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刃‐ブレイド 悠久ニ果テヌ花  作者: 秋久 麻衣
「鏡鑑と光芒」
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ノット・ヒーロー


 通用路の壁に背を預けながら、二人は先程見た映像の事を考えていた。少人数のクルーしかいない《アマデウス》の中では、誰とすれ違う事もない。絶対にないという事ではなく、その確率は極めて低い、という方が正しいのだが。

 リオはちらと隣を見る。通用路の床を見続けるトワの横顔には、表情というものが抜け落ちていた。理由は考えるまでもない。ファルが見続けていた光景が、トワが怖れ続けていた光景が。世界の終わりが、始まってしまった。

 トワの事だ、またいつものように自分を責めているのだろう。表情を、意図的に消しているのだ。周りに心配を掛けないように、自分の内側だけで物事を片付けられるように。

「トワ。こんな事、言っていいのか分からないけど」

 このままではいけない。かつての自分なら、どうする事も出来ないと諦めていたのだろうが。今は、そう簡単に諦める訳にはいかないのだ。

 声を掛け、じっとその赤い目を見据える。トワは床から目を離し、その視線に応えてくれた。

「まず第一に、僕はトワを守るからね。その為に必要だから、ついでに世界だって救う」

 世界ごと、君を救うと決めている。

「もしそれを、邪魔する奴がいるのなら。僕は迷わずに斬る。どうも僕は、誰かが憧れるようなヒーローにはなれないみたいだ」

 ただ一人だけを守ると決め、それ以外はあくまでそれ以外でしかない。かつての自分は、大事などこかが壊れていると思っていた。今は、一体どんな状態なのだろう。少しは修理されているのだろうか。それとも、やはり昔のまま。

「どうでもいいって思っちゃうんだ。そんな考えはダメだって分かってはいるんだけど。トワがいなくなるのなら、世界もやっぱりどうでもいい」

 無茶苦茶な事を言っていると、自然と笑みが出てしまう。これでは、トワの言葉が滅茶苦茶だと笑えない。

「そんな世界、救ってやる甲斐がない。だから、トワには我が儘でいて欲しい」

 壊れ続ける自分と、空白を埋めてきた少女とでは、心の在り方が大きく異なる。だからこの願いは、少女にとっては苦痛となり得るかも知れない。

「トワには、全部諦めて欲しくない」

 そこまで言い切ってから、すっと口を閉じる。言葉を声にして、出来る限りを音にした。後は、トワがどう受け取るかだ。

 トワはこちらの視線をじっと受け止めたまま、探るような目をしている。小さな唇が、躊躇いがちに震えるように動く。

「リオの我が儘では、私以外はどうでもいいの?」

 トワの表情は読めない。意図的に消しているのだ。こちらの答えを見極める為に、その赤い目が真っ直ぐとここを射止めてくる。

「……うん。割と、そんな感じ。ヒーローにはなれない器でしょ?」

 嘘を吐く理由がない。その必要もない。だから、素直にトワの言葉を肯定した。

 トワは、しばらくじっとこちらの目を捉えていた。真意を探るように、或いは。どこまでこちらが壊れているのか、その内を垣間見るように。

「本当に……リオは」

 そう呟き、トワはふっと口元を緩めた。

「そういうの、あまり言わない方がいいんだよ。私知ってるよ、危険人物だって言われるんだよ?」

 物知り顔で、くすくすと笑いながら。トワはすらすらと喋り始めた。

「僕自身、安全な人間とは言えないからね」

 そう答え、こちらもくすりと笑う。

「私より我が儘なんだ」

「それはどうだろう。同じくらい?」

 トワはとんとステップを踏み、こちらの正面に回り込む。

「同じならしょうがないよね。危険人物って言われちゃうけど」

 それ以上に、自分達を示す適切な言葉はない。不特定多数の期待を背負って、思いもしない奇跡を手繰り寄せて、多くを救えるようなヒーローにはなれない。なろうとも思わない。

「その呼び方は僕に合ってる」

 たった一人の為に、それ以外を斬って捨てようと言うのだ。安全でも善良でもない。

「そうだね。リオは危ないんだよ」

 一歩だけ間合いを詰めて、トワは右手の人差し指でこちらの唇に触れる。細くて白い指が、仄かな熱を発していた。こんな小さな指先からでも、トワだと分かる香りがしてくる。備え付けのボディソープと、トワ自身の香りが混ざり合った、名も知らぬ花の香りが。

「私をね、いっつもやる気にさせるの。もうだめかも、諦めなきゃいけないのかもって、いつも思ってる。暗闇で何にも見えなくなる。でも、リオが私に火をくれるの」

 また、もう一歩トワが間合いを詰める。赤い目がこちらを真っ直ぐに射止め、微かに染まった頬と薄い唇が視界の中に入った。

 トワの右手、その人差し指は、こちらの唇に置いたままにしている。その人差し指が、こちらの唇を押しやるようにして動く。力も何も掛かっていないというのに、押されるまま壁に追い込まれてしまった。元々壁に背を付けていた為、動いた距離などたかが知れているというのに。たったそれだけの動作で、手玉に取られてしまったような気分にさせられる。

