呪いを抱えて
「うん、疲れた」
自室のベッドに腰掛け、リオは正直な感想を漏らした。《アマデウス》はそう広いBSではないが、それでも歩き回るには大きい。
エリルへの挨拶の後は、他のクルーの所へ行っていたのだ。それぞれのクルーに迷惑を掛けた事を謝り、礼を述べた。そして、大体漏れなくトワとの事をからかわれる。そして、頻発するトワの幸せシェアを受けつつ受け流しつつここまで戻ってきたのだ。
「やっぱり、体力下がってるよね。長い間寝てたから仕方ないけど」
こんな状態では、いざという時に身体が動かない。かといって、率先して鍛えたい訳でもない。主治医であるアリサは、おいおい慣らしてからがっつり鍛えると言っていたが。その時の事を考えると、ちょっと憂鬱である。
「まあ、今から気落ちしてても仕方ない……けど」
何だかずっと一人で喋っている。だが、一人でいる訳ではない。部屋に戻ると言ったら、当然のようにトワもついてきたのだ。まあ、それはいつも通りなので構わないのだが。
自室に到着してから、何だか異様に大人しい。扉の前で立ったまま、浮かない顔をしている。みんなの前では、あんなに元気だったのに。
トワの服装は先程と変わらず、白いブラウスに灰色のマキシスカートという出で立ちだったが。こうも雰囲気が違うと、また印象が変わってくる。エリルの言っていた、影のある美人というのはこういう時の事を示すのかも知れない。
「トワ、具合でも悪いの?」
様子のおかしいトワへそう問い掛けるも、トワは首を横に振る。そして、無言のままこちらへ近付くと隣へ腰を下ろした。二人でベッドの端に腰掛けて、一言も喋らない。
トワは少しだけ俯いている。何を想っているのか気になり、そっとその表情を盗み見た。色濃い懊悩と逡巡、そんな感情を滲ませた表情だ。
何か悩み事があるとして。思い当たるのは、やはり今後の事だろう。フィルと《スレイド》は、どうしても打倒しなければならない。だが、ファルにとっては妹だ。トワから見ても、やはりそれは変わらないのではないか。
「フィルとの事で悩んでるの?」
だから、そう聞いてみた。トワは顔を上げ、何かを言おうとしてやっぱり口を噤む。
「トワにとって、フィルはやっぱり妹?」
隣に座るトワの肩が、少しだけ震えたように見えた。無理に聞き出すつもりはない。トワが話し始めるまで、じっとその沈黙を守った。
「……私、おかしいのかも知れない。リオの事は大切、みんなの事も大切。アストの時と同じで、リオやみんなが傷付くのは許せない」
そう言って、トワはこちらに視線を絡ませる。悩み揺れる瞳が、どうしようもなくこちらの心を穿つ。
「でもね、フィルの事はそんなに大切じゃない。どうしてそう思っちゃうのか分からないんだけど。家族の筈なのに」
そう言って、トワは困ったように微笑む。
「それが何だか、凄く寂しい」
そして、その感情に寂しいと名前を付けた。誰かを大切に想う気持ちがあるのに。一番傍にいる筈の家族には、それを感じられない。その理由を、自分は想像する事しか出来ないけれど。それを寂しいと思えるトワだからこそ、自分は助け、救いたいと思ったのだ。
「戦いになったら、僕は動く。だから、それまでは。トワが思うように、話してみてもいいんじゃないかな。多分聞く耳持たないだろうけど」
「うん……多分そう。でも話すよ。分かって貰えなくても、ちゃんと話す」
トワはそう返すも、表情は陰ったままだ。まあ、何も解決はしていないから、仕方のない事かも知れないけど。
そう考えて自分を納得させようとするも、どこか違和感を感じた。こちらをちらと見たトワの表情は、やはり懊悩と逡巡だが。何かが違う。
だが、考えてみても何も思い付かない。トワは一体、何を悩んでいるのか。
「……まあ、でも」
話したくないのなら、無理に聞き出す事もないだろうし。こうして傍にいるのなら、今はもうそれだけで良いのではないか。
疲労の溜まった身体を休める為、ベッドの上に沈み込む。仰向けの体勢になって、ベッドの端に座ったままのトワを見る。白いブラウスに包まれた小さな背中が、手の届く位置にあった。
トワがこちらを振り返り、やっぱり何かを言おうとして諦めている。口を結び、伏し目がちにしているトワを見ているのは心苦しい。傍にいるだけで良いという言葉は嘘ではないが。無視して寝るのはやっぱり無理だ。
「僕は、大抵の事は何でもいいで済ますけど。トワが元気ないのは、やっぱりつらいかな。何かあったの?」
寝転がったまま、トワにそう問い掛けてみる。心当たりはないので、もう直接聞くしかない。
