白い少女
目の前に迫る岩石を、リオは《カムラッド》を一回転させるようにして躱す。一時的に落ちた速度をすぐさま回復させ、次に迫る岩石を見据えた。真っ直ぐ目標に向かっている筈だが、先程からアクティブレーダーが誤作動を起こしている。
幸いにして遺跡の位置は分かるが。通信も使えない、周囲の状況も分からないでは奇襲されたら一溜まりもない。
そんな事を考えながら幾つめかの岩石を躱すと、軌道に割り込むように巨岩が迫っていた。ぶつかる……背筋が凍り、硬直したように全身が固まっていく。しかし、真っ白になっていく頭の中とは裏腹に、機体は迅速に動いていた。
《カムラッド》は瞬間的に減速し、余裕を持ってその巨岩を躱す。ついでに相対速度を合わせ、ぴたりと空間に静止してみせた。
BFS……バイオ・フィードバック・システムの略称だ。ifに用いられる操縦システムの一つで、この《カムラッド》にも搭載されている。
ハンドグリップを動かす、ペダルを踏むと言った通常操縦以外に、このBFSが組み込まれた機体は直感的な操縦ができるようになる。
簡単に表現すれば、頭で思ったように機体が動くのだ。予め設定された動きしかできないifは、戦闘モードを切り替えることにより状況に対応するしかない。だが、このBFSを搭載していればモードを切り替えることも、複雑な操縦技術を体得する必要もない。個人差はあるが、自分の手足のように動かせるのだから。
結局これに助けられるのかと思うと嫌気が差すが、どんなに拒否したくても自分自身を否定することはできない。通常操縦に戻っているのを確認し、静止している《カムラッド》をゆっくりと動かした。目標は目の前にあった。一見ただの岩肌に見えるが、目を凝らせば徐々にそれは見えてくる。
遺跡と呼ぶに相応しい巨大な門。人から見ればただの壁だが、ifからしてみればまさしく門である。半開きになったそれを無理矢理こじ開け、薄暗い遺跡の中へ降りていった。
行き止まりまで一直線で妨害もなく、また収穫もない。年月を感じさせる石畳に、朽ちかけた柱が並ぶ。古代という言葉がぴったりと噛み合う内装ではあるが、歴史的な背景は一切明らかになっていない。分かっていることと言えば、遺跡に眠っているものは今の人類にとって有用であるという一点のみだ。本来遺跡には大小様々な小部屋が用意され、そこに眠る物こそ目標なのだが。今調べている遺跡はその空間が存在していない。
「まあ、偵察するだけだからそれでもいいけど」
そうリオは呟き、ハンドグリップを握る手を緩めた。宇宙空間と違い、ここはなぜか重力がある。纏わり付く重さは体力を自然と奪っていき、注意力も散漫していく。
計測結果によると地球上と大して変わらない重力がかかっているらしいが、無重力や半重力に慣れてしまっている身には堪える。それに、この重さは地球に居た時の事を否が応でも思い出させる。
長居はしたくない。そう思う一方、頭は視界に入ったものを逃しはしなかった。行き止まりだと思っていたが、小さな扉が下にある。入り口の巨大な門と比べると、これは丁度人が入れるぐらいだろうか。
リオは《カムラッド》のコックピットハッチを開け、ハッチに備え付けられたワイヤーリフトを展開した。これは簡易昇降機とでも言うべきもので、言ってしまえば昇降機能が付いた縄梯子のようなものだ。もっともその縄は、強靱なネオセラミック製だが。
ワイヤーリフトに足を引っかけ、リオは手元のスイッチを軽く押し込む。ゆっくりと降りていく中、空いた片手でヘルメットに手をかけ、一気に取り外した。
「空気の感じも、地上と同じか」
これも計測で分かってはいたが、実際に呼吸をしてみると地球のそれと何ら変わらない。凄い、というよりいっそ気味が悪く、長居はしたくないという思いは依然強まるばかりだった。
ヘルメットを背中のアタッチメントに括り付け、リオはゆっくりと石畳を踏み締めた。目の前にある扉は、やはり人が使うのに適した大きさだが、どう開けるべきかは見当も付かない。手を掛けられるような取っ手も窪みもなく、ただ平坦な面をこちらに向けているだけだ。
