ルースラントの革命
序章 革命の勃発
ここは、ルースラント共和国の首都の官庁街にある、警察省の建物の中……と言っても、一般の警察とは別の場所にある、秘密警察の総本部である。そこで今、手錠をはめられて独房から出された男が、ウラジミル師と口論をしていた。
男の名は、ユリウス。かつて、ウラジミル師と共に正教救国同盟に参加し、民衆に王政打倒を呼びかけた革命指導者の一人で、ウラジミル師の親友でもあった、ユリウス師である。彼ら二人は、正教救国同盟を通じて知り合い、互いに政治や革命を論じては意気投合した時期もあったが、後には革命のやり方をめぐって激しく対立するようになり、ウラジミル師が独裁政権を樹立してからは、ユリウス師は秘密警察に捕らえられ投獄されていたのである。
ウラジミル師が、ユリウス師を丁重に扱うように、と命じておいたにもかかわらず、独房から引き出されたユリウス師の体には、秘密警察による拷問の跡が無数についていた。
「なぜ、わかってくれぬのだ!?わしが独裁政治をやらざるを得なかったことを……。」
ウラジミル師は、白髪だらけの顔を怒りでくしゃくしゃに歪めて言った。その前には、全身傷だらけのユリウス師が、秘密警察の機関員に両腕を掴まれて立っている。既に、相当な拷問を受けたにもかかわらず、なおも、その目は鋭い光を放ち、ウラジミル師を睨みつけていた。
「ふん、どんなに言い訳をしようと、おぬしのやっていることは、ただの虐殺だぞ。現に、『異端の思想を持つ者』として、おぬしに殺された者の多くは、異端の思想など見向きもしないような良民たちではないか。彼らはただ、配給される食糧の少なさに我慢できずに政府への不満をもらしただけで、秘密警察に逮捕されたのだぞ。大学の神学部で多くの論文を書いてきたおぬしなら、『不必要な殺傷や脅迫は、神の最も忌み嫌う所業である。』という言葉を知らぬわけでもあるまいに……。それとも、『あの論文で述べたことは、全て嘘だった。』とでも言うのか?」
「………嘘なものか!!あの当時、確かにわしは人民の幸福を望んだ……庶民から法外な重税を搾り取り、私腹を肥やす役人どもを憎んだ……その役人どもの差し出す賄賂の額によって官職を与える貴族どもを憎んだ………だからこそ、わしは民主的な法治国家を作ろうとしたのだ………だが、長い戦乱によって荒れ果てた国土を、独裁をやらずに、どうやって立て直すのだ……経済を、どうやって立て直すのだ……全国の至る所で、人民が、『パンをよこせ。』と叫んでいるのだ……秘密警察が取り締まらねば、国中で暴動が起きて、この国は再び戦乱の世に逆戻りしてしまうぞ………。」
ユリウス師の詰問に対して、ウラジミル師は絞り出すような声で反論するのがやっとだった。その声には往年の覇気が感じられず、心なしか、震えているようだった。
「ふん!!こんな地獄のような国が存続するぐらいなら、戦乱の世に逆戻りしたほうが、マシではないのか!!おぬしは経済が立ち直るまで独裁を続けるつもりらしいが、経済が立ち直るのは、いったい何年先だ!?十年先か?百年先か?……いや、そもそも、本気で経済を再建する気があるのか?聞くところによれば、秘密警察の幹部どもは、農民や商人に言いがかりをつけては、法外な金を搾り取っているそうではないか。いくら働いて稼いでも、かたっぱしから権力者に搾り取られるとなると、人民は働く気をなくしてしまい、経済の再建は遠のくばかりだぞ!!」
ユリウス師の舌鋒は鋭かった。さすがに、若いころはウラジミル師と一緒に政敵を糾弾しただけのことはある。
「……わしだって、それに対しては、何もしていないわけではない……あちこちに側近の者を密かに派遣して、幹部の汚職の実情を調査させたりしている。もし、汚職が発覚すれば、たちどころに厳罰に処している……。」
「そうは言っても、おぬしが処罰できているのは、汚職のごく一部に過ぎぬではないか!!汚職の多くは見逃されている、という事実を、どう考える!?」
「………。」
追及の手をゆるめないユリウス師に対して、ウラジミル師は、もはや、何も答えられなかった。
「黙れッ!!貴様ぁ……政治犯の分際で、言葉が過ぎるぞ!!」
ゴスッ……!!
ふいに、ユリウス師の傍にいた秘密警察の機関員が、手にしていた剣のさやで、ユリウス師の腹を思いっきり小突いた。だが、ユリウス師はわずかに顔をしかめただけで、声ひとつ上げなかった。
「やめぃッ!!この男は、政治犯と言えども、わしの旧友でもあるのだぞ!!」
「しかし……。」
「これは命令だ!!やめぃ!!」
ウラジミル師の命令により、機関員は、しぶしぶ剣をひっこめた。
「……ふん!!しょせん、暴力を使わねば何もできぬのか……愚か者めが……。」
ユリウス師は、見下すように機関員を見て言った。
「何だと…きっさまぁ……。」
機関員は再び剣を振り上げたが、ウラジミル師が睨みつけたため、仕方なく剣を降ろした。
「ウラジミルよ。覚えておくがいい。貴様は、正教救国同盟の最大の裏切り者だ。いや、キュリロス正教の歴史上、最大の裏切り者だ。民主的な法治国家を作ると言いながら、歴代のどの国王でさえ作らなかったような、独裁的な官僚機構と秘密警察を作りおって……貴様は、いずれ、その報いを受け、地獄の業火に焼き尽くされることになるぞ………。」
政治改革のために、ともに立ち上がった同志とは言え、最後には、こんな形で相まみえることになろうとは、誰が予想しただろうか……。
(……ユリウスは、国外追放にするしかないだろう。あれだけ人民に人気があるのだから、処刑するのは、まずい。処刑すれば、『殉教者』として反革命分子どもの英雄に祭りあげられてしまう……やはり、国外追放しかない……。)
ユリウス師を独房に戻した後、礼拝堂へ向かう道すがら、ウラジミル師は考えた。最近では、以前のように書物を読む時間がめっきり減ってしまい、ひたすら一人で礼拝堂にこもる時間が増えている。
官邸内にしつらえてある小さな礼拝堂に入ると、ステンドグラスから差し込む西日を浴びながら、ウラジミル師は静かにひざまずき、祈りを捧げた。
「神よ……偉大なる神よ………我々が、善良な人民を救おうとして革命を起こし、王政を倒してから、既に三年あまり………その間、貴族の反乱、食糧不足、経済の破綻など、さまざまな困難に直面し、その都度、現状を打開するために、できる限りの手を打ってきました。農民から食料を徴発したり、都市の住民に強制労働を課したりしたのも、慢性的な食料不足を解決せんがため……独裁的な官僚機構や秘密警察組織を作りあげたのも、革命や戦争で崩壊した秩序を回復せんがため……言論の自由を弾圧したのも、私の政策を誹謗し、非現実的な理想郷ばかり要求する反革命分子どもを取り締まらんがため………私としては、天下万民のために精一杯のことをしてきたつもりです。その結果として、経済が立ち直り、民主的な法治国家ができるのなら、我が身はバラバラに切り刻まれて地獄の業火に焼かれてもかまわぬと、本気で思っておりました……。
だが、経済は一向に好転せず、食料も相変わらず不足しています。今や、ウラジミルの名は、人民の呪詛の対象………人民は表面的には『ウラジミル師、万歳』と叫んでいますが、秘密警察の目の届かない所では、我々に対する不平不満が渦を巻いている始末……。中には、『国王は大嫌いだが、王政時代のほうが、今よりはマシだった。』などという声も聞かれ………。」
そこまで言うと、ウラジミル師はつまった。悔し涙が一筋、二筋と流れて、のどの奥から嗚咽が漏れる。心の奥底で押し殺していた負の感情が、あふれてくる……。
そうしているうちに、今の自分の置かれた状況に対して、無性に腹が立ってきた。いきなり立ち上がると、何かの衝動に駆られたように、机や壁を叩き、椅子を蹴り飛ばし、外まで聞こえるような大声で、ウラジミル師は叫んだ。
「なぜに……なぜに、わしばかり悪人として裁かれねばならんのだ………わしは信仰を持っていた……学生時代には、聖書はもちろんのこと、古の預言者が書いた聖典は全て読みあさり、己の手本として、常に復唱した。愚かな貴族よりも……その貴族と一緒になって人民から搾取する、堕落した聖職者よりも……何倍も本を読み、まわりの人民と対話してきたつもりだ……。
なのに、なぜ、わしだけが裁かれねばならんのだ!?信仰を持っているわしが、『狂信者』と罵られているのに、信仰を持たず、革命のために戦わず、口先で理屈を言うだけの輩が、『良識ある者』として、人民に受け入れられる……。こんな馬鹿な話があるか……!!」
そこまで一気に言うと、ウラジミル師は、壁にもたれかかり、ため息をついた。わめき散らしたことで、多少、気分が落ち着いたらしい。
「ふ…ふふふ……わかっているさ…こうなったのも、皆、わしの政治が間違っていたからだということは……。己のやったことを反省できぬなど、聖職者として最低の行為だということもな……。だが、理屈ではわかっていても、心が納得してくれぬ……。わしの人生の全てをかけてきた『革命』が間違いだったなどと、死んでも認めたくないのだ……。」
自嘲的な笑みが浮かんだ……。押さえた目頭から、涙が幾筋も溢れてくる……。
「神よ……この愚かな聖職者を笑ってくだされ……あなたのお顔に泥を塗った、最低の聖職者を……。」
ウラジミル師は、そのまま泣き崩れた。
その直後、礼拝堂の扉をノックする音が聞こえた。
「誰だ?」
ウラジミル師は慌てて涙をふきながら尋ねた。
「国防相のレオンでございます。反革命分子の処刑について、報告に参りました。」
「よし、入れ。」
「では、失礼します。」
レオン師は扉を開けると、一礼して入ってきた。その手には、分厚い書類の束をかかえている。
「報告いたします。一昨日、政府軍の第五師団と第七師団に紛れ込んでいた王党派の反乱軍のスパイを発見しましたので、昨日拷問して、反乱軍について知っていることを全部吐かせたうえで、処刑しました。」
「ご苦労…。」
ウラジミル師は、感情のこもってない声で答えた。いい加減、処刑や収容所送りの報告には、うんざりしていた。
(いったい、いつまで、こんなことを続けねばならんのだ……。)
革命政権を守るためとわかっていても、内心では、すっかり嫌気がさしていた。
「大丈夫ですか?ずいぶん、疲れていらっしゃるようですが……。今は大事な時です。お体には充分に気をつけてください。」
「…ん…確かに、そうだな……。気をつけねば……。」
実際、三年前に民衆に推されて首相になった頃に較べると、ウラジミル師はずいぶん老けこんでいた。髪の毛はほとんど白くなり、顔には深いしわが刻まれている。長い独裁政治が、ウラジミル師の体と神経をむしばんでいた。
「あと、個人的なことで申し訳ありませんが……。」
そこで、レオン師は、いったん言葉をつまらせた。
「何だ?もったいぶらずに、早く申せ。」
「では、言いましょう。ウラジミル師よ。先程、ここで泣いておられたでしょう。」
一瞬、ウラジミル師は、身をこわばらせた。
「な、何を言うか!!泣いてなど……。」
「隠しても、わかりますよ。頬に残っている、涙のあとを見れば……。何に対して泣いておられたのです……今までに処刑した反革命分子に対してですか?それとも、処刑せざるを得なかったという、ご自分の弱さや愚かさに対してですか?」
「そんなこと、おぬしには関係ないではないか!!わしが礼拝堂で何をしようと、わしの勝手だ!!」
「いいえ、ウラジミル師一人の問題ではありません。もし、ウラジミル師が多くの部下たちの前で泣き崩れるようなことがあれば、あなたを信じてついてきている部下たちは動揺します。今や、あなたは、正教救国同盟ウラジミル派に属する同盟員全員のカリスマであり、司令塔なのです。あなたの態度ひとつで、部下が意気消沈することもあり得る、ということを覚えておいてください。」
レオン師は、いつになく真剣だった。
「我々の政権が独裁政権である以上、部下たちには、『人民を抑圧する政権に加担している』という負い目があります。だからこそ、指導者は部下たちに自信を持たせてやらねばなりません。『我々のやってきたことは間違っていない』ということを自覚させ、そのうえで、『こうやるべきだ』という方向性をはっきり示してやることです。間違っても、ご自分のやってきた政策を否定したり、国の将来を悲観したりしてはなりません。」
「わかっておる……わしだって、自分の政治が間違っていたとは考えたくない……だが、おぬしには、聞こえぬのか?我々によって処刑されたり、強制労働をさせられたりした者たちの、怨みの声が……見えぬのか?毎晩のように枕もとに立つ、彼らの幽霊が……。いい加減、気が変になりそうだ……。」
ウラジミル師は、頭を抱えながら言った。その姿は、独裁者と言うよりも、いじめっ子の悪意におびえる幼い子供のようだった。
「お気を確かに持ってください。あなたの罪の意識が、そのような幻覚を見せるのです。死んでいった人民のことを、あまり気になさいますな。
革命とは戦争なのです。歴代の国王がやってきた戦争で、罪もない人民が何万人死んだと思っておられるのですか。」
レオン師の口調は、だんだんと熱を帯びてきた。
「我々は、既に引き返せない所まで来てしまったのです。王政を倒し、我々の政権をつくり、外国軍や貴族どもの反乱軍と戦う過程で、何人の部下が死んだと思っておられるのですか!!彼らは、あなたの目指している『民主的な法治国家の建設』のために命を捧げたのですぞ!!ここであなたが立ち止まったり引き返したりすれば、部下たちや人民の犠牲は、全て無駄になってしまいます!!」
そこで一息ついて、レオン師は続けた。
「あなたが政治を投げ出したいと思う気持ちはわかります。しかし、我々が権力の座から退けば、王族や貴族が再び権力を握りますよ。今、政権をつくれるほどの強大な軍事力を持っているのは、我々と、貴族どもの反乱軍の二つしかないのですから。
我々には、この国、ルースラントが民主的な法治国家に生まれ変わるまで、監督する義務があります。ここで投げ出すことは許されません。これは、革命指導者の責任であり、宿命なのです。」
ウラジミル師は、黙って聞いていた。
(そんなことは、わかっておる……。だが、理屈ではわかっていても、心が納得してくれぬのだ……。気持ちが前に向いてくれぬのだ……。)
レオン師の理屈は、何ら、ウラジミル師の心を満たしてはくれなかった。さすがにレオン師も、そのことを肌で感じ取ったのか、しばらく口をつぐんだ後、今までとは打って変わって優しい口調で語った。
「どうやら、精神的に疲れきっているようですね。私の言葉も耳に入らぬほどに……。そういう時は、泣きなされ……。部下たちの手前、ご自分の弱い所を見せられず、お一人で抱え込んでおられたのでしょうが……悲しい時には、思いっきり泣いたほうがいいです。さいわい、今、礼拝堂の付近には、私しか居りませぬ。泣き声を大勢の部下たちに聞かれることはありませんよ。」
「………。」
しばらく両者の間に沈黙が流れた。
「ふ…ふふ……。」
ふいに沈黙を破って、ウラジミル師は、笑い始めた。
「…??……どうなさいました?」
「いや、『わしは良い側近を持ったな。』と思ってな……。」
「…?…その『良い側近』というのは、私のことですか?」
「当たり前ではないか。おぬし以外に、誰がいる?……だいたい、いつの時代でも、独裁者というのは、孤独なものだ。付き従う部下は数多くいても、皆、独裁者の権力を怖れて媚びへつらうか、権力を利用しようとする者ばかりだ。誰も信用できぬ……。おぬしのように、面と向かって本音を言う者などいない……。」
「正教救国同盟を指導してきた多くの幹部を見てきて、『この国を正しい方向に導けるのは、あなたしかいない。』と確信しましたからね。といっても、あなたのやり方にはついていけずに、かなり口論もしましたが……それでも、食料不足や貴族どもの反乱に対して、何もできなかった他の幹部に較べれば、はるかにマシな幹部だったと思います。過ちを怖れずに、できる限りの対処をしたのは、あなただけですから……。」
数時間後、レオン師は一人で官邸を出た。同時に、官邸の玄関を警備している衛兵が敬礼をする。レオン師は衛兵に軽く会釈をすると、表に待たせてあった馬車に乗り込んだ。
(やれやれ……どうも、ウラジミル師は人民の痛みに敏感すぎる……人民や部下の痛みを、自分の痛みのように感じすぎる……。まあ、その優しさゆえに、部下たちがついてくるのだが……。
そもそも、ルースラントは今、『腐りきった王政』という大病を治すための大手術を行っている最中なのだ。手術に痛みが伴うのは、当然ではないか……。)
レオン師は、馬車に揺られながら考えた。
(人民の痛み以外にも、憂慮すべきことは、山ほどあるだろうに……。
例えば、労働大臣のヨシフだ。もともと秘密警察の幹部だったが、あまりに粗暴な性格のために、ウラジミル師によって、実権を持たない労働省まで追い払われた者……労働省では、さすがのヨシフも大人しくなるかと思われたが、やつは予想外にしぶとかった……。
労働省に移ってからも、ヨシフは密かに秘密警察の者たちと連絡を取りあい、秘密警察の幹部を次々に抱き込んでいるという情報もある。この前、警察大臣のジェルジンスキー師が何者かによって毒殺され、犯人は未だに捕まっていないが、ヨシフのしわざだと考えて間違いないだろう……。ヨシフはジェルジンスキー師を嫌っていたからな……。)
実際、生真面目な神官であるジェルジンスキー師は、野心家のヨシフ師を快く思わず、常に対立していた。
(ウラジミル師の意に逆らう行動をとる以上、やつをこのままにしておくのは危険だ。おそらく、ヨシフは秘密警察を特権階級に押し上げ、自分の支持基盤にして、第二の国王になるつもりだろう。いずれ我々が解体すべき秘密警察の特権と権力を永続化することによってな……。
今は、わしが軍を掌握しているから良いとしても……ヨシフが秘密警察を完全に掌握すれば、軍に対抗できる一大勢力となる……。何としても、早いうちにヨシフをつぶさねばならぬ……。)
そんなことを考えているうちに、国防省の玄関の前に着いた。
(やれやれ……明日から、また馬に乗って前線を視察せねばならぬ……。神官の僧衣を着て馬車に乗れるのも、今日だけだ……。)
レオン師は、疲れた体に鞭打つようにして国防省の建物の中に入っていった。信仰のためには、いかなる敵も粉砕するという、狂信的なまでの意思が、レオン師を支えていた。
時折、「おまえの信仰とは、ただの自己満足に過ぎぬのではないか?革命指導者としての、己のプライドを守るためだけのものではないのか?キュリロス正教における神の愛とは、殺傷や弾圧によらねば与えられないものなのか?」などという声が、どこからともなく聞こえてくるような気がしたが、レオン師は全て無視した。
(既に我々は、多くの部下や人民を犠牲にしているのだ。『我々の信仰は正しい』と信じていなければ、どうして前に進めようか……どうして政治ができようか……。ここで己の信仰に疑念をいだくことは、己の人生そのものを否定することに等しい。我々の全てを捧げた価値観や存在理由を否定することに等しいのだ……。)
だが、結果として、その信仰そのものがレオン師の目を曇らせることになった。信仰という色眼鏡を通してしか、国の現実を見ることができなくなり、そのために、人民が何を望んでいるのか、政敵が何を企んでいるのか、はっきり見えなくなっていたのだ。
それから数ヵ月後、貴族たちの反乱軍は、政府軍によって完膚なきまでに叩きつぶされ、貴族たちは外国へと亡命した。それと前後して、ウラジミル師の政治を批判した神官たちも、亡命せざるを得なかった。
彼らよりも一足先に国外追放になっていたユリウス師は、近隣の国々で有志を募り、ウラジミル師の独裁政権と、民主的な方法で戦うための組織をつくろうとしたが、志半ばにして、一年後に客死した。
また、ウラジミル師自身も、しばらくして脳を病み始め、連日のように幻覚にさいなまれるようになった。発病から半年後には、言語障害、右半身の麻痺が見られ始め、知能は著しく低下した。結局、医師団の治療の甲斐もなく、ウラジミル師は二年後に死亡した。死の直前には、別人のようにげっそりと痩せ細り、自力でベッドから起き上がることもできず、言葉もほとんど話せない状態だったという。国外にいる亡命者たちは、「ウラジミル師は、今までに殺した反革命分子たちの霊に、とり殺されたのだ。」と噂した。
その一方では、ヨシフ師が着々と権力を握るための準備を進めていた。ウラジミル師の病気が重いことを知ると、ヨシフ師は直ちにウラジミル師への面会を禁じて、病院に隔離し、病院を秘密警察の幹部たちに警備させた。ウラジミル師が将来、秘密警察を解体するつもりであることを知っていた幹部たちは、自ら進んでヨシフ師に協力し、ウラジミル師と外界との連絡を断ち切った。幹部たちは、一度手にいれた特権と権力を手放すつもりは、微塵もなかったのである。
同時に、ヨシフ師は、革命政権の機関紙「神の国」の編集者を抱き込み、連日のように、「神の国」紙上に、政敵であるレオン師を誹謗・中傷する記事を満載し続けた。思想統制によって革命政権を守るために、「神の国」以外の新聞が禁止されている状態にある以上、レオン師には反撃の手段がなかった。
誹謗・中傷は、「神の国」紙上だけにとどまらず、宗教青年団からも起こった。レオン師が同盟員の前で演説しようとすると、宗教青年団は必ず罵声を浴びせかけて妨害し、力ずくで演説を中止に追い込んだ。
ヨシフ師が、秘密警察だけでなく、「神の国」や宗教青年団の幹部たちの特権と権力を守る方向で、巧妙に味方を増やしていく一方で、革命の理念を説くことに終始していたレオン師は、軍以外に全く味方をつくることができなかった。「人は、革命の理念によって動くのではなく、己の利害や欲望に従って動く。」ということが、レオン師には理解できなかったのである。
毎晩遅くまで、汗だくになって、革命の理念を同盟員に説きつづけたにもかかわらず、レオン師は次第に政府内で孤立していき、最後にはヨシフ師によって国外追放に処された。
こうして、最大の強敵であるレオン師を追い払ったヨシフ師は、他の政敵たちに矛先を転じ、次々に粛清して、独裁を確立するに至る。
「偉大な聖職者による武力革命の後には、聖職者の仮面をかぶった凶暴な独裁者が現れる。聖職者の教えの本質は抜き取られ、その権威のみが、独裁者によって引き継がれる。独裁者は聖職者の『遺訓』と称して、己に都合のいい体制をつくりあげる。」というのは、ユリウス師の言葉であるが、後にヨシフ師に粛清された者たちは、この言葉をイヤというほどかみしめることになった。
第一章 リーザとアンナ
さて、革命から十数年が経過したころ――。
ここは、ルースラントの地方にある、小さな町……。
「おーい、シェスタぁ、どこにいるの?返事ぐらい、しなさいよぉ。」
ある、雪の降る寒い朝、アンナは飼い猫のシェスタを探して、街路へ飛び出した。なにしろ、今朝、目がさめた時から、姿が見えないのだ。ゆうべは、確かに、一緒に布団にくるまって寝たのに……。
「んもう、こんな寒い日に外に出たら、風邪ひいちゃうのに……何考えてんのよ…。」
アンナは気が気でなかった。実際、この国、ルースラントの冬は厳しい。夜中には零下数十度に下がることも珍しくない。現に、夜が明けたら浮浪者が凍死していたこともあるぐらいだ。
「でも、おかしいなぁ…今まで、シェスタが夜中に外に出ることなんて、なかったのに……。」
そんなことを考えていると………。
ニャー……ニャー……。
ふいに、前方から猫の鳴き声が聞こえた。シェスタの声だ。
「こら、シェスタ、どこ行って………!!」
駆け寄ってきたアンナは、思わず声をあげそうになった。なんと、目の前には、ボロボロの服を着て、体中、雪と泥にまみれた女が倒れていたのだ。年のころは、二十歳前後だろうか……その顔は、垢だらけで、憔悴しきっていた。シェスタは、この女に寄りそうようにして、鳴いていたのだ。
「……大変…お母さんに知らせなきゃ…。」
アンナはきびすを返し、家へと向かった。
「見つけるのが、もう少し遅かったら、肺炎を起こしていたところだよ。うちの娘が見つけたから、良かったものの……。」
アンナの母は、朝食を作りながら言った。その横のテーブルには、先程の女が座って、ガツガツと飯を食っている。どうやら、何日もまともな食事にありついてなかったようだ。五人分はあろうかという食事を、みるみるうちに、たいらげてしまった。
「……ふぅ……やっと、ひとごこちがつきました。どなたか存じませぬが、ありがとうございます。」
食事が終わると、女は礼を言い、左手にはめていた指輪を外して、アンナの母に差し出した。
「これ、安物ですが、とっておいてください。食事の代金です。」
「いいよ。困った時はお互い様さ。」
アンナの母は、朝食を作る手を休めて言った。
「では、私は、これで失礼します。お世話になりました。あなたがたの優しい心遣いは忘れません。」
女はペコリと一礼し、出ていこうとした。
「待ちな。こんな寒い中を、どこへ行こうと言うんだい?まだまだ冬は長いのに…道端で凍死するだけだよ。」
「でも、私がここにいると、あなたがたに迷惑がかかります。私は……その………。」
女はしどろもどろに言った。
「…政治犯かい?」
ふいに、アンナの母の口から出た言葉に対して、女がビクリと身を震わせるのが、見てとれた。どうやら、当たりのようである。
「……そうなんです。だから、私にかかわったことが秘密警察にばれると、あなたがたにまで危害が及ぶことになります。とにかく、私が一刻も早く遠くへ逃げないと…。」
「だから、どうしたって言うんだい。この町を治めているラコーバ市長は、庶民には寛大な御方でね、やたらに政治犯を逮捕したりしないし、汚職もしないし……よその町や村に較べたら、この町ほど身の安全が保障されているところはないさ。あんたも、その噂を聞きつけて、この町まで来たんじゃないのかい?」
女にとっては、まさに、その通りだった。
「ちょうど、店が忙しくて、人手が足りなくて困ってたんだ。あんたさえ良ければ、うちで働いてくれないかい?あんたみたいな美人のウェイトレスがいれば、客引きにもなるしさ。」
「いいんですか?私みたいな政治犯でも……。」
女は、ポカンとして尋ねた。この国の政治犯は、まともな職につけないのが普通なのだ。
「いいに決まってるでしょ。あたしからも、お願いしたいぐらいよ。」
朝の身づくろいを終えてキッチンに入ってきたアンナが言う。後ろから、シェスタがついてくる。
「シェスタが、すっかりあなたに懐いちゃってるんだよ。シェスタのためにも、うちにいてくれないかな。」
アンナが言い終わるよりも早く、シェスタが女の胸に飛び込んだ。
「おやおや、どうやら、あんたは猫に好かれるタイプみたいだね。」
アンナの母が苦笑する。女は、少し笑って、答えた。
「わかりました。私みたいな政治犯で良ければ、使ってください。どうせ、もう、のたれ死ぬしかないと、あきらめていた身です。便所掃除でも、ドブ掃除でも、何でもやりますから。」
「ドブ掃除までは、しなくていいよ。あれは、市が清掃業者を雇ってやらせてるから。」
アンナが困ったように笑う。
とりあえず、その日は、女は衣服を着替え、風呂に入って体中の垢を落として、割り当てられた屋根裏部屋でゆっくり休むことになった。さすがに、居酒屋で働く以上、汚い格好で客の前に出るわけにはいかない。
「そういえば、自己紹介がまだだったわね。私は、リーザ・マフノー。27歳、ここから、かなり南にある、小さな村の出身。」
「あたしは、アンナ・スウォーロフ。この居酒屋の一人娘で、高校一年生。でも、こうやって垢を落としてみると、リーザさんって、本当に美人だね。27歳に見えないって言うか……。」
「うちの村の人は、みんな、実年齢よりも若く見えるのよ。特殊な能力のせいでね。」
「特殊な能力?」
「……あ…いや、気にしないで。能力って言っても、そんなに大げさな物じゃないから。」
リーザは慌てて否定した。そのまま、怪訝そうな顔で見つめるアンナを尻目に、布団の上に寝転がる。
「はー…気持ちいい……何年ぶりだろ、こんなに落ち着くのは………。」
リーザは幼児のように柔和な笑みを浮かべて言った。
「今まで、どこへ行っても、警察に追われるか、住民に煙たがられるだけだった……誰も助けてくれなかった……こんなに、温かく迎えてくれた人たちは、初めてだった……。」
リーザの頬を、一筋の涙が流れた。アンナは、それを、ただ黙って見ていた。
「ねえ、リーザさん、政治犯って、どんな生活をしてんの?」
ふいに、沈黙を破って、アンナが尋ねると…。
……スー……スー………。
おそらく、今までの疲れが出たのだろう。穏やかな寝息をたてて、リーザは眠っていた。
「お待たせしましたぁ。鶏の串焼きセットです。」
大勢の客でにぎわう居酒屋の中、リーザの元気な声が聞こえる。
「しかし、いつ見ても可愛いねえ、リーザちゃん……どうだい?今度、俺とデートしない?」
「やだ、もう…冗談はよして下さいよぉ。私だって、仕事で忙しいのに、デートする暇なんてありませんよ。」
いつも通りの、客とのやりとり……仕事は忙しかったが、その分、毎日が充実しているし、働いてて楽しかった。
実際、リーザはよく働いた。朝の仕込みから、夜中の片付けまで、文句ひとつ言わずにこなした。
「それにしても、リーザは、本当に、よく働くねぇ。アンナも、しっかり店の手伝いをしないと、『看板娘』の座を取られちゃうよ。」
「無理言わないでよ。あたしは学校があるんだから。」
母の言葉に、アンナは反発する。
さて、よく働くと評判のリーザだったが……全く問題がないわけでもなかった。夜中にリーザの目が妖しく光るのを見たとか、屋根の上で近所の野良猫と一緒に鳴いているのを見たとか……とにかく、リーザに関しては、変な噂が絶えなかった。ある時は、リーザが生の魚を骨ごとバリバリとかじっているのを見た者がいるという……。
もっとも、アンナの母は、そのような噂を全て否定した。
「おおかた、新参者のリーザが男どもの視線をひとりじめしているから、それが気に食わないやつの流した、根も葉もない噂だろうよ。」
そう言って、店に来る客にも、変な噂に惑わされないようにと、注意した。
だが、あくまでもリーザのことを疑う者がいた。アンナである。リーザは週に一度ぐらいの割合で、閉店後の片付けが終わった後、ちょっとした荷物をかかえて外出するのである。母は片付けが終わると、さっさと風呂に入って朝までぐっすり寝てしまうのだが、アンナは夜中に目が覚めてしまうことが多いので、そうしたリーザの奇行には、なんとなく気づいていた。
(こんな夜中に、どこへ行くんだろう……?)
