前向き。
「う……」
僅かに擦れた自分の声が耳に届き、薄ぼんやりとした光が目に刺さる。頭がさっぱり働かないけれど、今日はどうしたんだろうか。どうにも床が固い。
もしかして寝ている時に床に落ちたかな、と手のひらで床を撫でてその違和感に気付く。ザラザラとした冷たい感覚、フローリングでもなければイ草の畳でもないそれはまるで石畳のよう……というより、まるっきり石畳じゃないか。そうか、俺はあの剣、ジェヴェルが輝いた後に意識を失ったんだったな。
次第に色を帯びだした目をしばたかせながら辺りを見回すと、足元に蛇のようにうねる翠色の刀身が寝転がっている。さっきの目も眩む輝きは無いけれど、それでも周りの小さな灯りに対して宝石のような煌めきを返していた。とりあえず手に取ると博物館に居た時よりも不思議と手に馴染み、まるで昔からずっと使っていたかのような感覚だ。それに思ったよりもずっと軽く、羽ほどの軽さは言わないが、たいして鍛えていない腕でも問題なく取り回せそうだ。せいぜい二リットルのペットボトル程度だろう。
とはいえ、今はそんなことはどうだっていい。それよりも、なによりも、重要なことはそんなことじゃない。
「くそ、クソッ! 何してんだよ俺は……!」
あの展示室で湧き上がり、こうなった原因を作り出した衝動はすっかり鳴りを潜めてしまっていた。いや、完全に無くなった訳じゃない。その証拠に今だって後悔の中に好奇心や期待のような感覚が心の中でぐるぐると渦巻いているのだから。
けれど今、俺の頭に居るのは理性の方がずっと大きい。乱暴に髪を掻いてどっかりと座り込み、ただ自分の選択に嘆くばかりだ。
「それもこれも、お前のせいだぞ、くそっ!」
《……申し訳御座いません》
「うるさい!……くそっ」
手の中で煌く刃はなんとも非日常的な物体だ。喋る剣なんてゲームの中にしか存在しないもので、そして今居るここも恐らく自分の世界とは違う場所。信じられない状況だと理解が進むほど、手に持った剣が申し訳無さそうな声を上げるほど、静かに怒りが煮え立ってくるのを感じてしまう。
なんでもいい、この怒りはぶつけないと気がすまない。
グ、と握った剣の柄。引き寄せて、罵声を浴びせようとした、そのときだった。
――あまりその子を虐めないで下さいませ。そのお怒り、私がお引き受け致しますわ。今度は欠片も残しませんから、ご安心を。
……馬鹿馬鹿しい、今さっき自分で思ったじゃないか。自分の選択に嘆く、そう言ったそばから剣に八つ当たりしてたら世話がない。
申し訳無さそうな色をした声が頭の中に響き、剣は手の中で俺を心配するように小さく明滅を繰り返している。苛立ちもあるが剣から伝わる感情は本物だ、ここでこれ以上ぶつけても仕方のないこと。
深呼吸をするとどこか黴臭い空気が肺を満たしていく。つい顔を顰めてしまうが、おかげで熱を持った血液が冷えたのか少し気が紛れた。……ここは、薄々分かっていても聞いてみるべきかもしれない。
「ジェヴェル」
《はい》
「俺はもう、帰れないのか」
返答は無い。チカチカと困ったような明滅が、薄暗い空間で広がるだけだ。
御身を糧に世を渡る。字義通りに解釈すれば、俺の体を代償に別世界にやってきた、ということだろうか。聞いてみるとたっぷりと間を置いて、ようやく肯定の返事が頭に響いた。これまた情けないほど申し訳無さそうに、今にも泣き出しそうなほどに。
俯いていた頭を上げると、煙草の煙を吐くように大きなため息が漏れていく。そうすると不思議なもので、薄く開いた目に飛び込む風景にそれまで違和感は持ちつつも疑問に感じていなかったことが脳裏に浮かぶ。
「なあジェヴェル、ここはどこだ。さっきオルトビーク、って言ってたっけ」
石畳というのも妙なものだけれど、よくよく見るとなんとも怪しい。以前どこぞの博物館だかで石室の模型があったが、まさにそんな空間だ。せいぜい3m四方程度の狭い空間、その真ん中に丁度畳一枚の大きさの台座がある。なんの飾り気も無いまさに石の固まりといったものがドンと置いてあるだけで、同様に壁にも一切細工は無く四隅に小さな蜀台が付いている。あとは四つの壁の一つに狭い出口があるだけだ。