右手で扉に触れる。ただの壁だと感じたのは一瞬のことで、気付けば触れていた筈の壁など跡形もない。初めから何も無かったかのように、目の前には薄暗い道が広がっていた。
そのあり得ない事態に対し、自分の目を疑う、ということが出来なかった。どう考えてもおかしい筈なのに、他ならぬ自分はまるで‘初めからこうだったではないか’と思っているのだ。自分の意識が二つに割れてしまったような違和感を感じ、そこから先へ進むことを躊躇わせる。
先へ進んではならないという根本的な恐怖が、身体を蝕んでいた。生存本能にも似たこの感情は、きっとBFSを搭載したあのifに乗っていたら、生きるという目的を果たす為だけに逃げ出しているのだろう。リオ・バネットという意志とは無関係に、生命としての意志を尊重して。
今はどうなのだろう。ifに乗っていない以上、自分は自分として進む道を決められる筈だ。半ば意地になって足を動かし、暗い通路を進んでいく。自分はあの時にほぼ全てを失い、あろう事か自ら最後の一歩を踏み出した人間なのだから。もし仮にここで遺跡が崩れ、岩に押し潰されようが宇宙に投げ出されようが知ったことではない。そう、知ったことではないのだ。
生きたいわけではない、死にたいわけでもない。知ったことではない、これが一番しっくりくる。だが、本当にそうなのだろうか。今までだって、やめたいと思えば戦いと無関係な存在に戻れた。それが目的でイリアは僕を連れてきた。なのに何故、僕は戦おうとするのか。
生きたいわけではない、死にたいわけでもない。違う、本当は。そこまで考え、急に開けた視界に現実へと戻された。
……冷気が肌に突き刺さる。重力の重さも忘れ、導かれるままに冷え切った空間へと踏み込んだ。身に着けた宇宙服……フラット・スーツ越しでも凍っていると分かる床は、それまでのただあった石畳と違い、生命を拒む鋭さを持って存在している。
壁や天井も同じく氷で覆われており、波打つように凍るそれは自然物にしては精巧過ぎて。人工物にしては違和感を覚える。そして、何より異質だったのは部屋の中央、中心にそびえる氷柱だった。
つんざくような冷気も忘れ、リオは氷柱へと歩み寄りゆっくりと手を伸ばした。氷柱の中には身の丈程のカプセルが閉じ込められたように内包され、呼吸に合わせるように明暗を繰り返していた。命の光だ……そう確信する一方、それが一体何なのかは見当も付かない。
眩しい光、温かく時に熱い光だ。自分がなくしてしまったそれを目の前にし、思っていたよりも、ずっと手が届きそうなものなのかもしれないと感じたリオは、気付かぬ内に伸ばした手に力を入れていた。もう冷気も、氷の存在すらも意識にはない。
この光に触れられたなら、きっと……そんな祈りにも似た思いを抱かずにはいられなかった。もう少しで届きそうなのに。届けば、届けばきっと。
前後も何もなくただ届けばと、それだけの思いで光の明暗を見つめていたが、不意に意識が揺らぐ感覚を覚えた。無理矢理自分以外の何かが頭に入ってくるような異物感を覚え、顔をしかめる。
音、とても透き通った。違う、声が聞こえる。静かな声、何を言っているのだろう。耳を澄ませるように意識を声に集中させる。
しかし聞こえたのは声ではなく、何かがひび割れる小さな音だった。頭の中からではなく、頭上から響く音だ。いつの間に倒れたのだろう。凍った床に伏せている身体を起こすと、目の前の氷柱には無数のひびが刻まれていた。外側からではない、内側からの圧によって瓦解しようとする氷柱……危ない。
そう判断したリオは逃げようと足に力を入れ、しかし叶わずにその場で尻餅をついてしまった。氷柱のひびは更に増え、透明だった氷が一瞬にして真っ白に染まる。リオが両腕で頭を庇うのと同時に、氷は内側から弾け飛んだ。
打ち付ける感覚は一瞬で、身体が吹き飛ばされたと錯覚するほどだったが。それ以上の衝撃はなかった。ゆっくりと目を開き状態を把握する。身体に異常はない。