不審に思ったことも、一度や二度ではない。リーザに問いただしてみても、「え?昨日はずっと寝てたけど……。」という答えが返ってくるだけである。アンナの疑問は、ふくらむ一方だった。
(何だか、すごく気になる…リーザさんには悪いけど、今度、確かめさせてもらおう……。)
もともと、好奇心旺盛な年頃である。怪しいと思ったことは、確かめずにはいられなかったのだ。それから数日間、いつでも夜中に外出できるように準備を整えてから、アンナはベッドに入った。
そして、三日目の晩……。
アンナがベッドに入って寝たふりをしていると、リーザの部屋である屋根裏部屋のほうから、誰かが階段を降りてくる足音が聞こえてきた。
ミシッ……ミシッ……。
(間違いない……リーザさんだ…。)
アンナは耳をそばだてる。
ガタッ……ギイィィ……。
裏口の鍵を開けて、誰かが出ていく音が聞こえる。アンナは急いでベッドから起きだして身支度を整えると、裏口から外に出て、リーザの後を追った。
タッタッタッ………。
ろくに街灯もついていない街路を、リーザは疾風のように駆けていく。
(はぁ…はぁ……この街に来て間もないリーザさんが、どうして、こんな真っ暗な道を、迷わずにこんなに速く走れるのよ……土地勘があるわけでもないのに…。ガキのころから街中を走り回ってたあたしなら、ともかく……。)
リーザは息一つ切らさず駆けていく。後をつけていくアンナも、運動神経はいいほうだが、いい加減、息が切れそうだった。
ニャーゴ……ニャーゴ……。
前方から、猫の鳴き声が聞こえ始めた。それと同時に、どこからともなく、猫が集まってくる。猫たちは、そのままリーザの後について駆けた。リーザが街路を走り抜けるたびに、後についてくる猫の数は増えていく。
いつしか、猫の数は数十匹にふくれあがり、アンナのまわりは、猫だらけになってしまった。
(んもう…何なのよ……気味悪いなぁ……。)
アンナが、そう思った時…。
ズルッ……。
「きゃっ…。」
アンナは、ぬかるみで足を滑らせて、勢いよく転んだ。よく考えてみれば、この辺りは町外れなので、街路はまだ舗装されてなかったのだ。おまけに、夕方から降っていた雨のために、道はすっかりドロドロになってしまっている。
(いつの間にか、ずいぶん遠くまで来ちゃったな…。)
だが、次の瞬間…。
「誰だ?このガキ……秘密警察のイヌか…?」
ふいに、誰かがアンナのむなぐらを掴んで、体ごと引っ張りあげた。およそ、人間離れした力で、アンナを軽々と持ち上げて、妖しく光る目で睨みつけている。同時に、猫たちが、一斉にアンナの方を睨みつける。
「ひ…いぃ……。」
アンナは恐ろしさのあまり、声も出せなかった。
「…やれやれ…困ったことをしてくれたわね……アンナ…。」
向こうから歩いてきたリーザが、不機嫌そうに呟く。リーザの目も、やはり妖しく光っていた。
「なんだ?リーザ…おめえの知り合いか?」
「ええ、まあ……とにかく、手を離してやってちょうだい。その子が秘密警察のスパイじゃないってことは、私が保証するから…。」
ようやく、アンナのむなぐらを掴んでいた手が離れた。アンナは「ケホッ…ケホッ…。」とせきこみながら、地面にへたりこんだ。
「…で、どうして、後をつけてきたの?」
「……ごめんなさい。勝手なことをしちゃって……でも、どうしても、気になったから…。」
アンナは、今までのいきさつを簡単に説明した。
「なるほど…まあ、黙ってたのは悪かったけど……だからと言って、勝手に後をつけて来られても、困るんだけどねぇ……。私にも、他人に言えない事情とか、あるし……。」
「ごめんなさい…。」
アンナは、申し訳なさそうに、うつむいて言った。
「おい、謝って済むような問題じゃねえんだけどな…お嬢ちゃん…。」
先程、アンナのむなぐらを掴んだ女が、ドスのきいた声で言った。
「お嬢ちゃんは、リーザとあたいの秘密を見ちまったんだ…。『異教徒』として、政府から迫害されている、あたいら少数民族の体の特徴、『暗闇で光る眼』をな……。そして、あたいらが猫を集めているのを、見ちまった…。」
女は、アンナを睨みつけながら、つめよってくる。その目からは、明らかにアンナへの殺意が感じられた。
「トゥーラ、やめなさい。秘密を見られたからと言って、政府とは何の関係もないアンナを殺しても、何にもならないでしょうが……。」
「そうは言ってもよぉ…。」
リーザが制止したが、「トゥーラ」と呼ばれた女のほうも、引き下がらない。
「仕方ないわね……じゃあ、アンナにも『血の契約』を交わさせて、私たちの仲間にするってのは、どう?それなら、アンナも裏切れないだろうし…。」
「……こら、リーザ…おめえ、気は確かか…?『血の契約』ってのは、我が民族だけの…。」
「他に方法があるって言うの?言っとくけど、あなたがアンナを殺そうとするのなら、私が黙ってないわよ。」
「……でもよぉ…我が民族と全く血縁関係のないやつに、『血の契約』を交わさせるには、かなり、やべぇ儀式が必要なんじゃねえのか…それこそ、立ちあったやつ全員が死ぬかもしれねえような……。」
「仕方ないじゃない。そうしなければ、我が民族の同胞全員でアンナを殺さなければならなくなるんでしょう……とにかく、私はこれ以上、関係ない人を殺したくないのよ…。たとえ、我が民族のためであってもね……。」
一瞬、二人の間に、一触即発の険悪な雰囲気がただよった。
「あ…あのう…。」
ふいに沈黙をやぶって、アンナが口をはさむ。
「その『血の契約』って、何なの…?」
「……ああ、『血の契約』ってのはね…。」
リーザが慌てて説明し始める。
「私たちの民族に伝わる連判状みたいなものよ。もともと、少数民族として常に近隣諸国からの侵略を受けてきた私たちの民族には、同胞の裏切りを防ぐための儀式があった…。それが、『血の契約』……。
『自分は絶対に民族を裏切らない。もし、裏切った場合には、神によって、どんな罰を受けても文句を言わない。』という内容の呪符に、血判を押させるのよ。その上で民族の秘密を他人にしゃべったりした場合には、神の呪いによって、たちどころに体中の血管が破裂して、死に至るわ…。
まあ、異民族にこれを交わさせる際には、命の危険を伴うような儀式が必要だけど……私たちの神は、異民族に対して冷血だからね。キュリロス正教の神と違って……。」
リーザは厳しい表情で語った。
「……で、どうする?『血の契約』……やるかどうかは、アンナの自由だけど…でも、やらなければ、民族の同胞全員でアンナを殺すことになるかもしれないわね……民族の秘密を守るために…。」
一瞬、リーザの表情に気圧されたアンナだったが、すぐに平静を取り戻して、答えた。
「やるわ…。リーザさんが、そばについていてくれるなら……あたし、やる…。」
リーザはコクリとうなずくと、「ナーゴ…ナーゴ……。」としばらく鳴いて、猫たちに某かの合図を送った。猫たちも同じように、「ナーゴ…ナーゴ……。」と返事をして、アンナを取り囲む形で、隊列を組む。
「よし、じゃあ、ついてきな。」
そう言うと、リーザは再び走りだした。さすがに、アンナの足のことを考えて、スピードはいくらか落としてあるが、それでも町外れの林の中を走るには、速すぎるぐらいだ。
ようやく、林の中にある広場に着いた時には、アンナはくたくたになっていた。
「お疲れ様。よく、ここまでついて来られたね…。とりあえず、私は週一回の礼拝の準備をしないといけないから、あとは、トゥーラの指示に従ってちょうだい。」
リーザが息を整えながら、声をかける。同時に、小脇に抱えていた包みをほどいて、中に入っていた物をあちこちに配置し始めた。
「さて…お嬢ちゃんは、あたいと一緒に、『血の契約』のための下準備につきあってもらうぜ。」
先程、「トゥーラ」と呼ばれた女が、声をかける。
「…いい加減、『お嬢ちゃん』って呼ぶの、やめてくれませんか。あたしには、『アンナ・スウォーロフ』っていう、ちゃんとした名前があるんだから……。」
「そうか…じゃあ、『アンナちゃん』とでも呼ばせてもらおうか。実際、おめえ、可愛いもんな。」
そう言いながら、女はアンナの頬をなでた。
「ふざけないでください!!」
アンナは露骨に不機嫌そうな顔をした。
「わりぃ、わりぃ……アンナちゃんの反応を見てると、面白くってよぉ…つい、悪い癖が出ちまった……。ごめんな…。それから、あたいの名前は、『トゥーラ』っていうんだ。よろしくな。」
トゥーラは悪びれる様子もなく、照れ笑いを浮かべて言った。
「おっと…下準備のことをうっかり忘れるところだった。こうしちゃいられない…。」
そう言うと、トゥーラは急に真顔になり、懐から複雑な紋様が書かれた紙切れを取り出して、アンナに見せた。
「悪いが、夜明けまでに時間がねえんだ。手っ取り早くやらねえと、間に合わねえ……。とりあえず、アンナちゃんの血を、少しだけ、この呪符にしみこませてくれ…。」
さて、アンナとトゥーラが『血の契約』の下準備を進めている一方では、リーザがせっせと礼拝の道具を並べていた。
しばらくして、並べ終わったのを見ると、リーザの正面には、何やら神像のような物が置かれ、その前には、供え物が乗せられた簡単な祭壇があり、周囲には香炉や燭台が置かれている。
アンナとトゥーラを祭壇の前に並ばせると、リーザは燭台のロウソクに火をともして、うやうやしく神像に向かって膝をつき、手を組み、祈りの言葉を唱え始めた。
「我が民族の祖先であり、偉大なる守り神であらせられる、女神アリーナよ……私を無事に、この街までたどり着かせていただき、感謝の言葉もございません。今や、この街で友人もでき、わずかながら、貯金もできましたので、今までのお礼として、魚と肉をお供えさせていただきます……。どうか、我が民族を末永くお守りください。不倶戴天の敵である、ウラジミル一派の魔の手から……その他、ありとあらゆる災厄から……。」
リーザは、ひたすら唱え続けた。トゥーラは膝をついて手を組んで黙祷し、アンナもそれに習って黙祷する。そのまわりでは、猫たちが頭を下げて、黙祷している。少数民族の文化を知らない者から見たら、異様としか思えないような光景だった。
アンナは黙ってリーザの祈りの言葉を聞いていたが、ふと、「女神アリーナ」、「ウラジミル一派の魔の手」という言葉に、はっとなった。「女神アリーナ」といえば、政府からは、「悪魔の手先」として扱われている、異端の神である。
(間違いない…リーザさんは、少数民族の反革命分子の神を信奉しているんだ…。)
少数民族……この国、ルースラントで、キュリロス正教を信仰していない異教徒や、独自の言語や文化を持つ住民は、全て、そう呼ばれた。
キュリロス正教を信仰し、ルーシ語を話すルーシ族が、人口の六割を占める以上、少数民族は、常に政治的にも経済的にも差別を受けていた。
狩猟民であり、文化の水準の低いチュワシ族、チェルケス族は、常に「蛮族」として見下されていた。遊牧民であるカルムイク族も、同様に「蛮族」として見下された。農耕民であるアリーナ族や、商業民であるエルサレム族は、文化の水準が高いにもかかわらず、異教徒であるという理由で、差別された。
特に、猫の化身である「女神アリーナ」を崇拝しているアリーナ族は、政府から「魔女の民」と呼ばれ、彼らの信仰は、「異端の思想」の最たる物のひとつとして、忌み嫌われていたのである。彼らの多くは、政府の迫害のために殺され、生き残った者たちも、己の素姓を隠して、人里から離れた山奥や、スラム街の貧民たちの中に潜伏せざるを得なかった。
祈り始めてから、一時間ばかりたった頃―――。
「……では、女神様…夜明けまでに時間がありませんので、そろそろ『血の契約』の儀式に移らせていただきます。」
リーザのこの言葉で、アンナは我に返った。
(いよいよか…。)
先程、呪符に血を垂らすために傷つけた指先の痛みが、よみがえってくる。
リーザは、祈りを捧げていた先程までの敬虔な表情とは、うって変わって厳しい表情になり、アンナのほうを見て言った。
「アンナ、女神様の像の前に立ちなさい。トゥーラも。」
既に神像の正面には、火がたかれ、両側に置かれた香炉からは、怪しげな臭いのする煙が立ち昇っている。あらかじめ覚悟を決めていたとは言え、その異様な光景に、アンナは震え上がった。
「では、これより、『血の契約』の儀式を始めさせていただきます。」
リーザの重みのある声が響き渡る。
「アンナ、ここから先は、全てトゥーラに従いなさい。残念ながら、私がついていてあげられるのは、ここまでだから……。生まれた直後に女神様の洗礼を受けてない異民族には、どうしても、この儀式が必要なの……。」
そこで、リーザはトゥーラのほうに向き直って、続けた。
「トゥーラ、後は頼んだよ。私はここに残って祈祷を続けなくちゃならないから…。」
「まかせとけって。間違っても、アンナちゃんを死なせたりはしねえよ。アンナちゃん、可愛いからな。これから毎日、あたいが可愛がってやるんだから。」
トゥーラは、いたずらっぽく笑った。それと同時に、リーザのビンタが炸裂する。
「間違っても、アンナを毒牙にかけたりしたら、承知しないからね。覚えときなさい。」
「…いててて……相かわらず、冗談の通じねえやつだな。おめえは…。」
リーザは、普通の人間には聞き取れないような言葉で呪文を唱えながら、アンナが血をしみこませた呪符を、正面でたかれている火にくべた。呪符はみるみるうちに燃え上がり、青白い炎を発して燃え尽きた。
呪符が燃え尽きると同時に、アンナとトゥーラの心臓は激しく脈打ち始め、体中の血が沸騰するような感覚におそわれた。
「あ…あああああ……!!」
耐え切れずに、アンナは悲鳴をあげる。
「気をしっかり持て、アンナちゃん…こんなの、ただのまやかしだ……。」
そう叫んでいるトゥーラも、やはり同じような感覚におそわれていた。
やがて、アンナが気を失い、祭壇の前に倒れ伏す。
「…へへ…どうやら、アンナちゃんの魂……女神様のいらっしゃる、精神世界まで行っちゃったみたいだぜ……。あたいも、そろそろ、意識が飛びそうだ……じゃあな、リーザ…生きてたら、また会おうぜ……。」
続いて、トゥーラも倒れ伏す。後に残されたリーザは、玉のような汗を額に浮かべながら、呪文を唱えつづけた。
(これからアンナの魂は、女神様の審問を受けるだろう……その結果、女神様がアンナを拒絶すれば、アンナはもちろんのこと、私もトゥーラも女神様の怒りに触れて死ぬことになる……。)
呪文を唱えながら、リーザは気が気でならなかった……。
……二人が気を失ってから、どれくらい、時間がたったろうか……。
「おい、アンナちゃん、しっかりしろ…。」
頬をペチペチと叩かれる痛みで、アンナはようやく目を覚ました。
「ここは…!?」
そこには、茫漠とした灰色の空間が広がっているだけで、宙に浮いているアンナとトゥーラ以外に、動くものはなかった。
「女神様の精神世界の中だ。これからアンナちゃんは、異民族として、女神様の審問を受けることになる…。」
トゥーラが言い終わると同時に、正面の空間が割れて、人影が現れた。トゥーラは、不安そうにしがみついてくるアンナをぎゅっと抱きしめて言った。
「あれが、女神様だ…。」
その姿に、アンナは、ぎょっとした。およそ、猫の化身と言われるだけあって、顔は猫そのものである。体つきは人間だが、体毛やしっぽは、猫のそれであった。女神アリーナは、切れ長の目で、二人の爪先から頭のてっぺんまでをなめるように眺め回しながら、余裕に満ちた声で言った。
「ふふ……そう怖がらずとも良い。別に、そなたをとって食おうとは思うておらぬ…。」
その言葉にアンナが少し安堵したかと思うと…。
「もっとも、そなたの心のあり方次第では、とって食うかも知れぬがの…。」
一転して、女神は意地悪そうにニタリと笑った。
「…『アンナ・スウォーロフ』といったな。そなた、ルーシ族であろう…。あいにく、わらわは、ルーシ族が嫌いなのだ。ルーシ族に限らず、発達した文明を持つ諸民族は、みんな嫌いだ…。
文明は権力を生む。良民を虐げる専制君主や独裁者や貪官汚吏(汚職をする役人)を生む…。その一方では、あくどい高利貸しや奴隷商人、麻薬の密売商人、その他、ありとあらゆる犯罪組織を生む…。
実際、文明の進歩によって、不当な暴行が少なくなったのか…?国家や民族の間の戦争が少なくなったのか…?自然界のバランスを守らずに、人間だけが繁殖し続け、文明を築いた結果が、これだ……。
太古の昔…人間が自然界と調和して生きていた時代には、わらわが因果応報の原理によって、我が民族を統治した。他人に害をなす者は、疫病によって死に至らしめ、他人に善行を施した者には、ありとあらゆる幸福を与えて、それに報いた。あの当時は、それで全て、うまくいっていたのだ…。
ところが、進んだ文明を持ち、破壊力のある武器を持っている他民族が侵略してくれば、文明を持たない我が民族は、必ず負ける…。おまけに、他民族はわらわ以外の神の庇護を受けている以上、わらわの力で打ち負かすことができない…。仕方がないので、わらわは我が民族に文明を持つことを許した。もっとも、その文明によって、わらわの人間界における力は弱まり、因果応報の原理で統治することができなくなってしまったがな…。」
女神は懐かしそうに語った。
「…ふふ……全く、よく飽きもせずに、愚かな圧政や戦争ばかりやるものよ…その一方で、国内の治安だの民生だのは、そっちのけにしおって……いつの時代でも、権力者とは、愚かで独善的なものだ。特に、この国の専制君主どもはな……。」
そこまで言うと、女神は、いったん口をつぐみ、改めて、アンナの全身をくまなく眺め回した。やがて、真顔になると、再び口を開いた。
「さて…そなたの心がどれほどのものか、確かめさせてもらうぞ…。もし、独善的な権力者や、文明の害毒に染まった愚か者どもの心と同じなら…その命、わらわがもらう!!」
一方、リーザは相かわらず、祭壇の前にひざまずき、祈祷を続けていた。既に一時間にはなるだろうか…。リーザの顔は、汗びっしょりだった。
その時、リーザは、左の草むらの方から漂う異臭に気づいた。木と木の間を埋め尽くすように生えている、長い草の間から漂う独特の異臭…。常人なら気づかないような、かすかな臭いだが、リーザの獣なみの嗅覚は、ごまかせなかった。
(間違いない…秘密警察の使い魔、魔獣『ポグロム』だ。よりによって、こんな時に…。)
ポグロムは、庶民の間に潜伏している反革命分子を狩り出すために、秘密警察が異世界から召喚する魔獣である。黒い大きな犬のような巨体と、真っ赤に光る眼を持ち、発達した嗅覚と、鋭い牙を備えており、中には簡単な魔術さえ使うポグロムもいた。こいつに狙われたら最期……どこに潜伏していようとも、必ずアジトを嗅ぎつけ、夜の闇に紛れて疾風のように襲いかかるポグロムは、政治犯から「地獄の猟犬」と呼ばれて恐れられていた。リーザとて、命を狙われたことは、一度や二度ではない。
(今は祈祷の最中だけど、私だって、呪文を唱えながら闘えるわけじゃない……。女神様、しばらく、祈祷の呪文を中断することをお許しください。)
心の中で、女神に向けて念じると、リーザは祈祷の呪文を唱え続けながら、左手で印を組んだ。途端に、ポグロムが牙をむいて襲いかかる。
バシィィィ………!!!
間一髪で、リーザは左手で印を組んだバリヤーを発動し、ポグロムの突進を防いだ。バリヤーに弾かれたポグロムの巨体が、もんどりうって倒れる。間髪を入れずに、リーザは密かに印を組んでおいた右手の魔術を発動した。
バシュウウゥッ……!!
右手から放たれた、一条の白い光が、ポグロムの脇腹を貫く。
「グガオオオォォォンン……!!」
絶叫する魔獣……だが、致命傷ではない。脇腹から、どす黒い血を流しながらも、どうにか起き上がり、体勢を立て直す。
その間にリーザは、先程まで祭壇に供えておいた剣を抜くと、ポグロムめがけて斬りかかった。
「女神アリーナの名において命ずる。闇から来し魔獣よ、汝の居るべき世界へ戻れッ!!」
女神の力で魔物を調伏する「浄化」の呪文と共に、剣が一閃する。
ザシュッ……!!!
「ギャオオォーーーンン……!!」
ポグロムの断末魔の絶叫が響き渡る。リーザの剣は、ポグロムの首を深々と薙いでいた。
(女神様の祭壇の火で清めた剣だもの……女神様の魔力の宿った剣で斬りつけられたら、いくら魔獣といえども、こたえるでしょうよ……。)
暗闇から疾風のように襲いかかる、鋭い爪と牙をくらわずに、短時間で息の根を止めてしまう攻撃……政治犯として秘密警察に追われ続け、ポグロムにも何度も襲われた経験のあるリーザは、ポグロムの突進を防ぎながら一気に打撃を与えるのに慣れていた。
だが、今度ばかりは、様子が違った。
斬りつけた直後に、ヒュンッと風を切るような音を立てて、背後から何かが飛んできたかと思うと……。
ドシュッ……!!
「ぐあっ……!!」
いきなり、右肩に激痛が走り、リーザは、思わず剣を落としてしまった。よく見ると、右肩には、ナイフが深々と突き刺さっているではないか……!!
(いったい、誰が……後ろに誰かがいるような気配なんて、なかったのに……。)
「こらこら、あんまり動くな…。動くと、ナイフに塗ってある毒が体中に回って、死に至るぞ…。」
ふいに、背後から声がしたかと思うと、人影が現れた。商人のような格好をしているが、身のこなしは、秘密警察に所属する魔道士そのものだった。
「クックック……百戦錬磨の政治犯、リーザ・マフノーともあろう者が、こうもあっさりと作戦にひっかかってくれるとは……『魔女の民』の五感がいかに優れていようとも、気配を消している相手には、気づかないものなのだな……。」
現れた男は、ニタニタと意地の悪い笑みを浮かべながら言った。
「何者……いったい、どこからナイフを……!?」
「ふふふ……冥土の土産に教えてやろう……。この俺が発明した呪符を使えば、臭いも音も殺気も消したまま、相手に近づくことができるのさ……で、ちょうど、おまえが目の前のポグロムに気をとられている間に、後ろから近づいて、ナイフを投げたってわけだ…。ちなみに俺は、秘密警察のヤゴーダ少尉。(秘密警察では、軍と同じ階級が使われている。)冥土の土産に、覚えとけ。」
「あっ…あああ…。」
他人に心を覗き込まれる感触に耐えきれずに、アンナは声をあげる。女神は、アンナの心の奥深くへと、強引に侵入していった。
「ククク…人間の心の闇は深い……どんなに『他人を憎むな。』とか『暴力を振るうな。』とか言われたところで、従わぬ輩はいくらでもいる。その現実を理解しようともせずに、信仰でどうにでもなると説いているのが、キュリロス正教の寺院の奥で祈りを捧げている坊主どもよ。まあ、人民が反乱を起こさぬように教化することも、坊主どもの仕事のひとつなのだが……。」
女神がアンナの意識下に侵入してくるにつれて、眠っていた記憶が呼び覚まされてくる。アンナの心の奥深くに眠っていたもの……子供の頃の記憶……。
(……?…あれ??…あたし、生まれた時から、この居酒屋にいたっけ…?)
