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4 酒井蒼汰

こんな時期になれば5月といえど少し暑苦しさを覚えるものだ。明らかに冷房器具が必要な気温に達することもあるが、控えめに生ぬるい空気をかき回している扇風機以上のものはここには望めない。

 頭を抱えている会長にお茶を差し出すと、さっと手からペットボトルが消えた。

 「なにやっているんですか、文化祭は、」

 「言うんじゃない酒井」

 「明後日からです」

 こら言うなといったろ、と田宮先輩が僕に向かってペットボトルを投げつける。我ながら綺麗にキャッチするとなぜかグッジョブサインを出された。

 「いい加減おれに当たるのやめてください」

 「当たれる相手が酒井しかいないってのも悲しいものだよねえ」

 「前川先輩でしたっけ? 放送部の部長さんにでも当たればいいじゃないですか、この前までみたいに放送室に行って。このままじゃパワハラですよ、人権侵害にあたりますよ」

 そう言いながら鞄の中からチョコレートを取り出すと目の前から消える。毎度のことなのでもう気にしない。

 「悠が好きなやつだ、これ」

 「ですからその悠先輩に当たればいいじゃないですか」

 「分かってないな、甘い」

 「そのチョコ甘いですか?」

 「お前だよ」

 今度はチョコレートの包み紙を投げようとするが、空気の抵抗に遭い、あっけなく落下。

 「悠は苦労してんの。あたしなんかより面倒な仕事ばっかやって、あたしなんかの三倍は働いてんの、受験生の先輩2人にも心配されるくらい」

 「だったら先輩だって」

 苦労しているし数々の後輩から心配されている。

 「キャパが違うの」

 あたしとあの子とは、脳の容量も行動力もなにもかも違うの。敵わないのよ。

 そういう先輩は何故か少し寂しそうだった。

 

 *


 差し迫った用事が何かあるわけではない。問題は全て解決した。じゃあ何が不安なのだろう。

 「まあ不安だろうな」

 文化祭は明後日だというのに呑気に準備をしている教室を眺めながら僕はお茶を啜った。クラスの準備に参加していたらあまりの効率の悪さにいらいらすることが分かっているから、教室や調理室にいるときはなるべく邪魔にならないところでひっそりと過ごすようにしている。

丸々二日、ゆっくりすればいいじゃないかなんて言うのはそれこそ「甘い」考えなわけで、なにもないと逆に不安になってしまうものなのだ。人間、特にリーダーのような役割を任されている人間は。

 だからと言って当たられるのは相当困るのだけど。

 そういえば、と思い出したのは「前川悠」の名前。彼女とは文化祭の話し合いで何回か顔を合わせたことがあるが、二週間目に初めて会った時から既視感が拭えない。

 「過去に会ったことあるっけか?」

 「さっきから独り言すごいぞ? 気味悪いからやめてほしいってのと、これ試食して」

 差し出されたワッフルを一口齧る。

次の瞬間、やけに残る粉っぽさと妙な甘ったるさ、そしてかかったチョコレートソースの冷たさの不協和音が僕を襲った。

「ごほっ……北村、お前はこれを食ったのか?」

「君の反応を見て安心した。俺の舌は正常だな」

隣いいか、と聞かれるので頷く。眼鏡を直し椅子を引いて座るなり、北村は小声で衝撃的な報告をしてきた。

「本当のことを言うぞ。これが完成形だ」

「冗談だろ」

「冗談はあいつらだ、飾りつけやら衣装やらに無駄に時間と予算を使いやがって。初めて試作品を作ったのが昨日だぞ。昨日」

「これで金をとるのか? これで?」

「取る気らしい。昨日のが酷すぎてみんな舌が麻痺しているんじゃないか」

指さした先にはお互いをほめたたえる級友たち。

「こりゃあどうしようもないな」

「おいおいなんとかしてくれよ副委員長様よ」

「なんとかできるのはお前だろ」

そりゃあそうだが、と素直に認めるような北村の性格を僕は買っている。

「三人寄れば文殊の知恵、って言葉は知ってるよな」

「それがなに」

「いいか、今回文殊ほどの知恵は要らん。いまここに二人いるんだ。一人より二人の方がいい。分かるな?」

「分からないわけじゃないけど、なにをする気?」

「今から三十分で味と管理体制とクラスの意識を全部変える」

変なものには関わりたくない。

「本物のワッフルは俺ろくに食ったことないからな」

「僕だってそんなにないけど……」

「文殊ほどの知恵は要らんとさっき言ったぞ」

「文殊ってワッフル作ったことあったのかな?」

 「知恵と経験は関係ない」

 「あると思います」

 「うるせえ手伝え」

 「最初からそう言えばいいのに」

 最初に言った気がするがな、と北村は首を捻ってから立ち上がった。

 ぱんぱん、と手を叩いて皆の注目を集める。

 「ちょっといいか、言いたいことがある」

 「なんだよ北村」

 「確認したい。試作品、外部に出せるレベルだったか?」

 沈黙。

早く帰るためには試作品を完成としなければならないし、彼らは早く帰りたい。僕だって帰りたい。

 「正直に言うぞ。これは昨日よりマシだったが、美味しいものではない。俺の舌がおかしいのかと思って酒井にも押し付けてみたが同じ反応だ。二人まとめて舌が狂っている可能性は限りなく低い」

