台風の眼
あらすじ
先立つ物がなければ何も出来ない。補給を受けた《アマデウス》は、貴重な物資と人員を手に入れた。その出会いは少年にとっても、少女にとっても一つの節目となる。
だが、そんな事ばかりが続く道理はない。
黒い影は、新たな刃を振り下ろす刻をじっと待っていた。
Ⅱ
《アマデウス》の航海は順調そのものだった。ひやひやする事はあっても、敵に見つかることはない。そして、それこそがイリアの真骨頂でもあった。
イリアの指揮の下、《アマデウス》はその存在を消しつつ航行した。この広い宇宙の中で、完全な隠密行動を取ることは難しい。しかしイリアからしてみれば、タイミング次第でどうとでもなる問題だという。邪魔さえなければ一本道を進める分、宇宙の方が考えやすいとも。
敵勢力であるH・R・G・Eに加え、極力AGSの部隊にも接触しないように組み立てた航路は、その目論見通り平和な日々をクルーに提供した。
当然気も緩みがちになるが、イリアと過ごしているとそうなっても仕方ない事だと思ってしまう。それに、休める時に休んでおくというのは間違った行動ではない。とどのつまり暫くは、少なくともイリアが警戒を始めるまでは気を抜いていられるという事になる。
束の間とはいえ平和な《アマデウス》艦内。しかし、平和である筈のそこは毎日割と騒がしい。それは主に、件の二人と時々三人のせいであった。
何の飾り気もない無愛想な廊下に、件の二人は対峙していた。
ぴっちりとしたシャツにジーンズ、その上にフライトジャケットを羽織ったアストラルは、一見少年にしか見えない。普段は柔和な笑顔の力で、可愛らしい少年からボーイッシュな少女へと変化するのだが、今はその表情に一抹の緊張を浮かべていた。
対峙するトワは、今日も身体が中で泳いでしまっている大きめのシャツを着て、放っておけば脱げてしまうショートパンツをベルトで無理矢理固定していた。こちらも緊張で強張った表情をしており、アストラルの一挙一動を素早く目で追っている。
ゆっくりとアストラルは距離を詰めるが、詰めた分だけトワは下がる。じりじりと前進しては後退されるという様相だったが、その均衡はアストラルの大きく踏み込んだ一歩によって崩れた。
一気に加速し、トワに手を伸ばすアストラル。その腕を、トワは後ろに跳躍して回避する。
また均衡状態が生まれ、じりじりと前進後退を繰り返し始めた。
数回それを繰り返した後、痺れを切らしたのかアストラルがじたんだを踏んだ。
「あーもう! ちょっとでいいから付き合ってよ!」
トワはぶんぶんと首を横に振る。
「あとトワちゃんだけなんだって、絵ぐらい描かせてよう。ほら」
小さなスケッチブックを取り出し、トワに向けてぱらぱらと捲る。人物や風景が綺麗な線画で描かれている。
「思い出って言うほど大層なもんじゃないけど、色々描いたりしてるんだ。ここのクルーはあとトワちゃんだけ。やっぱり、描くならちゃんと描きたいじゃん」
トワは少し距離を縮め、その絵をじっと見ていた。が、思い出したように距離を取るとぽつりと呟いた。
「……綺麗だね」
「え、そ、そう? 嬉しいなあ。でも、今距離取ったよね……」
そんな微妙な空気の中、三人目は偶然その廊下を通りかかった。
※
何やら二人でやっているとしか認識していなかったリオは、素早く背中に回り込んだトワの動きに驚く羽目になった。
背中にぺたりとくっついたトワは、ちらちらとアストラルの動きを窺っている。
「トワちゃん、相変わらず早いね~」
感心したようにアストラルは頷いている。
「トワ、もう少し離れて欲しいんだけど……ちょっと近いよ」
くっついたトワに訴えるが、無言のまま却下された。背中に熱を感じながら、アストラルが持っているスケッチブックを見る。
「ああ、トワを描きたかったんですか?」
アストラルはこの前にも、描かせてくれと部屋に来ていた。
「そう。もう逃げられっぱなしでさ」
溜め息混じりに語るアストラルだが、割と楽しそうに見える。
「まあ、私はシャワーでも浴びてくるよ。トワちゃんには彼氏が来ちゃったし」
「あの、彼氏じゃないですからね」
当然のようにアストラルはスルーし、こちらの後ろにくっついているトワへと笑顔を向けた。
「トワちゃんもお姉さんと一緒に入る?」
トワは首をぶんぶんと横に振ってアピールする。
「あらら。まあ、そうだと思ったけどさ。じゃあね、二人とも」
アストラルは手を振って歩き出す。その背中に向けて、トワは小さく手を振り返していた。
「ねえ、リオリオ」
若干興奮した様子でトワはこちらの服を引っ張る。
「綺麗だね。あれはアストが描いたんでしょ?」
自分から近付こうとはしないが、トワなりに興味は持っているようだ。
「みたいだね。トワも描いてもらえば?」