ふいに、アンナは幼い頃の記憶がないのに気づいた。
ヤゴーダ少尉……魔道による調薬の技術に優れ、秘密警察では、もっぱら、自白剤などの開発や運用に携わってきた、戦闘員と言うよりも技術屋の魔道士である。
「リーザ・マフノー…さすがの秘密警察も、貴様には、ずいぶん、てこずらせてもらったよ。大勢で捕まえに行けば、必ず逃げられる……かと言って、ポグロムを差し向ければ、返り討ちに遭う……全て、『魔女の民』アリーナ族の超人的な五感と戦闘能力のためだ……。
おかげで、最近では、貴様の首に賞金までかけられる始末だよ……。」
そこまで言うと、ヤゴーダ少尉は、好色そうな目でリーザを眺め回しながら、リーザの頬をなでまわした。
「しかし、このまま殺してしまうには惜しい美人だな…。どうだ?秘密警察専属の慰安婦にでもならんか?他の仲間の居所を教えるなら、薬で魔術を使えないようにしたうえで、慰安婦にして命だけは助けてやってもいいが…ぐわっ…。」
リーザはいきなり、頬をなでまわしていた手に、ガブリと噛みついた。ヤゴーダはあわてて手をひっこめたが、リーザの犬歯が食いこんだ痕からは、血が流れていた。
「せっかくだけどね……あいにく、私らは、仲間を裏切れないようにできてんのさ。」
「くっ…貴様ッ……どうやら、本当に死にたいらしいな…。」
ヤゴーダが剣を抜きながら毒づいた刹那……。
シュッ……。
いきなり、ヤゴーダの背後から、何かが飛んできた。ヤゴーダは反射的に身をよじってかわしたが、頬からは、わずかに血が流れていた。
「何だ…!?今のは…。」
よく見ると、一匹の山猫が、ヤゴーダに向かって牙をむいているではないか。
「これは…。」
「知らなかったの?私には、動物を操れる力があるのよ。私に限らず、我が民族の魔道士で、それなりに魔術の修行をつんだ者なら、動物ぐらい操れるわ。まあ、本当に身が危険な時しか使わないけどね。」
そう語るリーザの目は、いっそう妖しく光っていた。
ふいに、アンナの脳裏に、不思議な光景が浮かんできた。それは、とても懐かしい光景…そう、アンナがまだ生まれて間もない頃の……。
「くっくっく……これは面白い……どれ、もう少し掘り起こしてみるか……。」
女神は興味深そうにニタリと笑った。同時に、パァンという音が響いて、アンナはその光景の中に投げ込まれた。
……パチパチパチ……ゴォォォォ……
炎が燃え盛る音が聞こえる。
「…ゴホッ…ゴホッ……誰かぁ…この子を助けてください……。」
同時に、乳飲み子を抱いて泣き叫ぶ女の声も聞こえる。その後ろからは、迫り来る敵兵の怒号が近づいてくる。
「いたぞ!!あそこだ!!逃がすな!!」
槍を持った敵兵が三人ほど襲い掛かってくる。それに気づいた女は逃げようとするが、どうやら足をくじいているらしく、びっこをひきながら、ヨロヨロと歩くだけだった。たちまち、敵兵たちに追いつかれる。
「あの高価そうな衣服……間違いない。こいつが、王党派の指導者、フョードル大公の妃だ。首を持って帰れば、賞金がもらえるぞ。」
敵兵の一人が、そう叫んで、女に襲いかかろうとした時……。
ザシュッ……!!
突如、横の回廊から現れた将校が、右手に持っていた剣で、敵兵の首を斬り飛ばした。首のあった場所からは、大量の鮮血がほとばしる。
将校は、残った二人の敵兵も、またたく間に斬りふせると、女のほうに向き直り、うやうやしくひざまずいた。
「大公妃さま…お怪我はございませぬか?申し訳ございませぬ。我々が不甲斐ないばかりに、この城までも、ウラジミルの革命軍に踏み込まれてしまいました……。」
「もう良い…そなたのせいではない……。既に民衆の心は、王党派から離れてしまっている。民衆は、万民の父たる国王陛下に忠誠を誓う我々よりも、狂信的なイデオロギーを持つ革命家どもを選んだ……。それだけだ……。」
女は、静かに言った。その顔には、怒りとも失望ともつかぬ表情が浮かんでいた。
同時に、その腕に抱きかかえた幼児を気遣うのも忘れなかった。幼児は、とうに泣き疲れて、眠っていた。
「私が死ぬのは仕方ないとしても……せめて、この子だけは……どこかに逃がしてやれないものか…。」
「『死ぬのは仕方ない』とは…何と弱気なことをおっしゃられますか……さあ、立ち上がって、歩いてください。私が肩を貸しますから……。」
将校は、女を叱咤するように言って立ち上がらせると、自分の肩に掴まらせて歩いた。
「誰も死なせやしませんよ。みんな、生き延びるんです…。生き延びて、隣国に亡命しさえすれば……。」
将校は、己に言い聞かせるように呟いた。
「先日、近隣諸国の国王たちは、ルースラントから王族や貴族が亡命してきた場合、亡命を受け入れ、総力をあげて支援する用意があると発表しました。革命軍を叩き潰すために、近隣諸国が連合して軍を派遣すべきだと主張する国王もいるようです。
だいたい、あのウラジミルだのレオンだのが唱えている『民主主義』という思想が、近隣諸国の貴族や地主たちに受け入れられることは、あり得ませんよ。伝統的な特権階級である、彼らの権利を脅かす思想ですからね、『民主主義』は…。
近隣諸国は、全力をあげて、革命家どもの政権を叩き潰そうとするでしょう。それに対して、ウラジミルやレオンは、『ルースラントの革命政権を守るためには、世界中で革命を起こし、この大陸中の特権階級を一掃するしかない!!』などと叫んでいますが、それこそ、夢物語です。いたずらに民衆を戦乱に巻き込むだけですよ…。
いずれ、ルースラントは長い戦争で疲弊し、外国軍に蹂躙されるでしょう……。」
将校は確信を持って言った。歩きながら、それを聞いていた女は、思わず目をみはった。
「驚いた……そなた、普段の勤務では、ぱっとしないくせに、意外に国際情勢を考慮に入れるだけの知性があるのだな……。」
「……こんな戦で死なずに、生き延びるためですよ…。」
将校は、ポツリと呟いた。
「私は、こんな戦で死ぬつもりは、さらさらありませんからね。腐敗しきった王党派のために死ぬなど、まっぴらです。軍人だって、好き好んでなったわけじゃない……貴族の家に生まれた一人息子として、家を継ぐために、軍人にならざるを得なかっただけです……。
私としては、腐敗しきった王党派にも、狂信的な革命家どもにも味方するつもりはありません。私は私のやりたいようにやる…それだけです…。」
「…なら、そなたは、私の夫であるフョードル大公を初めから見捨てるつもりだったのか!?そなたとて、貴族の一員であろうに…!!」
女は憤然として言った。
「見捨てるとは言ってませんよ……ただ、革命軍の進撃が予想外に早くて、大公さまをお守りできませんでしたがね……。
ただ、大公妃さまは、何としても安全な外国へ逃げていただかねば…。既に革命家どもは、国王陛下を処刑し、御家族も全員処刑しました。やつらは、王政を復活させないためにも、王族を皆殺しにするつもりです。陛下の従兄妹である大公妃さまは、外国へ逃れ、王族の血筋を残す義務があります…。」
そこまで話した時、後ろのほうから、敵兵の叫び声が聞こえた。
「いたぞ!!あそこだ!!逃がすな!!」
たちまち、大勢の敵兵の軍靴の音が響き渡る。足音からして、十数人はいそうだ。
「くっ…大勢来やがったな…。あの人数だと、この広い回廊では、防ぎきれん……。」
将校は舌打ちする。
既に宝物庫の前まで来ていた。将校は宝物庫の重い扉を開くと、女を連れて中に入った。中には、騎士の鎧や宝石など、先祖代々の家宝が所狭しと並べられている。将校は、入り口の扉に鍵をかけると、そのまま奥へ奥へと進み、ある鎧の前まで来て立ち止まると、しゃがみこみ、鎧が乗っている台座を力いっぱい押した。
「ゴゴゴゴゴ……。」という鈍い音をたてて台座が横へずれると、台座のあったあとには、ポッカリと穴が開いていた。大人一人ぐらいなら、なんとか通れそうな大きさである。
「大公妃さまは既に御存知かと思いますが、これは、城の麓の村へと通じる抜け穴です。敵兵を蹴散らしたら、私も後から参りますので、大公妃さまは先に逃げてください。」
将校は真剣な表情で言った。鍵をかけた扉からは、敵兵の怒声とともに、斧やハンマーで扉を叩き壊そうとする音がひっきりなしに聞こえてくる。
―――この男は、自分を逃がすために、ここで敵兵をくいとめて死ぬつもりだ―――
女は即座に理解した。扉は今にも破られようとしている。ぐずぐずしてはいられない。女は幼児をかばうようにして抜け穴に入ると、将校に別れの言葉を言った。
「ありがとう。私のために命を捧げてくれた、そなたの忠誠……生涯忘れはせぬぞ…。ソコロフ少尉……。」
「名前を覚えていただいてて光栄ですね。フョードル大公の下で勤務していた将校は何十人もいるというのに…。」
将校はニッコリ笑って答えると、抜け穴の入り口を閉めた。
入り口が閉まって真っ暗になった抜け穴の中には、外の敵兵の怒号や足音が、やけにうるさく響く。女は、何も考えないようにして、ひたすら穴の中を進んだ。
どのぐらい時間がたっただろう…。真っ暗だった穴の中に、少しずつ光が差し込んできたかと思うと……ふいに視界が開けて、穴の外に出た。既に陽は沈みかけている。抜け穴は、城の麓の村のはずれにある、ほとんど埋まった古井戸の中に通じていたのだった。
女は古井戸から出ると、改めて城のほうを眺めた。ほとんど焼けてしまった城には、紺色の布地に白い十字架をあしらった革命軍の旗がひるがえっている。
厳しいながらも優しかった夫……厳しい訓練に励んできた部下の将校たち……文句ひとつ言わずに仕えてきた使用人たち……彼らがどうなったのか考えていると、胸がはりさけそうだったが、悲嘆にくれている暇は無かった。
(私を守って死んでいった者たちのためにも、生き延びなければ……。)
女は自分に言い聞かせるようにして立ち上がり、西へと歩き始めた。西には隣国、ポズナニ王国との国境がある。ポズナニの貴族たちは、ルースラントの革命を叩き潰すという目的のために団結しており、近いうちに軍を派遣するという情報もあった。
(同国人どうしの争いに外国の手を借りたくはないが、この際、やむを得まい。いつか、ルースラント王国を再建するためにも、王族の血だけは残さねば……。
だいたい、人民が皆で話し合って国を統治するなど、不可能だ。人民は、常に自分勝手で、一時の感情に流される……放っておけば、互いに己の利益のみを主張して、いがみあう……。王族が求心力となって、強制的に『国家』という枠にはめてこそ、法と秩序が守られるものだ。国が乱れ、犯罪や暴力がはびこることに較べたら、多少の汚職や腐敗など、大した問題ではないではないか……。)
来る日も来る日も、女は追っ手の目をかすめるために、人里離れた山の中を、ひたすら西に向かって歩き続けた。だが、幼児をつれたまま、迫り来る追っ手の目を逃れながら、女の足で国境まで逃げのびることは、不可能だった。
城から脱出してから、いったい何日目だったろうか……。ある、どんよりと曇った日の早朝……空腹に耐えきれずに、食料を求めて付近の村にさまよい出た女は、そのまま倒れて、幼児の名を呼びながら、息絶えた。
「エレーヌ……エレーヌ……どうか、あなただけでも生きのびて……。」
それからまもなく、幼児は、その村に行商に来ていた夫婦に拾われて、奇跡的に生きのびた。夫婦は、幼児を「アンナ」と名づけ、実の娘のように育てた。
そこまで見た時、再び、パァンという音が響いて、アンナは元の灰色の空間に引き戻された。
「ふふふ……わずかに残っていた、そなたの幼い頃の記憶を手がかりにして、わらわの力で、そなたの過去を再現させてもらったが……なかなか興味深いものを見せてもらったぞ。まさか、国王の従兄妹にあたるフョードル大公妃の娘『エレーヌ』だったとはな…。」
女神アリーナは、相かわらず、ニタニタと意地悪く笑いながら言った。
「しかし、血も涙もなく人民から搾取する貴族でも、自分の子には並々ならぬ愛情を注ぐのだからな。人間とは不思議なものよ…。」
それに対し、アンナは、女神への恐怖心も忘れて、憤然として叫んだ。
「ふざけないでください……!!他人の不幸が、そんなに面白いんですか!?あたしの実の母が…どんな思いで死んでいったか……あなたにはわからないんですか…!?」
「なら、そなたには、貴族や役人から『魔女の民』と呼ばれて差別されてきた、我が民族の苦しみがわかるというのか?やつらは、王政に対する庶民の不満をそらすために、少数民族への差別を助長したのだ。
そのために、我が民族は、生活の手段である農地も山林も、ルーシ族に力ずくで奪われ、多くの者が下層の労働者にならざるを得なかった。中には、ルーシ族の若者から不当な暴力をふるわれ、財産を奪われたり、殺されたりした者もいる…。
我が民族の不幸に較べたら、そなたの実の母の不幸など、どれほどのものだというのだ?」
女神は改めて真顔になり、言った。
「だいたい、生身の体を持たぬ神と違って、人間は精神的にも肉体的にも不完全な存在…。
その人間が権力を行使する以上、権力は常に為政者に都合のいいように運用されるものだ。為政者とて人間……食欲、性欲といった、己の肉体的な欲望には逆らえぬ。仮に、肉体的な欲望に流されずに、質素に生活できたとしても……己の一族郎党に不自由のない生活をさせたいという欲望には逆らえぬ…。
また、国家の統一を保ち、内乱を避けるためには、強い者と妥協し、弱い者を切り捨てざるを得ぬ…。
そのような為政者の定める法律や秩序のもとで、我が民族は常に『異教徒』、『異端』として差別されてきたのだ!!だからこそ、わらわは人間が権力を行使することを絶対に認めない!!人間の作る法律や秩序など、絶対に認めない!!」
茫漠とした空間の中で、女神の思念が渦を巻き始め、風となって吹き荒れた。
「アンナ…そなたの実の母の苦境には同情する…。だが、そなたに王族としての過去がある以上、そなたの心のあり方は、少し厳しく審査させてもらう。王族のぜいたくな生活を経験している以上、過去を懐かしみ、王族の権力の復活を望むかもしれぬからな…。」
一方、ヤゴーダは、リーザの繰り出す山猫の攻撃に悩まされていた。リーザが両手の指で印を組むたびに、山猫たちはリーザの手足のように動き、自前の牙や爪で、ヤゴーダに襲いかかってきた。だが、リーザも、ナイフに塗ってあった毒が体に回り始めていた。
「ええいっ…くそっ…いい加減に降参したら、どうだ?このままだと、お互いに力尽きて相討ちになるぞ…。降参すれば、解毒剤で命だけは助けてやると、さっきから何度も言ってるのに…。これ以上時間がたつと、解毒剤もきかなくなるぞ……。」
「…何度言えばわかるのよ…?我が民族は、同胞の裏切りや降伏を許さない…。敵の捕虜になって辱しめを受けるよりは、敵と刺し違えて死ぬ…。それが、アリーナ族の戦士の掟…。」
表情ひとつ変えずに言い放つリーザに、ヤゴーダは背筋が寒くなるのを感じた。
そもそも、調薬や囚人の取調べが主な仕事であるヤゴーダは、自分自身が戦場に出て戦ったことが、あまりなかった。政治犯として常に生命の危険にさらされてきたリーザに較べて、死に対する覚悟が甘かったのである。
(刺し違えるだと…!?冗談じゃない!!死んだら元も子もないだろうが……。何年も勤務して、ようやく少尉にまで昇りつめたのに……今までの苦労が水の泡になっちまう…。
だいたい、汚職ばかりして、自分の保身や出世のことしか考えていない上司のために、俺が命をかけて戦う必要があるのか…?)
暗闇から襲いかかる山猫たちの、統率のとれた攻撃のために、ヤゴーダは既に満身創痍だった。このまま闘い続ければ、そのうち、何匹もいる山猫の牙や爪で噛み殺されてしまう。だからと言って、逃げられるような状況ではない。
(くそっ…この手だけは使いたくなかったが……このままでは、こちらの身が危ないしな……やむを得まい……。)
ヤゴーダはポケットから小型の筒を何本も取り出した。大量の薬品を、魔術によって小さく圧縮して入れて、持ち歩くための「圧縮筒」である。そのまま、左手で、ふたを開けて筒に入っている薬品を取り出し、あたり一面にばらまこうとし始めた。途端に、リーザの顔色が変わる。
「…!?……まさか…その筒は…。」
「ふふふ……さすがに、察しがいいな…。お察しの通り、この筒には、軍用の毒ガス兵器が閉じこめられているのさ。これだけの量の毒ガスが発生すれば、貴様はもちろんのこと、この山の動植物は皆、死に絶える…。
本来なら、この筒は、部屋の中に投げ込んで、室内の敵を始末するための物なのだがな…。この際、やむを得まい……。
山猫どもの攻撃を止める手段が他にないからな…。」
「よくも、そんなひどいことを……。あなた、山に住んでる動物たちを何だと思ってるの…!?今あなたと闘ってる山猫たち以外にも、山には、ありとあらゆる生物が住んでるのよ。それを無差別に殺すなんて……。」
「何とでも言うがいい。俺にとっては、山に住んでいる動物の生命など、どうでもいいんだからな…。だいたい、貴様が山猫どもを使わずに、とっとと降参して捕虜になっていれば、こんな手を使わずに済んだんだ。恨むなら、自分を恨め!!」
リーザはギリリと奥歯をかみしめた。
もっとも、ヤゴーダとて、本当に筒を使うつもりはなかった。そもそも、こんな至近距離で大量の毒ガスを発生させれば、ヤゴーダ自身も無事では済まないのだ。一応、防毒、解毒のための薬品も持ち合わせてはいるが、毒ガスの濃度が高くなれば役に立たなくなるような代物である。
つまり、リーザに山猫の攻撃をやめさせるためのハッタリなのだ。
「……わかったわ…。山猫たちには攻撃をやめさせるから、毒ガスだけはやめて……。」
リーザは、動物を操るための印を組んでいた手を止めた。同時に、山猫たちの攻撃もピタリと止まる。
それを見たヤゴーダも、筒を開封するのを中断したが……当然、それだけで引き下がるはずもなかった。
「よし……なら、次は、この手錠を貴様の手にはめてもらおうか…。」
そう言って、上着のポケットから手錠を取り出すと、無造作にリーザの前に投げてよこした。リーザは屈辱に顔を歪めながら、自分の手に手錠をはめた。ナイフに塗ってあった毒が体中に回ってきたためか、次第に視界がぼやけ、意識が朦朧としてくる。
(さすがに、今度ばかりはダメみたいだな…。今まで、追いつめられても奇跡的に助かったことは、何度か、あったけど…。既に、毒が体中に回ってきたし、もう助からないだろうな。仮に命が助かったとしても、敵の手で凌辱されてまで生きていたくないし……。
女神様への祈祷の呪文を中断したままだけど…アンナとトゥーラの魂、ちゃんと『血の契約』の儀式を終えて、肉体に戻って来れるかな…。
思えば、十数年前にウラジミルの革命政権の差し向けた軍団によって、生まれ故郷を追われて以来、私の人生は、権力との戦いの連続だった。
『いつの日か、女神様の下で、我が民族は再興される』と、ひたすら信じ続け、襲ってくる秘密警察の手先たちと、好むと好まざるとにかかわらず戦い続け、逃げ続け……気がつけば、27歳……恋をしたり、友達と遊んだりする余裕もなかった…。
私の青春って、何だったんだろう…。ひたすら、殺しあったり、傷つけあったりしてばかりで……でも、最後に、この街で平和に暮らせて良かった……。)
薄れていく意識の片隅で、ヤゴーダの勝ち誇ったような哄笑が聞こえる。
「やった…!!ついにやったぞぉ…!!この俺が、第一級の政治犯を捕まえたんだ…。これで、俺は昇進できる。今まで、さんざん俺をアゴでこき使いやがった上司と、肩を並べることができるんだ……。」
既に、リーザの意識は無くなり、深い闇に飲みこまれようとしていた。だが、その今にも現世から消え去ろうとしている意識に、語りかけてくる者があった。
(……リーザさん……リーザさん……起きてくださいよ…。)
何度も語りかけるうちに、混濁していたリーザの意識は、わずかに目覚めた。
(……誰…?…さっきから、うるさく話しかけてくるのは……。お願いだから、静かに寝させてよ…。私は、もう疲れちゃったんだ…。『政治犯』とか『魔女の民』とか呼ばれて、皆に忌み嫌われながら生きるのに……。)
(…僕です……シェスタですよ……。アンナちゃんのペットの…。)
(…ああ、シェスタね…。今まで、猫の言葉で何度も話しかけたけど、応答が無かったから、外国で生まれた猫かと思ってたけど…。まさか、念話ができるなんて…。)
ちなみに「念話」とは、音声を使わずに、相手の心に直に語りかけて対話する術であり……俗に言う「テレパシー」のことである。
(僕は、普通の猫とは違うんですよ。話せば長くなりますがね…。)
シェスタは一語一語に力をこめて語った。
(…で、本題に入りますが……リーザさん、あなたはまだ死ぬと決まったわけではありませんよ…。既に、あなたの体に回っている毒ですが……ヤゴーダが解毒剤を持っています。それさえ奪って注射すれば……今からでも命が助かって、安全な場所へ逃げることもできます…。アリーナ族の強靭な生命力と回復力をもってすれば……。)
(…何…?…その解毒剤を奪う方法があるって言うの…?)
リーザは半信半疑だった。
(そうです。ただ、リーザさんのほうに、『何が何でも生き延びるんだ』という強い意志が必要です。生命力は、各人の意志の力に左右されますからね…。実際、この方法は、かなりの苦痛を伴います。『生きたい』という意志が弱ければ、到底耐えられるものではありません…。)
リーザは一瞬、答えを出しかねた。もし、生き延びて安全な場所まで逃げられるとしても、これからも秘密警察の手先たちと命のやりとりをせねばならない……。もう、殺しあいはイヤだった。
(リーザさん……あなたは今まで一人で生き抜いてきたから、『自分が死んでも悲しむ人はいない』と思いこんでいるのかもしれません…。いや、むしろ、『自分が生きているばかりに、誰かを戦いに巻きこんで、傷つけてしまうのではないか』と考えてしまうのかもしれませんね……。
でも、今あなたの周囲には、アンナちゃんもいるし、僕もいます…。あの傍若無人なトゥーラだって、口には出しませんが、あなたのことを大切な仲間だと思っていますよ…。あなたが死ねば、悲しむ人が何人もいるんです。
これでもまだ、『死んでもいい』なんて言えますか?)
シェスタはリーザの心を見透かすように言った。
リーザは改めて、自分の周囲の人たちのことを考えてみた。特に、今まで疎遠にしてきた、トゥーラのことを…。
実際、リーザはトゥーラのことをうとましく思っていた。トゥーラとは常に別々の街に住んでいたし、何ヶ月かに一度ぐらいの割合で一緒に女神に祈ったり、近況を報告しあったりする以外には、顔を合わせることもなかった。
何事につけても真面目で几帳面な性格のリーザは、トゥーラの大酒飲みで野卑な性格を嫌い、必要以上につきあわないようにしていたのである。リーザとて、幼い頃から武術や魔術を一通り叩きこまれている以上、トゥーラの手を借りなくても秘密警察と戦っていけると思っていた。
一方、トゥーラのほうも、何かにつけて潔癖症で口うるさいリーザをうとましく思っていた。「おめえと一緒にいると、肩がこる。すぐ、『部屋をちらかすな』だの『酒を飲みすぎるな』だのと、うるさく言いやがって…。これじゃ、気が休まらねえよ。」というのが、トゥーラの口癖だった。
そのために喧嘩になることが多く、いつしか、二人は必要以上に会わなくなっていったのである。
(…ねえ、シェスタ……これで生き延びることができたら、私…もう一度、人生をやり直せるかな…?今まで、不必要に誰かを傷つけたり、喧嘩したりしたことが何度もあったけど…。その人たちだって、仲良くなろうとしたら、なれたかもしれないのに…。)
しばらく考えこんだ後に、リーザは、おずおずと尋ねた。
(リーザさんさえ、その気になれば、充分やり直せますよ。人間の寿命は長いんですから…。)
シェスタは笑って答えた。
(…で、どうすればいいの?さっき言ってた、解毒剤を奪う方法ってのは……。)
(アリーナ族の精霊魔術の奥義『獣現術』ですよ。己の潜在的な力を、一時的に臨界点まで引き出すんです。リーザさんもアリーナ族の魔道士なら、使い方ぐらいは知ってるはずです。)
しかし、使い方と言われても、リーザもはっきりと習ったわけではない。まだ十代の頃に、故郷の村の長老から聞いただけである。
「…良いか?リーザ……『獣現術』とは、愛する誰かを敵の魔手から守りたいと思った時に、己の苦痛をものともせずに使う術だ。使い方は、いちいち口で説明してもわからぬ……とにかく、『その者を助けたい』と一途に念じることだ。そして、まわりの風の気配を感じ取り、風に同化し…その中にある敵の気配を感じ取り……。」
その言葉通りに、リーザは、ひたすら五感をとぎすませた。長老の言葉が頭の中で繰り返される。まわりの風の気配を感じ取り、風に同化し……。
しだいに頭の中が澄み渡り、わずかな空気の流れも逃さずに感じ取れるようになってくる。同時に、危害を加えようとする者の放つ殺気が、空気を媒介して伝わってくる。
「…どうやら、リーザだけでなく、祭壇の前に倒れているやつも『魔女の民』のようだな。万が一、目を覚ますと厄介だし、今のうちに息の根を止めておくか…。」
ヤゴーダの声が聞こえ、トゥーラに向かって剣を振り上げる動きが、空気を震わせて伝わってくる。それを感じた時、リーザの頭の中はスパークした。
ザワリ……。
突然、リーザの長い髪の毛が逆立ち、それまで生気の失せていた肌に再び血が通い始める。リーザは、ゆっくりと目を開けた。再び開けられた目は、闘志に満ち、黄金色に輝いて、ヤゴーダを睨みつけていた。
「くそっ…まだ動ける力が残っていたか…。さすがは『魔女の民』だな。何もかも常人離れしてやがる…。
だが、既に貴様の手足は、特殊加工のワイヤーロープで何重にも縛ってある。秘密警察の本部へ護送するためにな。このロープは、めったなことでは切れないようにできているからな…。無理にロープを切ろうとしたら、ロープがますます締まって体にくいこむだけだぞ…!!」
ヤゴーダは怒鳴ったが、リーザは聞く耳を持たなかった。確かに、体中にぐるぐる巻きにしてあるロープは痛かったが、別に気になる程のものではなかった。既に肉体の限界を超えて力を出している以上、体は今にもバラバラになりそうなぐらい痛いのだ。
フオオオオォォ……!!