《はい、この世の名はオルトビーク。多くの人と神と魔が混在する場所。ここは私の安置されている神殿の一室でした》
「安置? 神殿っていう事はお前が御神体なのか」
ジェヴェルの声を聞き翠色の刀身に目を落とす。やはり薄く輝く刀身はどこか神秘的で、実用性の無さそうな形と相まって不思議と説得力があった。そう見れば、この部屋もなんとなく厳かな雰囲気を醸し出してるように思える。
俺の口から漏れたのはどちらかというと独り言に近かったが、ジェヴェルは返すように頭の中で言葉を紡いでいく。
《そのようです。どれほど前のことか失念してしまいましたが、もともと森の奥深くに打ち捨てられていた私を手に取った者が何かに驚き、私を崇拝しだしたのです。その者と他の数人が小さな神殿を作り、私を納めました。それからしばらくの間供物を捧げては私を使おうとする者がいましたが……》
「主にはならなかった? 成れなかったのか?」
ふと、ジェヴェルを握ったときのことを思い出す。確かあの時は、頭の中に翠色の剣を持った男の姿があったはず。口には出さなかったのだが、頭の中にイメージしたことでジェヴェルに伝わったのか返答はそれに沿ったものだった。
《主、と呼ぶには足りませんでした。私の声も聞こえず、しかしどういうわけか私の名を知っておりましたので僅かな力を貸し与えておりました》
静かな声が頭の中で響く。響くというよりは満ちていく、というべきか。声に一切の色も無く、ただ淡々と昔そういったものがあったなあといった感じで話しているだけ。
それにしても随分上からの物言いというか、自信たっぷりというよりは自分には十分な力があることを知っているかのようだ。
《それからいくばくかの後、私は主様を探す旅路へと就きました。今までこの世から離れておりましたので、どうなっているや分かりません。申し訳御座いません》
「そうか……とにかく出てみるか」
目を覚ましてから十分程度だが、何の変化も無い石室じゃあやることも無い。ここに居てどうにもならないなら自分から動くしかないだろう。
立ち上がり最後に軽く石室を見渡してから出入り口に手をかける。しかし、さあと勇んで潜ろうとしたとき再びジェヴェルが瞬いて、おずおずと先ほどとは違いたっぷり感情を宿した声を脳裏に響かせた。
《主様、私を手にしたことを後悔されていませんか》
私のせいで、と続けた声は小さくて今にも掻き消えてしまいそうだ。手元の剣に目を向けると明滅する翠色は俺の顔色を伺うように控えめで、なんとも小さく見える。印象としては小さい子が不安げに俺を見上げているようで、本当にさっきまでとは大違いだ。
「後悔はしてるかも知れないけど、別にお前のせいじゃないだろ。悪いのはこっちに来るって決めた俺だし」
《ですが》
「それに、そこまで深い後悔でもないんだ。不思議とさ」
子供をあやすように、安心させるために。なんとなく茶化すように言った言葉は自分でも不思議なほど軽く口から滑り出た。それこそ、帰れないことになんの感慨も抱いていないかのように。
……そう、さっきから何故か帰りたいという気持ちが湧き出てこない。いや、多少はあるけれど、それも宝くじが当たればなあ程度の儚い気持ちでしかないのだ。家族の顔も友達の声も、なにもかもが重要度を失って追いやられていく。
みんなのこと忘れないよ。
だから、さよなら。
頭のどこかで俺の声が響く。まるで他人事のような声なのに、俺の心にストンと落ちて思わず笑ってしまう。
《主様?》
「はは、いや、なんでもない。ジェヴェルは気にしなくていい、とりあえず外に出よう。話はそれからだ」
《……承知いたしました》
頭を下げて出入り口を通る時、今一度石室を振り返る。なんのことはない、飾り気の無い石があるだけで詰まらないものだ。
通路は暗がりで足元に気をつけないと転んでしまいそうで、俺は前を向き、二度と振り返ることは無かった。