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ログホラ二次創作SS

好きに召しませ

作者: 犬居のすけ

「そんなに気になるのなら自分で足を運びなさいこんちくしょーです……」

 うう、と桜色の唇を噛みしめながら、細身の少女が机に伏せる。

 体に見合わぬ巨大な木製のデスクには、今しがた目を通していた物の他にも御大層な封蝋を施された書状が山と積まれている。

 旧世紀の廃墟が目立つアキバの街並みにあって、奇妙な存在感をあらわす〈大地人〉貴族風の建物──通称、水楓の館。その豪奢な執務室の片隅に座り、レイネシアは重くため息をついた。

 ため息の理由など言うもむなしい。

 あの大混乱のうちにも大盛況だった『天秤祭』をきっかけにして、いつか落ち着くはずと望みをかけていた執務が倍増しに近い状況になってしまったからだ。

 もちろん、仕事が減るなんて、この激務が日常になることを恐れた防衛本能が見せた甘い夢だったという自覚は彼女にもある。交流が始まったばかりの〈大地人〉と〈冒険者〉の間には、まだまだ交渉役、会話の交通整理役が必要不可欠なのだから。

 ──とはいえ。

(いくらなんでも限度がありますっ)

 小さな指先に唇を押し当てながら彼女は嘆く。

 一時は発熱するほど根を詰めてようやく捌いていた仕事が、ここにきて〈大地人〉からの書状に限ったとしても一気に倍量。とても十五歳の少女ひとりで処理できるような数ではなくなってしまった。

(もう一文字だって読みたくありません)

 だいたい、当のレイネシアとて赴任当初のままではないのに。

 ぐうたらを返上したのかと疑うほど働いた結果、彼女の実務処理能力はアキバ赴任直後とは比べ物にならないほど向上している。実際に相談役をこなした経験以上に〈大地人〉と〈冒険者〉、どちらの思考にも切り替えられる柔軟さが育ち始めているのが大きい。

(手こずることがないわけではありませんが……)

 コツはいたって単純。

 はじめに、〈冒険者〉は話の通じる相手ではないと思い切ってしまうのだ。

 大抵の問題はあまりに互いの姿が似すぎているために、こちらの理屈が相手にも通じるはずという甘えに原因があった。しかし彼らとの違いは目に見えるような簡単なものではないことを彼女は身に染みて理解している。

(別の世界の人──なんて、言葉にすると少し寂しい気もしますけど。でも……)

 礼儀作法もモラルも違う相手と意思の疎通を図るなら、白紙にひとつひとつ理解の道を記す他に方法はない。時間をかけ、同じ地図を作ること。お互いの常識を信用せず、代わりにお互いを信頼しあうことが、異人種(かれら)との交流には必要なのだとレイネシアは思う。

 自分の躾けられてきた礼儀作法に目をつぶる時、彼女はいつも信じている。

 それでもきっと彼らには伝わるはず、と。 

 とにかく、以前とは桁違いに調停力を伸ばした彼女をして処理不能な量なのだ。

 ことに祭の成功を見てようやく腰を上げた保守的な層は、〈冒険者〉の理解に意義など見出さず、旨い話、都合のいい話だけ求めてくるので性質が悪かった。

(一度でもこの街を見たら、自分の無理解にも気づけるのでしょうけど)

 目を閉じればいつだって思い出すことができる。

 初めてアキバの街に降り立った時に感じた、あの異様なほどの活力と好奇心。並んで歩くだけで実感した身体能力の差。一語一語ににじむ教養の高さ。自由に生きるだなどと子供のように、夢のように闊達な彼らの生き様に、打ちのめされるように感じた思いを。

 言葉に表すのは難しくとも、一目すれば十分なのに。

 〈冒険者〉と〈大地人〉は違うから。

 それを知ってなお求める思いがあるなら、きっともっとずっと彼らと解り合えると思うのに。

(とはいえ、相手からの求めもなく出向いては膝を折るのと変わらない、という価値観では望むべくもありませんね)