リーザは獣のように吼えた。空気がビリビリと震動するような、ものすごい咆哮である。その咆哮とともに、手足を縛っていたロープが一本、二本と切れていく。
「うわっ……や…やめろぉ…!!来るなぁ…!!」
ヤゴーダは恐怖した。未知なる存在に対する恐怖……秘密警察の一員として、様々な凶悪犯を見てきたヤゴーダも、これほどの恐怖に直面したことは無かった。
既に、足がガクガクと震えている。こうなると、毒ガスによるハッタリをやるどころではない。
「うわあああ…!!」
恐怖のあまり、無意識のうちに、ヤゴーダは召喚魔術に使う魔方陣が描かれた布を取り出していた。そのまま、魔方陣が描かれた布を地面に敷いて、異世界から魔物を召喚する呪文を唱え始める。
ヤゴーダとしては、とにかく、リーザの攻撃を止めてくれる力が欲しかった。だが、先程の魔獣「ポグロム」以上の力を持った魔物と言えば、魔竜しかない。実戦経験が少ないヤゴーダは、魔竜の扱いには慣れていなかったが、なりふりかまっていられなかった。
「…異世界の魔物の王よ…。何とぞ、我が呼びかけに答え……魔竜『シュトゥーカ』を…この世界に顕現されんことを…。」
(ダメぇ…その魔物だけはぁ…!!)
シェスタが念話でヤゴーダに注意したが、無駄だった。
ドオオオン…!!
物凄い音とともに、魔方陣の上に、大きな体躯をしたプテラノドンのような魔竜「シュトゥーカ」が出現する。全長は5メートルほどもあり、背中には巨大な翼が生えていて、足先には鋭い爪があり、大きく開いた口には、のこぎりのような歯が並んでいた。
「魔竜『シュトゥーカ』…よく来てくれた。早速だが、あそこにいるアリーナ族の女を…ぐわあっ……!!」
突然、魔竜は、その鋭い爪の生えた足で、ヤゴーダを蹴飛ばした。ヤゴーダは吹っ飛ばされて地面に叩きつけられた。急所は外れたから、即死は免れたものの…右肩から胸にかけて多量の血が流れていた。
「ぐおおっ……そんなバカな……召喚された魔物は、召喚者に危害を加えないはずでは……。」
魔竜は地面に横たわるヤゴーダを一瞥すると、やがて、トゥーラのほうへ向かっていった。
(ヤゴーダ…あなたは召喚魔術を実戦で使った経験が少ないので、知らなかったのかもしれませんが……魔竜は攻撃力がありますが、その分、制御が難しく、意のままに操るためには、それなりの精神統一を必要とします。逆に、先程のような不安定な精神状態で召喚すると、魔竜は、誰が召喚者なのかわからないことがあるんです。誰が召喚者なのかわからない場合、魔竜は、自分の周囲の生物すべてを攻撃し、すべて殺しつくすまで止まりません。
あなたはその最悪の状態を作り出してしまったんです。
まあ、その傷では、あなた自身も助かりませんね。自業自得ですよ。)
シェスタが念話で淡々と語りかけてくる。ヤゴーダは茫然と聞いていた。
(いやだ…。俺は、こんな所で死にたくない…。誰でもいいから助けてくれ……。)
そんなヤゴーダの思いを無視するかのように、シェスタはどこかへ飛び跳ねていってしまった。
(そうやって泣きながら許しを請う政治犯たちを、あなたは、どれだけ拷問にかけてきたんですか……。)
一方、魔竜はトゥーラを食い殺そうとして近づいてきていた。もともと、魔竜は気が荒く攻撃的な魔物である。召喚した主がわからず、攻撃すべき目標もわからない以上、魔竜はたまたま近くにいたトゥーラに狙いを定めて、その鋭い牙のついた口を開き、今にも食らいつこうとしていた。だが、その時…。
ザシュッ……!!
ロープや手錠を全て引きちぎったリーザが、魔竜めがけて飛びかかり、剣で魔竜の口を薙ぎ払った。魔竜は間一髪でよけたが、口の端からは、わずかに血が流れていた。
既にリーザの爪や歯は肉食獣のように鋭く伸び、体中から闘志に満ちたオーラが放たれている。黄金色に輝く目は、はっきりと魔竜を見据えていた。
突然の攻撃にとまどいながらも、攻撃目標をトゥーラからリーザに切り替える魔竜…。一方、リーザのほうも相手に体勢を立て直す暇を与えず、振り向きざまに、返す刀で第二撃を繰り出す。
バキッ……!!
だが、リーザの剣が届く前に、魔竜は体をひねり、太い尾を回転させて、リーザに叩きつけた。かなりの衝撃である。リーザは吹っ飛ばされて地面に叩きつけられた。
魔竜は間髪を入れずに空中に舞い上がり、口から炎を吐いた。リーザの剣をくらわないためには、接近戦に持ちこませずに遠くから炎で攻撃したほうがいいと判断したためである。
それに対し、リーザは即座に左手で「バリヤー」の魔術を発動し、炎を防いだ。
既にリーザは、魔術を使うために複雑な印を組んだり呪文を唱えたりする必要はなかった。頭の中で念じて腕を伸ばすだけで、たいていの魔術は使えるのだ。
しかし、バリヤーはかなり気力を消耗する魔術なので、あまり長時間にわたって使い続けるわけにはいかない。リーザは空中からの攻撃を避けるために、いったん剣を鞘におさめると、近くの林に向かって走り出した。魔竜もその後を追って飛んでいく。
「獣現術」を使い始めてから、体中の筋肉にどんどん力が漲っていくのが感じられる。リーザは林の中に入ると、あふれ出る力にまかせて、大地を蹴って跳んだ。そのまま、近くの木の枝まで跳ぶと、今度はその枝を蹴って、別の木に跳びうつる。それを繰り返して、まわりの高木から高木へと何度も跳び回り、魔竜の炎の攻撃をかわしながら、だんだんと魔竜との距離をつめていく。もともと身が軽く脚力もあったリーザは、より高い枝へと跳びうつることで、しだいに高度を上げてゆき、やがて、高木の間を飛びながら炎を吐く魔竜の頭上にまで達した。眼前に魔竜の巨大な翼が見える。
(女神様…アンナとトゥーラを守るために、力を貸してください…!!)
リーザは両腕を振りかぶり、手のひらに念を集中させると、眼前に突き出した。突き出された両の手のひらから、一条の白い光が、魔竜の心臓めがけて放たれる。
バシュウウゥッ……!!!
魔竜は間一髪で体をひねって直撃を防いだが、左の首筋から肩にかけて、肉が削り取られ、どす黒い血がドクドクと噴出していた。
「グギャアアアァ……!!」
怒り狂った魔竜の咆哮が空気を震わせる。
一方、ここは女神の精神世界の中―――
「ねえ、女神様、さっきから何にも返事をしなくなっちゃったけど、どうなってんの?」
アンナには、おかしいとしか思えなかった。なにしろ、ついさっきまでアンナの記憶に侵入して好き勝手に掘り起こしていた女神が、いきなりピクリとも動かなくなり、一心に何かを念じているように目を見開いて、あらぬ方向を見据えているのだ。
「わからねえ…。儀式の最中にこんなことが起こったのは初めてだ。まさか、儀式の最中に、外で何か起こったんじゃあるめえな…!?」
トゥーラはアンナを抱きしめて言った。
「あれは確か、女神様が誰かに力を貸し与えておられる時の姿だ。あんな感じの像が、故郷の村の礼拝堂に飾ってあったのを見たことがある。『自分の命と引き換えにしてもいい』っていうぐらい強く望めば、女神様は力を貸し与えてくださると言われている。まあ、実際に力を貸してくださることは、めったにないけどな…。」
その時、ふいに周囲の灰色の空間がぐにゃりと歪んだかと思うと、シェスタが飛び込んできた。
「シェスタ!?どうして、ここに…?」
(詳しい話は後です。まずは状況を理解してください…。今、外の世界では、リーザさんが秘密警察の召喚した魔竜と、命をかけて闘っています。)
シェスタは、今までの経緯をおおまかに説明した。
「……うーん…だいたいの事情はわかったけど……で、あたしたちに何をしろって言うの?」
(リーザさんの目となり耳となって協力してほしいんです。あの魔竜の血には、幻覚を見せたり五感を狂わせたりする毒素が含まれています。いくら『獣現術』を使っているとは言え、魔竜の返り血を全身に浴びてしまったリーザさんには、何らかの悪影響が出るはずですから…。)
先程、空中で魔竜を攻撃して着地してから、リーザは自分の体に異変が起こっているのを感じた。ついさっきまで空気の流れを通して肌で感じられた魔竜の動きが、今はほとんど感じられないのだ。それどころか、視界はぐにゃりと歪み、周囲の音もはっきり聞き取れず、体の平衡感覚さえ無くなって、奈落の底に落ちていくような気がした。
(何これ…?いったい、何がどうなっちゃってんの…?)
それまで動物的な五感に頼ってきただけに、一度それが失われると、言いようの無い恐怖に襲われた。途端に左腕に鋭い痛みが走る。よく見ると、鋭い刃物で切り裂かれたように、左腕がパックリと裂けて血が噴出していた。同時に、右足にも激痛が走り、血が噴出す。とりあえず剣を振り回して、そのあたりをやみくもに攻撃してみるが、刃はむなしく空を切るばかりで、手ごたえは全く無かった。
姿の見えない得体の知れない敵の攻撃……それに追い討ちをかけるように、まわりからは漆黒の闇が迫り、足元の地面は流砂に変わって、アリ地獄のようにリーザの体を地中に呑みこもうとしていた。
もっとも、この程度の幻覚でどうにかなるほど、リーザの精神はヤワではない。その目は、まだ戦意を失わず、黄金色に輝いていた。
だが、まわりの漆黒の闇に浮かび上がってきた物体に、リーザはゾッとした。それは、頭が割れて血がだらだらと噴出している男の生首だった。
「ぐふふふ……久しぶりだなぁ、リーザ・マフノー…。」
生首は恨めしそうに呟いた。リーザは、その顔に見覚えがあった。革命政権に故郷の村を追い出されてから、リーザが最初に斬り殺した敵……まだ少女だったリーザを強姦しようとして返り討ちにされた、秘密警察機関員の顔である。
「あの時は、よくも俺の頭を剣でぶった斬ってくれたなああ……まだ若くて将来もあった、この俺を…。」
「あれは、あなたが私を凌辱しようとしたから…。」
「なら、俺はどうなるんだ?」
リーザの後ろに浮かび上がった、別の生首が尋ねる。やはり、リーザが斬り殺した機関員の顔だ。先程の生首よりは年が若く、まだ少年のような顔つきである。
「俺は強姦などしていない…ただ、上官の命令で貴様を捕えようとしただけだ…。」
「どっちにしても、私に危害を加えようとしたことに変わりはないでしょう…。」
そう叫ぶと、また別の生首が現れる。盗賊のような人相である。
「なら、俺はどうなるんだ?貴様の持っている食料を奪おうとして斬り殺された俺は…。」
そう呟く生首が後から後から現れては、リーザを責めたてた。
「……もう、いい加減にしてよ!!私だって殺したくて殺したんじゃない……。あんたたちが武器を持って向かってくるから…仕方なかったんでしょうがあああ……!!!」
リーザは頭をかかえて叫んだ。だが、その悲痛な叫びを無視するかのように、生首たちは一斉に怨みの言葉を投げつけた。
「『仕方なかった』と言うが、おまえがさっさと死んでいれば、俺たちは命まで奪われることは無かったのだ。おまえは自分が生き延びるために、何人殺した!?」
「それだけじゃない。おまえは確かに、殺戮を楽しんでいた…。最初の頃こそ、人を殺すたびに罪の意識にさいなまれたものだったが、そのうちに断末魔の悲鳴や血の臭いにも慣れてしまった……いや、むしろ、それを楽しむようにさえなった……。」
「そうだ!!血の臭いをかいだ時の貴様の顔は忘れん!!あの恍惚とした表情…。まるで、血に飢えた狼のような……。そうでなければ、何人も殺せるものか…!!」
「違う!!私は…私は……!!」
生首たちから目をそらし、頭をかかえて叫ぶリーザの顔には、明らかに怯えの色が浮かんでいた。こうなると、「獣現術」も何もあったものではない。もともと「獣現術」とは、自らの覇気で攻撃力を増幅する術である。使っている者が戦意をなくせば、たちまち効果を失ってしまう。
(幻覚の恐ろしい所は、人間の心の最も弱い部分を突いてくることです。リーザさんは戦い慣れてる以上、たいていの攻撃には耐えられますが…それでも、『人を殺してしまった』という、自分の罪の意識に耐えられるかどうか…。アンナちゃんは知ってるでしょうけど、あの人は、本当はとても優しいんです。襲ってくる敵とは、情け容赦なく戦いますが、戦いが終われば、殺された相手のために涙を流したりもする…。そういう人なんです。)
シェスタは語った。
「あたいだって、リーザとは長いつきあいなんだ。あいつのことは、それなりに知ってるつもりだけどな……ってか、相手は秘密警察のイヌだぜ。あたいらの故郷の村を焼き、村人を捕まえて強制労働収容所にぶちこんだ革命政権のイヌどもに、同情するような余地があるのかよ…。あたいらが『魔女の民』なら、やつらは血に飢えた悪魔だ…!!」
「…でも、なんで政府はリーザさんたちの村を襲ったの?あたしには、何が何だか、わけがわかんないんだけど…。」
興奮するトゥーラに、アンナはおずおずと尋ねた。アンナにとっては、わからないことが多すぎた。
(独裁的な革命政権からの分離を望んだからですよ。)
トゥーラの代わりにシェスタが答える。
(独裁者ウラジミルにとって、女神アリーナの主張する『民族の自治』だの『中央集権的な国家権力の否定』だのは、とうてい受け入れられないものでした。革命が始まった時、これらの主張が受け入れられると信じて、アリーナ族はウラジミルに味方して戦ったにもかかわらず……革命政権が勝利した後には、ウラジミルはアリーナ族の村々に奇襲をかけて皆殺しにしようとしました。多くの人々が殺され、捕らえられ……生き残った人々は各地に潜伏せざるを得ませんでした。)
「そうさ。だから、あたいは革命政権のイヌどもを一人でも多く殺してやるんだ…!!やつらの頂点に君臨するヨシフに、我が民族を虐殺したことを死ぬほど後悔させてやるまではな!!そうしねえと、不当に殺されてきた我が民族は永久に浮かばれねえ…。」
トゥーラの顔に、憎悪が燃え上がった。先程までの平凡な表情は消え、その代わりに、鬼女のようにまがまがしい表情が浮かび上がる。
「あたいは村を追われてから、しばらく流賊をやってたんだ。革命政権に故郷を追われた連中を駆り集めて、ルーシ族の町を襲って食料や武器を略奪しながら、秘密警察と戦った…。みんな、生きるために必死だったさ。最後には、軍の総攻撃で山奥に追いつめられて、仲間はみんな死ぬか、行方知れずになるかしちまったけどな。
その間に斬り殺した敵兵は、何人いるかわからねえ…。だけど、殺したことを後悔したことは、一度だって無いぜ。リーザと違って、あたいは敵を殺すことをためらわねえ。民族の解放のためには、できることは何でもやる。」
アンナはシェスタの誘導に従い、心の内で念じた。
(リーザさん、聞こえる?アンナだよ…。)
その声は、闇に沈みかけていたリーザの意識を現実に引き戻した。
(アンナ…どこから…?)
(シェスタの誘導に従って、来たんだよ。リーザさん、幻覚なんかに惑わされないで…。あたしがリーザさんの目や耳になるから…。
それに、いつまでも昔のことにこだわってても、何にもならないよ。あたしにとっては、リーザさんはリーザさんだもん…。過去がどうあろうと、今のリーザさんが好きなんだから…。)
アンナの声に従い、リーザは目を閉じると、ゆっくりと敵に意識を集中させていった。五感があてにならない今、目を開けていても無意味だからだ。それに、アンナが声をかけてくれたことで、先程からの罪の意識も軽減していくのを感じ、心の安らぎを得るために、少しずつアンナの意識と同調していったのだ。
一方、魔竜は傷をおって地上に落ちたものの、態勢を立て直し、背後から再びリーザを炎で攻撃しようとしている。アンナは魔竜の気配を感じ取ると、一心に念じた。
(リーザさん…ななめうしろ、魔竜が口を開けて、火を吐こうとしてる…。)
リーザはゆっくりとふりかえり、その手からは一条の白い光が、魔竜めがけて放たれる。
バシュウウウ…!!
だが、方向が正しくつかめず、光は見当違いなほうへ飛んだ。魔竜の炎が、リーザの全身を包みこむ。
ゴオオオォォッ…。
リーザは、獣じみた勘で、とっさにバリヤーをはって身を守るが、既に体力、精神力ともに限界にきていた。
(まずい。次の攻撃が来たら、バリヤーで防ぎきれない…。)
リーザは剣をかまえ直しながら思った。既に疲労のために、魔術を使える状態ではなく、頼れるものは剣しかなかった。
魔竜は先程、肩に受けた傷のために、飛ぶことができず、歩きながら少しずつ距離をつめてくる。リーザと魔竜は、互いに攻撃の機会をうかがいながら、徐々に距離をつめていった。
突如、魔竜が地を蹴って襲いかかる!
(リーザさん…魔竜が…。)
アンナの目を頼りに、リーザは間一髪で右に転がりこんでよける!
ドシュッ…!!
同時にリーザは、長年の戦いの勘で、魔竜の動きを予測し、剣を魔竜の脇腹に深々と突き刺していた。
「グギャアアアアア……!!!」
魔竜の断末魔の悲鳴が響き渡る。さすがの魔竜も力つき、バッタリと倒れて、そのまま動かなくなった。もう一方のリーザも、やはり精根尽きはてて、地べたに寝転がり、肩で荒い息をしていた。長い夜がようやく終わり、夜明けの曙光が、あたりを照らし始めていた。
一方、ここは女神アリーナの精神世界の中……。リーザと魔竜との戦いが終わり、緊張がとけると、シェスタと女神アリーナが口論し始めた。
「女神アリーナ…アンナちゃんまで『血の契約』で縛るつもりですか?我が民族の成員だけでは飽き足らずに…。あなたの主張する『民族の解放』とは、自分は何も与えないのに、相手には強制的に忠誠を誓わせて、意のままに支配する、ということですか?」
女神は、むっとして答えた。
「何を言うか!?先程、リーザが『獣現術』を使ったのを見たではないか!!我が民族の成員が『仲間に害をなす者を倒したい』と強く望んだからこそ、わらわは力をふりしぼってリーザに力を貸し与えたのだ。今のわらわの力では、人間界に干渉することは難しいというのに…。
『不当に虐げられている者がいれば、己の身を挺してでも助けよ。助けようとせずに傍観するのは卑怯だ。』と、キュリロス正教でも説いておるではないか。
わらわには民族の守護神としての責任がある。今のヨシフの独裁体制のもとで、民族の成員が不当な虐待を受けているのを黙って見ているわけにはいかぬ。だからこそ、バラバラになりがちな民族の成員の力をひとつにまとめるために、あえて力を使い、『血の契約』で裏切りを防いでいるのではないか。」
シェスタはひるまずに言った。
「僕はどうしても納得できません。あなたは、民族の成員には、生まれながらにして『血の契約』を交わさせて自分に忠誠を誓わせ、時には戦のために動員したりして、自分の私兵のように使おうとする…。いくら、『我が民族の解放のため』とは言え、こんな個々人の自由を無視した自己中心的なやり方が正しいはずがない!!」
「なら、他にどんな方法があると言うのだ?人間は皆、自分勝手だ。いくら『民族の同胞は互いに助け合わねばならぬ』と教えこまれても、自分の利益のために同胞を裏切ったり見捨てたりするような輩はいくらでもいる。そんな輩を民族解放の戦いに動員するためには、力ずくでやるしかないではないか。本来、少数民族の成員は一蓮托生だ。生活の手段である土地や山林や鉱山を大国や多数民族の侵略から守るためには、皆が団結して戦わねばならぬ。
そもそも、『やり方が正しい』かどうかよりも、『虐げられている者を救うために何をするべきか』のほうが問題ではないのか?そなたは今まで何をした?ほんの数人を助けたことはあっても、民族全体の利益のためには、何もしなかったではないか…。」
女神は当たり前のように言った。シェスタ以外の者にも数百年前から何度も説いてきたことである。今さら新しいことを言う必要はないのだ。
「…どうやら、これ以上話し合っても時間の無駄みたいですね。でも、これだけは覚えておいてください。もったいぶった理由をつけて、人民に自由を与えられないようなら……あなたは、この国の専制君主どもと同じですよ。仮に我が民族が独立して、あなたの統治する理想郷ができたとしても、あなたの神権政治を嫌って反旗をひるがえす者が必ず現れるでしょうね…。」
「ふん…若僧が…知ったふうなことを……。」
女神は苦々しげに呟いた。
「あと、アンナちゃんは返してもらいますよ。僕は、神としての力なら、あなたにもひけをとらないつもりですから…。本気でやりあえば、あなたに負けない自信はありますよ。」
「…しかたないな。だが、その娘が、我が民族にあだなすのなら、即座にとり殺すぞ!それぐらいの術はかけさせてもらう!いいな!」
女神はきつい口調で言った。そして、アンナに術をかけると、それっきり、アンナとトゥーラを自分の精神世界から解放し、二度と審問しようとはしなかった。
さて、意識を回復したアンナとトゥーラは、近くに倒れているヤゴーダを見つけた。
ヤゴーダは、全身に傷を負っていて、虫の息だった。リーザも、アンナとトゥーラが意識を取り戻したことに気づくと、そばに寄ってきた。
「どうして……どうして、あなたはリーザさんに…こんなひどいことをするの…?」
アンナは半分泣きながら、しぼり出すような声で言った。
「ふん……そもそも、おまえらに、俺を責める資格があるのか?おまえらだって、俺と同じ立場になれば、そうしたかもしれんのに…。
だいたい、自分の口に入る食べ物がどこから来るか、考えたことがあるのか?寒さを防いでくれる衣服がどこから来るか、考えたことがあるのか?欲しい物を労せずに手に入れてきた貴様には、俺の気持ちなど、わかるまい…。」
ヤゴーダはアンナのほうを見て言った。
「……俺は孤児だったんだ…。俺がガキの頃に、両親は革命による内戦で死んだ。レオンの指揮する革命軍と王党派との戦闘に巻きこまれてな……。それからの俺は、国立の孤児院で育てられた。ひどい所だったぜ…孤児院ってのは…。革命の直後で、食料や日用品が不足してる時代だからな。俺たちは、ボロボロの衣服しか支給してもらえず、満足にメシも食えずに、いつも腹をすかしてたものだった…。
十代半ばになると、俺たちは秘密警察に入って、猛訓練を受けた。選択の余地は無い…。あの当時、メシを腹いっぱい食うためには、秘密警察にでも入るしかなかったからな…。
その後は、各地に潜伏して反乱を企てている政治犯を狩り出すために、あちこちの町を転々とした。まあ、俺は薬剤師の資格を取ってたから、調薬の仕事が主だったが…政治犯の捜索や逮捕が主な任務だった連中は、襲撃を受けて死ぬこともあった。中には、諜報員、工作員として外国へ送りこまれ、二度と戻ってこなかった者もいる……。上からの命令しだいで、いやおう無しに、俺たちは死地に赴かざるを得なかった…。
そういう、上からの命令のために、仲間の命を危険にさらしたくなかったからこそ……俺は、何が何でも出世したかった。俺が権力を握れば、俺や仲間たちは将棋の駒みたいに使い捨てられずに済むと思ってな…。俺はただ、人並みの幸福が欲しかっただけだ。」
ヤゴーダは苦しそうに呟いた後、改めてリーザのほうを見て言った。
「だいたい、この世に人間がいる限り、好むと好まざるとにかかわらず戦は起きるものだ。
王政時代、貴族や役人に重税を搾り取られていた庶民は、自分たちが餓死しないためには、貴族や役人と戦わざるを得なかった。俺たち孤児は、メシを食うために、上からの命令で戦わざるを得なかった。
おまえら少数民族が、生き延びるために戦ってきたようにな…。」
そこで、ヤゴーダは再びアンナのほうに向き直った。
「アンナとか言ったな……だいたい、貴様みたいな庶民の娘が無償で公立高校に通い、青春を謳歌できるのは、誰のおかげだと思ってやがる…?貴様らが『独裁者』と罵っている、ヨシフ師のおかげではないか。大部分の人民が読み書きもできないのを憂えたヨシフ師が、『国家の発展のためには、教育の普及が不可欠だ。』と言って、全国に公立の学校を作ったからこそ…貴様が高校に通えるのではないか…。
王政時代には、小学校さえも満足に通えない子供が大勢いた。あの当時、充分な教育を受けられたのは、学費の高い私立学校に通うことのできる、裕福な家庭の子供だけだった。
アンナ…貴様は俺のことを『冷血漢』だの『人殺し』だのと罵るかもしれん…。だが、貴様が自分の手を血で汚さずに済んでるのは、衣食住も、親の愛も、すべて保障されているからだろうが…。」
そこで、ヤゴーダは一息ついた。
「……俺も、いい加減、戦うのには疲れた…。孤児院で一緒だった仲間たちのために戦ってきたとは言え…結局は、俺たちを死地に送り込んでいる警察省の幹部どもを利するだけだ…。実力もないくせに、ヨシフ師に取り入って出世したバカな幹部どもをな…。」
そこまで言うと、ヤゴーダは息をひきとった。リーザは何となく、ヤゴーダを嫌いにはなれなかった。
翌日、リーザは、アンナの家を出ることにした。
「どうしても行くのかい?あんたに出ていかれると、居酒屋の仕込みとか、手が足りなくて困るんだけどねぇ…。」
「もう決めたことです。秘密警察の少尉を殺してしまった以上、私がここにいると、皆に迷惑がかかりますし…。」
アンナの母は、しきりに引き止めたが、リーザの決意はかたかった。
「まあ、私らには、引き止める権利なんかないもんね。それで、今後、行くあてはあるのかい?」
「この国の西北にある、スオミ王国をたずねてみようと思います。スオミの国王カストレンは、政治犯に寛大な方だと聞いておりますから、亡命者を受け入れてくださるでしょうし…。」
「そうかい。じゃ、気をつけて行きなよ。」
こうして、リーザとトゥーラは、アンナたちの前から姿を消した。
