刃の下に心あり 12
ここはいわゆる隠し部屋。入り口が一つしかなく戦うには手狭。
こんな場所で事を構えれば栞さんや祐子先生に害が及ぶ。
それに今は戦うことより、どうやって祐子先生と栞さんを逃がすか、そのことを優先して考えなくてはならない。
脱出経路は一つ。隠し部屋を出て社長室を通り、エレベーターホールに向かうルートしかない。
だがそのルートは敵と遭遇する確率が高い。一旦敵を社長室に向かい入れて、釘付けにして彼女達を逃がすべきだろう。
となると隣の社長室で迎え撃つのが最良の選択だが、相手は得体の知れぬ能力者、不良やストーカー相手に戦うのとは訳が違う。
劣勢を強いられ、有利な展開は望めない。社長室で踏ん張れるかすら怪しいし、力押しで来られたらこの部屋に下がるしかない。
力に抗うには力。力が足りなければ数でなんとかするしかない。
「千帆、力を貸してくれ」
彼女は緊張気味に頷き、腰のポーチからダーツの矢を引き抜く。
「ダメって言われたってそうするつもりだったよ」
その一言を聞き、膝の震えがピタリと止まる。
まったく……、千帆は欲しい言葉を掛けてくれる。
急ぎ部屋を出ようとして振り返る。
「俺と千帆が隙を作る。先生はチャンスを窺って栞さんを連れて逃げて下さい」
「車の後部座席、私のリュックに着替えが入ってますから!」
矢継ぎ早に言葉を投げかけられ、祐子先生は納得できないと言いたげな様子。
だが未だ錯乱状態の栞さんを見て、彼女は言葉を呑み込んだ。
扉の押し開けて社長室に向かい、近づいてくる靴音に耳を傾ける。
一足毎に大きくなる靴音が扉の前でピタリと止む。
音もなく開かれる扉を見つめ、生唾を呑み込んで身構えた。
「珍客に次ぐ珍客だ。どうにも騒がしい夜だ……」
扉を開いて現れた男はそう独りごちた。
見た目三十過ぎの痩身、仕立てのよいスーツを身に纏い、一見するとそれらしい風体をしている。
だが鋭い眼光と溢れ出る霊気だけで、思わず一歩退きそうな威圧感を感じる。
男の姿と重なり合い、アルトが入手した情報が視界を埋め尽くす。
名前は二名正樹、年齢35歳、退魔士ランクB+。霊気の強さを指し示す指数は5――。
俺と千帆を足したとしても足元に及ばないほど強い霊気だ。
二名という男は部屋に足を踏み入れ、俺と千帆を見比べ安堵したかのように嘲笑を浮かべる。
「ユニオンも噂で聞くほど大したものではないのか。世界でも指折りの能力者が集まっていると聞いたのだがね」
――ユニオン。
その意味不明な言葉の裏に畏怖する感情が見え隠れした。
彼はユニオンという組織を恐れ、警戒している。それは間違いない。
彼には乏しい霊気を帯びた男女にしか見えていないだろう。
だが見えないカードをチラつかせれば、男も力押しで攻めてくることはないはずだ。
虎の威を借る狐みたいで少々癪だが、ここは勘違いさせたままにしておくか。
「そう――」
「そう、彼らはこちら側の人間よ。今のところは……ね」
ハッタリを口にしようとした刹那、俺のセリフは凛とした自信に満ちた声にかき消される。
振り返るとそこには祐子先生の姿。シーツを巻いた栞さんを軽々と抱きかかえて立っている。
彼女の登場で驚いたのは俺達だけではない。目の前の男も明らかに動揺の色を見せている。
「お、お前は?」
「同業者は私のことをバーサーカーなんて仰々しい通り名で呼んでるわ」
男は動揺を通り過ぎて驚愕の表情を見せ、腰が砕けたように後退りながら、キャビネットに置かれた置物を腕でなぎ倒す。
「ま、まさか。引退したと聞いていたが……」
「産休と育児休暇。忙しくて表には出なくなっただけよ」
そのセリフを聞き、俺達は頭の上にビックリマークを浮かべて振り返る。
「産休!?」
「育児休暇!?」
祐子先生はパチリとウインクして微笑みを返す。
このプロポーションで子持ちだと?