 再びため息をつく。

 〈冒険者〉同様、〈大地人〉にも尊ぶべきルールはある。長い間用いられてきた慣習にはそれなりの理由があるものなのだ。

「ああもう、こんなに気が散っていては終わるものも終わりません。こうなったら休憩です。これは当然の権利です。誰にも文句なんて言わせませんから……!」

 実際、朝からの奮闘を目にしていれば、ここで少しばかり休憩しようと文句を言う者などいるはずもないのだが、敢えて口に出すのは彼女なりの冒険──それを行うことによるストレス解消でもある。

 それを言うなら先ほどは大冒険をしてしまった。

 こんちくしょーだなんて、「言ってやったぞ」と「言ってしまった」がない交ぜになって、思い出すと今も胸がどきどきする。

(もしおじい様に聞かれたら……いいえ、エリッサに聞かれたってきっと大目玉です)

 ひとりきりだからこそ思い切ってみたが、やはりあの言葉は封印しよう。『冒険』で口にするにはあまりに刺激的すぎた。

「ああ……お昼寝がしたいですね……」

 ぽつりと呟いて、彼女はなんだか悲しくなってしまう。見回すと窓からはキラキラと陽光が差し込んでいる。季節は初冬を迎えたというのに、今日はずいぶんと麗らかな陽気だ。

「こんなにいいお天気の日に日向ぼっこできないなんて拷問です。お日様への冒涜ですよ。本当に、こんなはずではありませんでしたのに」

 ぐうたらに、はじっこのすみっこでのんびりぼんやりするのが彼女の本分なのだ。ひたすら部屋にこもっていたいと願っていた頃が懐かしい。自室に執務室を兼ねてしまった今は、部屋から逃げ出したいと切実に思う。

「と言っていくら日差しが暖かくても、この季節に外でうたた寝などしたら風邪をひきますよ?」

「……っ!?」

 急に入り口からかけられた声に、すんでのところで悲鳴を飲み込めたのは日ごろの鍛錬の賜物か──などと思うわりには何度となくたやすく驚かされて、レイネシアは優美な面にかすかな不興を乗せる。

 この少しばかり眉をひそめて口を結んだ表情は彼女のとっておきで、めったなことでは顔に表さない代わり、ひとたび使われれば周囲は慌てふためき、何とか彼女の不快をのぞこうと動いてくれる最終兵器だ。が、残念ながら万能というわけではないのを、彼女はこの数か月で深く思い知っている。

 案の定、肩をすくめただけの偉丈夫は、音もなく扉を閉めてレイネシアの傍に歩み寄ってくる。アキバの街で知らぬ者のない、ギルド〈D.D.D〉のギルドマスター。人より頭ひとつ飛び出る長身のくせに、突然現れたとしか思えない、気配を殺す術を身につけた男。

「クラスティ様、いらしていたとは気づかなくて……失礼しました」

 気を取り直し淑女然とした笑みを浮かべながら言うが、裏の意味は「いい加減、許可なく入ってくるのを遠慮してください」だ。しかしクラスティの反応と言えばかすかに肩をすくめたのみで、真意が伝わったとは到底思えない。

(いえ……伝わって、黙殺されたんですね。本当に、なんて憎たらしい)

 睨みつけたいのをぐっとこらえて内心が顔に出ないよう表情を繕う。いつ来るのか先触れを貰えれば、こちらだって相応の準備ができるというのに。こっそりと自分の衣装を確認する。おかしくはないだろうか。気づかないうちにインクをこぼしたりなどしていないだろうか。

「ご心配なく。今日も変わりなくお美しいですよ」

 ひっ、と喉まで出かかったのを何とか呑みこむ。相も変わらず妖怪じみた心のぞきの技は健在なようだ。これにいちいち驚いていたのでは心臓がもたない。

「ありがとうございます。クラスティ様もご壮健そうで」

 調子を崩すことなど有り得なさそうな長身にあてつけて言った。本当に、いつ会っても憎たらしいほど様子の変わらない男だ。一度でいいから風邪でもひいて、弱っている姿を見てやりたいと思う。

