同じ空気の中で
《アマデウス》自室にて、リオは不機嫌顔のトワと対峙していた。こちらはベッドに腰掛けており、トワは目の前で仁王立ちしている状態だ。
別に僕が何かをした訳ではない。部屋に入ってきた時には、もう既に不機嫌メモリを傾けていた。
トワは自分が前に着ていた灰色のパーカーを羽織っている。少し長い裾から、ショートパンツとタイツに包まれた細い足が伸びていた。スリッパを突っ掛けており、眼鏡はしていない。
パーカーの前を閉じている為、中に何を着ているのかは分からないが。このラフな格好を見る限り、適当なTシャツでも着ているのだろう。ちょっとしたおやすみ用の服装だ。
ならば、ただ眠いから不機嫌なのだろうか。赤ん坊のような理由だとしても、トワには充分当てはまる。
「イリアがね、こう、格好悪いの」
どうしたの、眠いの? と聞いてしまう前で良かった。咳払いをして気を取り直し、トワの言葉、その意味を考える。つまり、こういう事だろうか。
「喧嘩でもしたの? それか、何か困らせるような事を言ったり言われたりしたとか」
こくこくとトワは頷き、背を向けるとどすんと腰を下ろす。
「隣空いてるのに……」
我が物顔で……後頭部しか見えないので正確には分からないが恐らく我が物顔で。トワはこちらの膝の上に座った。少女特有の柔らかな重みと、仄かな体温がじんわりと染み込んでいく。
気恥ずかしさや緊張が消えた訳ではない。だが、それ以上に安心と心地よさを感じるようになっていた。不思議なものだと、自身の感覚の変化に驚く。ちょっと前は緊張でそれどころではなかったのに、今はこうしていると何というか。
「このまま眠りたくなる……」
浸透していく熱が、包み込んでいく香りが。身体の中央に届いて根を張っていくような。そんなイメージが頭の中に浮かんでくる。
その心地よさを味わいながら、ゆっくり目を閉じようとする。
「ちょっと! リオ!」
ごつ、という鈍い音と共に、軽い衝撃を頭に受ける。トワがこちらを見上げるようにして、頭突きをかましてきたのだ。本気の頭突きではなく、たとえるなら甘噛みのような。
「甘頭突き……?」
「変な事言ってないで、それに寝ないで! 話をしてたのに、すぐうとうとするんだから」
トワには言われたくないが、まあ今のはこちらに非があったので指摘はしない。
「それで、何が何だって?」
トワは容赦なくこちらに体重を預けてくる。その小さな身体を支えながら、そう聞き返してみた。
「イリアがね、サーバーのある所に行けないかもって。今は危ないから様子を見なきゃって言うけど、それじゃあ私は困るの!」
その時の事を思い出したのか、トワは人の膝の上でぴょんぴょんと跳ねている。
「ああ、どこかで聞いたような。両軍が睨み合ってるんだっけ」
そんな話をしていたような気がする。わざわざこちらの目的地でやり合わなくてもいいのに、とは思ったが。
「フィルと約束したから、行かないとなのに。約束、破りたくない」
トワとフィルは、互いに決着を付けると約束を交わした。トワの願いを叶える為には、サーバーを破壊しなければいけない。フィルの願いを叶える為には、サーバーを守らなければいけない。
二人は確かに通じ合った。それも、ただの姉妹としてではない。フィルはトワの事を、ファルではない存在として扱った。ファルではない、また別の家族と肯定した上で、トワと話をしていた。
だから、確かに通じ合ったのだと思う。でも、だからこそ互いに引けない思いを知った。
トワは自身の我が儘の為にフィルを倒す。
フィルは想い続けた姉の為にトワを倒す。
そこに妥協の余地はない。トワとフィルの交わした約束は、要するにそういう類のものだ。違える訳にはいかない。
「いつものイリアはね、もっとすぱっと格好良いのに。今日のは格好悪かった」
本人が聞いたら、割と本気で傷付きそうな事をぽんぽんと言っている。だがまあ、それだけトワにとっては大切な約束なのだ。それを破る事だけはしたくない。そして、トワからすればイリアは文字通りのヒーローでもある。
自分勝手かも知れないが、ヒーローは常に格好良くしていて欲しいと思うのが子どもの心情……なのかも知れない。
「イリアさんはああ見えて、結構そういうの気にするからあんまり言っちゃだめだよ。というか、これだけお世話になってるんだから悪口は言わない方がいいと思う」
ごつ、と再びトワの頭突きが入る。
「うー」
そして、唸りながら僅かに体勢を変え、こちらに不満げな視線を寄越す。そんな事は分かっています、でも私の気持ちも分かって下さいと、その赤い目が訴えかけている。
「大丈夫だよ。イリアさん、今頃頑張って考えてくれてるんじゃないかな。問題だらけでも何とかして、僕とトワをそこに届けてくれるよ」
思い悩んでいるのは事実だろう。自分のように割り切った訳でも、トワのように無鉄砲な訳でもない。イリアはクルー全員の事を考えて行動を選ぶ。だから悩むし、トワにそこへ行けないかもと弱音を吐いたのだ。