余談だが、この町の市長ラコーバは、ヤゴーダ少尉の殺害事件の責任を問われ、「ゆるやかな政治をしいたために、風紀が乱れ、町が政治犯の温床と化したので、流入してきた政治犯によってヤゴーダ少尉が殺された。」という理由で更迭されたという。つまり、独裁者ヨシフ師にとって、強力な中央集権制をおびやかす、ゆるやかな政治は禁物であり、常に更迭のチャンスを狙っていたのだ。
第二章 スオミ王国の動乱
ここは、ルースラントの西隣にある、ポズナニ王国の首都ヴィスラ……。
「ふう、午前中の講義終わり……お嬢、一緒に昼飯でも食いに行かねえか?」
大学の大教室の中、学生風のコートを着た青年が、側にいる女に話しかける。
「うん。行こうか。」
「お嬢」と呼ばれた女のほうも、軽くオーケーする。女の名は、エリーゼ・リール。実は、この女、ポズナニの隣国であるルースラントからの亡命貴族の娘なのだ。十数年前の革命の際にポズナニ王国に亡命したが、ポズナニの伝統的な貴族社会に、嫌気がさしていた。
「だいたいさぁ、あたしが女だってだけで、外を出歩く時には長いスカートをはかなくちゃいけないし、食事の時でも、おしとやかに食べなくちゃいけないし、舞踏会では毎晩のようにドレスを着て踊らなくちゃいけないし……なんで、ポズナニ王国って、こんなに不便なの…?」
昼食の羊肉をつつきながら、エリーゼは不満そうに呟く。
「仕方ねえだろ。今さら言ったところで、どうこうなるわけじゃなし…。それとも、ここを出て、よその国へ行くか?」
先程の青年がパンをかじりながら言う。
「いや、伝統的な王国ってのは、どこの国も似たようなもんだし…。」
エリーゼとて、ポズナニに身を寄せるしかないということは、わかっていた。ポズナニの言語は、ルースラントの言語であるルーシ語に近く、国王も好意的で、亡命してからも生活に不自由することはなかったからだ。下手に遠い国へでも行こうものなら、まずは言語や習慣を一から覚えなければならないし、その国の国王からどういう待遇を受けるかもわからない。実際、権力争いに敗れて異国に亡命した貴族の中には、亡命先で冷遇されて、失意のうちに死んだ者もいるのだ。
だが、貴族の中には、エリーゼが国王に厚遇されているのを快く思わない者も多かった。彼らの言い分としては、「我が国がエリーゼ嬢をかくまい続ければ、いずれはルースラントに侵略の口実を与えることになる。」というものだった。十数年前の対革命戦争の時は、周辺の大国が一致団結してルースラントと戦ったからこそ、ポズナニへ攻め込んできたルースラント革命軍を撃退できたものの……今度、ルースラントと戦争になれば、周辺の大国が援軍を派遣してくれるどうか、わからない。現在のポズナニの軍事力がルースラントに全く及ばない以上、エリーゼをかくまうのは危険だと言う主張は、説得力があった。
そういう状況の中、エリーゼへの嫌がらせは日増しに増えていった。そんな中で、唯一、エリーゼを敵視するでもなく、「国王に厚遇されている亡命貴族の娘」として媚びへつらうでもなく、対等に友人としてつきあってくれているのが、先程出てきた青年、ニコラス・トラヴァツキーである。ニコラスは田舎の商人の息子で、大学に通うために首都ヴィスラまで出てきていたのである。平凡な商人の家庭で育ったニコラスには、貴族のように互いの家柄を較べ合ったり、世間体を気にして見栄をはるようなところは無く、エリーゼも気兼ねなくつきあうことができた。二人ともヴィスラ大学法学部の学生で、学業のこととか、ふだんの生活のこととか、いろいろ話すうちに親しくなり、今では互いに、「お嬢」だの「ニコル」だのと呼び合うようになっていたのである。
そして、そろそろ冷え込みも厳しくなってきた頃の、ある夜……ニコラスが明かりを消して寝ようとした時……。
トントン……。
ふいに、ニコラスの部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「誰?こんな夜中に…。」
ニコラスがドアを開けると、そこには雪と泥にまみれたエリーゼが立っていた。
「!?……おい…お嬢、どうしたんだよ!?その姿は…。」
ニコラスの姿を見るなり、エリーゼはニコラスの首筋にしがみついて大声で泣き始めた。
「うわっ……いったい、何があったんだよ!?落ち着いて話せよ…。」
暖炉の前に座ってコーヒーを飲んでいるうちに、ようやく落ち着いてきたのか、エリーゼはポツリポツリと話し始めた。
「実は、さっき神学部の学生たちに襲われて…。」
神学部と聞いて、ニコラスは驚いた。神学部と言えば、かつてルースラントの正教救国同盟の思想に共鳴して革命を叫んでいた学生運動の拠点のひとつだった所だ。
法律の役割を教え、役所や企業での事務処理の専門家を養成するのが法学部だが、それに対し、聖典を研究したり、神の教えを説いたりするための僧侶や学者を養成するのが神学部である。その性格ゆえに、法学部の学生は国家の秩序や機能を維持するための現実的な施策を考えており、平和と秩序を乱す革命に賛同する者はほとんどいなかったが、神学部の学生の中には、貴族の汚職や不正に憤るあまり、庶民を救うためには革命も必要だと考える者が少なくなかったのである。
だが、政府の度重なる弾圧によって、革命を叫ぶ危険分子は排除されていき、今では伝統的な貴族政治を容認する者だけが残っているはずである。
しかし、貴族や富裕層の子弟として将来の出世を約束された者たちが多く進む法学部と違い、神学部は貧しい庶民の子弟も多かった。役所や企業の中では出世の見こみのない庶民にとって、出世できる機会のある職と言えば、僧侶しかなかったのである。大学を追放された庶民の子弟たちの中には、あちこちの町や村で革命を煽動し、投獄された者も少なからずいた。彼らは支配階級の汚職や腐敗を憎み、その矛先は当然、亡命貴族であるエリーゼにも向けられることになる。
その日も、エリーゼは大学の図書館で夜中まで勉強していた。王宮にある自分の部屋に戻っても、貴族たちに陰口をささやかれるか、おべっかを使われるだけである。それよりは、誰にも邪魔されずに勉強や読書に打ち込める図書館のほうが、よほどマシだった。いつしかエリーゼは、図書館で勉強し、気が向けば帰りがけにニコラスの下宿に寄って雑談して帰るのが日課になっていた。
そして、ニコラスの下宿に向かう途中で、神学部の学生たちに声をかけられた。
「エリーゼ・リールだな。国王陛下に取り入って、我が国を乗っ取ろうとしている女狐めが!!天誅だ!!」
そう叫ぶと、相手はいきなり棍棒で襲いかかってきた。エリーゼは、無我夢中で逃げ回り、やっとのことで相手をまいて、ニコラスの下宿までたどり着いたのである。
「たぶん、あたしのことを疎ましく思っているやつらが、変な噂を流して学生たちをけしかけてんだろうね。あたしが国王陛下を寝取ったなんてデマが飛び交ってるぐらいだし…。」
エリーゼは眉間にしわをよせて呟いた。
「なあ、お嬢…ここだけの話だけどな、当分ヴィスラを離れて、二人でどこかの田舎へでも行かねえか?」
「あたしだって、そうしたいよ。でも、大学のほうは、どうすんのさ?」
「んなもん、休学しちまえばいいだろ。それよりも、俺はお嬢の身のほうが心配だぜ…。今の対ルースラント政策では、強硬論を唱えるルブフ侯爵と、和平を唱えるポンメルン伯爵とが対立している。ポズナニは王権が弱く、貴族の権力が強い国だ。もし、ポンメルン伯爵が勝てば…国王陛下の意思なんて関係なく、お嬢は和平の代償として、ルースラントに引き渡されるかもしれないぜ。」
ニコラスの話を聞いているうちに、エリーゼは、ことあるごとに自分を厄介者として扱うポンメルン伯爵の顔が浮かんできた。あの、いやらしそうな顔……外国の侵略と戦うだけの気概もなく、ひたすら宮廷内の政敵を蹴落とすことばかりに血道をあげる、陰険な顔……。エリーゼの一番嫌いなタイプだ。しかし、権謀術数に長けたポンメルン伯爵は、(ルブフ侯爵とは逆に)伝統的な貴族の特権を守ろうとすることによって貴族たちを味方につけ、徐々にルブフ侯爵を追い詰めており、もはやルブフ侯爵の失脚は時間の問題だった。
「…そりゃそうだけど……でも、田舎へ行ったところで、どこに泊まるのよ?あたしだって、そんなに金を持ってるわけじゃないし…。」
「心配すんな。俺の従兄弟に話をつけてあるから。決して悪いようにはしないよ。どうしても信用できないって言うのなら、来なくてもいいし…。」
「わかったわ。どうせ、こんな都、未練もないし……この年でニコルと二人でバカやるのも悪くないかもね。」
実際、エリーゼは宮廷内での権謀術数の応酬を見るのに疲れていた。幼い頃は国王がいろいろと庇護してくれたが、その国王も年とともに老いて、最近はほとんど病の床に伏している状態である。今や、宮廷内でエリーゼを守ってくれる者はいなかった。
ニコラスが逃亡を勧めようが勧めまいが、エリーゼには他に選択の余地はなかったのである。
その夜、男装したエリーゼとニコラスは、ひそかにヴィスラを脱出した。
(どうせ、ルブフ侯爵が失脚すれば、ポズナニは終わりだ…。)
エリーゼにはわかっていた。支配階級の汚職や不正を無くし、「貴族は私事をなげうって国家のために尽くさねばならぬ」という、ポズナニ王国建国時の「貴族の義務」を復活させようとしたのが、ルブフ侯爵である。幼い頃から神学と武術に秀でており、清廉で高潔な人格者であるルブフ侯爵に、エリーゼは好感を抱いていた。ルブフ侯爵の政治改革に反対するポンメルン伯爵が権力を握れば、腐敗したポズナニ王国が遅かれ早かれ戦争や革命で滅ぶのは、目に見えている。
「お嬢、その帽子とコート、よく似合ってるぜ。男に生まれてたら、なかなかの美少年になってるな。」
夜中の街路を走りながら、ニコラスが声をかける。
「あたしだって男の子に生まれたかったよ。女なんて、不自由なだけだもん。」
この当時、ルースラントの革命は近隣諸国に波及していた。あちこちで結成された革命組織は、ヨシフ師を「革命の盟主」とあおぎ、武器や資金の援助を受けて、しだいに大勢力になりつつあった。そんな中で、エリーゼたちが目指したのは…ポズナニの北方に位置する、スオミ王国である。
裕福な自作農が多く、鉱物資源にも恵まれているスオミでは、破壊的な革命理論は、ほとんど波及しなかったため、ルースラントを追われた知識人たちは、隣国であるスオミに逃れ、英明な国王カストレンの庇護のもとで、自由な文化の華を咲かせていた。
だが、ヨシフ師にとって、スオミ王国の「自由」は、許容できないものだった。
「スオミの支配階級に抑圧されている下層民たちよ!諸君らは『王の奴隷ではなく自由民である』と教育されてきたが……支配階級によって、『人間らしく生活する自由』を奪われている!さあ、革命に立ち上がり、『人間らしく生活する自由』を取り戻すのだ!」などという内容のビラが、革命組織によって、あちこちにばらまかれていたが、下層民の少ないスオミでは、あまり効果がなかった…。
革命理論の師匠であるウラジミル師のように、理論を作る才能のないヨシフ師は、「自由」に対置する理論を抜きにして、革命組織にひたすら武器と資金を送り続けるしかなかったのだ。
実際、世界の革命の盟主と崇められているヨシフ師にとって、ウラジミル師は、越えることのできない壁だった。同時に、埋めねばならぬ欠点もあわせ持っていた。
(理想社会を理論化したウラジミル師は偉大だった。だが、残念なのは、ウラジミル師は、自らの理想社会の在り方のみを書き残し、世を去ったことだ。理想社会に至るまでの方法までは書き残しておらぬ…。だから、わしは、世界をその理想国家にするべく、導かねばならぬ…。理想社会に至るまでの方法は、わしが作るのだ。)
ヨシフ師は、そのために必要な手段は何でもとってきた。「革命戦争に耐えられる国家を作る」という目標の下、強硬な富国強兵の政策をとってきた。農民からは王政時代以上に過酷に年貢をとりたて、都市の住民は強制労働にかり出された。こうして収奪された富は全て、軍事力の強化にあてられた。
当然、批判も山ほど浴びることになったが、ヨシフ師は全て無視した。いつしか、ヨシフ師は、ウラジミル師の著作しか読まなくなり、一人で礼拝堂にこもることが多くなっていった。「ウラジミル師の遺志を継ぐ」「世界革命の成就」が口癖になっていた。
礼拝堂で祈りながら、ヨシフ師は常に思った。
(ウラジミル師よ。あなたは卑怯だ。革命で権力を握り、すぐに死に、後の国家建設にかかわらなかったことが…。死んだ人間は周囲から美化され、永遠の英雄となる。その栄光が色褪せることはない。だが、生き残って国家建設を行う者は、いやおうなしに批判にさらされ続ける…。)
その頃、エリーゼたちとは別に、ルースラントからスオミを目指して進んでくる者たちがいた。リーザとトゥーラである。リーザたちはスオミとの国境に横たわるカレリア山脈を越えようとしていた。だが、冬に千メートル級の高山を越えようというのだから、大変である。おまけに運悪く吹雪にみまわれ、そのうえ、冬場で腹をすかせたカレリアオオカミの群れが襲ってきていた。リーザたちは剣でカレリアオオカミを斬りながら進んでいたが、もう体力の限界だった。(リーザの持つ、動物を操る力は、猫科の動物にしか適用できないため、犬科のオオカミには通じないのだ。)
「ダメだ。もう一歩も動けねぇ…。今日はもう、そこの洞窟で休もうぜ。」
トゥーラが提案する。リーザのほうも疲れきっていたので、その日は洞窟で休むことにした。
洞窟の中で、リーザとトゥーラは肌をよせあって寒さをしのいでいた。時々、外の吹雪の音が「ゴオオオォォッ…」と聞こえてくる。
「アンナ、今頃どうしてるかな?」
「あの子なら、元気にやってるんじゃねえか?見た目よりしっかりしたとこあるしよぉ…。」
そんなことを言っているうちに、リーザはウトウトし始めた。
「まずい!眠るな!眠ったら死んじまうぞ!!」
パアン…!!
トゥーラがリーザに平手打ちをくらわせる。一方、トゥーラもウトウトし始めたので、今度はリーザが平手打ちをくらわせる。そんなことを繰り返しているうちに、夜が明けた。
翌朝は吹雪もやみ、快晴だった。もっとも、夜が明けても、食べる物もなかったが…。食料は昨日で尽きてしまっている。仕方ないので、二人でカレリアオオカミの肉を焼いて食べ始めた。
「まずいな…。」
「文句言わないの!」
まずい肉だったが、味も何も気にせずに胃の中に流し込む。腹がくちくなったところで、昨夜眠ってない疲れも出たのだろう。二人は寝始めた。
トゥーラが目覚めると昼だった。隣ではリーザが腹を押さえて、「痛い…痛い…。」とうめいている。
「あちゃー…どうやらカレリアオオカミの肉にあたったな…。」
トゥーラは頭をかかえた。こんな原野の真っ只中で食中毒を起こされても、手のほどこしようがない。しかたなく、トゥーラはリーザを背中におぶって歩き出した。
「ごめん…私のせいで……。」
「なぁに、もう下り坂だ。下っていけば、スオミに入れる。」
だが、スオミの国境に達した時に、事件は起きた。
スオミの国境警備隊が、リーザとトゥーラを拘束したのだ。トゥーラは抵抗したが、国境警備隊の人数は多く、トゥーラ自身も山越えで心身ともに疲れきっているうえに、リーザを背負っていたので、取り押さえられるのに時間はかからなかった。
「おい…ここは政治犯を受け入れてくれる自由の国じゃなかったのかよ!?」
トゥーラがどなる。
「……事情が変わったのだ。先日、軍部のクーデターによって、国王カストレンは失脚した。後任の国王シリヤクス陛下は、『ルースラントと停戦するかわりに、亡命してきた政治犯をすべて引き渡す。』という停戦協定をルースラントと結んだ。気の毒だが、おまえら二人はルースラントに強制送還する!」
そのまま、二人は政治犯専用の牢獄に入れられた。
一方、エリーゼとニコラスにも、国王カストレン失脚のニュースは届いていた。
「どうするよ、お嬢…?スオミも安全じゃなくなっちまったみたいだぜ。スオミに行けば、お嬢はルースラントに強制送還されちまう…。」
「……。」
エリーゼには答えられなかった。
「今じゃ、ルースラントは大陸屈指の大国だ。恐れをなした近隣諸国がひざを屈したとしても、無理はない…。」
エリーゼは一瞬、ニコラスに気圧されたように縮みあがったが、すぐに元気を取り戻して言った。
「だったら、裏からスオミに乗りこんで、カストレン陛下を救出するしかないじゃないの!」
エリーゼは赤く上気した顔で言った。
「…確かに、そうだな。じゃあ、お嬢の思う通りにやってみればいい。」
ニコラスが賛成する。
「……で、問題は、どうやって裏からスオミに乗りこむか、だな…。」
この時、二人が当面の住居としていたのが、ニコラスの従兄弟、マルク・トラヴァツキーの家である。マルクの家はスオミの国境近くにある農家だ。
「ニコラス兄さん、スオミへ行きたいのか。なら、わらを運ぶ荷馬車があるから、そのわらの中に隠れてりゃいい。交通のラッシュ時に行けば、検問がいい加減になってるから、簡単にやり過ごせるよ。まあ、俺に任せときなって。」
マルクは自信まんまんに言った。
さて翌朝……マルクの言ったとおり、早朝、スオミへ向かう道は荷馬車でごったがえしていた。行商のためにスオミへ行く商人の多いこと……。ニコラスとエリーゼは、予定通り、荷馬車のわらの中に隠れて、無事にスオミへ入国した。
「じゃあな、ニコラス兄さん、あとはしっかりやれよ。俺はわらを畜産農家に売ってくるから。」
マルクは適当な所でニコラスたちを降ろすと、畜産農家にわらを売りに行った。(この辺の国々では、国境を越えて行商に出ることも珍しくないのだ。)
「さてと……まずはシリヤクス国王のことを調べないとな…。軍部の支持を受けてクーデターを起こしたっていうけど。」
ニコラスは早速、まわりの市民たちに、聞き込みを始めた。
その日の夜、宿屋でニコラスは聞き込みの成果を話した。
「とりあえず、軍部はルースラントの軍事力を恐れている。兵力、装備ともに、ルースラントはスオミの数倍だからな。対ルースラント強硬論者であるカストレン国王は、誰から見ても邪魔な存在なのさ。おまけに、カストレン国王は下層の労働者の出身だから、貴族出身の将校たちのウケが悪いときてる。」
「で、カストレン国王は、今どこに?」
「場所まではわかんないけど、どこかに幽閉されているらしい。」
「…そうなの…。」
「まあ、今日わかったのは、それぐらいだ。明日もあるし、気長にやるしかないな。」
そう言うと、ニコラスはベッドに横になって寝てしまった。
一方、こちらはリーザとトゥーラ……。
二人は牢獄に閉じこめられてしまった。牢獄の中は、空気がよどんでいて、かび臭かった。
「くそっ…ルースラントに連れ戻されりゃ、死刑は確実だ……って、リーザ、何やってんだ?」
「魔術で扉を破れないかと思ったけど…相当、頑丈にできてるわね。『獣現術』を使っても突破は不可能だわ。」
扉には、魔術封じの紋様が幾重にも描かれている。
「おまえさんたち…逃げようなんて思ってんじゃないだろうね…。逃げようったって無駄だよ。」
奥のほうから声が聞こえる。この牢獄では最年長の「ナスターシャ」というばあさんだ。
「逃げなきゃ、殺されるぜ。」
「私だって、そのぐらいはわかってるさ。でも、この魔術封じの結界を見ただろう。」
「……逃げる方法がないわけでもないわ。」
ふいにリーザがつぶやく。
「どうする気だ?」
「まあ、まかせときなって。」
それから数時間後、リーザとトゥーラは、牢獄の裏手にある死体置き場に移された。リーザの方法とは、いたって簡単である。手首を歯でかみ切って、大量の血を流すのである。こうすると、一時的に仮死状態になるのだ。それを見つけた看守が、自殺したと勘違いして死体置き場に移したのである。もちろん、アリーナ族の強靭な生命力があってこその技である。普通の人間なら、死ぬ危険性が高いのだ。
「…いてて…ようやく看守が死体置き場から離れてくれたか。」
「…そうみたい。」
看守が死体置き場から去ったのを見届けると、トゥーラは大きく伸びをした。何時間も同じ姿勢をとっていたおかげで、体中の筋肉がひきつってしまっているのだ。急いで手首の傷を止血すると、二人は死体置き場から裏門へと歩いていった。これ以上、死体置き場にいると、死体と一緒に埋められてしまうからだ。裏門までは、看守や衛兵の姿を見ることもなく、無事に通り過ぎることができた。
「出たのはいいけど、これからどうするんだ?」
トゥーラがリーザに尋ねる。
「とりあえず、失脚したカストレン国王に連絡をとらないとね。スオミで私たちの味方になってくれそうなのは、カストレン国王ぐらいだし。」
だが、カストレン国王に連絡を取ろうとする作業は、至難だった。シリヤクス国王によって、緘口令がしかれていたためである。カストレン国王の居場所さえ、なかなかわからないのだ。
さて、こちらはシリヤクス国王…。
「…そうか。ルースラントからの亡命者はまだまだ増えているか。」
「はっ…。国境を封鎖しても、亡命して来る者が後を絶ちません。」
国王の問いかけに、大臣が答える。
「ヨシフ師からは、『亡命者を強制送還せよ!』と、矢のような催促なのであろう…。」
「はい。最近では、『強制送還に応じぬ場合は、武力で侵攻する!』とまで言ってきております。」
そこまで聞くと、シリヤクス国王は天をあおいで嘆息した。
「ヨシフ師がここまで強硬に出てくるとは…やはり、国民から『クーデターによる簒奪政権』と罵られようとも、対ルースラント強硬派のカストレンを排除して正解だった。」
「陛下のなさったことは、今でこそ『簒奪』ですが、将来は必ず理解を示す者が現れるでしょう。」
大臣は、そう言うことで、国王をなだめようとした。
「ところで、『対ルースラント大同盟』の締結はどうなっている?隣のポズナニ王国やジナヴィア王国は加わるのか?」
「…ポズナニ王国は加わる気はなさそうです。なにしろ、あのポンメルン伯爵が権力を握っている限りは…。ジナヴィア王国についてはわかりませんが、ルースラントと国境を接していない以上、加わる気はないだろうと思われます。」
「ふむ…やはり、わが国だけでヨシフ師と対決するのは危険だ。対ルースラント政策の詳細は、今後の動向を見たうえで決定しよう。」
「御意。」
大臣は一礼して立ち去った。
その後もシリヤクス国王は、いろいろ考えていた。ルースラントとの外交、ヨシフ師とのつきあい方、などなど…。スオミは鉱物資源にめぐまれ、ルースラントと国境を接している以上、常にルースラントからの侵略にさらされ続けてきた。前回の対革命戦争の際には、スオミに侵攻してきたルースラント革命軍と戦っているぐらいである。そのうえ、ヨシフ師は、「鉱物資源を世界革命のために使う。」と称して、鉱山の利権や軍事拠点の割譲を求めていたのである。シリヤクス国王にとって、ルースラントとの外交は、「いかにしてスオミの独立を維持するか?」という一点にしぼられていた。
その夜、リーザとトゥーラは近くの居酒屋で酒を飲んでいた。なにしろ、居酒屋というのは、いろんな客が集まる以上、情報も得やすいのだ。
「…で、カストレン国王だが、どうやら、首都フォルスの近くに監禁されているらしい。詳しい場所まではわからんが…。」
客の一人が言う。
「どうやら、フォルスへ行く以外になさそうね。」
「そうだな。」
リーザとトゥーラはその日のうちに出発した。一方、時を同じくして、ニコラスとエリーゼもフォルスへ向けて出発していた。
さて、ある宿屋でのこと…。
リーザとトゥーラが旅装をといていると、隣室から話し声が聞こえてきた。(リーザとトゥーラは地獄耳なので、かすかな音でも聞こえるのだ。)その声を聞いてみると……。
「カストレン国王を助け出さないと、俺たちに未来はない。フォルス近郊にいるんなら、さっさと助け出したほうがいいんじゃないか?」
「いや、あせらずに、まずは情報を集めないと…。」
その声に、リーザは、はっとなった。
(同志だ。)
だが、とっさに部屋に飛びこむ勇気が出ない。そうこうしているうちに、トゥーラが隣室に飛びこむ。
「ちょっと聞くが…おまえら、カストレン陛下を救出しようとしている連中か?」
「さあな。人違いじゃねえか?」
ニコラスは、そっけなくつぶやく。そこで、トゥーラは手首の傷あとを見せた。
「国境を越える際に、自分でつけた傷あとだ…。これでも信じないか?」
一瞬、隣室の客が息をのむ音が聞こえた。
「わかった。信じるよ…。俺はニコラス・トラヴァツキー。こちらは…。」
「ルースラントからの亡命貴族、エリーゼ・リール。」
その時、リーザも隣室に入ってきた。
「私はルースラントから亡命してきた政治犯リーザ・マフノー。こちらは…。」
「同じく、政治犯トゥーラ。」
この日、四人は初めて会い、意気投合したのだった。
翌日、四人はフォルスへ向けて出発した。ちょうど吹雪いてきたので、フォルスへの道のりは困難をきわめた。
「雪よ、もっと降れ…。追っ手がついてこれないように、降って降って、あたいらの消息を消してくれ…。」
トゥーラがつぶやく。
「で、仮にカストレン国王を救出したとして、その次はどうするんだ?カストレン国王には、軍部の支持がないんだぞ。」
ニコラスが尋ねる。
「それは救出した後の問題よ。今はとにかく救出が最優先だから…。救出後は、軍部の支持じゃなくて、民衆の支持で政権を握るしかないわね。」
リーザが答える。
「民衆ったって…カストレン国王を支持してんのは、一部の愛国的な学生たちだけだぜ。学生の書生論では現実に対応できないぞ。」
ニコラスの答えに、リーザは反論できなかった。だが、他にどんな手があるというのか?