にわかには信じがたいが、この表情を見る限り事実なのだろう。
「散々人を誘惑しておいて……詐欺だ!」
「秋篠……お前は緊張感無いな」
「子持ちでそのウエストはありえないですっ!」
「下御門……、お前もか……」
祐子先生は苦笑しつつ、無人の野を進むが如く歩き出す。
両手を塞がれた女性にも関わらず、二名はたじろぎながら道を譲った。
「あなたにチャンスをあげるわ」
扉の前に立ち、祐子先生は背中で語りかける。
その言葉は俺達ではなく、二名正樹に向けられたものだ。
「私がこの子を連れて一階に下り、ここに戻ってくるまで十分少々。その間にこの子達から逃げおおせたらあなたの勝ち、ユニオンはこの件を不問する」
「なん……だと?」
「あなたも退魔士の端くれだった人間なら、私がどれくらい影響力があるか知ってるはずよ」
「……気でも狂ったか?」
「この子達には戦う理由がある。割って入ってハイおしまいって訳にはいかないのよ」
祐子先生はそう告げると、軽い動作で扉を蹴り抜いた。
彼女は廊下に出て振り返ると、意味ありげに俺達を見つめ口角を吊り上げる。
「秋篠、下御門、後は任せた。もしそいつを逃がしたら、お前達の夏休みは無いものと思え」
学生にとって最強、最悪の脅し文句だ。
彼女はそう言い残し、エレベーターホールへと歩いて行く。
意を決して振り返り二名を見据える。
二名という能力者は一定の距離を保ち、机の上に置かれたブランデーグラスに手を触れようとする。
だがその瞬間グラスは砕け散り、机の上に深々とダーツの矢が食い込んだ。
「動かないで!」
投擲を終えた腕を下げ、千帆は二名を睨み付ける。
霊気を帯びたその矢を見て、彼は薄笑いを止めた。
「君はともかく彼女は『無い』と思っていたが、見た目で判断すると痛い目に遭うようだ」
千帆はポーチから矢を引き抜き、次もあると牽制する。
「二、三聞きたいことがある。それまで余計な真似はして欲しくない」
危ういパワーバランスを感じつつ、それでも冷静を装いながら言葉を紡ぐ。
「一つ……、なぜ『春日野栞』をあんな目に遭わせた?」
身近な存在だと気取られれば、奴に余計な情報を与えてしまうことになる。
そう気取られないよう、あえて栞さんを春日野栞と呼んだ。
二名はクスリと鼻で笑い、両手を広げておどけた風を装う。
「ふふ、時間稼ぎかね?」
「どうとでも取ればいい」
「そうだな……、タンディ・ラジオシャックを消滅させられたからね。あれは割と便利なアイテムだったので、代わりに彼女を手懐けようと思った。これでいいかね?」
淀みのない口調。恐らく嘘は言っていない。
シンクレアを持つ彼女を従えれば、同等かそれ以上の働きをしてくれる。彼はそう思ったのだろう。
「それにね――」
二名は勿体付けた口調で言葉を切り、俺の目をジッと見定める。
「根が学者肌なのでね。自分の力がどれくらい能力者に有効か、確かめておきたかったんだ」
「……それで彼女を?」
「能力者は霊気に耐性があるからね。どれくらいで壊れるか、実験も兼ねていた」
奴を殴れと拳が硬く握られ、足が無意識に駆け出そうとする。
だがもう一つ重大な事柄を聞き出すべく、猛る気持ちを押し殺しその場に踏みとどまった。
「もう一つ……」
目の前が真っ赤に染まっていく。
奴の返事がイエスであれノーであれ、次の瞬間俺は間違いなくキレる。
「一年ほど前……、秋篠愛香という少女に同じような実験をしなかったか?」
二名は怪訝そうな表情をし、小さな声で妹の名を二度反芻した。
そして喉につっかえた小骨が取れたかのように、晴れ晴れとした表情を俺に向けた。
「その表情だけで十分だ――」
迷いもなく踏みこみ、渾身の拳を叩き込む。
だがその拳は彼の体に届かず、手のひらに包み込まれてピタリと止められた。
「なかなか速いじゃないか」
二名は万力のような力で拳を掴み上げ、手首を捻って動きを止めようとする。
勝ち誇ったかのように歪む口元を見て、俺はありったけの大声を上げた。
「愛香は俺の妹だ!」
残された左手で奴の胸倉を掴み、奴の鼻先に頭突きを食らわせた。
二名は鼻先を押さえてよろめく。胸倉を掴んだ手を離さずに、思いっきり壁に押し付けた。
「調子に乗りやがって、このクソガキが!」