靄に包まれた視界の中立ち上がり、氷柱があった場所に目を凝らす。捉えたのは黒だ。真っ白な世界の中で、確かに存在していると分かる影が見える。徐々に晴れていく霧の中、その黒は白に変わった。
きっと肌が白いせいだろう。ひしゃげたカプセルの傍らで少女は目を瞑り、俯きながらも二本の足で立っていた。身体の線をそのまま表現している、宇宙服にしても奇妙な服を纏った少女がそこにはいた。
淡く輝いた肌は透明という言葉を思い出させ、ただ色素が欠けているのではない、柔らかな温かさを感じさせる。そこに少女がいること自体異常なのに、ただ呆然と眺めることしかできない。
だからなのか、少女が倒れてきても反応が遅れてしまった。一歩前に出たまでは良いが、支えきれずに再び尻餅をつく羽目になってしまった。
「女の、子?」
リオは小さく呟く。腕の中でも変わらず、少女は目を瞑ったままだ。思ったよりも小柄で頼りない印象を受ける。少女は肩口まで伸びた灰色の髪を微かに揺らしながら、小さく身じろいでいる。そんな、無垢そのものといった寝顔を、リオは思考停止のまま見つめることしかできなかった。
そして突然、スイッチが切り替えられたかのようにリオは恐怖を感じた。何が変わった訳でもない、しかし抗いようのないその感情は、身体を動かすには充分だった。
次の瞬間、リオはリオ・バネットとしての意志ではなく、一人の人間、生命としての意志を尊重し、腰のホルスターからセリィア自動拳銃を引き抜いていた。重力下はもちろん無重力でも使用できる自動拳銃、セリィアを恐怖の根源に突きつけ、次の瞬間にはトリガーを引いていた。
乾いた発砲音は聞こえない。恐怖から逃れたい一心で行ったその行為は、安全装置という最後の砦に阻まれていた。少女の額に押し付けられたセリィア自動拳銃が震える。今しかチャンスはない、ここで殺さなければ、殺されるのは自分なのだから。親指が安全装置にかかり、躊躇なく解除されたその時、少女の白とは真逆の黒を覗かせるセリィア自動拳銃が視界に入り、リオは自分が何をしようとしているのか気付いた。
穏やかに眠る少女に対して、銃を突き付けている自分を認識する。気付けば、あの圧倒的なまでの恐怖は消えており、結局何に対してそう感じたのかも分からなかった。
そんな事よりも、今は少女を殺そうとしていた自分自身が怖く、押し付けたセリィア自動拳銃をゆっくりと少女から離す。安全装置を再び掛け直し、腰のホルスターに納めてやっと緊張が解けてくれた。
少女の整った顔立ちを見つめながら、先程の恐怖について考える。自己を制止することも、顧みることもできなかった。圧倒的な恐怖の奔流、とでも表現すればいいのか。
しかし、状況を整理する間もないまま、次の異変を身体が察知していた。空気の変質、空間そのものから拒絶されているように感じる。一変した空気は、戦場の緊張感に似ていた。
敵が来る。そう確信した頭は瞬時に切り替わり、幾ばくか鋭くなった眼光が周囲に警戒を向ける。何の異常も見受けられない、だが見られている。敵の出方が分からない以上、こちらも手札を増やしておかなければならない。
目線を落とし、未だ眠る少女を見据える。誰かも分からず、そもそも何かすら分からない。だが、だからといって見捨てる訳にもいかない。少女を両手で抱えたまま、出口へ向けて足を動かす。
氷室から暗い通路を経て、if《カムラッド》の佇む開けた場所まで戻る。片膝をついた《カムラッド》の足下まで駆け寄り、ワイヤーリフトに足を引っかけてグリップを握る。ワイヤーは素早く巻き取られ、少女を片腕で抱えながら操縦席まで上がった。そのまま操縦席に滑り込み、流れるように腰掛ける。
緊急用として補助席が脇に設けられているが、ただ身体を固定するだけの簡素な座席でしかない。それだけでも充分な装備だが、今の少女には使えない。専用のアタッチメントが付いたフラット・スーツが必要であり、それ以外は自力でしがみついて貰うしかない。少女は専用のフラット・スーツを着ていないし、気を失っている。仕方なく少女を膝に座らせた。ひどく違和感を覚えるが、気にしている余裕もない。
