下御門千帆 01
春日野さんのマンションを出た時には、時刻は二十二時を回っていた。
婆ちゃんにあらかじめ連絡を入れておいたが、さすがに免罪符としての効き目も薄れてくる。
男友達と遊び回っていたのならいざ知らず、女の子と一緒だったのが罪悪感を増す要因になっている。
俺は婆ちゃんの好意に甘えて居候を決め込んでいる身だ。素行不良と分かれば見放され、親元に送られてしまう可能性がある。
「ちょっと走るぞ。振り落とされるなよ」
肩で羽根休めしていたアルトに一声掛け、足早に駅へと向かう。そしてそのまま改札を抜け、ホームへの階段を駆け上がった。
「ふい……」
少し汗ばんだ体に夜風が心地いい。
さすがに二十二時を過ぎるとホームで電車を待つ利用者は少ない。
ここいらのほとんどが住宅街で、これといった商業施設があるわけでもない。
最終電車まで時間的に間もないし、今から出掛けるなんて酔狂な人は少ないようだ。
「あ、あれ……なに?」
アルトは駅の案内表示を指差して、興味津々に目を丸くしている。
「ああ、あれは次の電車がどういう状態か、客に知らせる案内だ。文字の部分が到着予定時間で、絵表示は電車が前の駅に到着していることを知らせている」
「うん……覚えた」
春日野さんから教えられた電子の精霊のノウハウ、その一。
彼女らは最初現実世界のことをほとんど知らない。
こうやって興味を示す物の名前を教えつつ、会話を重ねることで言葉を覚えていくのだそうだ。
俺を広哉と認識し、春日野さんを栞と覚え、シンクレア。今ので四つ目か。……先は長い。
「ヒロヤ、アレ……」
「あれは部活帰りの女子高生……」
あれはうちの学校の制服。遠目から判別付きにくいが、同じクラスの下御門千帆さんではないだろうか。
誰彼無しに話が出来る外向的な性格で、バスケ部に所属する快活な女の子。
部活帰りにしては遅すぎる時間だし、なにより纏う雰囲気が良くない。
血の気の失せた顔で俯き、携帯を握りしめた手は力なく垂れ下がっている。
電車が到着するアナウンスが流れると、躊躇うように一歩、一歩とホームの端に歩いて行く。
遠くで電車の前照灯が光る。
下御門さんは鞄から手を離して、ホームに入ってきた電車を待ち構えている。
「――っ!」
自殺。そう頭で理解する前に、脚は地を蹴っていた。
電車の先頭車両は下御門さんのすぐ手前まで迫っている。
そして彼女はホームから身を投げ出した。
――鼻先を通り抜ける電車。
風圧で前髪がめちゃくちゃに乱される。
彼女の体を抱きしめてホームに座り込み、制動を掛けた電車を呆然と見つめる。
細くて折れそうな体が、小刻みに震えている。彼女の冷たい汗に触れた時、本気で死ぬ気だったのだと確信した。
電車は停止ラインを大幅にショートして止まり、駅員が数名血相変えて走ってくるのが目に入った。
下御門さんはその様子を見つめ、俺の腕に指を食い込ませた。
「大丈夫ですか! お怪我はありませんか?」
よくよく考えるとこれはかなりヤバイ状況だ。学校に通報でもされたら大変なことになってしまう。
俺はニコリと微笑むと、何事もなかったかのように彼女を立たせ、汚れたスカートの裾を手で払う。
そして見守る駅員を見つめ、事も無げに言い切った。
「部活疲れで貧血を起こしただけですよ。もう大丈夫」
怪訝そうな駅員を横目に、足元の鞄を手にとって彼女に手渡し、ようやく俺を認識した彼女にそっと目配せをした。
「彼女はちゃんと家まで送り届けます。ご心配なく」
電車はゆっくりと動き出し、正しい停止位置に移動を始めた。
そして扉が開かれたのを見計らい、駅員を尻目に彼女連れて車内へ乗り込んだ。
いつ呼び止められるかとドキドキしたが、駅員はそのまま何も言わずにその場を離れた。事なかれ主義万歳。