 「食べられればいいんでしょ? 別に味は買った後みるんだから問題ないと思うけど」

 きつそうな目の女子が反駁する。名前は覚えていない。が、たしか北村にいちいち突っかかっていた奴だった気がする。

 「売り上げが伸びない。誰かが食べて不味かったといえば、それを聞いた人間は来なくなる。口コミってやつだ」

 「あれだけやる気なくてよくそんなことほざけるわね」

 調理室の空気が凍り付いた。ほかのクラスも使っているというのになにをやっているんだ。文化祭準備期間中に殺伐とした空気が流れるのは実行委員室だけで十分。

 「やる気があるないは関係ないよな。別にこのままでいいならこのままで構わない。ただ売り上げのことを気にしているなら、改善の余地があるんじゃないかと申し上げているまでさ」

 「これ以上材料を使うの? なかなか厳しいけど」

 そうつぶやいたのは疲れた目をしたバスケ部の男子。こちらも悪いが名前は覚えていない。

 「材料を無駄にしたのは事実だろうな。こんなに試作品は必要なかったと思う」

 「じゃあどうするのよ! 言うだけ言って済ませる気?」

 相変わらず誰かは分からないが、ひとつ分かったことがある。こいつ、うるさい。

 「もう一回試作品を作る。一発で決める。以上」

 「出来ないことを……」

 「言ってないよ。言い出したからにはそれなりの責任は持つし」

 すみません、と小さく声をかけられる。何度か見かけたことのある他クラスの女子が皿を重ねて持っていた。

 「あ、すみません。通りづらかったですよね」

 「いえいえ」

 そっと道をあける。

 「ところで酒井、お前料理……」

 「できないよ」

 「俺がやるの?」

 「君何言ってるの?」

 それを聞いていたさっきの女子が噴き出した。

 「なんでそこの子笑ってるの?」

 「君がおかしいからだよ。あれだけ大口叩いておいて」

 「存分に笑ってください」

 ようやく真顔を取り戻した彼女の手が滑って、流しの上を勢いよく洗剤ボトルが飛んで行った。

 クラスメイトは何も言わない。きつい目の女子が放つ殺気は笑いさえ封じてしまうらしい。

 「というわけで材料貰っていいか?」

 「北村君出来るの?」

 「出来ないなんて誰が言ったの?」

 「もういい、帰っていい? わたし要らないでしょ」

 「どうぞー」

 ばいばい、と手を振る北村に舌打ちをしてきつい目の女子は帰って行った。

 「……あいつ本当に帰った」

 「北村、俺らはなにすればいいの?」

 バスケ部が聞く。どうやら彼の疲れの元凶はきつい目の女子だったらしい。

 「そうだな……、まずこれどう思った?」

 「まずい、みんなそうだろ?」

 間髪入れずに答えるバスケ部。最初からそう言えよ名も知らぬバスケ部。

 「無駄に甘いよね。ソースかけるんだから生地自体の甘みは少なくていいと思うんだけど」

 そう応える女子。お前も最初から言えよショートカット。

 「そうかそうか。やっぱり俺らの舌は間違っていなかったぞ、酒井」

 嬉しそうにするんじゃない北村。実際僕らの舌がどうだろうと関係はないんだよ。

 「というわけでこの粉に」

 「ホットケーキミックス」

 律儀にバスケ部が訂正を入れる。

 「このホットケーキミックスに混ぜるものを考え直す。砂糖は要らんだろう。確かこれもともと味ついてるんじゃなかったか?」

 「ホットケーキミックスってそういうものじゃないの?」

 さっきボトルを飛ばした女子が皿を洗いながら呟く。

 「……しーっ、こいつにはなにも言わないでやって、今度こそ腹筋が死ぬよ」

 そう言ってやると今度はスポンジを取り落とした。

 「なんだ酒井。毒見役はお前に決定」

 前回よりはましなものが食べられるだろう。適当に頷いておく。

 「他には牛乳混ぜてるけど、多くした方がいいよね」

 長髪の女子が重ねる。いやだからお前も早く言えよ。

 「そういうことで、あとは頼んだ。毒見はこいつがやってくれる。多分これで売れるものは出来るはずだ。じゃ、俺は帰り……」

 「帰らせないよ」

 僕は精一杯の笑顔を作って腕を掴んだ。

 「……はっはー! 冗談さもちろん」

 彼は基本冗談を言わない。



 香ばしい匂いが漂ってくる。いい加減僕も北村以外のクラスメイトの名前を覚えないといけないななんて思いながらぼーっと眺めていると、さきほど考えていた前川先輩に感じる既視感に思い当たった。

