もう一人の春日野
翌日の学校。昼休みの屋上でのランチタイム。
俺はよっこらしょと声を掛けてベンチに座り、ジト目で睨む春日野さんから逃げるように目を逸らした。
彼女が釘を刺したのは、俺を気遣ってのことだと分かっている。
そんな彼女の言葉を聞かず、体力強化を始めたことに少々後ろめたい思いを感じている。
それでも彼女は膝の上に弁当箱を置いてくれる。
俺はそれを両手で抱え上げ、頭を下げて春日野さんに感謝した。
蓋を開けるとニンニクの芽と牛肉の炒め物、う巻き、カキフライが入っている。精の付きそうなメニューだ。
いつもよりボリュームがあるし、おにぎりも一個多く詰められていた。
彼女の弁当の内容とは明らかに違うメニュー。俺のために特別に作ってくれたのだ。
「ツンデレ……極まれり……」
春日野さんは照れ臭そうに目を背ける。
普段誰にも見せない彼女の一面。俺だけが知っている不器用な優しさだ。
「私が反対したのは、今の力量じゃ動画の男を追うのは無理だから。仲間なんだし、努力には応援を惜しまないわよ」
「仲間……ですか……」
あえて仲間をいう言葉を強調しなくてもいいのではないだろうか。
決して恋人同士ではないと分かっているが、きっちり線引きされるとヘコんでしまう。
「分不相応だと分かってるけどね……」
俺は昨日から始めた体力強化の内容と、それに伴う反動が体を蝕んでいることを伝えた。
彼女は一笑に付してしまうだろうと思っていたが、真面目な顔で聞き入ってくれた。
そして婆ちゃんから紹介された城戸健次郎という爺さん。……いや、爺さんの幽霊。
婆ちゃんは知っているのだろうか。
駅前のガードレールに座り、通る女子高生の尻を見てニヤついている。そんな好色な爺さんに成り下がっていることを……。
「大東亜戦争と言えば、いわゆる太平洋戦争のことよね。南太平洋作戦の生き残りだとすると、もの凄い英霊ってことになるわね」
「いまじゃ女子高生の尻を追い掛けている変な爺だけどな」
弁当の包みを締め直して小ぶりな巾着袋に入れ、カップにお茶を注いで手渡してくれる。
「今日の帰り、その爺さんを訪ねてみようと思うんだ」
相手が人間じゃなく幽霊だったとしても、俺はその声を聞くことが出来る。
そこで何か強くなるためのヒントを手に入れられるかも知れない。
春日野さんはチラリと横目で俺を見て、どこか遠い目で囁いた。
「私も同行するわ。秋篠くんと同じく、私にも強くならないといけない理由があるから……」
驚く俺を見つめ返し、口を真一文字に結んだ。
放課後、俺は春日野さんを連れて、爺さんの幽霊が出没するガードレールへとやって来た。
白と青のストライプ模様の寝間着を着て、病院のスリッパを履いた姿の幽霊。
恐らく晩年病院で過ごし、そこで往生したのだろう。入院した姿のまま幽霊になっている。
思った通り通る人に感心がなく、たまに通りがかる女生徒を見つめては、鼻の下を伸ばしてニヤついている。
「見えるよね?」
「ええ……、おぞましいものが見えてしまったわ」
春日野さんは指でこめかみを抑え、眉を顰めて頭痛に耐えている。
俺は爺さんの前に立ち、存在に気が付いていることを彼に知らせた。
「邪魔じゃ……、そこを除け。小童」
「今日はお願いがあってやって来ました。城戸健次郎さんですよね?」
無関心な風を装っていたが、名を呼ばれて彼の目付きが変わった。
彼は目を細めて頭の先からつま先までを見つめ、ケッと唾を飛ばしながらそっぽを向く。
「秋篠広哉と申します。婆ちゃんに城戸さんは凄腕の格闘術を使うと聞いて、教えを請いにやって来たのです」
「……秋篠。ああ、スミちゃんとこの小童か。あの娘は元気にしとるか?」
この爺さんに掛かれば婆ちゃんも娘か。
まあ太平洋戦争の頃に成人していたのだから、年の差を考えると小娘なのかも知れないけど……。
「婆ちゃんは息災です」
「そうかそうか。だがのう、いくらスミちゃんの紹介じゃとはいえ、ひ弱な小童に教えてやる気にはならんのう」
爺さんの幽霊は横に立つ春日野さんを一瞥する。
「そっちのお嬢ちゃんなら教えてやってもいいがの?」
好色狒々爺の本領発揮か。
仰け反る春日野さんに負けじと身を乗り出し、鼻の穴を大きくして匂いを嗅いで恍惚とした表情をしている。
これ以上ここにいて粘っていても、強くなるヒントを得られそうにない。
俺は春日野さんの手を取り、踵を返そうとした。
だが彼女はその手を振り払い、爺さんの幽霊に歩み寄って睨み付けた。
「なぜ彼に教えられないのか、それだけも教えてあげてくれないかしら」