下御門さんは手を掴んだまま離さない。
まだ混乱しているのだろうか、いやむしろ手を握っていることすら気付いていないのではないだろうか。
俺はそのまま彼女の手を握りしめながら、動き出す電車の揺れに身を任せた。
電車で二駅揺られて最寄りの駅に到着した時には、下御門さんは少し落ち着いた様子を見せていた。
ホームに出て彼女をベンチに腰掛けさせ、少し間を置いてその隣に腰を下ろした。
「ああいうのは通過電車を狙うものだ。ホームに入ってくる奴は減速しているから、下手をすると死にきれない可能性がある」
ああっ、ちくしょう! 何を言ってるんだ。自殺志願者に手解きをしてどうする。
ベンチに背中を預け、上を見上げて馬鹿さ加減に呆れ返る。
「死ぬつもりは無かったんだけど、気が付くと……」
彼女の指先が手に触れる。心の不安がそうさせるのだろう。支えとなる拠り所を無意識に探しているのだ。
俺なんかが支えになれるとは思えないが、少しでも落ち着くのならと、彼女の手を握りしめて膝の上に置いた。
「死ぬ気は無かった……か」
ホームで見た彼女は、身に纏う色が全く見えなかった。
死を迎えようとする人が、妙に影が薄く見えたりするようなものだ。
前に一度同じ現象を見ているから、今から死ぬ気なんだと察知できた。飛び込む素振りを見て判断していたら、到底間に合わなかっただろう。
死ぬ気はないと言っているが、心の中では相当思い詰めていたのだろう。
放っておけば今日。今日じゃなければ明日、再び彼女は同じ行動を取るに違いない。
「理由を話して欲しいってのは、本人からすれば酷な言い分なんだろうね」
「……うん」
いきなりの手詰まり感。
どう話を進めて行けばいいものか。
「下御門さんって誰かと付き合ってるんだっけ。彼氏を呼んで、話を聞いてもらったらどうだろう?」
「付き合って人はいない」
自殺志願者と接する極意は、片時も目を離さないことにある。
発作的に死に向かうのを止めてやる必要があるからだ。
だが他人が傍にいても不快に思うだろうし、親や恋人なんかが一緒にいてやるのが好ましい。
「家の人が心配していると思う。もう夜も遅いし、帰りを待っているんじゃないかな」
「両親には友達の家に泊まりに行くって言ってあるし、心配はしていないと思う」
「……家に送るって言った手前、そうしたいんだけどね」
「逆に勘ぐられてしまうし、秋篠くんに迷惑が掛かっちゃう」
再度手詰まり。
このままここで夜を明かすってのも手だが、最終電車の時間が過ぎれば駅員にたたき出されるのがオチだろう。
さりとてファミレスで時間を潰すほど財布に余裕があるわけもなく。
アルトのおかげでハードディスクを注文した損失が大きい。ああっ、SSDなんか注文するんじゃなかった。
一歩間違えばアメリカ行きが確定しそうな危険行為ではあるが、最終手段に出るしかないか。
「うちに来ないか? とりあえずコーヒーと腹を満たす非常食はある」
彼女は少し戸惑う表情を見せたが、俺の言葉に害意はないと判断したのか、コクリと頷いてくれた。
下御門さんを連れ、駅から十分ほど歩いた婆ちゃんの家へと向かう。
無個性な建て売り住宅が立ち並ぶ住宅街に、一種異様な雰囲気を醸し出す佇まい。
漆喰を塗り込めた塀が右から左まで、住宅街の一角を覆い隠している。
その塀からは、綺麗に刈り揃えられた庭の木が覗かせている。
一見古風な屋敷然としているが、住宅地をワンブロック買って、それっぽく建てられた新築だったりする。
家の裏手に周り、勝手戸を開けて塀をくぐり抜ける。
下御門さんは耳をそばだてて小声で口を開く。
「秋篠くんって、実はお金持ち?」
「しっ! 婆ちゃんが土地持ちなだけ。俺は平凡なサラリーマンの子だ」