「姫に心配していただけるなら、それも悪くないかも知れませんね」

「なっ、なんのお話をなさっているのか分かりませんわ」

 慌てて誤魔化すとクラスティは意地悪そうな笑みを浮かべた。

 焦ったら負け。余計な考えごとをしたら負け、だ。

 こうなったら早く用件を聞きだしてしまおうとレイネシアは気を取り直して口を開いた。

「ところで今日はどうされたのですか? 午前中にいらっしゃるなんてめずらしいですね」

「? 午前中、ですか?」

 不審そうなクラスティを見て不思議に思う。

 この男のこうした表情はあまり見慣れないものだ。意図して彼を驚かせたのならかなり大きな戦果と言えるが、原因が分からない今は不安ばかり募る。

「あの……わたし、何か失礼を申し上げたでしょうか?」 

 いえ、とクラスティは緩く頭を振る。その仕草になぜか優しさが隠れているようで、我知らずレイネシアの鼓動が高まった。

 細い眼鏡の奥で何ごとか考えていたクラスティは、ふいに唇のはしを引き上げてレイネシアに告げる。

「どうやら姫は少し無理をされているようだ。今日はひとつお伝えしたいことがあったのですが──気が変わりました。どうぞ?」

 そう言って差し出された腕にレイネシアが細い首をことり、と傾げる。ダンスでも誘うような彼の仕草が何を意図するのかまるで分からなかった。

 白皙の青年は穏やかに微笑む。

「世の中はすでに午後のお茶の時間を迎えていますよ。仕事というものは根を詰めるばかりでもいけません。よろしければ午後のひと時を、私と過ごしていただけませんか?」

 告げられた言葉に驚いて柱時計を確かめる。

 まさかこの妖怪青年がすぐにばれるような嘘をつくはずないと思ってはいるが、それでも視界に飛び込んできた午後二時過ぎという時間には、狐に化かされたような気分にさせられた。レイネシアの体感ではまだお昼前のつもりだったのだ。当然、昼食などとっていない。それどころかこの時間までほとんど休憩を挟まず書簡と戦っていた。自覚すると急に疲れで体を重く感じた。本当に、どうしてこんなことになってしまったのか。

 逃げ出したい。放り出してしまいたい。

 そんな本音とは裏腹の言葉が口からまろびでる。

「お誘いはとても嬉しいのですが、申し訳ありません。午前中までにと思っていた執務すら終わっていない体たらくなのです。力足らずで恥ずかしい限りなのですが……」

 伝えるうちに情けなさで顔色をなくしていくレイネシアに、クラスティが軽く手を振って言葉を遮った。

「市井を知るのも執務の内ですよ。姫は〈冒険者〉の出す屋台に興味はありませんか?」

「屋台、ですか?」

 聞きなれない言葉に興味を引かれた。

「忙しい〈冒険者〉が簡単に食事をすませるための設備です。屋台特有の解放感や味わいというものもありますよ。アキバに住む姫であれば知っておいて損はない文化ではと思われますが」

 この言葉に飛びつきたいのはただの甘えだと理解している。

 けれど今は本当に疲れを感じていたし、時間を意識したとたん食事を忘れられていたお腹が、くうくうと主人にカロリーをねだる声を上げ始めている。

 結論を迷ってエリッサを呼ぶと、有能な彼女はすでに天秤祭で新調したばかりの真っ白な外套を用意してくれていた。アキバ随一の〈守護戦士〉が供につくとあっては、彼女の他に主人が館を出るのを止める者などいるはずもない。それどころか一同深々と頭を下げて「姫をお願いします」と言わんばかりの見送りを受けた。

 その裏に潜むゴシップへの期待に軽い頭痛を感じながらも、クラスティの手を取ったレイネシアは冬の街へと赴いたのだった。


       ◇◇◇


「こ、これが屋台横丁というところなのですか……?」

 喧騒に驚き、少し怯えたようにレイネシアの小さな手がクラスティの袖を掴んだ。

 決して背が高いとは言えないレイネシアとクラスティが並ぶと、睦まじい恋人同士というよりも年の離れた兄妹のように見える。もちろん普段のレイネシアであれば騎士を随従させるにふさわしい威厳をまとっているのだが、執務を離れ、一個人として過ごしているとその表情は年相応、ともすれば幼さすら感じさせるものに変わってしまう。

