血
「今回は彼女の力に助けられた。それは間違いの無いことだし、私も感謝しているわ。……でも」
栞さんはそう呟き、壁に背を預けて問い掛けるように目を向けた。
「なるほど」
栞さんの言い淀んだことは何となく理解出来る。
高校教師に身をやつし、俺達を監視し続けていた能力者。それも特上レベルの腕利きだ。
今回は手助けしてくれたとはいえ、彼女の目的が見えない以上、そう易々と信じる訳にはいかない……か。
「栞さんは警戒しているみたいだけど、俺は少し違うな。彼女は信頼に足る人物だと思っているんだ」
確かに掴み所の無い人だけど、その行動や助言は決してマイナスにはならなかった。
親と離れて暮らすことを選んだ俺に、彼女は担任の枠を越えて親身にアドバイスをくれた。
妹のことだってそう。自分のことのように悲しみ、憤り、それでも前を向いて生きて行かねばと諭してくれた。
体罰紛いの暴力も、過剰なスキンシップだって、俺に何かを気付かせようとしているんじゃないか、時折そう思うことがある。
人は一人で生きているのではない、俺の後ろには彼女がいて、多くの人に支えられて生きているのだと教えてくれているように思える。
「たとえ柏木祐子ではなく、天野綾乃だったとしても、俺は彼女を信じるよ」
栞さんは目を見開き、軽く鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
千帆は反目しあう二人をおろおろと見つめ、どう意見していいのかはかりかねている。
「秋篠くんらしからぬハッキリとした物言いね。彼女が担任になって数ヶ月でしょ? そんな短期間で何が分かるというの?」
「漠然とした感覚だけど、血――かな。母さんや婆ちゃんから感じるのと同じ、言葉に出来ない親近感を先生から感じる」
そこまで説明したところで千帆に足を踏み付けられた。
「広哉くん……、いえ、秋篠くんはもしかして、とんでもない浮気性の人なの?」
名前を呼び合う仲から一歩後退した、そんな瞬間だった。
「違うっ! 年の離れた姉さんみたいな、恋愛感情とは別のものだ」
そう言い訳をしてみたものの、千帆と栞さんは険しい顔で無言になった。
とてつもなく居心地の悪い雰囲気だが、これ以上言い訳を重ねれば、逆に火に油を注ぐのは目に見えている。
「なによ、この嫌な気分は……」
「春日野さん、それは嫉妬という感情です。私も同じ思いを味わってますから……」
栞さんと千帆は同時に口を開き、二人は一瞬目と目を合わせて悪魔のように目を細める。
「百聞は一見如かず。明日なんて悠長に待っていられない。今から彼女に会いに行き、尋問すべきだと思うわ」
「ですよね……。教職たる立場のものが生徒にこんな感情を抱かせるなんて、……許せませんよね」
二人はその光景、恐らく拷問絵図を思い浮かべるかのように目を彷徨わせ、口元を吊り上げてクスリと笑った。
「秋篠くん、今すぐ彼女に電話して」
栞さんは携帯を鷲掴みにし、充電プラグを毟り取って差し出した。
「――とまあ、こういう具合でして……」
「なるほど。私は痴話喧嘩に巻き込まれ、早朝から叩き起こされたと?」
電話の向こうで、不機嫌そうな声が響く。
現在時刻は五時四十分。彼女は昨夜の事件解決の後に車で帰ったから、俺達より就寝時間は遅いはず。この時間に叩き起こすのはかなり酷だ。
「ちなみに祐子先生と呼んで良いものか悩ましいんですが?」
「……ん、学校ではそう呼んでもらわないと困るけど、プライベートなら綾乃様と呼んでも構わない」
「”様”付け一択っすか? しかもサラリと偽名だって認めているし……」
呆れて言葉が出ないとはこのことだ。
「まあ、なんだ。秋篠もうすうす感づいているようだし、そろそろ頃合いかも知れんな」
「うすうすって……? 何が頃合いなんです?」
「少々秋篠には刺激が強すぎるかもしれんが……。私は登校して不在だが、家に行って娘と遊んでやってくれ。住所は前に教えただろう?」
そう言い残してプツリと電話は切られた。
左右に座り耳をそばだてていた二人は、小首を傾げて怪訝そうな表情を浮かべる。
全然話が出来なかったというか、こちらの事情など気にも掛けていない余裕の態度。役者の違いを感じる。
千帆はソファーに身を沈め、目を細めてタコのような口になる。
「姉って言ってピンと来たんだけど、二人は何となく似てるって前々から思っていたの」
「ちょっと待て。俺の両親は四十くらいだ。あの年代の姉を産むのはどう考えても無理がある。――というか親父と出会う前じゃないか! 秋篠家崩壊の危機だ!」