彼女の手を取って、庭の踏み石を歩かせる。そして母屋に入らず、裏庭に建つ離れへと案内した。
音が鳴らないように扉を引き開け、三和土で靴を脱いで、部屋の中に灯りを付けた。
リビング風に使っている八畳の間は、母屋から気配を覚られやすい。奥の間に通した方が無難だろう。
「下御門さん、こっち」
「おじゃまします」
家には誰もいないのに、律儀に挨拶する姿が微笑ましい。
襖を引き開けて俺の部屋と呼べる場所に案内する。
部屋の端にベッドがあり、掘りごたつが中央に設置され、テーブルの上にはパソコンのモニターとキーボードがある。
実は掘りごたつの熱源はパソコンだったりするのだが、彼女にそんな説明は不要だろう。
「ここが秋篠くんの部屋……」
「掘りごたつか、ベッドでも腰掛けて待っていて」
俺はリビングに戻り、玄関の端に置いていたポットの沸騰ボタンを押す。
カップを二つ用意して、インスタントコーヒーをお盆に用意。ミルクと砂糖を引っ掴んで、部屋へと戻った。
下御門さんはベッドの端に所在なげに座っており、俺の顔を見るなり身を硬くした。
ぐはっ、かなり警戒されている。少し傷ついてしまった。
「コーヒー入れたから、冷めないうちにどうぞ」
かしこまる彼女の姿。スカートから見える脚がキュッと閉じられる。
俺はそれ以上何も言わず、掘りごたつに腰を下ろしてコーヒーを啜る。
アルトは肩を一蹴りして飛び立ち、部屋のあちこちを興味深く見つめている。
どうやら彼女にはアルトの姿はこれっぽっちも見えていないらしい。春日野さんの言う通り、彼女らを見るには特別な才能が必要なようだ。
「弱り目に付け込んだ……、そう思われても仕方ないか」
一口コーヒーを飲んで腰を上げる。そして勉強机の上に立て掛けてある写真立てを手に取り、ベッドに座ったままの下御門さんに手渡した。
「両親と妹、馬鹿面しているのは一年前の俺」
「…………」
「妹は下御門さんと一緒の道を選んだ。もうこの世にはいない」
俺が高校受験を控えた冬のある日、当時中学生だった妹はマンションの屋上から飛び降りた。
学校でいじめにあっていた訳でもなく、成績も良く、友達との交友関係も良好だった。
司法解剖した医師から、家族だけに理由を告げられた。
彼女は妊娠四ヶ月。身籠もっていたのだ。
最後に妹を見たのはその日の朝。色のない妹の姿を見て、その不吉な前兆を察知出来なかった。
玄関先で靴を履き出て行く姿を見て、気のせいだと思い込んでしまったのだ。
「それから色々な変化があった。父親は管理能力が不足しているレッテルを貼られてアメリカに左遷、母親は娘を思い出すからと、向こうで暮らすことを決意した」
「そんなことがあったの……」
「駅のホームで妹と下御門さんがダブって見えた。だから飛び降りる前に助けられた」
コーヒーカップをそっと取り、彼女に手渡した。
彼女はカップをそっと持ち上げ、一口飲んで申し訳なさそうに頭を下げた。
「誰にも言わないって約束して……」
そう言って彼女はポケットの中から携帯を取りだした。
「約束する」
そう誓って彼女から携帯を受け取った。
彼女に促されるまま受信メールを開く。
友達や部活仲間と交わしたものらしく、他愛もない噂話などがやり取りされていた。
その中に、アドレスだけが表示されたメールを見つける。
題名は「コレクション」
本文には何も書かれておらず、添付された動画が一枚。
クリックしてその動画を再生してみると、耳障りな雑音と共にロッカーが映し出された。
「それ、バスケ部の部室……」
彼女が顔を真っ赤にして呟くと同時に、動画の中に下御門さんが映し出された。
彼女はロッカーを開けて、開いた扉に下着を掛ける。