その夜、宿屋でリーザは夢を見た。女神アリーナと対面している夢だった。
「リーザ、わらわは人間の作る権力など認めない。ゆえに、カストレンの体制も認めない…。カストレンとて、人の子……権力を手中にしたら、必ずそなたを切り捨てるぞ!」
「お言葉ですが、女神アリーナ……カストレンは、まだ信じてみる価値はあると思います。カストレンは下層の労働者から身を起こして軍人になり、先の対革命戦争でスオミ軍を率いて活躍して、その功によって国王にまで登りつめた苦労人です。それゆえに、祖国を追われた亡命者には寛大な方でした。仮に一時は裏切られたとしても……後には、必ずや我が民族に味方してくださるものと思います。」
「…ふむ…そこまで言うのなら、そなたにまかせよう。だが、カストレンとて、ただの人間に過ぎぬ以上、そなたを裏切るかもしれぬということは、覚えておくがいい。ついでに、カストレンの居場所も教えてやろう。フォルスに近い、雪が降りしきる『ヘルシンキ要塞監獄』だ。監禁されて、健康状態は著しく悪化している。早く行かぬと、手遅れになるぞ!」
そう言われたところで、リーザは目が覚めた。
(急がなければ…カストレン国王も私たちも終わりだ。)
翌日、リーザは全員に、前日の夢の話をした。
「女神様が言ったんなら、間違いねえな。あたいたちも行かなきゃならねえ。」
「でも、どうやってカストレン国王を助けるんだ?ヘルシンキ要塞監獄といえば、並大抵の警備体制じゃないぞ。」
ニコラスが口をはさむ。
「要塞監獄へ行く道には何重にも検問があるし、道以外の所は高い塀や深い堀と有刺鉄線に囲まれている……たどりつけたとしても、監獄内部のいたるところに、侵入者よけのワナがしかけてあるという話だ。素人の手にあまる仕事だぜ…。」
「…かなり周到に用意しないと、突破は無理ね。」
「まずは通行許可証を入手しないとな…。」
こうして、役割分担が決まった。政府の要人を襲って通行許可証を奪うのがリーザとトゥーラの役割、突破に必要な武器の調達がニコラスとエリーゼの役割である。リーザはトゥーラと一緒に、ヘルシンキ要塞監獄の役人が通りかかるのを待った。(通行許可証は、役人が持っているためである。)
雪が降る中、しばらく要塞監獄の近くでまちぶせていると、やたらに着飾った役人が、十人ばかりの従者をひきつれ、馬に乗って現れた。
「どうする?従者までいるよ。」
「かまうもんか!やっちまえ!」
トゥーラがいきりたつ。
「なら、予定通り…。」
そこで、リーザは役人の前に通りかかり、急にしゃがみこむ。
「ゴホッ…ゴホッ…持病の結核が…。」
「何?結核だと?近寄るな!うつる!」
役人の行列が乱れて止まったところで、トゥーラが後ろから剣をふりかざして襲いかかる。(今回は、通行許可証を破損させてはならないため、魔術ではなく剣で攻撃したのだ。)
「ぐわっ…!!」
十人の従者のうち、三人までが斬りふせられる。
同時にリーザも剣を抜き、役人めがけて襲いかかる。
「うぬ、貴様…ぎゃああっ……!!」
役人は血しぶきをあげて倒れる。従者は逃げようとした。
「一人も逃がすな。」
「わかってるって。」
リーザは剣をふるって、あらかた斬り捨てた。
だが、かなわないとみた従者の一人が、発煙筒から煙をあげ始めた
「しまった!発煙筒まで持ってたのか!」
リーザが舌打ちする。煙をあげた者も含めて全員斬り捨てたが、煙があがった時点で、襲撃したことがシリヤクス国王側にばれてしまう。
「どうする?」
「どうもこうもねえだろ。こうなった以上、強行突破しかねえ!」
「じゃあ、すぐにニコラスとエリーゼに連絡しないと…。」
「そんな暇あるか!あたいらだけで突破するぞ!」
トゥーラは剣の血もぬぐわずに駆けだした。
「…しかたないわね。」
リーザも後を追って駆けだす。
一方、こちらはニコラスとエリーゼ――。
「あ~あ、疲れた。武器っていっても、なかなか無いもんねえ。」
「そりゃ、貧乏人の手の届く所には、そうそう売ってねえよ……ってか、何だ、この猫?」
ふいにニコラスの足元に、猫がよってきて、まとわりついた。よく見ると、口に何かをくわえている。
「あれ?何だ、これ…?」
ニコラスは、猫のくわえている筒を手に取り、開けてみる。中には手紙が入っていて、荒く書きなぐった文字が並んでいた。
「大変だ!」
「ニコル、誰から?何て書いてあるの?」
後ろからエリーゼがのぞきこむ。
「リーザさんからだ!トゥーラさんが要塞監獄に向かってるから、加勢してくれって…。」
「今から?間に合うわけないでしょ?」
「とにかく、リーザさんとトゥーラさんを見殺しにするわけにはいかない!一刻も早く駆けつけないと…!」
さて…先に要塞監獄に突入したトゥーラのほうでは、既に戦いが始まっていた。最初の検問所の番兵は剣と槍だけしか持ってなかったので、リーザとトゥーラの超人的な剣の腕と魔術だけで突破できたが、第二の検問所は、そうもいかない。番兵たちは弓矢と魔術で攻撃してきていて、剣で突入する隙が無かった。
「さすがに、きついな…。」
トゥーラがぼやく。
「獣現術しかないわね。」
そう言うと、リーザの意識はゆっくりと周囲の風に同化し始めた。
(…風の精霊よ…私に、カストレン国王を守る力をください…。この検問所を突破する力をください…。)
リーザは一心に念じた。その間にも、番兵の放つ魔術の光が、リーザに向かって放たれる。
バシュウウウゥッ…!!
リーザは手をかざしてバリヤーを張り、よけた。だが、息をつく暇もなく、第二派がくる。
ドシュウウゥッ…!!
再びバリヤーでよける。同時に、側面にいた番兵から槍が突き出される。もはやバリヤーを張る暇はない。
ガキィン…!!
トゥーラが剣で槍をはじく。同時に、リーザの魔術が発動し、一条の白い光が番兵に向かって放たれる。
バシュウウウゥッ……!!!
ドッカアァン…!!!
槍を突き出した番兵が、爆発で吹っ飛ぶ。
「私たちは、これ以上、無益な殺生をしたくない!さがれ!」
リーザは威嚇するように言った。番兵たちは、弓矢と魔術で、なおも抵抗を続ける。
リーザとて、飛んでくる弓矢をすべてバリヤーでよけられるわけでもなく、腕に数本の矢が刺さっていた。トゥーラのほうも、矢が左腕に刺さっている。それでも痛みを感じている暇もなく、番兵をけちらしながら二人は突き進んだ。
やがて、そんな二人に臆したのか、番兵は第三の検問所へ向けて逃げ出した。
「へっ…あたいらだけでも、けっこうイケるじゃねえか。」
トゥーラは、傷の痛みに耐えながら、ひきつった笑顔を浮かべる。
「まだ油断は禁物よ。第三の検問所には、何があるかわからないんだから。」
リーザは矢を抜いて止血しながら言う。
やがて、簡単な止血も終わり、二人は第三の検問所へ向けて走り出した。
だが、第三の検問所は様子が違った。検問所へ近づくと、魔竜が火を噴いたのだ。検問所には他にも魔獣ポグロムが五匹もおり、魔竜の火をバリヤーでよけたリーザに、間髪をいれずにいっせいに襲いかかる。
「きゃああっ…!!」
側面から襲いかかるポグロムに対し、もはやバリヤーを張る暇はない。リーザは剣をふるって、ポグロムの牙をかわそうとするが、全部はかわしきれず、肩にかみつかれる。
「ぐあああっ……!!」
一方、ニコラスとエリーゼは、要塞監獄へ向けて必死で走っていた。
「うぷっ……ここが第一の検問所か。既にリーザさんとトゥーラさんが突破した後だな。」
血のにおいにむせかえりながら、ニコラスがつぶやく。しばらく歩くと、第二の検問所が見えてくる。第二の検問所もリーザたちに突破された後だった。
だが、第三の検問所へ近づくと、様子が違った。
既にリーザは魔獣ポグロムの牙で満身創痍だった。トゥーラも同様に満身創痍だった。
「ニコラス、逃げて!あなたがかなう相手じゃないわ!」
リーザが叫ぶ。
「そう言われて、おいそれと逃げられますかってんだ。」
そう言うと、ニコラスはふところから何か取り出して、ポグロムに向かって投げた。
パシュッ…。
小さな音をたてて、投げられた物体がはじける。同時に、雨が降る。雨にぬれたポグロムが、断末魔の叫び声をあげながら消えていく。
「これは、魔よけの聖水さ。空中で瓶が砕けて、中身が飛び散るようにできてるんだ。これを浴びると、魔獣は魔界に戻されるってわけだ。俺の家は商家だからな。こういう魔術のアイテムがいろいろあるんだよ!」
だが、ポグロムはまだ一匹いる。それに対し、魔よけの香水は、さっきの一瓶だけだ。
「まずい。これ以上、ポグロムにかみつかれると、太刀打ちできないぞ。」
「大丈夫。一匹なら、あたいらで何とかなる!」
だが、また魔竜が火を噴いた。既に気力、体力ともに限界にきているリーザとしては、バリヤーを張るのも限界だった。
「あたいがポグロムを片付けるから、リーザはバリヤーを張るのに集中してくれ!ニコラスは魔竜を操っている魔道士をやっつけろ!」
トゥーラは矢つぎばやに指示を出す。
ニコラスには武術の心得は多少あるが、魔術は使えない。とりあえず、ニコラスは剣を抜くと、魔道士めがけて斬りかかる。だが、魔道士も負けてはいない。魔竜を操る呪文を唱えながら、剣をふりかざす。両者は互いに斬りむすんだ。
「驚いたな。ただの大学生かと思ったが、まさか剣が使えるとは…。」
魔道士が驚嘆の表情を浮かべる。
「商人てのは、いつ商売敵に狙われるかわからねえからな。剣ぐらい使えて当然なんだよ!」
ニコラスは魔道士の刃をかわしながら言う。だが、相手もそうとうな剣の使い手だった。魔道士が気合をこめて剣を一閃すると、ニコラスの剣ははじき飛ばされる。
「くっ…。」
「とどめだ!」
魔道士が剣をふりかぶる。
だが、剣はふりおろされることはなかった。
「ぐがああっ!!」
突如、魔道士の悲鳴が聞こえる。よく見ると、リーザが前後にバリヤーを張って魔竜の攻撃をかわしながら、魔道士に近づき、後ろから魔道士に斬りつけていたのだ。
「大丈夫?」
「悪いな、リーザさん。」
だが、リーザも、長時間にわたって広範囲にバリヤーを張るという、肉体の限界を超えた魔術を使ったために、力尽き、ガクリとひざをつく。
そのとたんに、魔竜がリーザに向かって火を噴いた。
ゴオオオオォォッ……。
リーザが炎にのみこまれる。
「リーザぁ!!]
トゥーラが叫ぶ。ポグロムを斬り捨てると、トゥーラは魔竜めがけて斬りかかった。
「リーザのかたきだ!!」
だが、剣をくらわないように空中に逃れてから火を噴く魔竜に、獣現術を使えないトゥーラは苦戦した。一方のリーザは、体中にやけどを負って、瀕死の状態である。
「魔竜を召喚した魔道士が死んだ以上、召喚主を失った魔竜は暴走する。あたいは魔竜をくいとめるから、エリーゼはリーザを頼む!医者のもとへ運んでくれ!」
トゥーラはエリーゼに言うと、魔竜に向かって魔術を発動した。
ビシュウウゥゥッ…!!
魔竜のほうも、火を噴いて魔術を打ち消す。
ゴオオオォォッ…!!
エリーゼは魔術も剣も使えない以上、トゥーラと魔竜の戦いを驚嘆のまなざしで見守っていたが、すぐに自分のやるべきことを思い出すと、リーザを背負って歩きだした。
(こんな細身の体のどこに、あれだけの力があるんだろう?)
そう思うほど、リーザの体はか細くて軽かった。
背後では魔竜とトゥーラの死闘が続いている。トゥーラは魔竜との距離をつめるために、検問所の物見やぐらへ上った。魔竜は木製の物見やぐらに容赦なく炎を浴びせてくる。トゥーラは火にまかれる前に物見やぐらの上まで上りきり、上から魔竜に向かって身をおどらせた。
「くらえっ!」
トゥーラの魔術が、至近距離から魔竜をなぐ。
ビシュウウゥゥッ…!!
トゥーラの手から放たれた一条の白い閃光は、魔竜の心臓を正確に撃ちぬいていた。
「グギャアアアアァァ!!」
魔竜の断末魔の絶叫が、周囲の空気を震わせる。魔竜はそのまま地上に落下すると、動かなくなった。
だが、トゥーラのほうも無事ではすまない。高い物見やぐらのてっぺんから飛び降りながら魔術を使うという、無理な姿勢をとったため、着地の際に左足をくじいてしまったのだ。
「いてて…。」
「大丈夫か?」
「あんまり大丈夫じゃねえな…。要塞監獄の中まで行きたいところだが…この足じゃ難しいな。」
「どうする?要塞監獄へ突入するのは、後日にするか?」
「いや、今を逃せば、要塞監獄の警備が強化されるのは、目に見えてる。突入は今しかない!」
そう言うと、トゥーラは物見やぐらの焼け残った木片を剣で削って、杖を作った。
「とりあえず、これでしばらくはしのげる。さあ、突入だ!」
要塞監獄の門番も兼ねていた魔道士の懐からカギを奪うと、トゥーラとニコラスは要塞監獄内部へと突入した。
最初のうちは、ワナもなく、順調に進めた。
「こんなに簡単に進めるんなら、武器を調達する必要はなかったんじゃないか?」
ニコラスが言う。だが、そのとたん、横から槍が突き出されてきた。
「うわああっ!」
「くっ!」
二人は、かろうじてよけるが、ニコラスは左腕を槍がかすっていた。
「いてて…。」
「ここは昔、城塞として使われていたぐらいだからな…。この程度の侵入者よけのワナは、至るところにあるぜ。
まあ、これは魔術によって発動されるワナだからな。解除には魔術が必要だが…あたいの魔術じゃ、解除しきれない。リーザぐらいの魔術の腕があれば、可能だが…。」
トゥーラが厳しい口調で言う。
「昔、対革命戦争の際には、ここでもルースラント革命軍との戦闘が行われたんだ。スオミ軍は多くの死者を出しながらも、ここを死守し、首都フォルスを攻撃から守った。その戦闘で死んだ者たちの幽霊が、今もさまよっていて、侵入者をとり殺すと言われてるんだ。」
「やめろよ、そんな話は…!」
ニコラスが言う。ニコラスは幽霊などの怪談が大の苦手なのだ。
「わりぃ。でも、気をつけないと……危険だぜ。」
だが、そんな二人の前に、突如、幽霊が現れた。
「うわあああっ…うわさをすれば何とやら…。」
トゥーラとニコラスは身構えるが、幽霊は攻撃をしかけてくる様子はない。
「…こわがらないでください。僕はルースラントの革命政権から逃れてスオミに亡命した政治犯です…。先の対革命戦争では、スオミ側に立って戦い、戦死しました…。見たところ、あなたがたも、訳ありの政治犯のようです…。ですから、決して、あなたがたに危害を加えようというつもりはありません…。」
「…ってことは、あたいらの味方か?」
「そうです…。あなたがたは、何の目的で、この要塞に入ったんですか…?」
「カストレン国王を救出するためだ。おまえは、カストレン国王について、何か知らないか?」
「…それなら、カストレン国王らしき人物が、収監されてくるのを見たことがあります…。まあ、この要塞のどこかにいるとみていいでしょう…。」
「よし!じゃあ、すぐに案内してくれ!」
トゥーラが指を打ち鳴らして喜ぶ。
「…わかりました…。ついてきてください…。あと、僕のことは、『ヴォーリン』と呼んでください…。」
そう言うと、ヴォーリンは先に立って道案内をする。途中で他の幽霊に出会っても、ヴォーリンが理由を話して、通してもらってきた。要塞監獄内部のワナのほうも、ヴォーリンがいちいち場所を教えてくれるので、うまく解除しながら進むことができた。
「…さて、ここが、この要塞の、囚人を監禁しているエリアだな。」
「…そうです…。あとは、あなたがたでカストレン国王を見つけてください…。」
そこまで言うと、ヴォーリンは消えた。
「お~い…カストレン国王陛下~…救出に来ましたよぉ~…どこにいらっしゃるんですかぁ~…?」
「救出」という言葉に反応したのか、あちこちで、「ここだ!ここだ!」という声が聞こえる。皆、自分が監獄から出たくてしかたないのだ。
「えーい!!こうなったら、皆出してやるよ!!だから、カストレン国王は本当はどこにいるか、教えてくれぇ!!」
トゥーラが牢屋の扉のカギを開けながら叫ぶ。順々に開けていくと、ふいに、「わしじゃ!わしがカストレンじゃ!」という声が聞こえる。
トゥーラは思わず駆け寄るが……その瞬間、絶句した。
「あなたが…カストレン国王…ですか?」
なんと、そこにいたのは、よぼよぼのおじいさんだったのだ。
「どうした?わしが、あまりによぼよぼなので、頼りにならぬと思ったか?」
その人物からは、国王であるだけの威厳が感じられなかった。トゥーラが疑ったのも、無理はない。
「今でこそ、わしはよぼよぼのじじいじゃが……若い頃は、勇猛果敢で鳴らしたものじゃぞ。先の対革命戦争でも、スオミ軍を指揮して戦ったしのう…。」
カストレン国王はなつかしそうに語った。
「とりあえず、外に連れ出そうぜ。このじいさんが本当にカストレン国王かどうかは、外の民衆に見せればわかることだしさ。」
ニコラスが言う。
「そうだな。じゃあ、カストレン国王陛下、あたいらについてきてください。」
トゥーラが言う。
「そうだな。では、行こうか。」
カストレン国王はトゥーラにおぶさり、要塞監獄から出た。
一方、そのころ、リーザはエリーゼによって、医者のもとへ運ばれていた。(医者といっても、モグリの闇医者である。政治犯であるリーザを正規の医者に見せるわけにはいかなかったのだ。)
「体中に牙による咬み傷があり、そのうえ、やけどまで……よく、この状態で生きていられたものだな。死んでないのが不思議なぐらいだ。よほど強靭な生命力の持ち主だろう…。」
闇医者は言った。
「で、治療費だが…無保険だけに、高額になるぞ。前金で300クローネだ。払えるか?」
エリーゼは一瞬、身をすくませた?300クローネと言えば、一年間の生活ができる額である。そんな金、あろうはずがない。
「払うか払わないか、早く決めたほうがいいぜ。この傷だと、早く手術しないと手遅れになる。」
「…わかりました。払います。」
エリーゼは、ぎゅっと手を握りしめた。
「母のかたみの宝石があります。これでいいですか?」
そう言うと、エリーゼは指輪をはずして、闇医者に差し出した。
「ルビーだな。これだけの大きさなら、充分に300クローネになる。よし!早速、手術だ!」
こうして、リーザは一命をとりとめた。
さて、その日の夜、エリーゼは要塞監獄からでてきたトゥーラやニコラスと再会した。
「喜べ。カストレン国王を無事、救出したぜ。」
ニコラスが嬉しそうに言う。エリーゼも喜んだが、そのカストレン国王、どうも、エリーゼの知ってるカストレン国王とは違うような気がした。エリーゼは貴族の娘なので、子供の頃、貴族どうしの舞踏会でカストレン国王に会ったことがあるのだ。子供の頃に会ったカストレン国王は、もっと精悍な顔つきをしていたと思う。(もっとも、子供の頃の記憶なので、顔ははっきりとは覚えていないが。)
その夜、エリーゼはひそかにカストレン国王の部屋を訪ねた。
「何じゃ?こんな時間に…?」
「国王陛下にお尋ねしたきことがあって参りました。」
エリーゼは淡々と語る。
「わしに尋ねたいこと?」
「はい……十五年前にフォルスで開かれた、外交官を交えた舞踏会についてですが…当時四歳だった、あたしが出席していたのをご存知でしょうか?」
「いや、残念ながら、他国の貴族のお嬢さんの顔までいちいち覚えておらんよ。こう見えても、わしは毎日忙しかったんでな。」
「そうですか…。」
そう言うと、エリーゼは退室した。
(おかしい。絶対、何かある…。)
宿の自室へ戻りながら、エリーゼは考えた。実は、十五年前の舞踏会で、当時四歳だったエリーゼは、侍従の目を盗んでワインをがぶ飲みし、さんざん酔っぱらって、カストレン国王や他国の外交官から変な目で見られたのである。後で父親からこっぴどく怒られたため、エリーゼは鮮明に覚えていたのだ。
(あの当時のカストレン国王なら、あんな醜態を忘れるはずがないわ。絶対、裏で何かあるに決まってる。このカストレン国王は偽者で、本物は別の場所にいるとか…。)
エリーゼの疑念は深まる一方だった。
さて、その疑念は、トゥーラも同じだった。その日の夢に、女神アリーナが出てきて言ったのである。
「…せっかく救出してきたのに悪いが…あのカストレン国王は、容姿こそ本物とそっくりだが…偽者だ。」
「な…何を言われるんですか?じゃあ、本物はどこに…?」
「残念ながら、いまだにヘルシンキ要塞監獄にいる。トゥーラが『カストレン国王はいないか?』と呼びかけたとき、既に健康状態は著しく悪化しており、呼びかけにこたえられる状態ではなかったのだ…。本物は死の床に伏しておる。おそらく、今そこにいるのは、スオミの官憲が万が一に備えて配置しておいた、偽者だろう。」
トゥーラは、そこで目が覚めた。
(この夢で女神様が言われたことは本当だろうか?敵の念で見せられた幻覚という線も考えられる…。)
翌日、トゥーラはニコラスとエリーゼに、ゆうべの夢の内容について語った。
「それが本当なら、えらいことじゃないか。すぐに本物を救出に向かわないと…。」
「本当だとしても、もう救出に向かう力は残ってないぜ。あたいがケガしてて、リーザが半死半生の状態だとな…。」
「……。」
重苦しい沈黙が流れる。
「まあ、とりあえず、今ここにいるカストレン国王に、民衆に呼びかけてもらおうぜ。あたいらにできることは、それをバックアップすることだけだ。」
「民衆に呼びかけるだと?長らく政治から遠ざかっているわしに、そんなことができると思うのか?」
「そうは言っても…昔はスオミ軍を率いてルースラントと戦われたんでしょう?」
トゥーラが詰め寄る。
「それは昔の話じゃ!」
「できないと言われるなら、あんたは偽者だ!あたいは、そう断言する!」
トゥーラは叫んだ。
「だいたい、あんたが本当の国王なら、自分の信念があってしかるべきだ!『侵略からは断固として国を守りぬく。』という信念が…!あたいらの信奉している女神アリーナには、そういった信念がある。でも、あんたには、それが感じられない。これが偽者でなくてなんだ!」
一瞬、トゥーラの気合に呑まれてしまったカストレン国王だが……やがて、ポツリポツリと真実を話し始めた。
「…ああ、そうさ。わしは偽者だ…。本名は、ゲオルギー・イワーノフという。カストレン国王に容姿がそっくりなために、カストレン国王を救出に来た侵入者の目をあざむくために、スオミの官憲によって、偽者として要塞監獄に入れられたルンペンさ。カストレン国王自身は、ガンで明日をもしれぬ重態だ。もともとガンだったのが、要塞監獄に入れられて、ますます悪化した…。医者をつけてもらえなかったからな…。要塞監獄にいる以上、カストレン国王が死ねば、口封じに一緒に殺される運命だったから…おまえらが来たとき、カストレン国王だといつわって、一緒に逃亡したんだ。おまえらが護衛についてくれてれば、官憲も手を出せないと思ったからな…。」
「なら、あたいらに協力してもらえませんか?この際、偽者か本物かは問いません。カリスマであるカストレン国王がいてくれれば、それだけで国民の求心力になります。あたいら政治犯にとっては、政治的に保護してくれる者が必要なんです。」
「気持ちはわかるが…見ての通り、わしは、この年までルンペンとして生きてきた。そんなわしに、英明なカストレン国王のまねをしろと言われてもな…。」
「…国王になる気があるなら、なれないことはないぜ。それなりの覚悟があるんならな。」
ニコラスが言う。
「カストレン国王が亡くなられるんなら、あんたが国王になれる道がないでもない。どうだ?一介のルンペンとして終わるより、国王になってみたくないか?」
「ふむ…ならば、本当に国王になってみようかのう…。一度きりの人生じゃ。」
「なら、まずは威厳のある話し方を身につけないとな。演説は政治家の基本だ。リーザさんとトゥーラさんのケガが回復するまでは、演説の訓練だ。」
こうして、四人が潜伏している安宿で、ニコラスによる、ゲオルギー相手の演説の訓練が続けられた。
そして、一月後―――。
ゲオルギーは、なけなしの金で買ったスーツを着て、リーザたち四人と一緒にフォルスの大通りの街頭に立ち、演説を始めた。
「フォルスの市民たちよ。余はカストレン国王じゃ。つい、この間まで、ヘルシンキ要塞監獄に幽閉されておったが……ここにいる四人の活躍で、どうにか脱出することができた。そこで、フォルスの市民たちにお願いしたい…。」
そこで、ゲオルギーはいったん言葉を切って、再び話し始めた。
「この四人は、ルースラント共和国から亡命してきた政治犯じゃ。今、隣のルースラント共和国では、政治犯があふれ、次々にこのスオミに亡命してきているが、シリヤクス国王は政治犯をルースラントに強制送還し続けている!余は、それを見過ごすことはできない!本来なら、スオミこそが被圧迫民族の先頭に立ってルースラントと戦わねばならぬはずじゃ。今のルースラント共和国は、かつての王政時代よりも自国民を虐待し、周辺諸国に害をあたえておる!余は若いころ、政治犯を保護してルースラントに戦いを挑んだ!あの当時は、皆が余に協力してくれたからこそ、余は後顧の憂いなく軍を率いてルースラントと戦えた。あのころのように国民が一丸となって、隣の侵略国と戦ってほしいのじゃ!そのためにこそ、余をもう一度、王位につけてほしい!」
だが、フォルスの市民たちの反応は冷ややかだった。
(もう戦争はこりごりだ…。戦争しなくて済むなら、シリヤクス国王でもかまわない。)
そう考える者が多かったのである。
そうこうするうちに、逮捕しようとして、憲兵隊が近づいてきた。
「まずい!憲兵だ。バラバラになって逃げろ!」
トゥーラが叫ぶ。五人は憲兵隊をまくために、バラバラになって逃げた。
「待て!わしは、足腰が弱ってて、走れんのじゃ。誰かおぶってってくれ!」
「ちっ…しかたねえな!」
トゥーラがゲオルギーをおぶって走りだす。
そして、五人は追っ手をふりきって、拠点にしている安宿に着いた。
「どうする?これだけ市民たちの反応が冷ややかだと、演説なんかするだけ無駄だぜ。」
トゥーラが言う。
「こうなりゃ、学生に訴えるしかねえな。愛国的な大学生にかつぎだしてもらうしか、手はない。」
「…でも、大学生ったって、誰に訴えるのさ?」
ニコラスが尋ねる。
「大学生なら、コネがないわけでもないよ。」
エリーゼが言う。
「大学生の中で、貴族出身者には、あたしの顔見知りがいるから。昔はスオミを何度も訪ねてたから、そのときにスオミの貴族たちと親交をもってたのよ。今は、その人、フォルス大学の自治会長やってるから。」
だが、エリーゼが知ってるという自治会長の返事は、冷たかった。
「君たちの主張は、スオミを戦争の危険にさらすものだ!とても賛成できない!」
エリーゼがどんなに頼みこもうが、泣いてすがろうが、無駄だった。
五人があきらめて帰ろうとした時―――。
「あれ?エリーゼ・リール先輩じゃないですか?」
ふいに、後ろから声をかけられた。
「そうだけど、誰?」
「ほら、グスタフ・ヴィボルグですよ。小さいころは、よく一緒に遊んだじゃないですか。覚えてませんか?」
「ああ、グスタフか。見違えちゃったわ。ずいぶん背が伸びて…。」
「そういうエリーゼ先輩も、見違えるほど美人になっちゃって……で、今日はフォルス大学に何か用ですか?」
そこで、エリーゼは今までの経緯を簡単に説明した。
「なるほど。そういうことなら、僕にまかせてください。こう見えても、顔は広いほうですから…。」
そこでエリーゼとグスタフは別れた。
そして、数日後、大学の構内でエリーゼ支持のビラを配るグスタフたちの姿があった。
「大学生の皆さん、我々『スオミ反帝国主義戦線』のメンバーに、協力してください。我々はルースラントの政治犯の保護を求めて……。」
だが、すぐに憲兵がかけつけてくる。
「こら!貴様ぁ、誰に断って、ここで反政府的なビラをまいているんだ!?」
「誰に断らずともいいはずです。『学問の自由』や『言論の自由』の保障は、スオミの憲法にも謳われているでしょうに。」
「黙れ!!反シリヤクス国王的なビラをまくのは許さん!!ちょっと来い!!」
「いいんですか?僕を捕まえると、フォルス駐屯軍の参謀長をしている父が黙ってませんよ。」
「くっ…。」
憲兵は引き下がらざるを得なかった。
「へっ…権力のイヌめが!」
グスタフは吐きすてるように言った。
だが、ビラまきの甲斐もなく、フォルスの大学生の支持は、カストレン国王には集まらなかった。
「さて…どうしたものか…。」
ニコラスが、ため息をつく。
「僕の父はフォルス駐屯軍の参謀長です。必ず、いい知恵を貸してくださるでしょう。」
グスタフが言う。フォルス駐屯軍は兵力だけでも三個師団あり、スオミの首都を守るために集められた最精鋭の軍団である。その参謀長ともなれば、家柄も実力も伴った、申し分ない人物だった。
「父さん、何か、いい知恵はないかい?」
グスタフは父の帰宅を待って、それとなく訊いた。
「エリーゼって知ってるだろ?僕の幼なじみの…。」
「聞いている。おまえが、その娘のために、ビラをまいたらしいな。憲兵隊の隊長から聞いたぞ。」
「そうなんだ。父さんはいつも言ってるだろ!『愛する人を守るためには、何でもしろ。』ってさ。」
「で、父さんに何をしてほしいんだ?クーデターでも起こせなんて言わないだろうな…?」
「そこまでは言わないよ。ただ、宮廷内での人脈を使って、カストレン国王の復権と亡命者の救済を主張してほしいんだ。」
「ふむ…難しい問題だな。軍部は全体的にシリヤクス国王を支持している。父さんが言ったところで、軍部の支持が得られないだろうな…。今、軍部はルースラントとの戦争を怖れている…。
むしろ、カストレン国王は、国中の労働者を救うための政策を打ち出してきたのだから、フォルスの下層労働者を味方につけるほうが、てっとりばやいんじゃないか?軍は民衆に剣をふるえないから、労働者が蜂起すればいいだろう。」
「なるほど。」
グスタフは翌朝、ゲオルギーたちに、そのことを話した。
「名案じゃ!わしも昔はカストレン国王から生活保護をもらってたことがある。下層労働者たちなら、カストレン国王に恩義を感じてるから、味方についてくれるじゃろう。」
「シリヤクス国王の時代になってからは、生活保護も打ち切られちまったからな。『財政を圧迫してる。』という理由で…。生活保護の復活をかかげれば、労働者たちは喜んでカストレン国王に従うだろう。」
ニコラスが言う。他の面々も、異論はないようだった。
「よし、早速、スラム街へ直行だ!」
そして、六人はフォルスのスラム街へ向かった。
「スラム街に住まう諸君、シリヤクス国王は、生活保護を打ち切った。だが、余が政権を握れば、生活保護を復活させるつもりだ。どうか、余を王位に戻してほしい…。」
だが、スラム街の労働者の反応は冷たかった。
(どうせ、誰が政権を握っても、大きな変化はない。ルースラントと戦争になれば、真っ先に徴兵されるのは、われわれ下層労働者だ。)
(おまけに、貴族の子弟まで連れてきているじゃないか。貴族と仲のいい証拠だ。政権をとるのが、カストレンでもシリヤクスでも変わらない…。)
そんなことを考えてる者が多いのだ。さすがのグスタフも、この反応の冷たさには、愕然とした。
六人が冷ややかさに失望して帰ろうとした時…。
(皆さん、ちょっと待ってください!!)