 それがつまりは隣の青年に心を許している証左であるのを、この麗しの姫は気づいてもいないが。

「ずいぶんと簡略化されたお店なのですね、厨房が外に見えているなんて。それに、お料理の種類も〈大地人〉風もあれば、見たことのないものまであります。なんだか匂いがいくつも混じって凄まじいとでもいいましょうか──」

 驚きのまま話し続けていたことに気づいてレイネシアがさっと頬を染める。不作法を詫びるつもりで隣を見上げると、青年はまるで気にする風もなくもっと店が見えるようにと人ごみの中へと彼女を招いた。

 昼時の一番混み合う時間を過ぎてはいたが、屋台街はなかなかのにぎわいを見せている。左右の店から呼び込みの声がかかり、それに応じる客たちの声も明るい。通りがかる幾人かは長身の青年と銀髪の少女の正体に気づいて目を丸くしたが、敢えて声をかけようとする勇敢な者はいなかった。

 普段過ごしている水楓の館からほんの数本道を挟んだだけの場所に現れた、異世界のようなにぎやかさにレイネシアは何度目かも分からない衝撃を受けた。

(天秤祭の時と変わりないほどの騒ぎですけれど、もしかしてこれが毎日のことなのでしょうか。普段からがお祭り騒ぎだなんて、本当に〈冒険者〉というのは計り知れない人たちですね……)

 そもそもアキバに来るまで歩いていて誰かにぶつかられそうになる経験など皆無に等しい。気を使われ、遠巻きにされ、繊細な壊れ物であるかのように扱われてきたのだ。

 それが今は周囲がまるで自分を自分と認識していない。それどころか彼女が流れを遮る小岩ででもあるかのように、ぶつかり、すり抜け、追い抜いて行く。

 その個人を超越したかのような街の流れに、巨大な生物の腹の中へ紛れ込んでしまったような心細さを感じた。

 くらり、と微かな眩暈に襲われてレイネシアは掴まっていた手に力をこめる。

 礼儀正しく曲げられた腕は彼女一人の体重などものともせずにその身体を支えてくれた。

 微動だにせず、涼しい顔で。その姿に自分ばかり動揺していることが分かって冷えていた指先まで熱くなったのを感じる。

 クラスティがさりげない仕草でレイネシアを誘導した。

 流れのよどみのような場所で足を止めて、レイネシアはようやく息を整えることができた。

「何か気になる物はありますか? どの品も普段姫が口にしているものより格が落ちると言わざるを得ませんが」

 そんなことは気にしないだろうと言外に告げられる。

 全てを見抜いているような言い様を、今だけはとても心強いものに感じた。

「あまりに種類が多くて圧倒されてしまって……それに、作っているのをこんなに間近で見たのは初めてです。あっという間で、まるで魔法のようで……」

「できたてを持ち帰れるのも屋台の魅力のひとつですからね。決められないようでしたら私が適当に見繕いますが」

 助け舟にありがたく乗らせてもらうことにした。この中から自分で食べたい物を選ぶだなんて途方もない冒険すぎて倒れてしまいそうだ。

「お任せします。……あ、でもあの、あまり特殊な物は避けていただけると助かるのですが」

 途中見かけたサファギンサンドのような〈冒険者〉風はさすがにハードルが高いと感じる。彼女の騎士は心得たように一度頷くと、再び彼女を人波の中へと連れ出した。


       ◇◇◇


 いくつかの店で手早く買い物をすませたクラスティは、そのまま屋台街の奥へとレイネシアを案内した。

「あの……こちらではやはり立ったままで頂くのが作法なのでしょうか?」

 道々で見かけた、立ったままどころか買ったものをそのまま食べ歩く姿に仰天していたレイネシアが、恐る恐るクラスティに問いかける。

「いえ、歩きながら食べるのを好む者もいますが、ここでなら座って食べることができますよ。どうぞ」

 そういって示された先には切り出したままのように見える木製のテーブルとベンチが雑然と並べられていた。どうやら屋台街で買い物した者なら自由にこの場所を使っていい仕組みになっているらしい。テーブルには何組かの先客がいて、それぞれが違う食べ物に舌鼓を打っている。

