家庭教師のいる日常
今回は、セフィリア九歳夏の終わりごろ。
セフィリアから見た家庭教師との特殊な師弟関係です。
領主の城に新たに一人、王都の学術院の学士・トレイル先生を住み込みで招いている。
朝は、不規則な生活をしていたトレイル先生が侍女たちに叩き起こされ、朝食の席では眠い目を擦りながらパンを食べている。その姿は、生前の孤児院に居た小さな子どもたちを思い出すので、少し笑えた。
昼間は、長時間私に家庭教師として勉強を教えてくれるのかと思っていたが、明確な週のスケジュールが決められた。
そして、暇な時間は――
「トレイル先生? 何をされているのですか?」
「うん? セフィリアか。いや過去の資料を読み直している。ダイナモの残した組織の客観的な再評価だ」
「そうですか。でも、どうして?」
「いや、組織自体は問題ないが、税の計算。この城での総合計算のミスは少ないが、もっと大本、役人たちの計算ミスが多いな。と思っただけだ。あと、暇潰しに過去の農地の収穫状況をセフィリアのいう可視化してみた」
「これは、ありがとうございます」
「いや、この国の食糧を支えるモラト・リリフィムのかつての脆弱さと今の強固さが良く分かる。このグラフ化という情報の可視化は、知識のないものでも視覚的な比較ができて非常便利だ」
トレイル先生は、このように領地の情報を改めてチェックしている。別に頼んだ訳じゃないのだが、自らの研究に役立ちそうな内容は率先するとのことだ。
あと、たまに馬一頭を拝借して近くの農村や町にふらりと出掛ける行動力は、貴族だったのかと問いたくなるほどの軽さだ。
「先生。今日は、授業の日ではありませんか?」
「忘れてないさ。俺みたいなただ飯喰らいはこういった細かな仕事しかできないからな。お前は実質的なパトロンのようなものさ」
「もう、先生はそう言ってご自身の価値を貶める行為は、褒められませんよ。それに、私は先生の助言があるおかげで画一的な農地指導書の信頼性も上がるんですから」
「そりゃどうも」
トレイル先生は、ペンを置き自分の作業を中断してこちらに向く。
「それじゃあ、セフィリア。これから勉強を教えるが、教える内容は『教養』の一点だけだ。他の歴史や数学といった内容は、必要とあらば教えよう」
「先生。質問なのですが、その『教養』とは何を学ぶんですか?」
私は、事前に学術院の試験の分類は聞いていたが、その細かな内容までは知らない。
「教養ってのは、貴族の教養だ。元々は貴族のための学問機関だからな。そう言ったものが慣習化したんだ。俺個人の考えでは要らん気がするが」
ふぅ、と溜息を吐き出す先生に、私は笑ってしまう。なぜなら目の前の人物は貴族と言うよりも酒場の一角に居る平民と言った方が似合う風貌なのだから。
「でだ。セフィリア。君に問題だ。貴族の教養にはどのようなものがあると思う?」
「えっ、それは……」
私は突然話を振られて、すぐには答えられなかった。だが、数度深呼吸をして私なりの考えを述べる。
「貴族。と言うからには、貴族に適応される法律や王家の持つ組織に関する知識問題でしょうか?」
「三割って所だな。それは筆記に約半数。残りの筆記は、各領地の特産品や戦争問題、領地管理問題だ。そして、残り半分に実技もある」
「実技ですか?」
私がオウム返しに聞き返してしまう。だって、実技で何を図るのか分からないのだから。
「そうだ。実技は二つ。一つは、一般的な貴族の嗜み。いわゆる社交ダンスなどがある。そしてもう一つは、専門実技だ。例えば武門の家なら軍盤と剣術。商家の家なら商売のいろはと高等計算。芸術に精通するものならば、作品や音楽を披露すれば良い。これは選択だ。ジルコニア家はこのどれも当てはまらないために逆にどれを選んでも問題ない。得意な事はあるか?」
私は、聞いた内容を頭の中で反芻させて、答えを返す。
「得意なのは、軍盤だけです。後は貴族らしいことなんかはやったことが無いんです。申し訳ありません」
「謝る必要はない。だが、なぜ軍盤? 剣術は習っているのかい?」
「いえ、軍盤は友達のキュピルくんに教わって、それからジークを相手に冬場の暇潰しで。あと商売も出来る自信がありませんし、芸術も出来ません」
なんだか、私は物凄い場違いな状況に置かれている気がする。領主としてはやっているが、貴族としては全くなのだ。社交ダンスですら踊れる自信が無い。
「そうか。まあ、今までの生い立ちを聞いた限り、そう言った専門教育は受けていないことが分かる。だが、試しに俺の作った課題をやって貰って適正を図ろう」
そうして始まった授業だが、私は早くも挫折する。
「……ここまで貴族の教養無しで領主を出来るのは、一種の才能だな」
「先生。それは褒めていません」
「いや、すまない。まさか、ダンスの基礎すら」
そうなのだ。社交ダンスですらまともに出来ない。他、マナーは最低限叩きこまれたから問題ないが、細々とした貴族社会のマナーなどもう目が回りそうな程だ。
「まあ、今日はここまでだ。明日は休養日だからゆっくり休むように」
「はい。ありがとうございます」