ふいに、六人の頭の中に、念話が聞こえた。
(誰?頭の中に話しかけるのは?)
リーザが尋ねる。
(僕です。シェスタですよ。)
(シェスタ!?どうして、ここに?)
(リーザさんとトゥーラさんが心配で、追ってきたんですよ。それより、このスラム街の連中は、あまりに無気力です。一発、雷を落とさないと…。)
そこで、シェスタは労働者たちに向き直ると、念話で言った。
(聞け!諸君らは、いつからこんなに無気力になったのだ!?)
念話に慣れていない者たちの顔には、驚愕の色が浮かんだ。
(そもそも、諸君らは、これまであまりに冷遇されてきたために、自らの力で世の中を変えようとは思わなかっただろう!だが、ようやく転機が訪れたのだ!ここにいるカストレン国王を王位に戻せば、諸君らは貧乏から解放されるのだ!カストレン国王に賭けてみるつもりはないか?)
「…具体的に、どうするんだ!?俺たちは、今まで権力者に搾取され続けてきたんだ!誰が権力を握ろうが変わらない…!」
「そうだ!そうだ!」
(それは、諸君らが、自分からは何もしなかったからだ!無為に生きてきたからこそ、何も得られなかったのではないか!?)
その言葉で、労働者たちの中に動揺が走った。互いに顔を見合わせてガヤガヤと騒ぎ始める。
(これからは、自分の権利は自分で勝ち取る時代だ!これは、下層民から国王に上りつめた、カストレン国王が言い続けてきたことではないか!)
再び、ざわざわと動揺が走る。
「でも、どうやって権利を主張するんだ?」
(王宮へ向けて、デモ行進をするんだ!軍や憲兵隊の攻撃で、少々の犠牲が出るのも、しかたない!だが、権利を勝ち取るためには、死を怖れるな!)
「そうだ!僕の父は、フォルス駐屯軍の参謀長だ。なんなら、この僕を人質にして連れていけばいい。そうすれば、フォルス駐屯軍は手出しできないはずだ!」
相かわらず、労働者たちは動揺している。やがて、動揺もおさまり、労働者の指導者らしき男が、前に進み出てきた。
「なら、おまえたちに従おう。ただし、そこの貴族の坊やは、あくまでもシリヤクス国王への人質になってもらう。異存はないな。」
「…いいよ。人質でも何でもなってやろうじゃないか。」
こうして、下層労働者たちのデモ行進は始められた。フォルス駐屯軍は治安出動に出たが、グスタフが一緒に歩いてるのを見ると、労働者たちを攻撃せずに黙って通した。だが、憲兵隊は、そうもいかなかった。どこの国でも、治安出動の際に最も活躍するのは憲兵隊である。徴兵された庶民からなる軍よりも、特権階級出身の憲兵隊のほうが、民衆に対し、厳しくあたれるのだ。
「ヴィボルグ参謀長(グスタフの父)のご子息が一緒にいるからといって、手加減するな!けちらせ!」
こうして、デモ隊は、突っこんできた憲兵隊と衝突した。
最初のうちこそ、リーザがバリヤーを張って憲兵隊の突進を防いでいたが、そう長い間、バリヤーを張れるような気力はない。やがて、憲兵隊と乱戦になる。
(剣は抜かないで、さやで相手をたたくだけにしてください。どんな理由があるにせよ、これ以上、相手を殺すと、厄介なことになります。)
シェスタにそう忠告されていた。リーザもトゥーラも、それはわかっているが、憲兵隊は剣の名手が多いうえに真剣で向かってくるので、苦戦を強いられた。しばらく、こぜりあいが続いたが、やがて、デモ隊が押され始めた。しょせん、デモ隊は戦闘の素人である。
「ひるむな!踏みとどまって戦え!」
トゥーラが呼びかけるが、一度崩れ始めると、混乱はなかなか収まらない。
すると、その時…。
カッと閃光が走ったかと思うと、いきなり、目の前が真っ白になった。
よく見ると、ヴィボルグ参謀長が憲兵隊に魔術を使ったのだ。閃光を走らせて、相手の目をくらます術である。同時に、フォルス駐屯軍が、憲兵隊を制止しにかかった。
「ヴィボルグ参謀長、これは一体、どういうことですか?乱心めされたか!?」
憲兵隊長が叫ぶ。
「ただいまより、我々フォルス駐屯軍は、デモ隊に味方する!デモ隊は剣を抜かずに平和的に進んでいるだけなのに、それに対して剣をふるうとは何事か!?軍の兵士も、もとをたどれば、下層の労働者の出身者が多い。その軍を統括する者として、見過ごすわけにはいかない!」
そうだ、そうだと、兵士たちの声があがる。
「俺たち兵士は、シリヤクス国王のもとで搾取され続けてきたんだ!シリヤクス国王の代になって、生活保護や、国立工場で働く権利は奪われた。(国立工場の運営が、財政を圧迫していたためである。)今こそ、立ち上がるべき時だ!カストレン国王を王位に戻すべき時だ!」
だが、兵士全員が同意しているわけではない。兵士の中には、少し裕福な家の出身者もいるのだ。彼らは、駐屯軍の軍団長の許可を得ずに、参謀長が独断で命令を出したことに不服だった。
「…これは、ヴィボルグ参謀長の独断専行と受け取ってよろしいのですかな?」
駐屯軍の第二師団の師団長である、トゥルク将軍が言う。
「これは『抗命罪』ですぞ!軍団長の命令を待たずに、勝手に兵士を動かすなど…!」
「罪に問われるのは、覚悟のうえですよ!とにかく私は、デモ隊のために何かをしたいんです!」
「だからと言って、見過ごすわけにはまいりませんよ!これは、軍の規律の問題です!」
二人の間に、一触即発の険悪な気配がただよった。
「おまけに、デモ隊と一緒にいるのは、ヘルシンキ要塞監獄を襲った犯人じゃありませんか!こやつらは、死刑ものですぞ!そんなやつらを、かばうつもりですかな!?」
「かばうも何も……先に亡命者をルースラントに強制送還しようとしたのは、シリヤクス国王ではないですか。亡命者がカストレン国王を頼ってきたのは、自然の成り行きですよ。」
「黙れ!!これは『抗命罪』だ!!こやつを逮捕しろ!!」
「そっちこそ黙れ!!逮捕などさせるか!!」
労働者出身の兵士が叫ぶ。今にも駐屯軍を二つにわけて、内戦が起ころうとしていた。
「まあ、待て。ヴィボルグ参謀長も、ちと頭を冷やしてはどうか?」
元帥の肩章をつけた軍人が、両者の間に割って入る。彼こそ、フォルス駐屯軍の軍団長であるラップランド元帥である。
「こんなことで軍を二つに割るのは良くない。ここは、わしに免じて、ヴィボルグ参謀長を許してやってくれんか?」
「しかし…。」
「無論、ヴィボルグ参謀長には、しばらく営倉(牢屋)に入ってもらうことになるが…どうだ?」
だが、労働者出身の兵士たちは納得しなかった。
「ヴィボルグ参謀長を営倉に入れるぐらいなら、自分どもが入ります!」
「それはならぬ!あくまで、将軍自身が入らねば…!」
元帥がたしなめる。
「ヴィボルグ参謀長が営倉に入ってる間に、事故に見せかけて、毒殺でもするつもりではないですか!?絶対に営倉にだけは入れさせませんよ!」
兵士たちは、なおも、くってかかる。
「まあまあ…わしは営倉に入るから、デモ隊だけは平和的に通してやってくれませんか?平和的なデモさえ許さないんなら…ここは隣のルースラント共和国と同じような、言論弾圧の国になってしまいますぞ。」
そう言いながら、ヴィボルグ参謀長はグスタフに目配せした。
(わしは陰謀によって殺されそうになったように見せかけるから、『ヴィボルグ参謀長は反動派の陰謀によって殺されかけた。』と、あちこちに触れ回り、労働者にカストレン国王を擁立させて、クーデターを起こさせてほしい。)
グスタフは前夜、父からそう聞かされていた。前夜の会話がよみがえる。
(無茶だ!父さんが命をかけるほどのことじゃない!)
(いや、スオミを変えようとすれば、それぐらいやらなきゃダメだ。わしは、スオミを自由平等の国にしたいんだ。政治犯も労働者も差別されないような国にな…。そして、カストレン国王の補佐役は、おまえたち五人だ。)
ほどなくして、ヴィボルグ参謀長は営倉に入れられ、デモは粛々と続けられたが、先ほどまでの元気はなかった。ヴィボルグ参謀長が営倉に入ったことで、デモ隊は勢いをそがれたような状態になっていたのだ。
「『民衆は、熱しやすくて冷めやすい。』か…。言いえて妙だぜ。『監獄行きにする!』とおどせば、実に簡単になえてしまう…。」
トゥーラがぼやく。
「でも、軍の内部に、カストレン国王寄りの空気があることがわかっただけでも良かったじゃない。いざとなれば、彼らだけでも協力してくれるかもよ。」
リーザが言う。
「まあな。でも、安心はできねえ。仮に下級の兵士たちが味方してくれるとしても、裏切り者が出る可能性も充分ある。人間てのは、状況しだいで、どっちにも転ぶからな…。」
だが、リーザはまだ、デモの行方を楽観視していた。シリヤクス国王の宮殿まで行進していけば、後は労働者たちがシリヤクス国王を引きずりおろしてカストレン国王を王位につけてくれると考えていたのである。しかし、現実はそこまで甘くなかった。宮殿に行くためには、近衛兵の駐屯所を通らねばならない。そして、デモ隊が近衛兵の駐屯所にさしかかったときに、事件は起きた。
「おまえたち、何者だ?ここから先は、国王陛下の許可がなければ通れぬぞ!」
「俺たちはフォルスに住んでいる労働者だ!陛下に言いたいことがあって、来たんだ!道をあけてくれ!」
「そんなことか。言いたいことなら、我々が聞こう。とにかく、国王陛下に会うことは、まかりならぬ。」
「何だと?なら、腕づくでも通るぞ!それでもいいのか!?」
(ダメですよ、挑発に乗っちゃ…。ここは、いったん引き下がって…。)
シェスタが止めたが、労働者たちがいったん激昂すると、騒ぎはなかなかおさまらない。
「おらたちは、いい加減、貧乏な生活から抜け出したいんだ!もうシリヤクス国王の政策には期待できない!何としても、ここを通って、シリヤクス国王に退陣を要求するんだ!!」
「黙れ!黙れ!いかなる理由があろうと、シリヤクス国王陛下に害をなそうとしているやつらを通せるものか!!帰れ!帰らんと、ただではすまさぬぞ!!」
「だからといって、このまま、手ぶらで家族のもとに帰れるもんか!!」
労働者の一人が、そう叫んだかと思うと、近衛兵に向かって石を投げつけた。
「ほう…これはどういう意味だ?我々近衛兵にケンカを売りにきたのか…?ならば、そのケンカ、買ってやろうぞ!さあ、おまえたち、弓矢を放て!」
近衛兵の隊長は部下に命じた。もともと近衛兵は貴族出身者で構成されている以上、労働者たちには容赦なかった。弓矢が雨あられと降りそそぎ、労働者たちは次々に倒れていった。
「まずい!いったん退却だ!」
トゥーラが叫ぶ。労働者たちは、クモの子を散らすように逃げていった。
バシイィィ…!!
その時、急に労働者たちの前に、巨大なバリヤーが張られた。
(僕がバリヤーで弓矢をくいとめますから、今のうちに労働者たちを逃がしてあげてください。)
シェスタが言う。
「わかったわ。」
リーザが応じる。
「バリヤーか。しゃらくさい!相手の気力が尽きるまで弓矢と魔術を撃ち込んでやれ!」
近衛兵の隊長が命じる。だが、リーザのほうも黙っていない。近衛兵が魔術を撃ち込んでくれば、リーザも魔術を撃ち込んで魔術どうしで相殺させる。
だが、リーザもシェスタもバリヤーを張ったり魔術を使ったりするだけの気力が尽きかけていた。しだいにバリヤーも魔術も途切れ気味になる。そこを狙って、近衛兵たちは追撃をかけてきた。
「それっ!!一人も逃がすな!!全員ひっとらえろ!!」
近衛兵の隊長が号令をかける。近衛兵は労働者たちを包囲するように、ぐるりと周囲を囲み始めた。(近衛兵のほうが足が速いために、労働者は安々と包囲されてしまったのだ。)
「労働者の諸君、わしは貴様らに危害を加えようというつもりはない!ただ、こんなことになった責任者を処罰したいだけだ!責任者さえ引き渡してもらい、『二度とデモをやらない。』と約束してもらえれば、貴様らを見逃してやる!それができないのなら、さっき石を投げたやつらを始めとして、全員を公務執行妨害で逮捕する!どうだ!?」
労働者たちの間に動揺が走る。
「わかりました。責任者を引き渡しますので、全員を逮捕するのだけはやめてください。」
労働者の指導者が言い、リーザたち六人は、近衛兵に引き渡された。(シェスタは猫なので、引き渡されずに済んだのである。)
「ふん、貴様ら六人か、デモを扇動しておったのは…!要求は何だ?」
「…カストレン国王の復権だ!」
トゥーラが言う。
「ふん…まあ、いい。言い訳は、法廷でやれ!」
そう言うと、近衛兵の隊長は、六人を監獄にぶちこんだ。
そして、その夜…。
(やれやれ…まったく、災難でしたね…。)
シェスタが、監獄の中の監房の前に、テレポートしてくる。
「まったくだ。労働者が、あれほど権力に弱いとはな…。」
トゥーラが言う。
「『下層の労働者は失うだけの財産も地位もないから、ブルジョワ(中産階級)よりも革命に熱心だ。』と、あたいが昔読んだ本に書いてあったんだけどな…。」
「本が全て信用できるんなら、あたしたちがこんな所にいるわけないでしょ。本なんて、話半分に読んでおくものよ。」
エリーゼが言う。続いてシェスタが言う。
(で、結論から言いますが……このままだと、あなたがた全員は、『密入国』、『ヘルシンキ要塞監獄の牢やぶり』、『反政府デモの扇動』などの容疑で死刑です。)
六人が身震いするのが見てとれる。
(早急にこの監獄から逃げ出さねばなりません。逃げた後は、再びスラム街の労働者たちのもとへ行き、今度こそ、カストレン国王の復権を求めるのです。)
「どうやるんだよ?もう民衆は信用できないって言ったばかりじゃねえか?」
トゥーラが言う。
(その方法は、僕に任せてください。方法がないわけでもありません。まずは、ここから脱出しないと…。)
そう言うと、シェスタは廊下で監獄内部を見回っていた歩哨に背後から襲いかかり、歩哨ののどをかみ破ると、監獄のカギを奪った。
(これが、この部屋のカギです。さあ、脱出しましょうよ。)
こうして、六人は監獄から脱出した。
(…労働者の諸君、我々は、スオミに労働者の権利をもたらすべく、やってきた。なのに、昨日のザマは何だ?)
あの翌日、シェスタの念話による演説は、再び労働者の心に波紋を広げていった。
「だが、近衛兵が攻撃してきたじゃないか!?」
「そうだそうだ!近衛兵による弓矢の攻撃で、こちらも数多くの犠牲者を出した!しょせん、貴族どもは、俺たち労働者の権利より、自分の保身のほうが大事なんだ!」
(だから、何だというのだ?諸君らは工場で働いてるんだろう?諸君らが働かなくなれば、困るのは貴族や資本家どもだ。平和的なデモがダメなら、ストライキを起こせばいい。)
「ストライキって簡単に言うけどな、ストライキで賃金をカットされるのは俺たちだ!それに、ストライキをやるとなると、必ず裏切り者が出る!今まで、ずっとそうだった!ストライキをやるたびに、俺たちに不利になって、はねかえってくるんだ!」
(なら、裏切り者さえ出なければいいのか?)
「まずは、そこだ!!全員がひとつにまとまらねば、話にならねえ!」
(それなら、方法がないわけでもない!まずは、僕の話を聞いて!)
とたんに、ザワザワさわぐ声がおさまる。
(僕らの信奉する『女神アリーナ』による、『血の契約』という儀式がある!これは、『裏切ったら、とたんに体中の血管が破裂して、死に至る。』という内容の呪符に血判を押させるものだ!これで裏切りの問題はケリがつくだろう!)
再び、ザワザワと声があがる。
「『女神アリーナ』なんて聞いたこともないぞ!」
「俺は聞いたことはある。ルースラントで信奉されている、異端の神だとか…。」
(シェスタ、ちょっと待って!女神様のことは、他民族には内緒にしとくべきじゃなかったの?勝手に話したら、女神様の怒りに触れて死ぬことになるんじゃ…?)
リーザは念話でシェスタに尋ねた。
(大丈夫です。女神アリーナの存在を隠す必要があるのは、存在を話すことで、アリーナ族が危機に陥る場合のみ…。むしろ、今回のように、リーザさんたちの味方になってくれる可能性がある場合には、話してもいいのです。)
そこで、シェスタは再び労働者のほうに向き直って言った。
(静かに!女神アリーナについては、ここにいるアリーナ族のリーザさんとトゥーラさんが証人になってくれます!わからないことがあったら、遠慮なく聞いてください!)
そこで、シェスタは言葉を切った。やがて、リーザとトゥーラは労働者たちから質問攻めにされた。「女神アリーナは実在するのか?」などという初歩的なものから、「ひとつの民族だけの神が、他民族にまで力を貸してくれるのか?」などという突っ込んだ内容のものまで、さまざまだった。
「どうやら、女神アリーナが実在するのは、確からしいな…。」
昨日もいた、労働者の指導者らしき男が言う。
「良かろう。あんたらに賭けてみようじゃねえか。『スオミは自由の国だ。』とのたまうだけで、民生をそっちのけにしている、汚職役人どもの鼻をあかせるチャンスかもしれん…。」
男は、ツカツカと前に出てくると、リーザの前に来て言った。
「さあ、まずは俺から『血の契約』を交わさせてくれ。」
「待ってください。『血の契約』は、女神様に祈りを捧げる夜中にしか交わせないものです。とりあえず、明日の夜がそれに当たりますから、明日の夜の12時に、街外れの林の中まで来てください。そこで、『血の契約』を交わしましょう。」
「良かろう。明日の晩を楽しみにしとくぜ!それから、俺のことは、『クーシネン』と呼んでくれ。」
そう言うと、クーシネンは労働者たちの中に戻っていった。
さて、その翌日の夜……。
「さて、そろそろ行かないと…。」
リーザとトゥーラは木賃宿の裏口から抜け出し、クーシネンたちの待つ街外れまで急いだ。だが、その途中で、何者かに背後から弓矢を射かけられた。
「何者!?」
動物的な勘で、紙一重で矢をよけながら、リーザが言う。それにもかかわらず、相手はひるむことなく、リーザとトゥーラに矢を射かけてくる。
「そういうつもりかよ…。なら、あたいらも容赦しねえぞ!」
トゥーラが剣を抜いて、相手に襲いかかる。だが、相手も負けじと剣を抜いて応戦する。
「こら、てめえの相手は俺だ!」
ニコラスが相手に襲いかかる。
「こいつは俺が引き受けるから、リーザさんとトゥーラさんは、時間に遅れないように、約束の場所へ行ってくれ!」
ニコラスは叫ぶ。
リーザとトゥーラは背後を気にしながらも、とにかく走った。一方、背後からは、ニコラスが刺客と剣を打ち鳴らす音が聞こえてくる。だが、さすがに刺客になるだけあって、相手も相当な腕前である。ニコラスは安々と剣をはねとばされてしまった。
「ニコラスでは役不足だな。俺が相手をしよう。こう見えても、軍人の跡取り息子だ!剣の腕には自信があるぜ。」
そう言いながら、グスタフが現れる。刺客はグスタフにも襲いかかるが、力量はグスタフのほうが上だった。逆に刺客のほうが剣をはねとばされてしまう。
「さあ、答えろ!誰の差し金だ!?」
グスタフが刺客ののどもとに剣を突きつけながら言う。
「ふん、そんなこと、俺が答えると思うか!?」
言い終わるより早く、グスタフの背後から別の刺客が襲いかかる。
「くっ…!」
グスタフは間一髪でよける。さすがのグスタフも、二対一の戦いには苦戦を強いられた。だが、そこで意外な助けが入る。
「ニコル、グスタフ、助けにきたよ!」
「お嬢…!」
なんと、そこにはエリーゼがいたのだ。エリーゼはナイフを刺客に向かって投げる。刺客側は、一人がグスタフと斬りむすび、もう一人がエリーゼの投げるナイフを剣ではたき落とす、という作戦に出た。だが、エリーゼのナイフはすぐになくなり、(もともとエリーゼは細身の体なので、携帯できるナイフも少ないのだ)刺客はエリーゼに向かって突進してくる。
だが、あわや刺客の剣がエリーゼの体をえぐろうとした時……。
「てめえ、お嬢に触るな!」
ニコラスが刺客に向かって剣を突き出す。刺客はニコラスとも戦わなければならなかった。
だが、ニコラスだけでは剣の腕で劣る。そこで、エリーゼは地面に散乱したナイフを拾い集められるだけ集め、再び刺客に向かって投げつける。ニコラスとの戦いに熱中していてエリーゼに注意を払わなかった刺客の一人は、あっさりと首すじにナイフをくらい、絶命した。
「しまった…。」
形勢不利とみてとった、もう一人の刺客は、逃げようとした。
だが、エリーゼのナイフを背中にくらい、倒れる。
「ぐわあっ…!」
ニコラスが、もう一人のほうの刺客を縛り上げる。
「とりあえず、こいつから、事情を聞きだそうぜ。なんで俺たちを襲ったのか、気になるしさ…。」
「…そうね。」
こうして、ニコラスたちは刺客を一人、捕虜にした。
「さあ、まずは、てめえの雇い主の名前から聞かせてもらおうか?」
ニコラスが詰め寄る。
だが、刺客は舌をかんで自殺しようとした。
「待て待て。こういう手合いは、無理に自白させようったって無駄だ。自殺しちまう。まあ、俺に任せときなって。」
グスタフが言う。同時に、刺客の口を無理やりこじ開けて、自白剤を飲ませる。
「さあ、君の雇い主の名前を聞かせてもらえないかな?」
グスタフが改めてきく。
「…トゥ…トゥルク将軍…。」
「やっぱりな。思った通りだぜ。」
記憶力のいい方なら、トゥルク将軍がフォルス駐屯軍の第二師団の師団長であることを覚えているであろう。フォルスの裕福な市民の師団である第二師団を統括するトゥルク将軍は、常に労働者の勢力が伸びるのを嫌っていたのである。
「…我々は、トゥルク将軍の命令で、貴様らのアジトを探っていた。今日、ようやく見つけたのだ。既に場所は伝書鳩でトゥルク将軍に知らせてある。あとはトゥルク将軍の憲兵がなだれこんでくるのを待つだけだ…。」
そこまで言うと、刺客は舌をかみ切って自殺した。同時に、木賃宿の玄関がザワザワと騒がしくなる。ドカドカと玄関から宿の奥へと踏みこんでくる足音も聞こえる。
宿のニコラスたちの部屋には、南に向いた窓があるだけである。
「まずい。窓から逃げよう…。」
だが、窓から逃げようにも、窓の下はガケである。
「押入れの中にシーツが大量にあっただろう!シーツを結び合わせたやつをたらして、ガケの下まで降りるんだ!」
グスタフが叫ぶ。部屋にいた四人は、シーツをつたってガケの下まで降りた。だが、途中でシーツが切れてしまい、先に降りてきたゲオルギーが、後から降りてきたニコラスの下敷きになるというアクシデントが起きた。
「これは、絶対、上の宿の部屋まで来た憲兵どもがシーツを切ったんだぜ。」
グスタフが言う。
「なら、俺たちが降りてきた、この場所まで特定されてる可能性はあるな。さっさと動かないと…。」
ニコラスが言う。こうして、四人はリーザとトゥーラのいる街外れまで移動した。早めにリーザたちと合流したほうがいいと判断したためである。
「ニコラス、何があった?」
リーザは「血の契約」の下準備で忙しいので、かわりにトゥーラが尋ねる。
「実は、かくかくしかじかでな…。」
ニコラスは今までの経緯を説明した。
「そうか。ここも、トゥルクにかぎつけられてる可能性があるな…。」
トゥーラは、「血の契約」のために、労働者たちの血を呪符にしみこませていたリーザに向き直って言った。
「聞いた通りだ!さっさと、『血の契約』を済ましてずらからねえと、あたいらは皆、憲兵に捕まっちまう!」
「わかってるって!でも、女神様へのお祈りは、この時間帯に、この場所でやらなきゃ意味ないのは、トゥーラもわかってるでしょ!」
リーザは叫ぶ。そうこうするうちに、労働者全員が呪符に血をしみこませ終わる。
「では、女神様、時間がありませんので、『血の契約』の儀式にうつらせていただきます。」
リーザの重みのある声が響き渡り、数百人にわたる労働者たちの血をしみこませた呪符が、火にくべられる。(数百人では、フォルスの労働者の人口の何分の一かだが、労働者全員の賛成をとりつけるのは難しいと、リーザは判断していた。)
「あ…あああああ…。」
同時に、トゥーラと労働者たちは、体中の血が沸騰するような感覚に襲われ、一人、また一人と気を失って、女神アリーナのいる精神世界へ行ってしまった。
(今回は、数百人もが一度に女神様の審問を受けるんだから、前回のアンナの時以上に大変だわ。なんとか無事に終わってくれればいいけど…。)
祈祷の呪文を唱えながら、リーザは不安でたまらなかった。
さて、こちらは憲兵たち……。
「ヴィボルグ参謀長の坊ちゃんは、確かにここへ来たんだな!?」
ボス格の男が尋ねる。
「はい、間違いありません。隊長。この街外れの林の中へ入っていくのを、部下たちが見ています。」
「ふむ…。」
ボス格の男はしばらく考えると、命令を出した。
「突入だ!貴族のご子息が一緒にいようと、かまうものか!我々憲兵隊にたてついたやつらがどうなるか、見せてやれ!!」
「はっ!」
憲兵隊は、グスタフたちを追って動きだした。
こうして、「血の契約」の儀式の最中に、憲兵隊が乱入してきた。
「ここにいる労働者たちは、皆、ルースラント共和国の正教救国同盟の手先だ!殺せ!皆殺しだ!!」
もっとも、労働者たちはルースラントに味方する気など皆無である。「ルースラントの手先」などという呼称は、憲兵隊が勝手に唱えているだけだ。
「まずい!憲兵隊だ!」
グスタフは剣を抜いて、憲兵隊に斬りこんでいった。だが、憲兵隊は数十人からいるのだ。グスタフやニコラスの剣の腕だけでは、どうにもならない。グスタフは満身創痍になりながら戦ったが、やがて力つき、憲兵隊の捕虜になった。
もはや、万事休すと思われたが……そこで奇跡が起こった。
林のまわりを取り巻いていた労働者数百人が、憲兵隊に襲いかかったのだ!彼らは、ストライキには賛成だが、「血の契約」を結ぶのには反対という連中だった。この数百人の労働者によって、数時間にわたる激戦の末、憲兵隊は追い散らされ、グスタフも解放された。
「見ろ!我々の力で、憲兵隊を追い払ったんだ!我々の手でな!」
「血の契約」から生還したクーシネンが叫ぶ。(今回は全員が下層の労働者なので、女神アリーナは『文明人に搾取され続けてきたのだから、文明の害毒に染まっていない。』とみなし、あっさりと全員を承認したのだ。)
「労働者が団結すれば、何だってできるんだ!政権の転覆だってな!!『血の契約』に反対の者もいるだろうが、ここはひとつ、力を合わせてみないか!?」
「血の契約」に反対の労働者の間で、ザワザワと波紋が広がる。クーシネンは、ここぞとばかり、たたみかけた。
「今からでも遅くない!諸君らも、『血の契約』を結んで、ストライキに参加してみないか!?」
クーシネンの呼びかけに、我も我もと、労働者たちはついてきた。こうして、合計して千数百人の労働者が、「血の契約」を結び、ストライキに突入した。
一方、憲兵隊の敗北の知らせは、トゥルク将軍のもとに届いていた。
「…で、労働者どもは、一致団結してゼネストに入っているのか?」
「はい。これまでのように『きり崩し』ができません。いくらきり崩そうとしても、きり崩しにのってくるやつらがいないのです。」
「くそっ…何たることだ!」
トゥルク将軍は、思わず机をバンとたたいた。今までのストライキなら、「ストライキから抜けたら給料を割り増ししてやろう。」式のきり崩し作戦が功を奏してきたが、今回のストライキでは、そういったきり崩し作戦が全くといっていいほど、きかないのだ。
「なら、第二師団と近衛兵の出撃しかないな。近衛兵を統括するオットー将軍に出撃命令を出しておけ。」
「はっ!」
副官は一礼すると下がった。
(…やはり、グスタフたち六人が、その中心にいるのか。前回のデモ行進の際に、『貴族の息子だから』と手心を加えずに、さっさと処刑してれば問題なかったのだ。それを、あの副官めが……『貴族の息子だから』と、いらぬ口出しをするから、こういうことになる…!!)