Tシャツの裾を捲り上げ、腕を交差させて潜り込ませる。露わになった上半身をカメラに背を向けて、ブラジャーのホックを外す姿。
そこで動画はプツリと切れた。
「……メールは怖くて消しちゃったけど、今日も同じようなメールが来たの」
彼女の告白は耳を塞ぎたくなる内容だった。
「着替えを用意をして、今日の二十二時、夜間飛行というホテルまで来いって……。来なければ、身元が分かるようにネットで公開するって……」
ストーカーって奴か。うら若き女子高生を脅迫して、欲求の捌け口にしようなんて最低な野郎だ。
この怯えようから察するに、送られてきた映像は部室だけじゃない。
恥を忍んで人に見せられる限界が今の動画、彼女が死を決意するほどの映像を盗撮されているのだろう。
その刹那、携帯がメールの着信を知らせる。
下御門さんは息を呑んで身を硬くし、俺は携帯をお手玉して取り落としそうになった。
ディスプレイには先程のアドレスからのメール到着を知らせている。
「秋篠くん見て……」
「お、おう」
震える手で携帯を操作し、奴からのメールを開いた。
届いたメールには本文が無く、動画が一つ添付されていた。
彼女にそれを見せると、唇を戦慄かせながらもコクリと頷いた。
「分かった、中を確認するよ」
動画を再生してみると、部室とはまた違った風景が見える。
BGMのように流れる擬似的な水音で、それが女子トイレだとすぐに気が付いた。
小さな靴音が響き、トイレの扉が開かれる。
手慣れた手付きで鍵を掛けると、スカートをサッと上げて便座に腰を掛ける。
サッと下ろされるペパーミント色の下着。
そして用を足すのかと思いきや、クロッチ部分から生理用品を剥がし始めた。
ポーチから新しい生理用品を取り、再びクロッチ部分に貼り付け、破いたビニールを利用して使い古しの生理用品を包んで丸める。
前屈みになって、汚物入れにそれを捨てる動作。
そして再び立ち上がろうとする瞬間、動画はプツリと切れた。
立ち姿には顔が映っていないし、便座に座った状態では後ろ姿しか確認出来ない。
だが髪型や体躯、雰囲気などから、やはりこれも下御門さんだと分かってしまう。
彼女は真っ赤になった顔を手で覆い、羞恥のあまりにポロポロと涙を零した。
「言葉で脅される方がよっぽどマシだ。学校でこんなことが行われるなんて、これはちょっと不味い状況だな」
被害者は下御門さんだけじゃないかも知れない。
同様の手口で追い詰められて、コイツの毒牙に掛かった生徒がいる可能性がある。
「経験の浅い俺には厳しいけど、アイツなら力を貸してくれるかも……」
「アイツって……」
「こういうネットを使った犯罪を得意としている奴」
「……嫌よ、こんなこと、人に知られたくない……」
予想された反応だ。
俺は人じゃないのかとツッコミを入れたかったが、この状況ではそうも行かない。
「そいつの性別は女。訳あって名前や年齢は言えないけど、性別は口にするなと言われていない」
「女の人……?」
「そう、いけ好かない態度を取る奴だけど、中身は捨てたもんじゃない。というか、かなりいい奴だ」
下御門さんはジッと考え込み、意を決したようにコクリと頷いた。
俺は携帯を指で弾き上げて、春日野さんに電話を掛けた。
「あら、秋篠くん。律儀に無事の帰宅を知らせて来るなんて。それともそれを口実にして、私の声が聞きこうとしたとか?」
「……ねえよ」
「そう言いつつも、私の声を聞きながらもう一方の手で自家発電――」
「深夜にそのノリは勘弁してくれ。俺のマジックポイントがガンガン減っていくから」
会話中に名を口にしないよう心がけ、手短にここ数時間の出来事を話した。
最初は饒舌だった春日野も、さすがに口数が少なくなる。
それもそのはず、トイレの盗撮は固定カメラで撮られたもの。