私は、ここ数年で積み上げた領主としての自尊感情は完膚なきまでに叩きのめされた。こんな気持ちになるのなら時間の全てを好きな料理や新たな技術開発に向けて尽力した方が良い。
「はぁ、私って本当に才能無いのですね」
一人ごちる。生前もそう言った教養は無い。学校の授業は筆記は良好だが技能一般は頗る悪かった。そして転生してからそれが解消されたり、新たに二物を与えられるのかと思っていたがそんな事は無いようだ。
「少し気分転換しましょうか」
私は、自室に戻り紙束を引き出しから取り出す。今度作る物のアイディアを一つ一つ絵で纏めているのだ。その中の一枚を取り出しアイディアと現在の実現可能な度合いを深く考察する。
「サイロ……は、機密性の保持とレンガの耐久性の問題があるから建設コストが掛るし。せめてセメントがあれば違うんだけど。ああ、ならセメントを作ればいいかしら。耐水セメントなら需要は多そうね」
だが耐水セメントの作り方を私は知らない。ならこの世界で探すしかないか。古代ローマの時代にはすでにセメントは存在していた。もしかしたらあるのかもしれない。
「じゃあ次は、水車ね。前に見せて貰った水車は、粉挽き用の水車で揚水式じゃないからこれは改良出来そうね。そうすれば低い位置の川の水を積極的に町や農村に引けるから衛生状況が更に改善される。ついでに、上下水道ももう少し整備した方が良いわね」
更に別の紙にアイディアを纏める。今度は、二枚の紙を取り出し左右を見比べて唸りを上げる。
「右のワイン造りの圧搾機か、左のレモン栽培か」
どちらも効率化という面では貴重だ。東部の葡萄を絞った果汁でワインを作るのだが、これは昔ながらの足踏み式。これを圧搾式に変えれば、家畜を労力として無駄のない分離が可能になるが、文化を大切にしたいと思うので躊躇っているのだ。
また片方のレモン栽培は、チーズ作りに必要だ。チーズの製法は、酢などの酸性の液体を使って動物の乳を凝固させているのだ。だが酢は、それほど多くが出回っていない。穀物酢や果実酢などは、酒や果実酒を更に発酵させなければいけ為に時間も手間も掛かり、逆に商品価値が下がる。
「酢を使った料理が少ないのがイケないのかもしれないけど。美味しい筈なのですが」
だからだ。酢の絶対量が輸出用のチーズ製造に対して若干少ない。それを補うために地域によっては、子羊の胃を取り出し、胃の凝固作用のある酵素を利用する方法でチーズを精製しているのだ。それでは、羊の個体数は増やせない。多くなれば、羊皮紙を使っている地域に向けて、家畜の輸出も視野に入れた政策が出来る。
私は、酢の価値を上げる案も考えたが、ここはあえて製造の多様性を求めてレモン汁を使った製法の確立とレモンの食用などを考えている。
「レモンの栽培ができれば、レモンの皮を使った砂糖菓子とかも出来そうね」
更にアイディアを書きこむ。直営店でのお菓子のアイディア。ああ、この時間が一番楽しい。
「セフィリア。話があるんだが」
「っ! せ、先生! ノックくらいしてください!」
私は慌てて卓上の紙を仕舞う。
「おう、悪い。少し話をな」
「なんですか?」
私は少し不機嫌そうに言いつつも、内心は先ほどしまった紙束を言及されないかドキドキしていた。
「さっき見ていた資料の中にダイナモの農地開拓計画があったんだが、それがお前の時から手付かずなんだ? どうしてだ」
「ああ、それは――」
就任直後にジークの言われたあれである。他意はない為に答えを飾らない、偽らない。
「あの時は、私の出した肥料による農地改革の方が効率が良いと判断したためです。それが何か?」
「いや、そうだよな。うん。理由はどうあれあそこに手を付けないのは正解だ」
「どういうことですか?」
「実はな、あの一帯は、西部は湿地帯なんだ。だから普通よりも開拓に時間が掛る上に、領地の境の川は良く荒れることで有名だ。あの周辺に村はあるがどれも小高い丘の上にある理由はそれだな」
「小高いって事はどこか高い所から水を引いているんですか?」
「いや、あの辺は湿地帯だから、少し穴を掘れば水が染み出す。ただ農業用であって生活用水としては川に汲み良くのが現状だ。上流の北西部の村々は、川から水が上手く引けるが、西部、南西部は、地理的に川が村より低い。っとつい難しく言って仕舞ったが問題ないか?」
「ええ、丁寧な説明ありがとうございます」
トレイル先生は、きょとんとした顔を一瞬するがすぐに真剣な表情に戻す。
「そう言う理由で、開拓よりも先に河川の決壊防止が優先しなければならない。あと、川の氾濫で木造の橋はその度に流されるから頑丈な石橋も欲しいな」
「分かりました。助言ありがとうございます」
「ああ、他にも気がついた事があれば報告する」
そう言って出て行ったトレイル先生は部屋を出る。私は気配が遠ざかった事を確認して、領内西部の地図と紙を拡げ、今提示された問題に対する解決策をいくつも書きこむ。家庭教師であるトレイル先生が来てから領内の問題点解消がスムーズになった。
生徒の私と家庭教師のトレイル先生の日常は、勉強よりも仕事仲間と言った方がしっくりきます。
最近、メモ帳に適当にネタを書きこんでいたら、見方が分からなくなってきた。整理をしたい。