傷を越えて
トワが目覚めた後は、そこそこ一悶着あった。シャワーが浴びたかったとごねたり、汗だらけでベッドを汚してしまったとべそをかいたり。空腹が限界を迎えたりとか。
まあ、いつも通りである。あらかじめ覚悟していたリオは、その全てを捌いてこうして自室にいる。互いにシャワーを浴びてすっきりしたし、簡単な食事も済ませた。
しばらくは、また待機が続くだろう。目標は達成した。後は、イリアの策がうまく機能する事を祈るしかない。現時点でやれる事は、全てやった筈だ。
「でも、何でまた着替えを」
トワの事である。自室で待っているように言われ、他にする事もないのでこうして待っているが。ベッドの端に座り、もう三十分は経過している。
大体、そう頻繁に着替える必要があるのだろうか。
「まあ、いいけど」
本人が楽しんでいるのならそれでいい。そんな事を考えながら、手持ち無沙汰になった時間をどう過ごすべきか考えていると、ようやく自室の扉が開いた。
トワは白のブラウスに、灰色のマキシスカートを組み合わせていた。控え目だがレースで装飾されたブラウスに、くるぶし辺りまであるスカートを合わせている。とても清楚な印象を受ける格好だ。
トワの気に入っている組み合わせなのか、最近よく見る服装だった。似合っているしかわいいが、ちょっとどきりとしてしまうのが少し困る。
何回も言っている甲斐があったのか、トワは眼鏡をしていた。黄色のフレームがかわいらしく、その小さな顔を彩っていた。肌が白いので、その黄色がよく映える。
「それ、リボンみたいになってるんだ」
あまりじろじろ見るのもいけないような気がして、そう声を掛けていた。マキシスカートの腰回りは、コルセットのように締まっている。ただ締め付けている訳ではなく、後ろの部分でリボンのように結ばれているのだ。
「うん。これがね、かわいいとこなの」
そう言って、トワはくるりと回転する。突っ掛けているのはスリッパなのに、器用にターンしてみせた。
「あれ、タイツ」
ターンした時に、少しだけマキシスカートが広がったのだが。見えたのはタイツではなく、白い足だったように見えた。着替え前には、黒のタイツを穿いていた筈だ。
「見せるって言ったし。ちょっと脱いできた」
トワはそう答えると、スリッパの快音を響かせながら目の前に近付いてきた。てっきり隣に座るのかと思ったが、目の前でじっとしている。
「それでは、いきます」
やけにかしこまった口調でそう言うと、トワは両手でマキシスカートを摘んだ。
「ん……どこに?」
疑問の声を上げるも、トワは聞いていない。心なしか頬を赤く染め、トワは意を決したのかうんと強く頷いた。
「……え?」
そして、ゆっくりと両手を上に動かし始めた。それは当然、摘み上げたマキシスカートも捲れていく訳で。
「ちょ、ちょっと待ってトワ!」
小さくて白い手を掴み、その謎の行動を止める。
「とりあえず落ち着いて、何をしているのか説明してくれる?」
客観的に見ると、目の前に立ってスカートを捲ろうとしているように見えるのだが。
「えっとね。リオの前に立って、スカートを捲ってるとこ」
なるほど、客観はそのまま事実だったか。
「その、どうしてスカートを……?」
事実だったとして、訳が分からない事に変わりはない。なのでそう聞いてみたが、トワはじとりと睨んできた。少しムッとしているようだ。
「だって、この前言ってたじゃない。足の傷、ちゃんと見るって」
「……ああ、そういう」
目の前の奇行、その目的が判明し、やっと合点がいった。以前、足の傷を隠しているトワに、ちゃんと見ておきたいと言った。他でもないトワの事だからと、答えたのを憶えている。
「どうするの、見るの見ないの?」
見ます。見るけど。何でこう、妙に官能的な感じで見せようとしてくれているのか。普通にこう、こちらの心臓が保つようなやり方はなかったのか。