爺さんは薄笑いを消して目を細め、チラリと俺を一瞥して吐き捨てるように言った。
「小童にはワクワク感が無いからじゃ」
「わ……、ワクワク感?」
意表を突いた言葉を聞き、思わずオウム返しになってしまった。
「ある程度技を極めたものは、見ただけで相手の力量が分かってしまうものよ。血がたぎる感覚というんじゃろうか。そう言ったものが全く感じられん」
「ぐっ……」
「戦いと言うのは生死を分かつ儀式、相対する者の人生を刈り取る神聖なる作業じゃ。ひ弱な若造に担えるものではないよ」
「俺にはそれが無く、春日野さんには感じると言うのか?」
爺さんはニヤリと笑い、何も言わずコクリと頷いた。
「お嬢ちゃんにはある種の覚悟を感じるのう。そばにいて気付かんのか?」
爺さんの言葉に舌打ちしたのは春日野さんだ。
図星と言わんばかりに、忌々しげに睨み返している。
「だが……スミちゃんの推薦じゃからの、ワシに指一本でも触れられたら教えてやろうかの……」
爺さんは殴れと言いたげに頬を突き出し、掛かってこいと手招いて見せる。
「――秋篠くん。治してあげるから、限界まで力を出し切ってみなさい」
春日野さんは俺の手から鞄をもぎ取り、ポンと背中を押してくれた。
「アルト……。行くぞ」
肩に乗るアルトに合図を送り、爺さんの前に立って拳を握る。
ズキリと襲う偏頭痛がアクセラレート開始の合図。
同時に周囲から音が消え、車道を走っていた車が止まって見えた。
鼻先に向かう拳に爺さんは慌てもせず、体を仰け反らせて躱す。
空を切った拳を引き戻し、返す刀で左手を突き出す。だがその拳も爺さんを捉えることは出来ない。
二手ともに空振りして驚いているのは、俺よりもむしろアルトの方だ。
頭に流れ込む映像がより複雑な軌道を描き、俺に的確な指示を与えてくる。
右と見せかけて左。その左に注意を向けさせ、真横の死角から右フックを放つ。
だが爺さんは風に翻弄される柳の枝。捉えるどころか、掠めることすら出来なかった。
――タイムリミット。
ジクリと胸筋が悲鳴を上げ、矢のように鋭かった拳が失速していく。
同時にスイッチを入れ忘れていたかのように、耳に駅前の喧騒が聞こえてきた。
俺は踏鞴を踏んでガードレールに掴まり、荒れる息で胸を上下させる。
爺さんは老体とは思えぬ動きでガードレールから飛び降り、ポケットに手を突っ込んで踵を返した。
「一週間後に追試をしてやろうかの。それまで腕を磨いておくんじゃぞ?」
爺さんはそう言い残して、人混みに溶け込むように消えていった。
八枚のコインを掴む高速の動きですら、あの爺さんには通用しなかった。
俺は痛む腕を押さえながら、自分の無力さを噛み締めた。
「秋篠くん……、私もあなたに伝えなくてはならないことがあるの。一緒に来てくれないかしら……」
春日野さんはそう告げると、俺の返事も待たずに車道に身を乗り出し、流していたタクシーを停めた。
彼女の向かう先は医大病院だった。
支払いを済ませてタクシーを降り、無言のまま病院内に足を向ける。
外来を通り抜けてエレベーターに乗り、七階へのボタンを押して顔を伏せた。
彼女が無言でいることは珍しくない。だが今日の彼女は少し様子がおかしい。
物言いたげな素振りを時折見せ、何かを言い出せずにいる、そういう風に見えるのだ。
エレベーターを降り、廊下の端まで歩いてピタリと止まる。
彼女が指差す先には病室の入院患者の名が記されたネームプレート。
「春日野……沙織?」
「私の姉よ」
彼女は端的にそう告げ、引き戸を開けて病室に入って行った。
そんな彼女の背中を追い掛け、病室に入って扉を閉める。
一人部屋の病室。薄いカーテンに覆われたベッド。
その上には春日野さんと瓜二つの少女が眠るように体を横たえていた。
白を通り越した薄青い肌。かさついた唇にやつれ気味の長い髪。
規則正しく胸を上下させ、微かな寝息を立てている。
「眠っている……のか?」
「ええ、もう何年も眠りっぱなし。二十二歳に見えるかしらね。こうなってから成長が止まっているのよ」
ベッド脇に椅子を二つ用意し、引き出しからヘアブラシを取り出して、眠る彼女の髪を梳き始めた。
その椅子に腰掛けて、その横顔を見つめる。
確かに二十二歳とは思えないあどけない寝顔。理知的な春日野さんと見比べれば、どちらが姉か妹か分からなくなる。
目を細めて見ると、体を覆う霊気が希薄だ。
春日野さんと同じ深い淵の底のような蒼色だが、弱々しくて別の色に見えてしまう。