動画は編集して下御門さんだけになっていたが、下手をすると春日野さんも撮られている可能性がある。
「秋篠くん、パソコンの電源付いてる?」
「パソコン? 俺のはUNIXだから二四時間フル稼働だ」
「了解……」
春日野さんはそう言って電話を切った。
同時に省電力モードだったモニターが光を帯びる。
俺はベッドに座っていた下御門さんを手招いて、モニターの見える位置に座らせた。
何の変哲もないGNOMEのwindow画面だが、その中央に『Sinclair.bin』と名の付いたアイコンが生成される。
同時にCPU使用率が急上昇。ブラウザーが勝手に起動され、何かをダウンロードし始めた。
「何……、これ。秋篠くんが操作しているの?」
「いや……、見ての通り」
両手を上げて天を仰ぐ。キーボードやマウスに触れていないのは、素人が見ても一目瞭然だろう。
そうしているうちにダウンロードゲージが満了し、画面にもう一つアイコンが増えた。
そして躊躇いもなく起動。ウイルスチェックくらいしてくれと、思わず溜息が漏れる。
起動されたプログラムはボイスチャット。それもかわいいアバターがリップシンクするタイプだ。
このモニターにはマイクとカメラが内蔵してある。使うことはないと思っていたが、一応結線も万全だ。
人間の反応速度を凌駕したスピードでアバターを選択。俺に似せた男の子が画面の端に立って手を振った。
するともう一方の画面の端に、女の子がキラキラを帯びて登場。ニコリと笑って、らしからぬお辞儀をした。
「……ちっ、似ているじゃねえか。秘密主義ってのはどうなってる?」
「???」
独りごちた俺に対応出来ず、下御門さんが首を傾げる。
春日野さんそっくりなアバターが口を動かすと同時に、スピーカーから変調された声が聞こえて来た。
「ねぇ、聞こえる?」
さすがと言うべきか、用意周到にボイスチェンジャーを嚙ませているようだ。
「うん、聞こえる。かっ……、もといシンクレアだな?」
「ちっ、今……、まあいいわ。意外と綺麗に片付いているじゃない、アルトの部屋。戸棚にグラビア雑誌は無いようね」
「穢れた目で見るなっ!」
「それにパソコンの中にエロ画像の類は一切無いし、ブラウザーの履歴もプログラム関係のものばかり。一体どうやってヌイてるの?」
「それ以上つまらん話をしたら、即刻電源引っこ抜くぞ」
爆裂春日野トークに、下御門さんはクスクスと笑い、指で涙を拭っている。
そういえば今日笑って見せたのは初めてだ。計算してわざとおどけているとしたら、ちょっとカッコイイじゃないか。
「ふうん、今日の運勢最悪だったアルトにしては、結構な美人を連れ込んでいるじゃない。もしかして人生のピークなんじゃない?」
「うるせー。ちょっとでも感心した俺が馬鹿だったよ」
春日野さんは計算してやっていた訳はなかったらしい。どうやら気の向くまま喋っているようだ。
画面のアバターがウインクして人差し指をそっと立てる。その仕草が妙にムカついてしまうのは何故だろう。
「最初に言って置くけど、無料奉仕はしないわよ。こっちも生活が掛かってるんだから」
「おいっ! 冷たいこと言うなよ」
画面に食って掛かろうとしたが、下御門さんはソッと手で遮って制する。
そして軽く咳払いをして、意を決したように話し始めた。
「報酬は払います。貯金を切り崩して、それでも足らなければ、バイトをしてでも……」
「――了解したわ。見たところ学生さんみたいだし、オマケして十万ってところね。経費は別勘定でよろしく!」
「たっ、高っ!」
文句の一つでも言ってやろうか。そう思っていた時、下御門さんが身を乗り出して、モニターにかぶりついた。
「十万円で解決出来るなら、是非お願いします」