「タイツ、あれ脱ぐの大変だったし」
不満そうにトワが言う。タイツを脱いでいたから、着替えに時間が掛かったという事だろうか。
「それに、ちゃんと見えてもいいようにかわいい下着も選んできたのに。リーファにも相談して」
スカート越しに足をぱしぱしと叩きながら、トワはそう続ける。でもちょっと待って欲しい。
「相談? 着替え待ちの三十分の間に?」
「うん。これ便利だよね」
そう言ってトワが取り出したのは、自分もよく使っているPDAだ。個人用情報端末、そういえばトワにも支給されていた。ないよりもあった方が便利だろうと渡されていたが、随分と上手に活用しているらしい。
「ねえそれ、何て言って相談したの?」
活用しているのは構わないが、そこがどうにも引っ掛かる。いや、トワの事だ。恐らく。
「リオに下着を見せるから、どういうのが良いかなって聞いた」
「……ですよね。知ってた。トワは表現がストレートだもん」
リーファがどう受け取ったかは分からないが、次に会った時、からかわれるのは確実だ。狭い艦内、すぐにその時は訪れるだろう。
「褒めてくれてありがとう。でもね、今はそれよりも、見るのか見ないのか決めて欲しいなって。これ、それなりに恥ずかしいもの」
褒めてないです。恥ずかしいなら、もうちょっと恥ずかしくないやり方を選んで欲しかった。
「言い出したのは僕だし、見るよ。ただこう、恥ずかしいなら恥ずかしくない方法にすればいいんじゃないかな」
トワはじっと考え、困ったように小首を傾げる。
「うーん、思い付かない。だって、大体スカート捲るもの。あとは、捲る人を変えるとか。私じゃなくてリオが捲る? はい」
はいと言われ、差し出されたスカートの裾を思わず受け取ってしまった。手触りの良い生地の質感が、仄かに温かい。そして、受け取ってしまってから、まずい状況に追い込まれたと気付かされる。
だってそうだろう。どう考えても、こっちの方が恥ずかしいに決まっている。
肝心のトワは、恥ずかしくはないのだろうか。そう思い、スカートの裾を摘んだままトワの顔を見る。
「うわ……」
一言で表せば、真っ赤だった。思わず声を上げてしまう程、トワの頬は、というか顔は真っ赤に上気している。口をへの字に結び、微かに震え、助けを乞うような目でこちらを見ていた。
見つめ合って数秒、耐えきれなかったのだろう。無言でその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆い始めた。
「……恥ずかしかったの?」
そう聞いてみると、トワはその体勢のままこくこくと頷く。耳まで真っ赤にして、相当恥ずかしかったのだろう。肌が白いせいで、ちょっと心配になるぐらい赤が目立つ。
「とりあえず、落ち着くまで待ってるから」
羞恥でしゃがみ込んでしまったトワを眺めながら、その赤が引いていくのを待つ。トワのこんな反応は初めて見る。普段は羞恥心なんて欠片も見せないというのに。
「……うん、大丈夫。落ち着いた。落ち着いて私」
そう言いながら、トワはのそりと立ち上がる。本当に大丈夫なのだろうか。
「それで、どうするの? 見せるのか見せないのか」
そう問い掛けてみると、トワは小さく唸った。さっきまであんなに乗り気だったのに、本当に恥ずかしかったのだろう。
「……見せる。そう決めたもの」
トワはもう一度マキシスカートの裾を摘み、こちらをちらと見る。最早隠し通せるものではないらしく、その頬がじわりと染まっていく。
「……ん」
吐息のような声を発すると同時に、スカートの裾がゆっくりと持ち上がる。丈の長いマキシスカートを穿いている為、足先から徐々に顕わになっていく。
そして、白くて細いすねが見えてくると同時に、その傷も見えてきた。