「あ、もしかして。僕が無神経な事を言ってたとか? よくリーファちゃんにも注意されるんだけど」
何気ない言動で、こう、トワの不機嫌メモリが上がってしまったとか。そう思い口に出すも、トワは首を横に振って返した。それも違うのか。
「他に何か、トワが悩む事……」
うん、全然分からない。これでも真剣に考えているのだが。
すると、トワがのそのそとベッドに上がり始めた。無言のまま、仰向けになっている僕へ絡み付くように身を寄せる。
体温が混ざり合っていく感覚を覚え、じわりと熱が浸透していく。身体が眠ろうと力を抜いていくが、まだ起きていないと。
「リオ、怒らないでね」
そう言いながら、トワはゆっくりと体勢を変えていく。無遠慮に抱き付いていた状態から、少し身体を離して。手慣れた様子で近付いてきた。トワの鼻先が、こちらの頬を一瞬だけくすぐる。
仰向けになっている僕に覆い被さるようにして抱き付き、少しだけ姿勢を変えて。今、トワの顔が目の前にあった。トワにとって明瞭な視界である、五センチの中の世界だ。
トワは両肘を付いており、その細い腕は視界の端に見えている。つまりこの少女は、仰向けになっている僕の上にうつ伏せで寝転がって。両肘を僕の頭の横に付いて、こちらの顔を覗き込んでいるのだ。
いつもとは違う。いや、そのいつもも大概かも知れないが。大抵、トワはこちらの腕を奪って好きにしているか、抱き付いたまま胸に顔を埋めている。この距離で、顔を見合わせる事なんてそうそうない。
普段であれば、羞恥心が勝つのだろうが。今のトワは真剣な表情をしており、こちらも真剣に向かい合わなければいけないと思える。
そして、何よりの理由は。目の前にいる少女が、とても壊れやすく儚げに見えたからだ。
「何を、そんなに苦しんでるの?」
だから、そう問い掛けた。何かに押し潰されそうになっている。必死に悩んで、苦しんで。それでも答えを得られず、今もまだこの少女は苦しんでいる。
「……本当はね、言っちゃいけない事だと思って。我慢、しようと思ってたんだけど」
五センチの世界の中で、トワの赤い目が揺れている。トワが頭を少し動かすだけで、こちらの頬に掛かった灰色の髪がさらさらと流れていく。
普段は好き勝手するのに、肝心な所はこうやって我慢してしまう。これは、トワの悪い癖かも知れない。
「リオは、ファルの記憶を見たんでしょ?」
「うん。見たよ」
リリーサーであるファルが、ファルとして生きた記憶だ。あの中に、何かトワが悩むような事があったのだろうか。
「……私も見たの」
そして、トワは苦しげにそう言った。トワが何を見たのかは分からない。分からない筈なのに、情けなく身体が震える。
「夢の中の、ずっとずっと奥の方で。昔のリオを見たよ」
ああ、やっぱり。自分がファルの記憶を見たように、トワもこちらの記憶を見ていたのだ。隠すような事は何もない。悪魔が暴れて、人を殺す。ただそれだけの、どうしようもない程に残酷な悪夢を。その現実を。
「そう。面白くはなかったでしょ?」
言葉にする度、胸が締め付けられていく。冷たい言い方をしている。また、目の前の少女を傷付けようとしている。ただ逃げたいという意思を通す為に、放つ言葉に棘が含まれていく。
「だから、本当に。僕はそういう人間なんだよ。ファルの方がよっぽど人間らしかった。あれが僕なんだ。だから」
だから、本当は君なんかと一緒にいちゃいけない人間なんだよ。分かっている。分かっているけど。
壊れている心が、どうしようもない程に熱を発して。言葉を続けようとするも、それすら叶えられない。トワと目を合わせる事すら出来ず、顔を背けて赤い目から逃れようとした。行き場のない熱が身体中を駆け巡り、最後は目の奥に集まってくる。
こんな所で、無様に涙を流す訳にはいかない。唇を噛み締め、その熱がどこかに消えてくれるまで待つ。どうして泣きそうになっているのかも、よく分かっていないのに。
しかし、呆気なく僕の頬は濡れる事になった。
「……え?」
思わず声を出してしまったのは、それが自分の物ではなかったからだ。次々と頬を濡らしていく雫は、僕から発せられた物ではない。
背けていた顔を戻し、もう一度トワと向き合う。口から漏れ出す吐息には嗚咽が混じり、唇を噛み締める事でそれを閉じ込めている。それでも幾つかの吐息と嗚咽は漏れ、その度に身体がびくりと震えていた。
雫がぽたぽたと零れてくる。赤い目がまばたきをする度に、仄かに熱を持った雫がこちらの頬を濡らしていく。
「……どうして、泣いてるの?」
