必要のない約束
展望室でリーファとの会話を終えた後、リオは自室に向かっていた。
じっと待っているだけというのも、何だか収まりが悪いというか。トワの話をしていたら、何となく会いたくなったというか。要するに、動いていないと落ち着けないような気分になっていた。
だからまず、こうして通用路を歩いている。ばったり出くわすかも知れないし、トワの事だから部屋で寛いでいるかも知れない。場合によっては寝てる事もあり得る。
「先手を取る、かあ」
言われて見れば、確かに自分は後手に回ってばかりだ。だが、それはそれで仕方がない事なのではと思ってしまう。
意識しなければ、自然と身体が動いてくれる。トワと過ごす時間は、今の自分にとってはいつも通りの日々だ。
でも、意識して動こうとすると固まってしまう。羞恥や緊張が、想像するだけでも溢れてくる。トワも同じように感じているのだとしたら、やはり敵わないなとも思う。
「あんまり、深く考えてなさそうだけど」
トワはトワで、本能のまま動いていそうな気もする。そういう言い方は、あの子に対して失礼か。少なくとも、直接言ったら怒られる。
そんな事を考えていると、特徴的な足音が聞こえてきた。スリッパと床が奏でる快音とくれば、一人しかいない。
「リオ、見つけた!」
何やら既にご機嫌な様子で、トワがこちらに駆け寄ってきた。ぱたんぱたんと、スリッパの音がその度に響く。
白のブラウスに、灰色のマキシスカートといった出で立ちだ。黄色のスリッパを突っ掛けている足は、黒いタイツに包まれている。トワは色々な服を着ているが、これが最近のスタンダードになりつつある。実際かわいいし、トワの清楚な所がよく出ている。そして珍しい事に、自分から眼鏡を掛けていた。
「トワ、何かはしゃいでる?」
機嫌の善し悪しぐらいは、何となく分かるものだ。全体的な雰囲気が、凄く柔らかいというか。にこにこきらきらしている。今の所、悩んでいるようには見えないが。
目の前まで来て、トワはふわりと微笑んで見せた。やっぱり、とてもご機嫌だ。
「リオは元気じゃないみたいだね。うーん、どうしようかなあ」
こちらの顔色を確認しながら、トワは何やら考えている。
「あ、そうだ。リオ、そっちにいこ? その壁のとこ」
トワが指差したのは、ただの壁である。別段、特別な物は何もない。
「うん? 何でそこに?」
端っこに寄りたい、という事だろうか。
「いいから。ほら」
そう言って、トワはこちらの右腕に抱き付いた。胸に抱き留めるようにして、ぴったりと身体を擦り付ける。
ブラウス越しに少女の温度が伝わり、一気に体温が上がっていく。
「トワ、それよくないって……」
小柄でスレンダーとはいえ、少女は少女だ。体温と鼓動と、一抹の柔さを、右腕が律儀に感じ取っている。一度捉えてしまえば、どうしたって意識してしまう。
「それは後にして、こっちにいこ?」
何が後だと言うのか。抱き付いた右腕を基点に、トワがぐいぐいと引っ張っていく。普通に手を掴めばいいだけの話なのに、何でこんな方法を選んでいるのか。
上昇していく温度に、まともな思考回路が働かなくなっていく。
「よいしょ、えい」
気の抜けた掛け声が聞こえたかと思うと、壁に背中を打ち付ける羽目になった。最後の一歩は、半ば強引に捻りながら為された。微妙に痛い。
「トワ、何でいきなり格闘戦……に」
抗議しようと口を開くも、言葉はゆっくりと消えていく。こちらを壁に追い込んだトワは、得意げな顔をして両手を僕の肩に置いた。トワはその体勢のまま、一歩二歩と歩み寄る。もう、これ以上近付けないというのに。
「う……ねえ、トワ」
何か言おうとしても、結局形にはならない。際限なく上がっていく体温のせいで、目眩が起きるのではと心配になる。そして、その心配さえも熱となって消えていく。
壁に追い込まれて、逃げ場を奪われて。真正面から、ぴたりと身体を密着させてきている。トワがやっている事は、ただそれだけの事だ。なのに、妙なスイッチが入ってしまったのか。体温の上昇が止まらない。
当の本人は、やってやりましたという澄まし顔だ。何も言わず、じっとこちらの目を見ていた。眼鏡越しに赤い目が、他の物など目に入らないと言わんばかりに射貫いてくる。柔らかそうな灰色の髪から、トワの匂いが漂っていた。いつの間にか識別できるようになっていた、トワの発する匂いだ。
落ち着けと自分に言い聞かせる。トワが何を思ってこの奇行に出たのかは分からないが、これぐらいの距離感は日常茶飯事だ。寝る時とか、もっとひどい時もある。だから、何も変な事はない。ないはずなのに。
いつまで経っても、身体は馬鹿正直に発熱を続けている。
「リオ、どう? 困った?」