少女の、まだ幼いと形容してもいい程に細い足だ。そこに、大きな裂傷が刻まれている。傷は、もうとっくに塞がっていた。素人の自分が見ても、綺麗に縫合されている事がよく分かる。傷は上に行くほどに小さく、数を増していく。地雷、爆弾、手榴弾、それらの破片と聞いたが、確かにそういう傷だ。
やり場のない感情が胸を締め付け、気付けば手を握り締めていた。これだけの傷を負う前に、何とか出来なかったのか。
「ねえ、リオ。どうかな」
マキシスカートの裾は、完全に捲れている。その傷は、もう全て見えていた。
どう答えるべきなのだろうか。ひどい傷だと思う。見た目が、という話ではない。この傷がもたらした痛みと結果を、どう許容していいのか分からない。
これは事後確認でしかないのだ。トワがつらかっただろうその時に、傍にいれなかった事が何よりも悔しい。
都合の良い言葉は思い浮かばず、ただ刻まれた裂傷を見ている事しか出来ない。
「ねえ、どうかな。かわいい、のかな」
何か答えなければ。そう考えようとした頭に、何やら場違いな単語が入ってきた。
「……え?」
だから、ほぼ反射的に聞き返していた。
「だから、下着。ちゃんと選んだし」
トワは頬を赤く染め、口元を自身が捲り上げたスカートの裾で隠しながらそう聞いてきた。
「……下着?」
まあ当然、下着も見えてはいるのだが。黒地をベースにしたショーツで、小さな水玉模様が施されていた。サイドには小さなリボンが付いており、全体の印象をかわいらしく纏めている。とにかくまあ、そういう下着が見えているのは事実だ。
「うん。リボンのとこがね、私は好き」
そうだね。かわいらしいデザインだと思うし、白い肌に黒地の下着を組み合わせるのは、正直ずるいと思う。
「でも今、結構真面目な事考えてたんだけどなあ」
笑みを浮かべ、都合良く消えてしまった悔恨の残滓を振り払う。トワにとって、この傷はもうただの傷でしかない。それよりも、自分が選んだ下着の善し悪しの方が気になっているのだ。
「なら、僕も気にしない」
トワの手を取り、スカートの裾を離す。疑似重力に引かれ、マキシスカートが元の形に戻っていく。
「ふう。恥ずかしかった」
トワは小さく溜息を吐き、いつものように隣へ座った。まだ頬は赤い。やっぱりその姿が珍しくて、その横顔を何となく見続けていた。
その視線に気付き、トワは小首を傾げて何事かと目で問い掛ける。
「そんなに恥ずかしがってるの、初めて見るから」
そう素直に言うと、トワは若干不機嫌そうに顔をしかめた。
「本当はね、リオが恥ずかしがった方が良かったんだけど。今日は失敗しちゃった」
しれっととんでもない事をいってらっしゃる。トワの小悪魔的行動は、もしや計算された物だったのだろうか。やっぱり、イリアとリーファの影響が色濃く出ているのかも知れない。
「僕も充分恥ずかしかったけど。傷を見て悔しくて、何も言えなくて。でも、トワは下着の事しか聞かないし」
そう言うと、トワは思い出したかのように身を乗り出す。ぐいと身体を近付け、真っ直ぐとこちらを見詰める。
「そう、それ。どうだった? まだ答え聞いてない」
その目は真剣で、とてもからかっているようには見えない。つまり、この子は本気で下着について聞いている。
「えっと、まあ。かわいかったと思うけど」
「思うけど?」
言葉尻に、何やら続きが含まれていると感じたのだろう。同じように聞き返してきたトワの顔を真っ直ぐ見詰め、以前話した時の事を思い返す。
トワが傷を隠していると知った時の事だ。どうしてタイツを穿いているのか聞くと、トワは傷が沢山あるからだと答えた。私は気にしていないけど、リオは気にするかもしれない。そこまでは、トワが僕に向けて言った言葉だ。
でも、その後に続けられた言葉も僕は憶えている。だから、あんまり綺麗じゃないし。そんな言葉を、トワはぽつりと零していた。