嫌われて、遠ざけられる。あの光景を見たのなら、そうなってもおかしくはない。なのに、トワはここにいて。どうしてだか、子どものように泣いている。
トワが泣くような事なんて、何もないのに。涙を拭おうともせずに、トワは嗚咽を押し殺そうとしている。少し呼吸を整え、小さな口が吐息と一緒に言葉を紡ぎ出す。
「リオ……つらかったね」
そして、トワはそう言った。意識が止まる。止まったように思えた。それ程までに、自分はその言葉を。ずっと。
「違う。違うよ。悪いのは僕で、それ以外はない。そんな言葉……」
受け取っていい筈がない。だってそうだろう。あれだけの地獄を作り出しておいて、自分だけ救われようなんて。虫が良すぎる。それこそ不遜だ。
そう自分に言い聞かせるも、心は勝手に揺れ動いていく。トワの発した言葉が、溶け込むようにして身体へ浸透しているのだ。生じた熱が胸を焦がし、また性懲りもなく目頭に集まってくる。
でも、受け取っていい筈がない。自分のした事を、してきた事を思い浮かべ、その熱を振り払おうとする。
「つらいのは、巻き込まれた人達でしょ? ううん、つらいと思う間もなく死んだ。僕が殺した。だから僕は、僕の事はどうでもいい」
いつものように本心を殺し、どうでもいいと切り捨てて。泣いたままのトワを見据える。
「他の人なら、そうだよ」
そして、トワはそう返した。他の人なら、そう。その言葉の意味が分からず、思わずトワに問う目を向けてしまった。
「リオがやった事を知って、他の人が何かを言ったなら、それでいいの。でもね、私は」
言葉と一緒に、温かい雫が零れて。
「私はリオと同じ事をした。リオと同じように怒って、リオと同じように戦って。リオと同じように、沢山殺したの。リオも知ってるでしょ? 記憶をただ見るだけじゃない。私がリオになって、それをやったんだよ」
そう。そういえば。ファルの記憶を見た時も、ただ記憶を見るだけではなかった。記憶と同化し、自分という輪郭も曖昧になって。ファルの戦いを追体験したのだ。
ならば、トワも。あの光景を体験してしまったのか。
「だから、リオはつらかったの! 私、こんなにもつらいもの……だから、リオだってつらかったんだよ……!」
そう言って、また泣き始めた。あの光景を見て、僕の気持ちすら追体験して。それを忘れないまま、ここに持ってきて。拙い言葉で、必死に伝えようとしている。
「そう、だとしても! そんな弱音、言える訳ないでしょ!」
気付いたら声を荒げ、そう言っていた。
あれだけ殺しておいて、そんな都合の良い事を。仮につらかったとしても、それ以上につらい人なんて幾らでもいる。死んだ人達やその家族を差し置いて、つらかったなんて言える筈がない。
「そうだよ、そうだけど。リオがした事は、許されないって私も分かってるけど。でもね、それでもやっぱりつらかったんだよ」
トワは、そう言って泣き顔のまま微笑んだ。何も考えていないように見えて、色々な事を考えて。今は多分、僕の為に笑おうとしている。
「リオがつらいと思ったから、それはリオだけのつらいなの。だから、他の誰かが何を言っても。それは、やっぱりつらかったんだよ」
同じ物を見て、きっと同じように感じたからこそ、トワはこの言葉を持ってきたのだ。それでもやっぱり、つらかったなんて言えなくて。だというのに、堪えきれなくなった涙が、次から次へと溢れていく。
「私も、つらいから。一緒にいてもいい?」
微笑み、それでもやっぱり涙を零しながら。トワはそう問い掛けてきた。口を開けば、情けない声が出てしまう気がして。ただ、小さく一度だけ頷いた。
罪は消えない、呪いも消えない。責められたい訳でも、許されたい訳でもない。ただ、これだけでいいのだ。それだけの言葉を、ずっと僕は待っていた。
でも、ただの言葉だけならば。こうはならなかったと思う。世界でたった一人、この少女だけが同じ物を見た。だから、唯一この少女が発した言葉だけが。こうも胸に響くのだ。
こつりと音がした。トワが頭を少し下げ、額と額を合わせたのだ。トワは目を閉じ、こちらの頭を両手で包み込む。小さな鼻がこちらの鼻先を掠め、少しくすぐったい思いをする羽目になった。
こちらも目を閉じ、その体温だけを手繰り寄せる。まだしばらく、涙は止まってはくれないだろう。だから、それまでは。こうして目の前の少女を感じていたい。
「トワは……やっぱりあったかいね」
そう呟くも、情けなく声は震えてしまった。トワは何も言わず、ただこちらの頭を撫でていた。その手の感触に、また目の奥が熱を持つ。
自分の体温と同じ温度の雫が、少女のそれと混ざって頬を濡らし続けていた。