こうして、近衛兵と第二師団は「労働者の反乱の鎮圧」のために出撃することになった。どちらも、富裕層出身者の多い部隊なので、労働者の反乱鎮圧には何の疑念も持たなかったのである。だが、フォルス駐屯軍の中でも労働者出身者の多い第三師団は、当初から労働者に同情的だった。
「ヴィボルグ参謀長のご子息もゼネストに参加しているそうだ!我々も駆けつけるぞ!」
こうして、フォルスは第三師団・労働者と、第二師団・近衛兵の内乱状態になりつつあった。
ちょうど、そんな時、「ヴィボルグ参謀長が営倉内で毒殺されかけた。」といううわさが、どこからともなく流れた。(正確には、シェスタによって流されたのである。)
「労働者の味方である、ヴィボルグ参謀長を毒殺しようとした、卑劣な上層部を許すな!!」
こうして、反乱の火の手は、フォルス駐屯軍の全軍に波及した。フォルス駐屯軍の第一師団から第三師団までの労働者出身の兵士たちは、あいついで労働者側にねがえった。
この兵士と労働者の大群が、宮殿に向かって押しかけてきたのだから、たまらない。フォルスのあちこちで、第二師団・近衛兵とのこぜりあいが散発的に起こっていた。
「ひるむな!俺たちだって、徴兵された経験があるんだ!正規軍なんかに負けるな!」
クーシネンが叫ぶ。今や、労働者たちの行動は、ストライキを通りこして、暴動になっていた。それに対して近衛兵は弓矢を射かけたが、もはや労働者たちはひるまなかった。多大な犠牲を出しながら、第二師団の駐屯所を占領し、意気軒昂だった。
「これ以上、労働者どもの進撃を許すな!どんな手を使っても阻止しろ!」
トゥルク将軍の焦りは、頂点に達していた。
(こうなれば、営倉に入っているヴィボルグ参謀長を人質にするしかないな。)
思い立つと、行動は早かった。
「おい、誰かいないか?」
「はっ、何でありましょうか?」
「営倉に入っているヴィボルグ参謀長を、労働者の前に引き出せ!『これ以上、暴動を続けるなら、ヴィボルグ参謀長を処刑する。』と言って、労働者の進撃を止めるのだ!」
「はっ!」
従卒は一礼すると退室した。
それからしばらくたって、労働者たちが近衛兵と戦っていると、いきなり前方に、縛り上げたヴィボルグ参謀長を伴って、近衛兵の軍団長である、オットー将軍が現れた。
「貴様ら、これが目に入らぬか!?これ以上、暴動を続けるなら、労働者よりの政策を打ち出しているヴィボルグ参謀長を処刑するぞ!」
労働者たちは一瞬ひるんだ。そこを突いて、近衛兵が攻撃をかけてくる。戦闘慣れした近衛兵によって、たちまち、労働者たちは押され気味になった。
「労働者諸君、わしにかまうな!敵を討て!」
ヴィボルグ参謀長の呼びかけにもかかわらず、労働者たちは抵抗をためらい、逃げ腰だった。そこで、ヴィボルグ参謀長のそばにシェスタがテレポートして、ヴィボルグ参謀長を奪い返そうとしたが、シェスタはバリヤーにはじかれた。
「ふん、わしが『テレポートがえし』の魔術を使えることを知らなかったのか?その猫が何者か知らんが、わしからヴィボルグ参謀長を奪い返すことなど不可能だ!」
オットー将軍が言い放つ。実際、将軍クラスともなると、かなりの魔術を使うことができるのだ。トゥーラは斬りこんでいくが、それもバリヤーではじかれる。リーザは獣現術を使った。
(…風の精霊よ……私に、ヴィボルグ参謀長を救出する力をください…。)
「ふん、獣現術か。わしにそんな術が通用すると思うか!?」
オットー将軍は剣を抜くと、変身前のリーザに斬りかかった。リーザはあわてて、風の精霊に祈りを捧げたが、一方でオットー将軍と斬り合いをしながら、もう一方で祈るのは、かなり難儀な作業だった。
「獣現術などは、使う前に封じてしまえば、どうってことはないのだ!仮に、術が発動したとしても、女神アリーナとの連動を断ち切ればいいだけの話だ!」
オットー将軍の太刀筋は、かなりのものだった。リーザはかろうじて獣現術を発動させたが、思うようにオットー将軍を攻撃することができなかった。魔術はオットー将軍に届く前に軌道を変えて、あらぬ方向へ飛んでいってしまう。
「どうだ?小娘!これが、獣現術封じの術だ!キュリロス正教の神『聖キュリロス』の力を借りて、女神アリーナの力を封じこめるのだ!」
オットー将軍が勝ち誇ったように言い放つ。
(なるほど。女神アリーナと同格の神の力を借りて、私の術を封じる魔術か。)
だが、原因がわかったところで、どうにかなるものではない。なにしろ、剣も魔術も通じないのだ。オットー将軍は、そのまま労働者に向かって魔術を発動させる。
バシュウウウゥッ…!!
ドッゴオオォン…!!
近衛兵の陣地へ向かって突き進んでいた労働者の一団が吹っ飛ぶ。
「ふっ…ふははははは…!!下層の労働者など、しょせん、こんなものだ。『下層の労働者は失うだけの財産も地位もないから、ブルジョワ(中産階級)よりも革命に熱心だ。』と言っても、ブルジョワにのしあがるだけの甲斐性もないやつらばかりではないか!我々貴族のように、幼いころから武術や魔術を徹底的に教育されるわけでもなく、のうのうとその日暮らしに甘んじおって…!こんなやつらに何ができるというのか!貴様らなど、せいぜい、貴族にこびへつらって、おこぼれにあずかっておればいいのだ!」
オットー将軍は、ヴィボルグ参謀長を自分から離れないように、従卒にしょっぴかせながら進んだ。いつでもヴィボルグ参謀長を傷つけられるようにするためである。こうして、当初は優勢だった労働者側は、劣勢に立たされることになった。いったん劣勢になると、実戦経験のない労働者側はもろかった。クモの子を散らすように逃げていく。
「ひるむな!踏みとどまって戦え!女神アリーナとの『血の契約』を忘れたか!?裏切れば、死をもって償うことになるぞ!」
クーシネンの呼びかけにより、逃げ腰だった労働者たちは、再び戦い始めた。だが、オットー将軍の攻撃によって、再び逃げ腰になる。
(女神様……もう他に方法はないのですか?)
リーザは念じた。
(まったく方法がないわけでもない。)
突如、女神アリーナの声が、頭の中に聞こえる。
(だが、それには、多くの苦痛を伴わねばならぬ。)
(どうすれば、いいんですか?)
そこで、女神は一呼吸おいて言った。
(血じゃ。そなたたちのように、わらわの洗礼、あるいは『血の契約』を結んだ者たちの生き血がほしい…。基本的に、わらわが人間界に直接介入することはできぬ。だが、人間の血があれば話は別じゃ…。『血の契約』でも、血をわずかながら使うであろう。人間一人分の血があれば、血を媒介して、そなたたちに力を貸し与えられる。『聖キュリロス』などは、しょせん、人間界に直接介入するような類の神ではない。わらわならば、人間界で直接、力を振るえる。)
(つまり、『誰かをいけにえにせよ。』と、おっしゃるんですか?)
(そうじゃ!)
一瞬、(なんて野蛮なことを言うのだろう!)と、リーザは舌打ちした。いまだに、こんな野蛮人のような儀式を執り行うから、アリーナ族はどこの国でも「異邦人」として扱われるのだ。だが、トゥーラの行動は違った。
「いいぜ。人間一人分の血が必要だってんなら……あたいが腹を切る。それでいいだろう?」
「ダメよ!これ以上、トゥーラまでが犠牲になることはないって…!トゥーラにまで死なれたら、私は…。」
そこまで言うと、リーザは声を殺して泣き出した。
「でもよぉ…誰かが犠牲にならなきゃよ…。」
「ダメ!もう、これ以上、誰も殺させない!トゥーラも誰も彼も…!これ以上、誰かを犠牲にして得た勝利なんて、勝利じゃないわ!!」
「リーザ…。」
そうこうするうちにも、戦況はどんどん悪くなっている。オットー将軍率いる近衛兵のために、労働者たちは追い払われ、せっかく占領した第二師団の駐屯所までが奪い返されていた。
「女神アリーナと『血の契約』を交わした労働者などは皆殺しだ!こやつらを皆殺しにしても、近隣諸国から、食いっぱぐれた下層の労働者がいくらでも流入してくる!シリヤクス国王に反抗的な労働者などいなくても、スオミは国として成り立つのだ!!」
オットー将軍の声が響き渡る。
「とりあえず、我々のうちで誰かが血を流せば、みんな助かるんだな。」
クーシネンが尋ねる。
「そのはずです。女神様のおっしゃることに間違いはございませんから。」
リーザが答える。
「よし、女神アリーナよ!ご照覧あれ!」
そう言うと、クーシネンは持っていた剣で、自分の首を斬った。
「クーシネン……なんてことを…!!」
リーザは叫んだ。
「俺のことなど、気にするな…!もとより、労働者たちのために…捧げた命だ…!悔いはない……。それより…早く女神アリーナのお力を…!」
そこまで言うと、クーシネンは出血多量のために力尽きて、絶命した。
(女神様……先ほど、クーシネンがあなたのために命を捧げました。どうか、お力をお示しください…!そして、労働者たちを救ってください…!)
リーザとトゥーラは女神アリーナに祈った。
(確かに見届けた!)
ふいに、女神アリーナの声が響く。
同時に、「ドオオオオオォン…!!」という音とともに、雷が大地を震わせる。
「な…何だ?この雷は…!?まるで、意思を持っているかのように、わしに襲いかかってきおった…!」
オットー将軍が、震える声で言う。女神アリーナの放った雷は、正確にオットー将軍を狙ってきたのだ。オットー将軍は紙一重でよけたとは言え、軍服の一部がこげていた。
だが、オットー将軍とて、歴戦の勇士であるし、近衛兵の軍団を背負っている身である。雷に対抗するために、バリヤーを張った。
「ふん、面白い……こうなれば、『聖キュリロス』と『女神アリーナ』と、どっちが戦に優れた神か、実戦で試してみようではないか!」
そして、オットー将軍のバリヤーに、女神アリーナの雷が直撃する。
バリバリバリ…ドオオオォン…!!
バリヤーは、かろうじてもちこたえた。
(くっ…これほどの威力だとは…!)
オットー将軍としては、近衛兵の手前、弱みを見せられない。必死で虚勢を取り繕うと、叫んだ。
「ふん!こんな雷、怖くも何ともないわい!何発でもきてみやがれ!!」
だが、内心では、必死で聖キュリロスに祈りを捧げていた。
(どうか、もっと強いバリヤーを張ってください。)
その甲斐あってか、バリヤーは強化され、女神アリーナが何発雷を落とそうが、あまりバリヤーを傷つけなくなっていた。
「わはははは…このバリヤーこそは、わしの信仰心の現れだ!さあ、近衛兵の諸君、わしに続け!叛徒どもをけちらすのだ!!」
既にオットー将軍は、労働者の根拠地である、スラム街にまで踏みこんでいた。
「まずい!家にいる家族を守れ!」
労働者たちは、めいめいの家に向かった。だが、家に戻る途中で、背後から剣で斬られる者が多かった。
その一方で、リーザは、しきりに祈祷の呪文を唱えていた。
(女神様、クーシネンの命で足りなければ、私も血を捧げます。だから、どうか、ここにいる労働者たちをお守りください…。)
(別に、そなたの命までとろうとは思わぬ!)
女神アリーナの声が聞こえた。
(あのバリヤーだが…どうやら、一時的には強化されても、効果が長続きしない性質らしい。人間界に干渉しづらい性質の聖キュリロスの張るバリヤーだからな。その点、わらわならば、何百発も雷を落とそうが、威力は衰えぬ。まあ、見ておれ。)
リーザはしばらく、狐につままれたような顔をしていたが、やがて、女神アリーナの言ったことを現実に見ることになる。オットー将軍は順調に進んでいるように見えたが、しだいにバリヤーに亀裂が走るようになる。そこで、ここぞとばかり、女神アリーナの特大の雷が、亀裂を直撃する。
ドッゴオオォン…!!!
バリバリバリッ!!
派手な音とともに、オットー将軍のバリヤーが壊れる。そして、間髪をいれずに、次の雷がオットー将軍を襲った。オットー将軍は紙一重でかわすが、第三の雷が襲うと、もうよけきれなかった。
ドゴオオオォン…!!
もはや、よけるのは不可能だった。オットー将軍は雷の直撃を受けて、即死した。
オットー将軍の戦死とともに、労働者はヴィボルグ参謀長を解放して、再び攻勢に出た。そして、第二師団の駐屯所を再占領して、気勢をあげた。
この未曾有の危機に対して、トゥルク将軍はシリヤクス国王のもとへ参内して、善後策を協議した。
「労働者たちは、そんなに余の統治が気に入らないのか…?」
「はい。生活保護や国立工場の廃止が、彼らの不満の種になっています。」
「だが、生活保護や国立工場の維持が、財政を圧迫し、ひいてはスオミの経済を支えている上層階級の資本家たちの利益を減らしているのも、周知の事実ではないか。」
「存じております。今や、労働者どもの要求は、無政府主義者どもの要求と同じです。もはや、一刻の猶予もなりません。すぐに鎮圧せねば……スオミの平和と秩序を揺るがす大乱になるでしょう。」
「…わかった。他の師団の師団長たちと協議して、鎮圧したまえ。」
だが、フォルスの近くにいる師団ともなると、あてが全くなかった。フォルス駐屯軍の軍団長ラップランド元帥は、富裕層にも労働者にも味方しないタイプである。駐屯軍は第一師団から第三師団まであるが、富裕層の将兵が多いのは第二師団だけである。
(首都フォルスは南部にあるが、富裕層が多いのは、北部だ。北部に駐屯している第四師団、第五師団なら、我々の味方になってくれるだろう。)
トゥルク将軍は、そう考えた。
そこで、北部のタンメルに駐屯している、タンメル駐屯軍に白羽の矢が立った。タンメル駐屯軍に属する第四師団、第五師団は、裕福な自作農の子弟の多い師団で、都市の貧しい労働者とは常に対立していた。
「とりあえず、シリヤクス国王陛下は、北部のタンメルへ避難していただきたい。フォルスは一時的に、労働者に明け渡すことになるでしょう…。」
「…わかった。」
こうして、シリヤクス国王はトゥルク将軍ともども、一時的にタンメルへ移ることになった。
一方、こちらは労働者側―――。
「なんだよ、この王宮は…。金目の物が、何一つ残ってねえ…!みんな、シリヤクスが持っていきやがったんだ…。」
「バカ!金目の物を盗むのが目的で王宮まで攻めこんだわけじゃええだろ!」
既に労働者たちは王宮を占領して、ゲオルギーの扮するカストレン国王を歓呼の声で迎えていた。ゲオルギーは、労働者たちに手をふると、演説を始めた。
「皆の者、余を玉座に押し上げてくれて、感謝の言葉もない。だが、タンメルへ逃げたシリヤクス国王を倒さぬ限り、平和は来ない!苦しいだろうが、もうひとがんばりしてほしい!」
「おおおっ…。」
労働者たちの喊声があがる。
なお、ゲオルギーによる新政権の人事異動が発表され、ヴィボルグ参謀長が元帥に昇進して、フォルス駐屯軍の軍団長に任命された。
「いよいよ、新政権の誕生だ!あたいたち政治犯と労働者の政権だ!」
トゥーラをはじめ、労働者たちは喜びにわきかえった。
「なお、当初の公約どおり、生活保護と国立工場は再開する!もう、労働者諸君が生活に困窮することはないであろう。」
再び、「おおおっ…。」と喊声があがる。
さて、こちらはシリヤクス国王側―――。
「カストレンは大々的に即位式までやったそうではないか。しかも、ヴィボルグ参謀長がフォルス駐屯軍の軍団長だと!?ラップランド元帥はどうしたのだ!?」
「ラップランド元帥は、従容として、罷免の命令に従ったそうです。『宮づかえの常だ。』とおっしゃられて…。」
シリヤクス国王は、怒りに身を震わせた。
「ラップランド元帥は、余が最も信頼している軍人だ!それを罷免などと…。」
だが、その直後、もっと悪い知らせが届いた。
「申し上げます。先ほど、ルースラント軍が国境を越えて、我が国に侵入してきました!」
「何だと!?敵の目標は、どこだ?」
「今のところ、タンメルへ向けて進軍中とのことです。」
「そうか。鉱物資源の豊かなタンメルを、内乱の隙に乗じて奪おうという魂胆か…!」
シリヤクス国王は、天をあおいで嘆息した。もはや、どこにも味方はいないのだ。
「余は、どうすればいいのだ?」
その時、ふいにヴィボルグ元帥がタンメルを訪れた。
「開門!開門!わしは、カストレン国王の使者として来たのだ!」
シリヤクス国王は、しばらく迷った末に、門を開けてヴィボルグ元帥を迎え入れた。
「ヴィボルグ…今さら、余に何の用だ?」
「陛下、私は、スオミを愛しています。それゆえに言うのです。カストレン国王と和睦していただきたい!」
「無理を言わないでいただきたい!我が国に必要なのは、下層の労働者ではなく、スオミの経済を支えている資本家なのだ!労働者など、他国からいくらでも流入してくるものだ!だが、起業して、経済を支えられる資本家となると、そうはいない!」
「労働者とて大事です。彼らは純粋にスオミを愛しています。彼らの愛国心に応えられないようなら、スオミは終わりですよ。現に、彼らの指導者であったクーシネンなどは、国を愛しているからこそ、労働者のために命を捧げたのです。もはや、家柄や身分だけで、その人の人格を決める時代は終わったのです!これからは、その人が何を考え、何をなしたかによって、人格を決める時代です!」
「まるで、カストレンのような言い草だな!君が、あやつに何を吹きこまれたか知らんが…国全体のことを考えているカストレンは、労働者の中では、あくまで例外的な存在だ。貴族と違って、労働者は国のことまで考えていない。その日その日を生きるだけで精一杯なのだ。そんな労働者に国政を任せるなど、言語道断だ!」
シリヤクス国王は、一気にまくしたてた。
「…私がこれだけ申し上げてもお聞き入れくださいませぬか。ならば、ルースラント軍とは、タンメル駐屯軍だけで戦いなされ。女神アリーナに守護されているフォルス駐屯軍の協力が得られなければ、負けるに決まっているでしょうが…。」
「ルースラントからの侵略を防ぐ気があるのなら、どうして内乱など起こした?内乱さえなければ、敵に侵略の機会を与えずにすんだものを…。」
「今は、それを議論している場合ではありません。とにかく、ことは急を要します。今は同国人どうしで争っている場合ではありません。私がここまで言っても無駄なら…どうぞ、単独で戦って、勝手に負けてくださいませ。」
それだけ言うと、ヴィボルグ元帥は退室しようとした。
「待て!」
ふいにシリヤクス国王が呼び止める。
「何ですか?」
「一時間だけ時間をくれ。トゥルク将軍たちとも協議しなければならん。」
「…わかりました。色よい返事を期待しております。」
だが、会議はもめにもめた。
「いやです!労働者にひざを屈するなど…。私は、カストレン国王につかえるのもいやでした!いくら、先の対革命戦争で活躍した英雄とは申せ……あやつを国王に推戴したのは間違いです!労働者の権利ばかり主張する輩などに…。」
トゥルク将軍がまくしたてる。
「ならば、トゥルク将軍は迫りくるルースラント軍に勝てるような策がおありか?」
第四師団を統括するマンネルヘイム将軍が尋ねる。
「くっ…。」
トゥルク将軍には、何の策もなかった。
「とにかく、こうなった以上、労働者の愛国心にかけてみようではないか。余も、あまり気が進まぬが…しかたあるまい。」
シリヤクス国王が言う。
こうして、きっかり一時間後に、会議は決着し、タンメル駐屯軍はフォルス駐屯軍と共同でルースラント軍と戦うことになった。
さて、こちらはルースラント軍の司令官、ヴォロシーロフ元帥の本陣……。
「タンメルに向かった第三軍から連絡が入りました。敵は五個師団もいるそうです。」
「何だと?タンメルには二個師団しか駐屯していないはずではなかったのか?それを見越して、五個師団から成る第三軍を派遣したのだが…。」
ちなみに、スオミ軍のうち、タンメル駐屯軍以外の三個師団は、労働者出身の志願兵である。
「どうやら、シリヤクスとカストレンが手を組んだものと思われます。」
「…何たることだ。これでは、要塞にたてこもるスオミ軍を前にして、お互いににらみあったまま、長期戦になる可能性が高い。そうなると、軍需物資の補給などの面で我々が不利だ。」
「とにかく、ここは一度、引きあげたほうがよろしいかと思います。」
「よし、とにかく、ヨシフ師に報告しに帰ろう。」
こうして、ルースラント軍は戦わずに引きあげていった。
ルースラント軍が引きあげたのを確認すると、ゲオルギーたちは歓声をあげた。
「見よ!我々労働者の力も、まだまだ捨てたものではないではないか!」
そして、シリヤクス国王に退位を迫った。だが、シリヤクス国王は頑強に抵抗した。
「余は上層階級の利益だけを考えているのではなく、国民全体の利益を考えているのだ!このまま、上層階級の資本家たちの利益を圧迫し、労働者の権利ばかり主張するのなら、資本が国外に流出し、スオミの経済の空洞化を招くだろう!」
シリヤクス国王は必死で演説する。
「いや、労働者の権利を認めるのは大事なことだ!権利を認め、労働者に、『働いたぶんだけ自分のものになる。』と自覚させれば、経済が悪化することはない!」
ゲオルギーも、これでもかとばかりに反論する。だが、タンメル駐屯軍がシリヤクス国王を見限ると、シリヤクス国王は亡命せざるを得なかった。
「我々中産階級は、労働者の権利を認める。今回のルースラントとの戦闘でも、フォルスから労働者の志願兵三個師団が来てくれなければ、我が軍の負けだった…。労働者にも国を守るだけの気概はあるのだ。」
第四師団の師団長、マンネルヘイム将軍は語った。こうして、シリヤクス国王は隣のジナヴィア王国に亡命し、ゲオルギーの政権ができたのである。
そして、リーザとトゥーラとエリーゼは、ようやく安住の地を得ることができた。