気にしていないというトワの言葉は事実だ。だけど、傷だらけの足や身体が綺麗ではないという認識も、トワの中では事実なのだと思う。
だから、僕がトワに言いたい事は一つだけだ。
「思うけど、あんまり下着は関係ない。傷は痛々しいけど。僕はそれでも、トワの足は綺麗だと思ったよ。いやにドキドキさせられたし」
言葉にするのも恥ずかしいけれど、それだけは伝えたかったのだ。きちんと伝わったかどうか分からず、じっと返事を待つ。
身を乗り出し、身体を近付けた体勢のまま、トワはぴたと硬直している。
「う……うぐ」
そして言葉に詰まったかと思うと、表情の変化を読み取る前にベッドに飛び込んだ。当然のように枕を拝借し、寝返りを打ちながらこちらを蹴飛ばしてきた。そこそこ威力のある蹴りが、背中に直撃している。
「痛いってば」
そう言うと、トワが口元を枕で隠し、こちらをじっと睨み付けてきた。これは、怒っている訳ではない。白い肌が、冗談のように赤く染まっていく。
「今日はダメ。今日はダメだあ。リオの癖にいー」
それこそ子どもが駄々をこねるような口調だ。それに加え、トワはべしべしと背中を蹴ってくる。小悪魔だなんだと思った矢先に、今度はもう完全に子どもだ。
というか、リオの癖にとはひどい。
「嫌だった?」
蹴りを受けながらそう聞いてみる。
「嫌な訳ないでしょ、もおー。私がリオの心をこう、こんな感じにさせたかったのに」
嫌じゃなかったのなら、まあそれはそれでいい。それでいいのだが、蹴られ続けるのは嫌なのでこちらも横になった。元々、ここは自分のベッドなのだから問題ないだろう。
横を向くと、すぐ傍にトワがいる。こちらの枕を奪ったまま、じっとこちらを見詰めていた。枕で口元を隠している為、表情が読み取りづらい。だが、その目はどこか不安げに揺れているように見えた。
「……本当に、嫌じゃなかった?」
そして、消え入りそうな声でそう問い掛けてきた。傷を見て嫌じゃなかったのかと、そう聞いているのだ。
「うん。悔しいとは思ったけどね」
その傷は、元を正せば自分のせいでもある。その手を離さなければ、負わなくてもいい傷だった筈だ。
「だけど、嫌だとは思わなかったよ。綺麗じゃないとも思わない」
黙って聞いていたトワだったが、こくりと頷いて返してくれた。その目から、不安の色は既に消えている。
「それなら、良かった。今度会ったら、セイルにありがとう言わなきゃ」
枕を胸に抱き、懐かしげな表情を浮かべてトワはそう言った。知らない名前だ。
「セイル?」
その名前を聞き返すと、トワは左手をこちらに見えるように出した。左手薬指に通されたエンゲージリングが、照明の光を受けてきらきらと輝いている。
「うん。捕まってた時に良くしてくれた人で、傷の手当てもしてくれた人。それに、このエンゲージリングも探してくれた人だよ。あ、でもそれならどうしてリオが持ってたんだろ」
脳裏に浮かんだのは、トワを助けに行った時の光景だ。特殊研究施設、カーディナルへ強襲した時、トワはファルと名乗り、《プレア》に搭乗して行ってしまった。その時、施設から駆け出してきた白衣の少女に出会い、このエンゲージリングを受け取ったのだ。
ならば、あれがセイルだろうか。
「セイル、今はどうしてるんだろ」
トワはそう、懐かしげに呟く。あの白衣の少女は、どうも好きになれない。きっと、それは向こうも同じ事だろう。認めたくはないが、あれは自分と同じような存在だ。生と死をかなぐり捨て、地獄を振り撒くような。そんな存在だ。
だから、どうしているのかは容易に想像が出来る。
「どう、だろうね」
悪魔がする事なんて、いつだって変わりはしない。自分だって、いつそうなるか分からないのだ。
だけど、それをトワに伝える必要はない。だから当たり障りのない相づちを打ち、そっと目を瞑る。思い願う事は一つだけ。
トワが悲しむような事だけはしていないようにと、そう願ったのだ。