千帆の妄言に反応し、栞さんは指で四角を作って俺の顔に向ける。
「確かに。言われてみると目鼻立ちが……。あの人の隠し子……とか?」
「俺と先生は十歳くらいしか離れてないじゃないか。それに俺の家には臍の緒まで残ってる」
二人とも言いたい放題だ。
人の顔立ちが女っぽいとか、女装が似合うのでは、なんて話し始め、人がコンプレックスに思っていたことをズバズバと指摘する始末。
「確かに背は低いけど、今は成長期だ、まだまだ伸びる可能性は残されている」
そう言ってみたものの、二人は話に夢中で聞いていなかった。
俺達はホテルをチェックアウトし、新幹線で地元まで帰ってきた。
往路は車でぶっ飛ばして一時間で到着したが、時速三百キロの新幹線には敵わない。
先生の家は俺の家から四駅ほど行った、この辺りでは地価も高い高級住宅街にある。
実はお嬢様なのだと冗談を言いつつ、賃貸マンションだからそういうのは関係ないと笑い飛ばしていた。
だが、実際教えられた住所に立つマンションを見上げ、やっぱりお嬢様じゃないのかと思えてきた。
「教職の給料で住めるマンションじゃないわね」
「ふわわ……。外人さんとか住んでいそうなマンションですね」
そういいながら、二人は物怖じせず入り口に向かう。
千帆はクワデルノに命じ、入り口の電子ロックを解錠し、なぜか小さくガッツポーズをした。
「秋篠くん?」
「……先生の部屋は十二階。1201号室だ」
「行くわよ」
栞さんは何食わぬ顔で会釈をしながら警備室の横を通り抜ける。
そしてエレベーターを呼び、顔色一つ変えずに階表示を見上げる。
それに比べて俺と千帆は挙動不審そのもの。きょろきょろと辺りを見回し、額から嫌な汗を掻いている。
エレベーターに乗って警備の目から逃れると、不意に襲って来た脱力感でへたり込みそうになった。
「栞さんって、こういう時も顔色一つ変えないんだな」
「二人だって、フォーチュンタワーに忍び込んだでしょ? いまさらじゃないの?」
「――あ、あれは!」
「分かっているわ。二人には感謝している」
珍しく栞さんが一瞬微笑み、口元を優しく緩ませる。
十二階に到着したと同時に、千帆は栞さんの腕にしがみついて腕を組む。
素直になれない女の子と素直すぎる女の子、まったく両極端な二人だな。
「ここよ。堂々と天野って表札を掲げてあるわ」
一戸単位で玄関先に余裕を感じさせる空間がある。
ここが普通のマンションじゃないって、否が応でもわかってしまう造りになってる。
若干緊張しつつ呼び鈴を押し、一歩下がって扉が開かれるのを待った。
「はい、どなた様でしょうか――、ああっかなめ様廊下を走らない」
インターフォンから声がしたかと思った瞬間、思いっきり良く扉が開かれ、小さな女の子が靴も履かずに飛び出してきた。
短髪で活発そうな少女は、誰の目にもこの子が先生の子供であると一目で分かった。
俺達三人の顔を見回し、屈託無い笑顔で目を細めた。
「ねえ。遊ぼう?」
栞さんと千帆はエンジェリックスマイルに魅了され、膝を折って彼女と向き合う。
「かなめ様、裸足のまま外に出られては……」
窘めるような口調が玄関先に響き、小さな靴を手に少女が会釈しながら顔を覗かせた。
日本人形のようなおかっぱの黒髪が揺れ、伏せた目が見開かれる。
彼女の顔を見た瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。
「――愛香?」
その少女の顔立ち……いや、存在の全てが、死んだはずの妹、秋篠愛香そのものだったのである。
無意識に生きていることを確かめようとしたのだろう。
俺はその少女に歩み寄って小さな手を両手で包み込もうとした。
存在を、温かみを確かめたかったのだ。
「なっ!」
その瞬間その手を振り解かれ、振り上げたそのまま頬に平手打ちをされた。
わなわなと羞恥に震える少女。俺は頬を押さえながら呆然と立ち尽くした。
「愛香じゃない……のか?」
「私の名は一ノ倉小梅。誰と間違われたかは存じ上げませんが、いきなり手を取るなど恥ずべき振る舞いだと思います」
彼女は凛とした態度でそう窘め、膝を折って泣き出しそうになっている女の子に微笑みかける。
そして俺に向き直り、鋭い目で睨み付けた。
「――たとえ、親族であったとしても……です。秋篠広哉さん」
彼女はそう口にして、かなめと呼んだ少女を連れて玄関に入る。
そして何も無かったかのように、お入りくださいと俺達を招き入れてくれた。