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よいこ

作者: 長谷川

 今、彼女の髪は暗い。紫、群青、黒。何とも言えない澄んだ色。暗い色。ところどころに散りばめられた黄金色は、さもじっとしていますよという顔をしている。彼らは東から西へ毎夜さすらう。わたしの視点からならば。

 テトラポッドに立った彼女は、髪を風と戯れさせた。わたしは風に嫉妬する。声は極力おだやかに、風に音を乗せて。

「こんばんは。宵子。来たよ」

 彼女はこちらを向いた。はにかんだ顔のあどけなさに、ほんの一瞬見下しそうになった。

「こんばんは。ありがとう」

 彼女は幼さを忘れないおとな。いつだったか、そう言っていた。

「今夜は、なんの話をしようね」

「最後だからね」

「そうだね。……その制服、とてもよく似合っている」

「宵子はどうして、セーラー服なの?」

 はためくスカート。

「わたしは良い子だからね」

「意味わかんない」

「わたしもよ」

 もうすぐ、宵子の髪は薄紫になって、桜色になって、薄緑になって、やがては真っ青に染まるのだ。


 宵子に出会ったのは、小学生の頃だった。いや、今も小学生だけれど。もうすぐ、わたしは中学生になる。

 学校帰り、ほんの気まぐれでいつもと違う道を通っているときだった。工事現場のショベルカーのてっぺんにしゅるりと華麗に立っていた。

 風が彼女のために止んだ。わたしはそう思った。

 宵子は胸ポケットから折り畳み式の櫛を取出し、長い髪を梳いた。ほつばってなどいなかった。さらりさらりと櫛は流れた。

 非現実的な橙色の髪が、地球のゆるやかな回転に伴って藍色になっていくのをぼんやりと眺めていた。

 彼女が笑うと、風が吹いた。太陽は風にさらわれ、落ちる速度がはやくなった。

 わたしは空腹を忘れた。それによって人間でなくなったような気がした。

「こんばんは」

「……こんばんは」

 それは夜空のように澄んだ声だった。

「わたしはね、こんばんはしか言えないの。だからずっと待っていた。あなたも待ってくれていた。わたし、うれしかったよ」

「……へえ。あなた、だあれ?」

「幼さを忘れられないまま、長く生きた空」

「なあに、それ」

「ありがとう」

 ショベルカーの向こうに灯台の灯りを見て、途端に不安になった。

「わたし、帰らなきゃ。おかあさんに怒られちゃう」

「……そうだね。ばいばい」

 風に押されて、わたしは帰った。一度だけ振り返って見た宵子の髪には、金星らしき光があった。

 そのときのわたしには、宵子がとてもおとなに見えた。セーラー服はおとなの服だと思っていた。けれど何より、彼女の瞳には包容力があったのだ。


「わたし、宵子の話が聞きたい。宵子はなんでこんばんはしか言えないの」

「よく覚えてたね」

「もちろん。風のにおいも、空気のいろも、宵子の髪の透明さも、覚えてる。恋してるみたい」

 宵子の髪にはいくつも光が散りばめられていて、星と金星の違いはさっぱりわからなかった。

 宵子は黙って笑うから、波の音がうるさい。

「呪縛」

「……じゅばく」

 宵子のために風が止む。宵子の空がどんどん透明になってゆく。

「漢字、わかる? 呪いに縛るって書くの。呪縛。でもおまじないと何も変わらないんだよ。ほんとは自分で解けるはずなのに、愛しているからできなくなるの。自分が成り立たなくなりそうでできなくなるの」

 宵子の髪が、完全に、空にとけた。

「すっごくくだらないよ。昔の夜にね、おかあさんがね、コラ、今はコンバンハでしょって言ったんだよ。それだけ。わたしはそれからこんばんはしか言えなくなったの」

「なにそれ。どうして」

 訳が分からなかったから、そのまま口にした。それからはっとした。宵子を傷つけてはいないだろうか。宵子の至極真剣な悩みを、馬鹿にしたように聞こえてはいないだろうか。

「良い子だからね、わたしは」

 宵子の目は遠くを見つめていた。長い睫毛を瞬かせて、涙を堪えたように、見えた。

「でもこんばんはしか言えないのは悪い子だよ」

 それからまた、はっとする。わたしはこどもだ。また、考えもせず脊髄で喋る。

「そう。良い子だったから、悪い子になっちゃった。だからおうちに帰れないんだよ。わたしみたいな子、いっぱいいるよ。そういう子はね、空にとけるの。セーラー服を着て、風と混ざって、潮を孕んで、旅立つの」

「どうして?」

 わたしの目には、宵子の向こうの山が映る。

「大きくてかたちの無いものにふれて、今度は悪い子になって生まれるの。そうすれば、今度はきっと、呪縛のない人生を送れるの」

「……宵子」

「なあに」

「今日は朝まで一緒にいよう。宵子は言えなくてもいいから、わたしはおはようを言う。宵子が消えるまでずっといるよ」

 宵子はわたしをジッと見つめた。わたしは首の奥のあたりで火種が燻っているような気がして、宵子の瞳が太陽に見えた。

 ただひたすらに、潮風を浴びる。隣の宵子が消えていく。本物の太陽が水平線のすぐそこまで、きっと迫っている。

「宵子っ」

 宵子はこちらを見なかった。代わりとでもいうように手を伸ばしたから、わたしはそれを強く握った。

「宵子、また、逢おうね」

「うん、逢おう。巡り逢おう」

「うん。うん」

 太陽の頭が見え隠れする。宵子の向こうで見え隠れする。わたしはもう、宵子のまなざしと指の温度しか感じられない。

 息を吸う。

「……おはよう。宵子」

 光がほんの少しかげる。それはきっと宵子のくちびる、舌の動き。

「……おはよう」

 一陣の風にさらわれて、宵子の気配が消えた。

 わたしはひとり取り残されたような気分になった。妙に冷静に、自分はずっとひとりでいたのかもしれないなどと思った。それでもひとつ呼吸をすると、透明な彼女の髪の匂いを吸い込んだような気分になって、朝の突き刺すような空気を肺腑の奥まで満たしていった。

 こころいとしい友人の風に、染め上げられる心地だった。

 ああ、きっと、こんな時間に帰ったら、おかあさんは怒るだろうな。

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