紳士然とした化けの皮を剥がし、口汚く罵りながら膝蹴りを放つ。
その膝を右手で受け止め、反動を利用して飛び退いた。
「なあ、クソガキ。そもそも能力者は五千人から一万人に一人、未開花の潜在者でも千人に一人といわれている。そんな能力者同士が出会う確率って計算出来るか?」
「興味ない……」
「その上男と女、それも垂涎物の女と出会う確率なんて微々たるものだ。運命的な出会いだと思わないか? お前の妹も、春日野も――」
「――黙れ!」
「男は誰しもそういう対象に優秀な遺伝子を注ぎ込みたくなる。それはもう本能だ」
怒りに任せ再び奴に飛び掛かろうとしたが、千帆に腕を掴まれてつんのめった。
奴はその様子を見て舌打ちをし、指を鳴らして無数の蜂を具現化した。
今までの語りは俺を怒らせる伏線か。あのまま踏み込んでいたら、蜂達にやられて一巻の終わりだった。
「感情的になったら相手の思う壺だよ」
「罠だってよく分かったな……」
「クアデルノちゃんが教えてくれたんだよ。得意げに話ながら霊力指数が低下していったから、きっと何かあると思ってたよ」
なるほど言われてみれば、二名の霊力指数が半分近くに減っている。
そんな変化に気付かないほど頭に血が上っていたらしい。
そうこうしている間にも蜂は俺達を取り囲み、今にも飛び掛からんとしていた。
「いけるか?」
「チャージは十分。二分くらいは全力で動けるよ」
ホバリングしていた蜂の群れが散り、一気に襲い掛かって来る。
「十円玉を掴む要領で――」
霊気を込めた拳で目の前の蜂を打ち落とし、群れを成した集団に蹴りを見舞う。
脚の先から赤の霊気が流れ、蜂の群れに伝播して霧散させた。
「秋篠……くんの、その技……、どう、やるの?」
千帆は蜂の動きを完全に見きり、持ち前のフットワークで回避しながら問い掛ける。
「ダーツの矢に霊気を通すように、手足の末端に意識を集中して――」
「こ、こう?」
「そう、あとは思いっきりぶん殴ればいい」
芽吹いた若葉のような霊気が千帆の手を包む。そして彼女はぎこちないモーションで拳を前に突き出した。
そして手が蜂に触れようとする寸前、手から細い針のような霊気が放出され、蜂達を穿ち一気に霧散させて消し飛ばした。
「あっ、あれれ?」
「お前はいつも斜め上を行く。自信を無くしてしまいそうだ」
その様子を面白くないのは二名だ。作り上げた蜂達が霧散していく様子を見て、唇を嚙みながら表情を歪めた。
「五分くらい経ったか?」
「まだ一分二十秒しか経過してないよ」
相手を焦らそうと口にした言葉は、気真面目なアルトに窘められてる。
それでも二名には効果てきめんのようだった。
落ち着き無く動く眼球、額にじっとり浮かぶ汗がそう物語っている。
だが彼は一点を凝視し、戦慄くように口元を引き攣らせながらもニヤリと微笑む。
見つめる先は俺ではなく千帆。
まさかと思いながら彼女に目を移す。
千帆は荒い息で肩を上下させ、目の前を飛び交う蜂を追い掛けることすら出来ない。
「千帆!」
「ごめん、なんだか頭がボーッとして……」
彼女の頭の上であぐらを掻く小悪魔、クアデルノは俺の視線に気が付き、渋い顔をしながら天を仰いだ。
「霊気切れ。千帆にはまだ霊気戦闘は無理」
その刹那、千帆の頭上で蜂が攻撃的に旋回する。
俺は千帆を抱き抱えて横っ飛びし、その攻撃を回避しようとした――その瞬間。
「――っ!」
腕に強烈な痛みが走る。
キャビネットの裏へ転がり、まだ腕にしがみつき針を打ち込む蜂を叩き落とす。
右手はだらりと垂れ下がり、肘から先が無くなったかのように感覚が乏しい。
まるで長時間正座をした後の痺れた足だ、まるで言うことを聞かない。
「広哉くん……」
「刺されなかったか?」
頭上を飛び交う蜂は追撃を止め、俺達を観察しているかのように旋回する。
キャビネットの向こうで二名は高らかに笑う。
「ははは、クソガキらしくかくれんぼか? まだ八分くらい猶予は残されてるぞ?」
形勢逆転。
千帆は霊気切れで動けない。俺は右手をやられて片腕しか使えない。
幸いにも二名は優位に立って余裕が生まれたのか、近づいて留めを刺しては来なかった。
この短い時間を利用して、なんとか五分の状態に持ち込む方法は……。