ハッチを閉め、システムを待機モードから戦闘モードへと切り替える。立ち上がったアクティブレーダーは相変わらず誤作動を起こしていたが、出口までは一本道だ。警戒さえしていればある程度の罠は防げると判断し、《カムラッド》に機動を促した。腰のアタッチメントにマウントされたタービュランス短機関銃を右手に装備させ、襲撃に備える。
一片の疑いもなく敵を認識させ、戦闘モードを立ち上げさせた程の要因はまだ姿を見せない。四方へ警戒の視線を飛ばしながらゆっくりと前進していく。
「嫌な空気だ……どこから見られてる?」
そこかしこから見られている気がする。あくまで気がしているだけであり、確かな根拠などなかった。それでも、この纏わり付くような空気感は気を抜くべきではないと実感させられる。
隠れる場所などある筈もない、ここは出口まで一本道なのだから。それならばなぜ何も見えない。こんなにも嫌な空気を発しておいて、なぜ何も見えてこない。
焦燥感だけが高まっていく中、誤作動し続けていたアクティブレーダーが一瞬だけ反応を示した。その情報を信じるならば、自機周辺に大量のエネルギー反応があることになる。にわかには信じられない事実だが、確認しようと思ってもアクティブレーダーは動いてくれそうにない。
もしアクティブレーダー通り‘何か’に囲まれているのならば、こんなに気味の悪いこともない。適当に当たりを付け、四方八方に弾丸をぶちまけたい衝動に駆られるが、そう思い切らせる前にその異変は起きた。
何も無い中空に翡翠の線が踊り、‘何か’を形作っていく。それは一メートル程の細長い楕円形をしていた。両側に伸びているのものは薄い羽にも見える。そこまで確認した所で翡翠の線は瞬き、先程まで線だけで描かれていた‘何か’を銀色に染めた。
確かに線だけの存在だった筈なのに、その‘何か’はもう実体を伴っていた。こんな技術は聞いたことがない。その‘何か’は突如この空間に具現化したのだ。間違いなく、こちらの敵として。
‘何か’は予備動作も無く、まるで重力が切り替わったかのようにこちらへ飛来した。既に研ぎ澄まされていた神経は即座に反応し《カムラッド》を真横に跳躍させる。‘何か’は目標を失い、そのまま地面に直撃し爆散した。あまりに呆気ない光景だったが、気を抜く訳にはいかない。
翡翠の線が踊る。それも先程とは比べ物にならない程の量がそこかしこに浮かび、一斉に具現化した。どれぐらい現れたのか数える気にもなれない。気付けば、アクティブレーダーの反応通り‘何か’に囲まれていた。
「……一体、これは」
唖然としていられたのは一瞬だった。‘何か’が次にどう動き、どのような結果をもたらすのか。たった今見ていたのだから。
‘何か’が飛来する。右手に装備させてあるタービュランス短機関銃を前方に向けて撃ち、弾をばらまきながら後退した。専用の小口径弾が‘何か’を次々と引き裂いていく。
しかし、全てを撃ち落とすのは無理だった。タービュランス短機関銃で迎撃しきれなかった‘何か’の突撃を回避するために、《カムラッド》を右横に跳躍させる。だが、回避先にも‘何か’は降り注ごうとしている。バーニアを駆使し更に右へと滑り込み、間髪入れず前方へと跳ねた。
手薄になった所を潜り抜けようと選択した動きだったが、そうこうしている間にも翡翠の線は踊り、‘何か’を具現化させている。
爆発の規模は小さい。しかし数が寄り集まれば《カムラッド》を撃破することは難しくないだろう。前方に現れた‘何か’をタービュランスで蹴散らし、更に出口へと機体を加速させる。
尚も‘何か’は数を増やしていた。前方を塞ぐように現れたそれを同じように突破しようとするが、数が多く避けきれない。BFSが駆動したのか、胸部を守るように左腕が動いていた。そこに撃ち漏らした‘何か’が飛来し、着弾と同時に炸裂する。《カムラッド》の左腕は肩から下が吹き飛んでいた。
衝撃でバランスが崩れそうになったが、バーニアを蒸かし強引に立て直す。このまま行けば出口まで逃げられる。そう考えたのが甘かったのか、背後に迫っていた‘何か’への反応が遅れてしまった。
