摺られるようにして両断されていく。
《レストリク》は無力化した。現に、両腕を失った《レストリク》が目の前にいる。
にも関わらず、離れた場所に位置していた《アマデウス》と《フェザーランス》は攻撃を受けた。
《アマデウス》は迫り来るスマートウィップを避ける為に、上昇しダスティ・ラートから離れている。切断された右舷は……唯一の攻撃手段は、倍数以上のスマートウィップに覆われ、ぐずぐずに溶断されていた。
《フェザーランス》も、ダスティ・ラートから離れる事でその追撃を凌いでいる。だが、こちらは《アマデウス》よりも深刻なダメージを受けていた。赤熱化した傷跡が宇宙の冷気によって急速に冷やされ、痛々しい裂傷から黒煙と冷却剤を吐き出している。
「どうして、もうスマートウィップは」
譫言のようにイリアは呟き、少年はそれを鼻で笑う。
『本当なら、もう少し温存したかったんだが』
何をしたのか。それをイリアが問い質す前に、答えは自ら姿を現した。
「……あれ、は」
光を灯しつつあるダスティ・ラートから、二機の異形が飛び出した。皿のように平べったい頭部に、肥大化した袖口、骸骨のような脚部、そこまでは見覚えがある。だが、その異形は胴体すらも異様に細かった。それどころか、ぽっかりと空いた空洞……砲塔にも見えるが、あれは巨大な推進器だ。あれを見るに、胴体の殆どはその装備に使われている。
つまり、人がそこに座り込めるスペースなど見受けられなかったのだ。
『《レストック・アルファ》と、《レストック・ベータ》だってさ。最初から言ってたろ、俺達って』
二機の異形、《レストック・アルファ》と《レストック・ベータ》は追撃を仕掛けるべく動き出していた。抵抗する術を失った《アマデウス》を、黒塗りの《カムラッド》が護衛する。
小爆発を起こし始めている《フェザーランス》も、同様に黒塗りの《カムラッド》が護衛に付いている。三機と四機、手傷を負った黒塗りの《カムラッド》が、今この場に残された最大戦力だった。
二機の異形、《レストック》の機動性は群を抜いている。その動きからも、そこに人が入っていない事は明らかだった。
「無人のif……あり得ない。通信機器ですらまともに繋がらない事が殆どなのに、ifの操縦なんて」
イリアの頭が、納得のいく答えを探して回転し始める。だが、そんな都合の良い理論が転がっている筈もない。
『知った事か。分かるのは、あっちも俺でそっちも俺って事だけ。使いたくはなかった。どれが自分か分からなくなるからな』
冗談や冗句を言っている訳ではないと、その声色で分かった。この少年は、本当にそう思っている。そこにいる生身の自分が本当の自分だと、誰がどう考えても分かる筈なのに。
『イリア、見えてるわね。攻撃手段を失った。今は随伴が凌いでるけど、これ以上は』
クストの声がイリアの耳に届く。分かっている。これ以上深追いをすれば、《アマデウス》と《フェザーランス》は沈められるだろう。
『逃げたら? 逃げる奴を追い掛けて殺すつもりはないよ。殺さずに済むんならそっちの方がいい。《マリーゴールド》、あんたの信条だろ』
少年の声に嘲笑の色はない。だが、どんな言葉よりも深く胸に突き刺さったと、イリアは顔をしかめる。
仮に、あの時少年を殺していたならば。無人機である《レストック》は動かず、作戦は成功していたのだろうか。だとすれば、またしても。
自分が掲げる不殺の信条が、人を殺した事になる。
そして、沈殿し固まりきった迷いが四肢を押さえ込んでいる内に、事態は更に悪化していく。
二機の《レストック》は、未だに暴れ続けている。放たれたスマートウィップが、黒塗りの《カムラッド》を遂に捉えた。一度捕まれば、逃げ出す手段などない。次々と糸が絡み付き、元が何だったのか分からないぐらいに切断される。
また誰かが死んだ。自分が判断を違えた所為で。
叫び出しそうになる激情を抑え込み、イリアは平静を装う。声だけは震えないように努めながら、せめてこれぐらいはとハンドグリップを強く握り込む。
「……全機撤退。距離を取って」
そう指示を出しながら、感情とは裏腹に淀みのない操縦をイリアは続ける。イリアの《シャーロット》は、両手に持っていたシャープナー投擲ナイフをそれぞれ別の場所へ投げ付けた。狙いは二機の異形、暴れ回る《レストック》だ。
意図に気付いた二機の《レストック》が、迫るシャープナーを切断する。振り返り様に片手を一振り、それだけだ。
蜘蛛の巣に生じる隙間を狙った投擲も、二回目三回目ともなれば見切るのはそう難しくはない。
「やるだけやってみる。みんなは下がって」
勝算などない。ダスティ・ラート発射まで、もう僅かな猶予しかないだろう。if一機で何が出来るのかは分からないが、諦めたくはない。何より、これは自分が招いた敗北なのだから。
二機の異形、《レストック》もここへ向けて動き始めた。少年の言葉はどうやら正しいようだ。逃げれば追わない。だが、ここに留まるのなら狩る。そういう事だろう。
『無茶を言わないで、イリア! あれを破壊するだけの装備も質量も、ここにはないのよ!』
分かっている。その二つはとっくに失われている。
「防ぐのは無理でも、威力を減衰させたり、何とか出来るかも知れないでしょ」
『その‘何とか’があるなら説明しなさい!』
「今から考える! 《アマデウス》は逃げて!」
通信をこちらから切断し、イリアは《シャーロット》の操縦に集中した。まずはダスティ・ラートに辿り着く事を考える。それから、出来る限りの破壊手段を試す。何も出来ないと、背中を向ける事は出来ない。
『《マリーゴールド》……いい加減しつこいよ』
少年の声と同時に、四方からスマートウィップが迫る。《レストック・アルファ》と《レストック・ベータ》は、とっくにここへ辿り着いていた。二機の異形が、《シャーロット》を囲い込みながらスマートウィップによる追撃を仕掛けてくる。
それらを間一髪で避けながら、《シャーロット》は両手でシャープナー投擲ナイフを引き抜く。牽制に投げ付けてやりたい気分だったが、《シャーロット》に搭載された武装は残り僅かだった。両手に持っているシャープナー投擲ナイフが二本と、同じシャープナーが両脚に一振りだけ。腰にはアンカー散弾銃用の弾倉が括り付けてはあったが、散弾銃がない今は無用の長物に過ぎない。
最早盤上をひっくり返す事は出来ないだろう。
負けてはいけない戦いで負けた。これだけは阻止しなければという局面で選択を間違えた。
三機の異形に追い立てられながら、自分自身を強く呪う。イリアの胸中には後悔と絶望が、色濃い死と共に残留していた。