 「あ、」

 「だから突然喋り出すなよ気持ち悪い」

 「ごめんごめん、さっき笑ってた女子の名前って知ってる?」

 「……ん、ああボトル飛ばした女子か。クラス違うし覚えてるわけないだろう」

 ですよねー、と適当に流そうとすると、北村はにやりと笑った。

 「俺だぞ? 他クラスであろうと一度関わった人間の名前はチェックする。苗字は前川だ、下の名前はそもそも知らない」

 「彼女と関わったのか?」

呆れたように北村はため息をつく。酷いぞ。

 「美術の授業で合同だったろ、自己紹介もしたろ」

 「……したっけ?」

 「お前そこから?」

これ以上なにか言うと馬鹿にされそうなので適当に笑っておく。

「あ、前川と言えば彼女の姉貴が放送部の部長やってたぞ、姉は知ってるんじゃないか?」

その通りでございます北村様。

「ありがとう、お陰で謎が解けたよ」

ぽんぽん肩を叩くとメガネの奥の涼しい視線が冷たくなった。

「お前クラスメイトの名前何人言える?」

「数えるもんじゃないだろ、北村クン、君こそ興味無さそうなのによく覚えるねえ」

 冷たい視線が下がる。と思ったらすぐに僕の目を射抜いた。

 「興味はないが勝手に脳の方が覚えるんだ」

 便利な脳をしているものだ。

 するとワッフルが焼けたらしく、遠くでクラスメイトがワッフルを口に運ぶ。

 「いける! これだったら周りも汚れないし教室でも焼ける」

 「作り方にも改善が見られたようだ。まあさっきの有様は酷かったからねえ」

 呑気にいう北村にそっと聞く。

 「それもう少し早く言った方が良かったんじゃないか?」

 「面倒だった。まああと2日もあるところで食い止められたんだ、いいじゃないか、ノープロノープロ! ハッハッハ」

 笑いのツボが浅い前川(妹)のクラスは既にいなくなっていて、北村の大声は見事に調理室に響き渡った。



 「さーかーいー」

 「なんですかー?」

 「ついに明日になっちゃったよ文化祭が」

 今回は自分で買ってきたチョコレートを口に放り込みながら田宮先輩は溜息を吐いた。

 「そうですねえ。楽しめるといいですね」

 「楽しめるか阿呆……ってこのチョコ苦っ」

 「これ一昨日僕が買ってきたのと同じですよね?」

 一昨日は味がわかんなかった、とか適当なことを言いなが田宮先輩はチョコレートを全部僕に押し付けてきた。

 「食べられませんよこんな量」

 「悠に届けてきて」

 「おしゃべりしてくればいいじゃないですか」

 「それもそうなんだけどさ、うんまあいいや」

 ……先輩がおかしい。

 「あ! そうだそうだ前川先輩って妹いるんですよね!」

 「いるよ? ああ君の学年じゃん。つーか小学校一緒じゃないの? 中学は多分分かれちゃったと思うけど」

 「そうなんですか!?」

 「知らんよ!? あたしだって悠に聞いただけだし」

 「……だから既視感が」

 自分の物覚えの悪さにほとほと呆れる。僕の記憶力ってザル超えて枠なんじゃないか。

 「ちなみにあたしと田川先輩同じ中学だよ、関わりなかったけど」

 世間って狭いんですねえと呟いたけれど、答えは返ってこなかった。

 


 文化祭当日になった。前川(妹)と教室前で会ったので話しかけてみると、ひどく笑われた。隣の席になったこともあるのだという。前川さんが盗難の濡れ衣を着せられそうになった時に僕が無罪を立証したこともあるという。僕はもちろん全部覚えていない。記憶にない。心当たりさえない。

 「……お前さこの頭なにに使ってんの?」

 北村に話すと派手に呆れられたけれど、覚えていないんだから仕方が無い。僕のはっきりとした記憶があるのは中学2年からだ。それを言うのははばかられたので黙っておいたけれど。

 文化祭が始まるまで、あと1時間。

 北村にいちいち突っかかっていた女子は、教室の隅でこころなしか少なくなった取り巻きとぼそぼそ愚痴を言っていた。

 田宮先輩は放送室にいるだろう。ああ見えて緊張症だから、前川先輩に宥められながら原稿の下読みでもしているんじゃないだろうか。

 「そろそろお前放送室に行かなきゃならないんじゃないのか?」

 エプロンを付けた北村が腹が立つほど爽やかな笑顔を向けてきた。

 「北村も頑張れ、エプロン似合ってるよ」

 途端に渋い顔になった北村を笑って、僕は教室を出た、

 瞬間に跳ね飛ばされた。

 「悪いな少年、急いでいるんだ、怪我はないか?」

 「……ありません」

 髪の長い後ろ姿は頷くなり消えてしまった。上履きは見れなかった。


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