軽く髪を梳き終え、引き出しにヘアブラシをしまう。そして鞄からリップクリームを出し、荒れた唇を撫でるように色づける。
春日野さんは手慣れた手付きでそれらを終え、椅子に座って目を閉じた。
「秋篠くんの妹さんに電子の精霊が関わっているとしたら、姉もその責任を負う必要があると思う」
「えっ……?」
「サイバーフェアリー。プログラムと霊気を融合させ、具現化する手法を考案したのは、私の姉、春日野沙織だから……」
春日野さんはそう言って一筋の涙を零し、荒唐無稽な話を聞かせてくれた。
当時十七歳だった春日野沙織はさる国家機関に属し、特務を請け負う異能者だったそうだ。
彼女が得意としたのはコンピュータとネットワークを利用した情報収集だった。
霊が見える目と人よりも強い霊気、その上卓越したコンピュータスキルを持つ彼女は、部屋にいながら請け負った仕事をこなせると評判が高かったのだそうだ。
だがその結果、彼女は人間らしい生活を送ることが叶わなくなった。
四六時中机に座り、次から次に依頼される案件をこなす生活が続いた。
ある時彼女は思った。人工知能ルーチンと異能力を融合し、助けとなる有能な助手を作れないか……と。
そして彼女は苦心の末、それを完成させてしまう。
サイバーフェアリーシステム。彼女は電子の精霊をそう呼称していたのだそうだ。
だがテスト段階では察知できなかったミスが見つかる。
精霊が成長すると共に、霊気を大量に消費するという重大な欠陥だ。
そして自我を持った精霊は宿主である沙織さんの霊気を食い尽くしてしまった。
「そして国家機関主導のもと事実は隠蔽され、沙織さんは眠ったままの状態だというのか?」
「そうね、彼女が具現化した精霊が姉さんの生命を脅かしている。ならばそれらを捕まえ、活動不能にさせれば彼女は目覚める」
だが春日野さんの言っていることに矛盾を感じた。アルトとシンクレアの存在だ。
彼女らが沙織さんの霊気で具現化しているならば、彼女らを活動不能にしてしまえば、春日野さんの目的は達成されるはずだ。
「……もしかしてシンクレア達は、沙織さんが生み出したものではない……のか?」
「姉さんは一般人に才覚を目覚めさせることに主眼を置いていた。力のない者に目覚めるきっかけを与えるプログラム、それがシンクレアであり、アルトなのよ」
高速で動く世界を教えるアクセラレート、集中を促し同等の世界を視認させるコンセントレート。
それを説明する春日野さんの言葉にも、成長を促すニュアンスが含まれていた。
彼女らと過ごす時間が長ければ、それだけ能力は磨かれている。その理論はぼんやりとだか理解している。
「私は姉さんのパソコンを使い、シンクレアとアルトのプログラムを見つけ出した。そして彼女らの力を借り、サイバーフェアリーを捕まえようとしている」
「そっか……。それで沙織さんを俺の仇のように言ったんだな」
逃げ出したサイバーフェアリーが妹の事件に関わっているとしたら、動画の男の能力を磨いたのは沙織さんだという理屈だ。
俺は春日野さんの周りを泳ぐシンクレアを、そして肩にちょこんと座るアルトを見つめた。
「俺には沙織さんを憎むことは出来ないよ。……だってアルトやシンクレアのお母さんなんだろ? きっといい人に違いない」
お馬鹿だけどアルトを妹のようにかわいがるシンクレアや、目一杯背伸びしているが、ちょっと抜けているアルト。
そんな彼女らを作る沙織さんが悪人であるはずがない。
「逃げたサイバーフェアリーってのは一匹なのか?」
「いいえ。姉の手記によれば二体。タンディラジオシャックとクアドラという名前らしいわ」
「俺は動画の男を追い詰めたい。そしてそれは春日野さんの追う相手でもある」
「ええ。だから今日、ここに来て貰ったの」
弱々しく見えた春日野さんの目に力が籠もる。いつもの彼女らしい、獲物を射るような目だ。
俺はこの目を持った春日野栞が好きなのだ。
燃えるような恋心ではなく、春の日差しのように柔らかだけど、この想いは日増しに大きくなっている。
「俺さ、春日野さんのこと……」
「そういうことだからがんばってね。秋篠くん!」
…………は?
そこは『一緒にがんばろうね。秋篠くん』というシーンじゃないか?
春日野さんはニヤリと笑い、ポンポンと俺の肩を叩く。
「だって私は女の子だから、バイオレンスな世界はちょっとね。そのへんは秋篠くんに任せて、私は作戦参謀に徹するわ」
「えっ、マジで?」
こんなとんでもない自己中心的な女だが、確かに俺は春日野栞に恋をしている。
……と思う。