澄まし顔のまま、トワはそう聞いてきた。一回り小さいトワだったが、この距離の前では微々たる違いでしかない。トワが言葉を発する度に、少女の呼気が頬を掠める。
「……困ってる、倒れそう」
実際、困ってるし倒れそうだ。だから、正直にそう答えた。
「それなら良かった。あ、倒れるのはよくないから、ちゃんと我慢してね?」
何も良くない。全然良くない。というか、これはいつまで続くのだろうか。
「今日のリオ、身体あっついね。いつもはぽかぽかしてるのに。ふしぎー」
こちらの身体状況を、トワは無邪気に話している。誰のせいでそうなっていると思っているのか。
「トワ、本当に、これ何で……?」
言葉を絞り出すようにして、楽しそうにしているトワへ質問した。出来るだけ少女の熱を感じ取らないように努力しながら、頭のどこかに冷静な自分を作り上げる……ように努力する。
「えっと、趣味と実益……充電。充電?」
何を蓄電するつもりなのか。
「ほら、リオは困ってる時に一番かわいい顔をするじゃない? だから、困って貰うのもありかなあって思ってるの」
自分よりも僅差とはいえ小柄な少女に、弄ばれてしまっているのだろうか。そう考えると、とても情けない気がしてきた。
そう思い、自然と目を逸らしてしまう。だが、トワの小さな手はこちらの頬に触れ、それを許さなかった。
「今は私に付き合って欲しいな。ね?」
そう言いながら、トワはふわりとした笑みを浮かべる。自分の好きな笑顔が、目の前にある。その事実だけでも、心を捉えて離さないというのに。
でも、ちょっと本当に、この距離はまずい。頭がふらついてきた。
それが何となく伝わったのか、トワは手を離し、一歩だけ下がった。拘束を解かれ……実際には殆ど拘束なんてされていなかったが、とにかく多少は自由になった。
壁を背にしたまま、その場にへたり込むようにして腰掛ける。体温の殆どが集中している顔を、両手で覆い隠す。トワの言った通り、とても熱い。
「はあ、もう」
どういう反応を返せば正解なのか、それすらよく分からない。いや、困った顔がどうこう言っていたから、最早目的は達成したという事か。それにしても無茶苦茶だ。
右肩に感触を感じ、顔を上げる。楽しげな様子のトワが、同じように床へ座り込んでいた。壁を背に体育座りをしたまま、こちらに少し寄り掛かっている。幾分か落ち着いた様子で、爪先をぱたぱたと動かしていた。
こういう所は、まだまだ子どもっぽいなと思ってしまう。
「ん、なあに?」
こちらの視線に気付いたトワが、穏やかに問い掛けてくる。いつものトワだ。こちらが素の状態だから、先程までのトワは色々と演技をしていたのだろう。気の持ちようで、ここまで印象が変化するとは素直に驚く。というか困る。
「通路の隅っこで、何やってるのかなあって」
トワが、というよりも自分達二人が。二人並んで、通用路の隅で座っているのだ。何か大事な話があった筈なのに、今はもう消えてしまった。トワと一緒にいると、いつもそうなる。そうなってくれる。
「んー、趣味と実益? 充電?」
そう言いながら、合ってる? と言いたげな表情でトワは小首を傾げる。
「難しい言葉を使うようになったよね。それ、意味分かって言ってる?」
そう聞くと、トワはふふん、となぜか得意げな顔になった。
「趣味は好きな事、実益はやったらやったあってなるやつ。充電は、ぐぐぐってなる時の事。それぐらいは分かります」
最後の分かりますだけ、どうしてか丁寧な口調で言ってきた。単語への理解は、どうもふわふわしているが。多分、大体合っている。それをうまく言語化出来ていないだけで、この子は意味を理解しているのだろう。
「そう。充電出来た?」
トワは少し考え、小さく頷いた。
「少しだけ。だから、こまめにやらないとなの」
随分と燃費が悪い。
「こまめにやられると、僕が困るんだけど」
それとも、何回もやられていればその内慣れるのだろうか。
「嫌じゃなければいいんだ。困るのなら、それは良いって事なんだよ?」
トワはこちらの顔を覗き込むようにして、問う目を向ける。
「それとも、リオは嫌だった? 私の事は、要りませんか?」
また、丁寧な口調を使っている。その赤い目は、じっと答えを待っているように見えた。魅惑的に問い掛けている訳ではない。いつものトワが、いつものように聞いている。
「……トワの事は、どうしたって必要だよ。でも、物みたいな言い方はあんまり良くないかな。要る要らないなんてさ」
トワは不思議そうな表情を浮かべ、何やら考えている。
「どうしたの?」
何が引っ掛かったのだろう。気になるので聞いてみる。
「んー。リオの物は私の物だから、私はリオの物だと思ってた」
しれっととんでもない事を言っている気がする。
「物じゃなくて人でしょ」