 空いた席に如才なくハンカチを敷いて、クラスティが丁寧に着席を勧める。

 どぎまぎと座ったレイネシアの前に、いくつかの料理が並べられた。どれも〈大地人〉の彼女にはなじみのない料理だ。その中に、ころんと真ん丸で可愛らしい、何かを焼いたらしい一皿があることに気づく。

 実はこの料理だけはくるくると丸めて焼く様子が面白く、見た目も可愛らしくて気になっていたのだ。おそらく偶然ではなく彼女の興味に気づいて用意してくれたのだろう。まったくどこまでもそつのない男だと思う。

「たこ焼きといって、小麦の粉を溶いた生地でタコとネギを包んで焼きます。青のりは難易度が高いだろうと抜いてもらいましたが、他もなかなか再現度が高いですね。これは〈冒険者〉にはかなりなじみの深い料理なんですよ」

 青のりやら再現度やら彼の言うことは半分くらい理解できないものだったが、見た目の愛らしさとは裏腹に濃いソースの匂いは食欲をそそる。

 他の料理にも簡単な紹介を添えてから、正面に座るクラスティが穏やかに促す。

「どの料理も冷めると魅力のないものばかりです。食べる順番も決まっていませんから、お好きな物からどうぞ」

 そう告げたクラスティだが自分は手を出す様子を見せない。どうしようかと迷ったレイネシアはこっそり周囲を窺い、偶然同じたこ焼きを食べている〈冒険者〉を見つけた。

 〈冒険者〉はクロスして刺さっている細い木の棒を器用に操って真ん丸の塊を口に運んでいる。なるほど、他の料理と違ってこれならば苦手な箸を使わなくても食べられるようだ。そう判断したレイネシアは緊張に強張った指を綺麗に並んだ球体に伸ばした。

「ああ、そういえば中には熱いものもありますから気をつけて──レイネシア姫っ」

 言いさしたクラスティがぎょっとした様子で椅子から腰を浮かせた。止める間もあらばこそ、思いきって口を開いたレイネシアがたこ焼きを丸ごとひとつ舌の上に乗せてしまったからだ。

 買った後しばらく冬の街を歩いていたこと。

 食べ方の参考にした〈冒険者〉が丸ごと口に入れていたため、それが作法だと思い込んでしまったこと。

 舌に乗せた瞬間の温度がさほどではなかったこと。

 全てが裏目に出て、彼女は何の警戒もなく口の中の塊に歯をたててしまった。そのどろり、と溶岩のように口に流れ出した熱さときたら。

 信じられない痛みに美しい青灰色の瞳が見る間に涙の膜を張る。

 普段からは想像もつかない慌てぶりでクラスティは懐から真新しいハンカチを取り出すと、逆手でレイネシアの小さな顎を捕えた。

「出しなさい」

 聞いたことのない強い口調に驚きを感じるよりも、その差し出された手にレイネシアは瞠目してしまう。

 まさか、と思う。

 まさかこの男は一度口に含んだものを、その手の上に出せと言っているのだろうか。

 口の中の痛みより、叱るような口調より、その要求に頷けないものを感じてレイネシアは憤った。

 熱さをこらえながら口の中の塊を呑みこむ。ろくに咀嚼もせず呑むなどと貴族の娘にあるまじき行為だが、それでも人の手に物を吐き出すよりはるかにマシだ。

 こくり、と動いた喉にクラスティも眉をひそめる。

「呑みこんだんですか? 馬鹿ですね、それでは口を火傷してしまったでしょう。大丈夫ですか? 今、冷たいものを買ってきますから──」

「帰ります」

 断言とともに立ち上がると、こらえきれなかった数粒の涙がぽろぽろと転がり落ちた。

 悔しいと思う。こんな辱めを受けて、その相手の前で涙まで見せてしまうなんて。信じられない、耐えがたい屈辱だ。

 彼女の剣幕にようやく自分の失態を悟ったクラスティを置き去りにして、レイネシアは決然と踵を返した。自分の歩調では大柄なクラスティから逃れることなどできはしないと分かっていたが、その場に留まるのは彼女の矜持が許さなかった。