「ッ!」
後方から突き上げるような衝撃が走り、メインウインドウにノイズが走る。続けて立ち上がったサブウインドウは、《カムラッド》の背面部と右脚部に重大な欠損が生じたことを繰り返し警告していた。ゆっくりと確認してもいられない。衝撃はそのままコックピットにも伝わる。固定されていない少女の体が浮かび上がる前に、手を伸ばし押さえた。
片足を失った《カムラッド》は、爆発の衝撃に押し流されるように前へ投げ出される。通路を削りながら滑る《カムラッド》を何とか制御しようと必死にバーニアを蒸かすが、更にバランスを崩すだけだった。繰り返し押し寄せる衝撃に意識を掻き混ぜられながら、それでも立ち上がろうと操縦を続けた。
出口までまだ距離がある。だというのに、《カムラッド》はひとしきり吹き飛ばされた後に止まってしまった。せめて無重力下であるならば、まだ逃げようはあるというのに。
サブウインドウは尚も被害状況を表示しているが、今やほとんどの項目が真っ赤に染まっていた。その場で尻餅をついたように動かない《カムラッド》に機動を促そうとするが、片腕片足を失ったそれは藻掻くような動きしか出来ない。
「バランサーを最適化して、バーニアに同調させればまだ動けるけど」
そう呟きながらも、リオは気付いていた。そんな悠長な時間はない。‘何か’は今も増え続けている。
‘何か’は油断も慢心も感じさせない動きでこちらへ飛来する。どう足掻いても全てを避けることは出来ない。この《カムラッド》は得体の知れない‘何か’にずたずたにされる。あれだけの量だ、何も残らないだろう。
別に構わない。そう本音が見え隠れする中、今の今まで忘れていた温もりに気付いた。ここで呆気なく終わることに抵抗はない。では、この少女はどうなる?
目を瞑ったまま無防備な寝顔を見せる少女。どこの誰かも分からない、そもそも何かすら分からない。それでも……。
「……殺して、たまるか」
左手でハンドグリップを握り、右手は少女を抱き留める。本来なら片手で操縦など出来ない。だが、この《カムラッド》にはBFSが搭載されている。全てのきっかけとなった忌むべき装置だ。それを意識して駆動させる。使わされるのではなく、自分から使う。想像するだけで気持ち悪い。結局これを使うことでしか打開できない。なんて皮肉だろうか。それでも……。
「……殺して、たまるか!」
BFSは疑う余地なく駆動する。残っている左脚で地面を蹴った《カムラッド》は、今までの機械的な動きではない。それはなめらかな、人の動きそのものだった。
地面を蹴った反動で立ち上がり、その姿勢を維持するためにバーニアが出力限界まで吠える。一本足のまま、追い縋る‘何か’をタービュランスで撃ち落とす。休んではいられない。出口を塞ぐように展開している‘何か’に向かってタービュランスをばらまきながら跳躍し、強引に包囲網を突破する。
突破した次の瞬間には、‘何か’も具現化を終え飛来してきている。後方の‘何か’の追撃を防ぐため、残弾の少ないタービュランスをその群れに投げ込んだ。後方の‘何か’はそれに触れ炸裂していく。数秒は時間を稼げるだろう。
空いた右腕にSB‐2ダガーナイフを装備させ、前方を塞ごうと増える‘何か’に向けて再び跳躍した。
思うままにSB‐2ダガーナイフを振るい、‘何か’を引き裂いていく。引き裂かれた‘何か’の爆発に巻き込まれる前に、片足とバーニアを駆使した跳躍で出口までの距離を詰めていく。
次の包囲網も同じように突破しようとするが、数体引き裂いた所で右腕が爆発に巻き込まれた。咄嗟に機体を捻り操縦席への被害は防いだが、その動作がバランスを崩す原因となってしまった。
転がり、地面に伏せる《カムラッド》はもう限界だろう。両腕は使い物にならない。残った左脚で跳躍し‘何か’を回避しようとするが、既に疲労の進んでいる脚部とバーニアでは限界があった。
「くそ、このままじゃ……」