どうもこの子は、自身を卑下する傾向にあるから。ちょっとした言い回しの中でも、そのニュアンスが気になってしまう。
「……人でいいのかな。人じゃなかったら、どうしよう」
壁に背を付け、宙を見上げるようにしてトワは独白する。誰に向けるでもなく、放たれたその言葉の意味を。理解するまでに、少し時間が掛かった。
人じゃなかったら、という言い方はまだ穏やかな言い方だ。トワは自分の在り方を、もう受け入れている。だからトワ・エクゼスと名乗り、戦う事を選んだのだ。
だから正確には人ではないと、自分自身で決めてしまっている。
自分が何であるのか分からない。分からないけれど、みんなと同じではない。それが嫌だから、どうしようと悩んでいる。
「僕は、なんでもいいよ」
それは、自分勝手な答えかも知れないけれど。本当に、心の底からどうでもいいと思っている。
「大事な事じゃ、ないの?」
トワの質問に、いつものように頷いて返す。
「一緒にいてくれれば、後はまあ、割となんでも。それとも、トワは人じゃなかったら一緒にいてくれないの?」
その悩みは、世界中の誰とも共有は出来ない。だけど、本当にそれは大事な事なのだろうか。自分を救ってくれた少女が、自分が救いたいと思う少女が、本当は何者かなんて。
トワは押し黙り、目を伏せ、何かを言おうとして。
少しだけ濡れた赤い目でこちらをじっと見据えた。
「……じゃあ、約束。私が、何であっても一緒にいるって。そういう約束」
そして、トワはぶっきらぼうに言い放つ。そこまで言うのなら、約束してみせろと言わんばかりの表情だ。
乙女心がゼロの自分でも、それぐらいは分かる。試している。本当に今言った事が真実なのか、トワなりに推し量ろうとしている。推し量らないと、安心出来ない。
「約束はしない」
トワの赤い目を、しっかりと見詰め返してそう答えた。そう、約束はしない。だって、その必要がない。
唖然とするトワに、こちらの左手を見せる。薬指に通された、二人だけのエンゲージリングを。ちゃんとこれがあるじゃないかと、気付いて貰う為に。
「この約束の中に、それも入ってるから。僕にとってそれは、当たり前みたいなものだからね」
何であっても一緒にいるなんて、当たり前の事だ。
「約束、ちゃんと守ってよ。トワ、忘れっぽいから。結構心配」
そう言って微笑む。自然と、心の奥底から浮かんできた笑みだ。気恥ずかしさはあるけれど、それよりも伝えたい気持ちの方が上回った。
「……ふふ、えへへ」
だらしのない笑い声を零しながら、トワは両手で目を擦る。擦った端から、頬は濡れていくけれど。それでも、トワも微笑んで見せた。
「忘れる訳、ないでしょう……? ふうん、そう。そうなんだ」
トワの手が、こちらの右手に触れる。示し合わせた訳でもないのに、自然なままその手を握る。
「じゃあ、いいかな。いいって思えるもの。約束、ずっと前からしてた」
こくりと頷いて返す。ずっと前から、心は決まっていた。
「……あのね、リリーサーを終わらせて。その後の事、私何にも分からない。消えないと思う。消えたくないって思う。でも分からない」
サーバーを破壊して、リリーサーを終わらせる。その目的を達した後に、トワがどうなるのか分からない。その事実は、ある意味当然の事で。だからこそ、目を逸らしたかったのかも知れない。
「でもね、それはみんなも同じで。アストみたいに、その日がいつ来るのかなんて分からない。だから……」
手を繋いだまま、トワがこちらに寄り掛かった。優しく浸透していくような熱が、その身体から伝わってくる。
「だから、いっぱい話そう? いっぱい遊ぼう? いっぱい一緒にいて、ちゃんと幸せなんだって言えるようにしよ?」
トワは、いつだってちゃんと考えている。普通の人は、そんな事は考えない。だって、それが当たり前だから。生きていく中で様々な経験を通して、ゆっくりと身に付けていく。幸せの作り方を覚えていく。
この子にはそれがない。普通でなくなってしまった自分にも、それがない。だから、トワは考える。色々な事を学ぶ。何十年も掛けて身に付けていくものを、この子は駆け足で拾い集めてきた。他でもない、二人の為に。
僕がなくした幸せの作り方を。
少女が持ち得なかった幸せの作り方を。
拾い集め、組み立てて。ここに持ってきたのだ。
「うん、そうだね。約束……約束は、必要ないかな」
だってそれも、この薬指にきっとある。
「うん、必要ないよ。全部あるもの」
その言葉が、何よりの答えだった。これ以上ないくらいの肯定、二人の間だけに通じる、必要ないという答え。
目を閉じ、その熱に身を委ねる。多分、トワも同じようにしているだろう。
悩みも不安も、全部あたたかさに変えてしまえる。だから、この熱を絶やさないように。
二人だけの空間で、手を繋ぐのだ。