 溢れてしまいそうな涙をこらえながら歩く。こんな醜態を衆目にさらす日がくるとは考えたこともない。

 数歩遅れた位置にクラスティがついてきているのが感じ取れたが、一度も振り向かないまま館へと戻った。


       ◇◇◇


「じゃあなんです、貴族の娘に向かって口の中の物を出して見せろと言ってしまわれたんですか? それはまたクラスティ様ともあろう方がずいぶんと迂闊な……」

 呆れを隠そうともせず言ってのけたエリッサに、クラスティは深いため息で応えた。

「そうですね、自分の無配慮を恥じ入るばかりです。どうも小さな子供といるように錯覚してしまっていたようで……」

「いくら小さい方が相手だったとしてもレディにそんなことを言う殿方はいないと思いますけどね。まったく〈冒険者〉の方にしては礼儀をご存じだと思っていたのに」

 表面だけなら完璧に優雅な、けれどエリッサにしてみたら見たこともないほどの憤りをたたえた主人の姿だった。

 まっすぐに寝室に向かい、しばらくひとりにしてほしいと告げられて主の代わりに客であるクラスティの応対に出たが、話を聞いてみれば非は目の前の偉丈夫にあるとしか言いようがない。

 かねてから大人しい主人とクラスティの仲を応援するそぶりを見せるエリッサだったが、今回ばかりはフォローすべきかどうか判断に迷うようだ。

 珍しく反省という分かりやすい感情を表面に出したクラスティが頭を下げる。

「返す言葉もありません。そのような訳で大変申し訳ないのですが、しばらくお詫びに日参することになるかと思います」

「毎日来たとしてもあの様子ではお会いになるかもわかりませんよ? レイネシア様があんなにお怒りになるの、わたしだって初めて見たんですから」

 伝えてからエリッサは、はた、と気づいた。

 怒りに限らずこのように強い感情をレイネシアが表すのは初めてだということに。

 こと社交については鍛え抜かれていると言っていい彼女が無礼を流せもせず、何も言えずに部屋にこもってしまったのは、された内容よりもした相手により原因があるということに。

 彼が相手でなければこれほど取り乱すこともなかっただろうに。

 そう思うといじらしいような歯がゆいような気持ちになって、エリッサは自分よりも背の高いクラスティ相手に怯まない強い視線を向けた。

「これ以上の失礼は許しませんよ?」

「心得ています。──が、実はもうひとつ問題がありまして。本来であればこちらが今日の目的だったのですが」

 そう前置きして伝えられた内容にエリッサは頭痛でもこらえるように頭を抱えた。

「なんとまあタイミングの悪い……ご出立はいつ頃になるのですか?」

「編成が終わればすぐに。……遅くとも月の変わる前には出ることになるでしょうね」

「もう半月もないじゃありませんか! それで、姫様はまだご存じないんですね?」

 頷いたクラスティが言葉をつなぐ。

「不在の間、〈円卓会議〉から何名かの〈冒険者〉がこちらに伺うことになるかと思います。本当なら今日はその許可を頂きたかったのですが……」

「そちらについては承りましたけど、問題はそこではないでしょう!」

 思わずといったように語調を強くしてエリッサが言い放つ。

 〈冒険者〉というのは礼儀を知らないだけではない、乙女心というものも解さないのだろうか。

 このままではゆっくりと別れを惜しむことも許されない。ただでさえ不器用な主人を思うとエリッサの気持ちは苛立ちで尖る。

 礼儀として必死に歯ぎしりをこらえながら、エリッサはこの事実を主に伝えるタイミングに頭を悩ませた。


 この後、数日をかけて水楓の館に顔を見せていたクラスティだったが、時を置かずレイネシアに扉越しの挨拶をしてアキバの街を離れることになった。

 落ち込みも拗ねた様子も外に出せない主人を見守りながら、エリッサは密かに恨みのこもったため息をつく。

 やがて、入れ代わり現れる女性〈冒険者〉たちのおかげでレイネシアの憂色が晴れる日が訪れるのだが、それはまたここから先の話。

 〈七つ滝【セブンスフォール】要塞〉平定作戦の開始を翌週に控えた、ある晴れた冬の一日だった。


路木ろきおさん、小柴小太郎さんと出したログホラ合同誌原稿の再録です。アニメ化前の本なので、アニメよりも姫が大人しいのが今読んでみると面白いような?

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