そうすれば、きっとそのまま仲良くなれるだろう。しかし、トワは少し困った様子で俯き、何やら考え始めた。
「いいけど、ちょっとまだその、ダメだよ」
その声に否定の色は無く、トワなりに受け入れるつもりなのだろうと感じさせる。あと必要なのは、それこそ時間だけだろう。
「うん、この調子ならすぐ仲良くなれるよ」
心なしかそわそわしているトワの頭をぽんぽんと叩く。自分より少し背の低いトワは、こちらの手を両手で掴んだ。
「リオはもう仲良しなの?」
手を頭の上で掴んだまま、トワはこちらをじっと見ている。
「どうだろ。嫌いじゃない、けど……」
トワの目が段々と恐くなっていくのに気付き、急いで口をつぐむ。よく考えてから喋った方がいいと、よくリーファにも注意されていたのに。
「あの、でもトワと一緒が一番落ち着く、いや落ち着かないけど、あの」
慣れないフォローは形になってくれず、トワの表情は刻一刻と不満に染まっていく。
「リオ」
「……はい」
怒っている。そうとしか感じられない声を出すトワに、どう応じれば良いか分からなかった。
「今日は私、手離さないからね」
本気の目をしている。トワは掴んだ手を、大事なものを抱くように引き寄せた。それも、よりにもよって胸元に。
「ちょ、ちょっと待ってよトワ!」
「離さないからね」
右手をがっちりとホールドされて、身動きができない。それよりも問題は手の場所にあった。
服越しにもはっきりと分かる質感は、相応の熱を持って掌に伝わる。その身体は痩せてはいたが、年相応の柔らかさに思考回路が断絶していく。
「あの、とりあえず離してって、そうじゃなくても位置を考えて!」
「離さないから」
完全にヘソを曲げてしまったトワは、そう簡単に折れてはくれない。
「ねえトワ。手は離さなくてもいいから、その、胸に当てるのはやめよう。ね?」
「リオはそんなに離れたい?」
口をへの字にしたトワがじっとこちらを見据える。これは、大分怒っている。不機嫌極まりない状態だ。
「いや、その。離れたいとか離れたくないの話じゃなくて、手の位置が悪いんだけど」
「……よく分かんない」
目を伏せ、トワの表情は不機嫌や怒りの次の段階、悲しみへと切り替わっていく。本当に分からないのであれば、トワは自分自身を拒否されたように感じているのかもしれない。
この表情を浮かべたトワには、本当に敵わない。右手に伝わる体温と感触を意識の外に閉め出し、トワと目線を合わす。
「トワ、ちょっといいかな」
こくりと頷くトワを真っ直ぐ見据える。さすがに泣きはしていなかったが、悲しげな表情は色濃い。
「僕は今、何かあるまでトワと一緒に居られる。けど、この姿勢のままじゃどこにもいけないでしょ」
トワがこくりと頷くのを待ち、空いている左手をトワの両手に重ねた。そして、ありったけの勇気を総動員して言葉を伝える。
「普通に手、繋ごうよ」
暫く沈黙が続き、トワはゆっくりと手を離した。拘束の解けた右手はまだ二人分の体温を帯びていた。
「あれ、トワ?」
すぐにでも手を繋いでくるかと思ったが、意外にもトワはその場で立ち尽くしていた。
「普通って言うけど、どう繋げばいいのかな」
その声色は暗く、トワの心中をしっかり代弁していた。
「はあ、もう。しょうがないな」
少し気恥ずかしかったが、トワの横に並びそっと手を握る。しっかりと握り返してくれたその手は、やはり仄かな温かみを持って迎えてくれた。
顔を伏せたままのトワは今だ不機嫌のままなのか、何も言葉を発していない。失敗だったかと思ったが、ただ黙っているだけでは無いようだ。
いつもより落ち着きのない様子で、少しそわそわしているようにも見える。そんな反応は今まで見たことがなく、新鮮というよりも純粋に驚かされた。
やっぱり出会ったときに比べて、人間味が増しているというか、以前ほど無感情ではなくなってきている。
以前も感情そのものはあったが、それを出す術を知らなかったという印象を覚える。それが、ここ最近はかなり表情豊かになった。
そんな事を考えていると、トワが控え目にこちらをちらちらと見始めていた。
「……どこ行く?」
トワが若干だが頬を赤らめ、消え入りそうな声でそう呟いた。その反応を見て、否応なしに意識させられる。心音がどくりと胸を打つ。
何も知らない、子どものような無邪気な存在がトワであり、そこに異性としての好き嫌いは入ってこないと考えていたのに。そう考えようとしていたのに。
今横にいる少女は、紛れもなく異性として意識せざるを得ない魅力を持って存在していた。
「それは、ずるい」
もう既に、こちらの顔も赤くなっているのだろう。それを他ならぬトワに見られないように、さっと目を逸らし呟いていた。
そのまま、先程とは違う沈黙が流れていく。互いにいつもの調子に戻るまで、まだ暫く時間が掛かりそうだった。