「自分の火も、誰かの火もすぐに消えちゃう。ううん、私、自分で消しちゃうんだ。それが危ない物だって知ってるから、危なくないように消しちゃう。でも、リオから貰った火だけは消せない。消したくないもの」

 更にもう一歩、トワが距離を詰めてきた。もう、これ以上は近付けないというのに。細い身体を押し付けるようにして、まるで身体の中に溶け込もうとしているかのように。だが、現実の世界でそんな作用はあり得ない。故に少女らしい柔らかな感触が、やんわりと主に逆らって反発をしている。

 逃げ場はないし、身体は脱力したように動かない。熱っぽく見える赤い目が、こちらを捉えて離さない所為だ。

「いつもそうなんだよ? リオから貰った火だけは消えない。だから、私は私が勝つまで暴れちゃうの」

 トワが右手の人差し指を唇から退かし、その手を首の後ろに回す。こちらの首に、細い腕がしっとりと絡み付く。

「リオは危ないんだよ? だって、誰よりも危ない私を、その気にさせちゃうんだから」

 囁くような声が、証明してあげると言っているような気がした。

 こちらの首に掛けられた右腕が、ゆっくりと動き出す。こちらの頭を、少し下げさせる為だ。そう、少しだけでいい。自分よりも頭一つ分小さいトワだったが、この距離を埋めるのはそう難しい事ではない。

 こちらの頭を少し落として、トワ自身が少し、背伸びをする。たったそれだけで、ゼロに近い距離は更に近付いて。

「何してるんですか、二人とも」

 第三者の声が聞こえ、トワの身体がびくりと強張る。少し遠くから聞こえたその声は、どうやら。

「こそこそして。休憩が終わったから、ブリッジに行って交代するんだって言ってませんでした?」

 こちらに向けられた声ではないようだ。声の方向を振り向くと、そこにはエリルの姿が見えた。こちらの首に掛かっていたトワの右手が、その動きに合わせてするりと落ちる。

「エリル、お前なあ。空気を読むって能力が、人間様には備わってる筈だろ……」

 通用路の奥、使われていない部屋からリュウキが渋々出て来た。《アマデウス》の操舵士であり、ifの操縦もこなせる器用な人だ。気持ちの良い好人物であり、色んな人の背中を押してはちゃっかり援護をする、良い人だ。

「空気の読めない僕ですら読んだのに」

 更に、部屋からはギニーも顔を出した。《アマデウス》の武装管制士だが、最近は操舵をやらされる事も多い。ifの操縦は全く出来ないが、それ以外ならお手の物、という訳だ。第一印象は気弱かも知れないが、芯に秘めたガッツと独特のマイペースは、何にも代え難い強さを生み出している。

 つまり、こういう事だろうか。リュウキとギニーはブリッジに向かう途中だったが、自分達を見掛けて、ただならぬ事態だと空き部屋に身を隠した、と。

「何を言っているのかよく分からないんですが。あと、兄様のそれは嘘ですね」

 エリルの顔には、本当に分からないとでも言いたげな表情が浮かんでいる。ギニーを兄様と言ったが、二人は血の繋がった家族ではない。ギニーの家に、養子として引き取られてきたのがエリルだ。血の繋がりはなくとも、その関係性は家族以外の何者でもない。兄と違い、if操縦の腕前はプロフェッショナルと評しても過言ではない。

「当たり。ずかずか歩いて行こうとしたギニーを、俺が引っ掴んでここに放り込んだ。兄と妹、どっちも空気が読めないって訳だ」

 リュウキが呆れたように言い、ギニーはばつが悪そうに肩を竦める。

「何を読むって言うんですか」

 怪訝そうな目をしているエリルに教える為か、リュウキがこちらをぴっと指差す。

 エリルがこちらの方に視線を向け、間違い探しでもしているかのようにじっと見据えてくる。

 自分とトワは、その視線を黙って受け続けるしかない。

「……ごきげんよう?」

 エリルの中でしっくりと来る答えが見つからなかったのか、そんな挨拶をこちらに寄越してきた。

「……ごきげんよう」

 トワが、どこか不満げな声でそう返した。

 エリルは僅かに首を傾げ、世界は不思議に満ちている、と言いたげな表情をしたまま歩き始めた。

 やがてその背中が通り過ぎ、再び世界は二人だけの時間を刻み始めた。正確には、二人と二人の時間、だが。

 むすっとした表情で、トワはリュウキとギニーの方を見ていた。

 恨みがましく細められた赤い目に耐えきれなかったのか、リュウキが両手を広げる。

「オッケー。覗き魔(ピーピング・トム)みたいな真似をしたのは悪かった。覚悟は出来てる」

 そう言って、リュウキはウインクをした。様になってはいたが、減刑する気はないのだろう。トワの右足がひょいと動き、空中に打ち上がった黄色のスリッパを右手で掴む。

 トワはスリッパをぎゅっと握り締め、白い肌の所為で真っ赤になっている頬を膨らませていた。

「……ばかあ!」

 そして、単純な罵倒と共にスリッパは投擲される。

 リュウキは宣言通り、それを真正面から……正確には顔面で受け止めた。

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