思ったよりも動けず、《カムラッド》胸部に‘何か’が直撃した。凄まじい衝撃と共に、操縦席前の装甲板が丸ごと持って行かれる。もう操縦席を守る物は、目の前の頼りない装甲一枚だけだった。そして、‘何か’は容赦など持ち合わせていない。
‘何か’が飛来する。今この状況で何が出来るのか。何も思い浮かばず、ただメインウインドウに映る無数の‘何か’を睨み付けることしか出来なかった。
怒りや悔しさがない交ぜになり、結局後悔だけが残った。自分が死ぬのは一向に構わない。だけど、この子を巻き込んでまで死にたくはない。
死にたくは、ない。この手の温もりは、確かにそう感じられる温かさだった。そこまで思いを馳せた所で、その温もりが自分だけの物ではないことに気付いた。
いつの間にか自分の手に重ねられていた少女の手は、フラット・スーツ越しなのになぜか温かく感じられた。命の光……全身の緊張が解れていくような温かさを感じながら、膝に座ったままの少女を見つめる。
「君、は」
もう目が覚めているだろう少女に問い掛けようとするが、その言葉は衝撃によって遮られる。意識の外にあった《カムラッド》が左脚部のみで跳ね上がり、バーニアを使い‘何か’を回避してみせたのだ。
間違いなくBFSが駆動したのだろう。しかし自分ではない。唖然とする中、視界に入ったのは自分の手に重ねられた小さな左手と、無骨なハンドグリップを握る小さな右手だった。
少女はBFSを駆動させ、《カムラッド》を何の苦もなく操っている。そういうシステムなのは百も承知だが、それが異様だと感じるのはそれだけではなく、むしろその動きにあった。
片足しか残っていないのにも関わらず、《カムラッド》は全てを回避している。流れるような動きで回避し、着実に出口へ向かう。
異変はそれだけではなかった。‘何か’の動きは明らかに鈍っており、その数も着実に減っていた。まるでウィルスを流し込まれたコンピューターのように。内側から喰われ、機能不全に苦しんでいるかのように瞬く。
それでも尚攻撃は止まない。片足とバーニアを駆使し、最低限の動きで‘何か’を回避し、壁や地面、時には同士討ちをさせて数を減らす。
まるでそうなることが決まっているかのような戦闘機動だった。出口の門を抜けるその時には、もう敵など存在していなかった。
信じられない光景の連続だったが、サブウインドウが繰り返す重大な損傷と、目の前の少女は確かな真実としてそこにあった。
遺跡の外に出てしまえば、もう煩わしい重力もなかった。その代わりに得るのは無重力、地に足が付かない心許なさが生まれる。周囲に敵は見当たらない。先程まで死が迫っていたとは思えず、溜息と一緒に身体の緊張を吐き出した。
機体の制御をする気も起きず、ただ宙域を漂う。何も考えず、暫くそのままでいたが、右手に触れる熱が思考を再開させた。
今まで少女を抱えていた右手を、不思議そうに少女の右手が触れていた。そのまま少女は膝に座ったまま、もたれ掛かるようにこちらを見上げた。
透明感のある白い肌に柔らかな灰色の髪。無垢、といった言葉がぴったりの大きな眼は、真っ赤な虹彩が特徴的だった。何か喋ろうとしていたのに、どうすべきかがすっぽりと抜けてしまう。綺麗な子だな、とだけ思い後は何も考えられなかった。少女はじっとこちらを見つめている。
いつまでそうしていたのだろうか。少女は小さく欠伸をするとゆっくり目を閉じ、再び眠りの世界に入っていった。脱力しきった少女の身体を再び抱えながら、やっと動き出した頭で思考を再開する。
「これから、どうしようか」
無防備な寝顔を見つめながら呟く。どう帰還しようか。この《カムラッド》の損傷では、周囲の岩石群を突破するのは難しい。
そんな事を考えながら、結局ただ流れるままに身を任せていた。今はまだ、この寝顔をただ見ていたかったのだ。
誰も見ていないメインウインドウが動体反応を示し、ターゲットボックスを表示する。UNKNOWNだった表示はif‐02 Iriaと変わり、友軍であることを示す緑に染まった。母艦である《アマデウス》からの迎え。ゆっくりと近付くその機体にリオが気付くのは、まだ少し先の事だった。