だが、大丈夫だという確信がある。これは、イリアが立ち止まる程の事態ではない。
「まあ、それは、その。そうかも、知れないけど」
多少は冷静になったのか、トワが歯切れの悪い言葉を吐き出す。トワも頭では分かっている筈なのだ。イリア・レイスはそういう人なのだと、これまで見ていたのなら誰でも分かる。
こちらの膝に座っていたトワは、そのままずるずると体勢を崩していく。人の膝を滑り台だとでも思っているのか、すとんと滑り落ちた。そして、そのままもぞもぞとこちらを振り向く。
「何してるの、トワ」
突然の奇行にそう声を掛けるが、トワは気にした様子も答える気もない。そうこうしている内に、トワは両手を伸ばして膝の上に再度乗った。伸ばした両手は、こちらの腰に回している。
ベッドに腰掛けているこちらの膝を、机代わりにして頭を乗せている。腰の後ろに回された手が、しっかりと合わせられていた。
「あ、これ。すうって眠りそう」
トワの呟きに、こちらは苦笑を返すしかない。そんな微妙な所で眠られても困る。
「ねえリオ。じゃあ、私イリアに悪い事言っちゃったの?」
ゆっくりとまばたきをしながら、トワはそう問い掛けてきた。話の続きだろう。
「うーん。まあ、そうなるけど。イリアさん、周りから煽られるとスイッチ入るから。案外それを期待してたのかもね」
クルーなら誰しも、イリアの苦労を知っている。そんなイリアに真っ向から文句が言えるのは、長い付き合いのあるクストか、条件付きでリュウキ辺りか。要するに、無条件でいけるのはトワしかいない。
「何それ、難しい……」
トワにとっては、よく分からない事なのかも知れない。イリアからすれば、責めてくれる人というのは貴重だ。
「でも、あんまり言い過ぎるのはダメ。トワの悪口はストレートに刺さるから」
トワ本人が純粋な分、悪口に威力が乗算されていくのだ。
「私、悪口なんか言わないもの」
半ば瞼を閉じかけながら、トワがそう弁明する。
「人が気にしてる事は言うでしょ。背が低いとか女の子みたいとか」
気怠そうにトワは顔を上げ、じっと目を細めてこちらを見る。
「その二つはね、本当の事なんだよ」
そう言って、また膝に顔を埋め始めた。だから、そういうところなんだけど。
「まあいいけど。トワ、寝るならちゃんとベッドにしてよ」
今にも眠りに落ちそうだ。始めはこちらに寝るなと言っておいて、早速これである。
「私が……いる場所がベッド……」
トワは顔を埋めたまま、急に哲学的な事を言い始めた。
「トワ、その体勢で寝たら身体痛くなるよ。あと絶対によだれ垂れるからやめよう?」
ぽんぽんとトワの肩を叩きながら、起きるように促していく。目の前にベッドがあるのに、この子は何をしているのか。
「よだれ、垂らしてないもの……」
そこだけはしっかりと否定してきた。
「よだれ垂らしてるよ。この前も僕のシャツが、って痛い! ちょっと噛んだでしょ今!」
服越しに太股を甘噛みされた。甘噛みといっても、大雑把にやってくれたものだから若干痛い。
「トワってば。無理矢理引っ張るけどいいの?」
このまま脇の下に手を入れて、ベッドに寝転がるようにして叩き込んでもいいのかという問いだ。
「リオは……好きにしていいよ。眠いもの。リオだからいいよ……」
それだけ言うと、穏やかな寝息を立て始めた。もうダメだ。これは完全に寝てしまっている。
「赤ん坊じゃないんだから……怒らないでよ」
一応そう断ってから、トワの脇の下に手を入れる。トワは小柄で軽い方に入るが、この体勢から引っ張り上げるのは中々きつそうだ。
だけど、と苦笑する。あまり時間を掛けているとさすがによろしくない。パーカー越しでも、あまり長く触れていていい箇所ではないというか。脇の下なのに、少し柔いというか。
「えい、っと」
邪な考えを脇に退け、当初考えていたように、少し引っ張り上げて後はこちらからベッドに倒れていく。そうすれば、後は勝手にトワも付いてくるという訳だ。ベッドに仰向けになった自分の上に、トワがうつ伏せで眠っている。胸の少し下の辺りにトワの頭があった。柔らかな灰色の髪が、微かに揺れている。トワ自身の香りと、共用のボディソープの匂いが混ざり合ってここに届いていた。どうしようもなく安心して、目を閉じてしまいそうになる芳香だ。
小さな背中が上下しており、吐息と漏れ出す声が仄かな音を立てる。ひしと抱き付いた腕や身体から、じんわりと熱が染み込んでいく。細く小さな身体であっても、少女特有の柔らかさを有している。凹凸の少ない身体ではあったが、それ故に全身を包み込むように抱き付いてくるのだ。
「すうって眠りそう……」
先程聞いたトワの言葉を、そっくりそのまま拝借する。当の本人が妨害してこない以上、これにはもう抗えない。
トワの頭と背中に手を添えて、促されるままに目を閉じる。
そして、この戦いで勝ち取った報酬をゆっくりと享受したのだ。