スピーカー越しに聞こえる口笛。
そしてなにやらキーを叩く音が響いて来る。
「おい。今、電卓弾いてただろ?」
「うっ、何を根拠に……」
春日野さんの動揺した声が聞こえる。
カマを掛けただけなんだか、本当にやっていたとは、恥知らずにも程がある。
「じゃあ、彼女の聞き取りから始めましょうか」
春日野さんはそう前置きして、紙を捲る音を響かせた。
まず最初はありきたりの受け答え。名前と性別、生年月日と住所、通う学校の名前。
何かの本で読んだことがある。捜査のヒントというのは当事者が思っている範疇外に転がっているものだと。
こういう当たり前の聞き取りを怠って、当事者と同じ方向を向いてしまうと、初動のミスを引き起こすのだ。
過去の犯罪にもそういうミスが多々見受けられる。被害者が犯人は男だと言い切り、警察の捜査も男性を中心に進められた。
結局別件で逮捕され、その罪を自白したのは女であり、被害者が言った特徴からは、まるで結びつかない風体だったということもある。
「では次に、あなたの交友関係を聞かせて」
下御門さんはたどたどしい口調で、一人一人と名を連ねていく。
女子バスケの部員、学校の友達など。彼女のコミュニティはそれほど広く無いことが窺い知れる。
俺と同じクラスだから、クラス内の交友関係はなんとなく分かる。
彼女が言った通り特定の男子と共にいる姿を見たこと無いし、昼はいつも女子のグループと一緒に食べている。
「じゃあ、補足。部活の顧問、担任の先生、それ以外の科目を受け持つ先生の名を教えて」
部活の顧問は国語の高畑だ。地蔵のようなお爺ちゃんで、いつも授業で眠気を運んでくれる。
担任は柏木という女性教諭だし、体育の北市と数学の永井くらいしか男性教諭は思い当たらない。
北市はホモだと噂があるくらいだし、永井は新婚ホヤホヤだ。どうも動機が薄いような気がする。
「アルト。メールが送られて来たと言ったわね。アドレスを文字入力して送ってくれない?」
「オッケー。……ちょっと携帯借りるよ」
送られて来たのは携帯のドメインを冠したものではなく、どこかのフリーメールと思われるドメインだ。
登録なんて誰でも出来るし、個人情報など必要なく無料で配布してくれるサービスも多い。
「送ったぞ。調べてみると、海外のフリーメールみたいだな。どうする?」
「……ちょっと待って」
画面の中央にあったシンクレアのアイコンがコトコトと動き出す。
そしてそのアイコンが画面外に移動し、ものの数秒で何かのログファイルを携えて再び現れた。
「登録はどこからでもオッケーだとしても、利用するのは個人の端末よね?」
「なるほど、アクセスログか」
携帯などのIPアドレスは電話会社で割り振られ、ランダム性が高いため個人を特定するのは難しい。
だがシンクレアの力を持ってすれば、その時間誰にアドレスを付与したのか記録しているログを手に入れられる。
「フリーメールのログを参照し、電話会社のログと付き合わせて頂戴。私はちょっと紅茶でも飲んでいるから……」
画面上のアバターが欠伸をかみ殺し、鼻ちょうちんを膨らませて眠り始めた。
春日野に言われた通り、ログをメモ帳で広げた。
フリーメールでアクセスされたIPアドレスは数十パターンだが、それらを携帯電話側のログを総当たりさせる。
for addr in `cat mail.log | awk '{ print $8,$12}'`
do
ip=`echo $addr | awk '{print $1}'`
time=`echo $addr | awk '{print $2}'`
grep $ip keitai.log | grep $time
done
やっつけ気味のシェルスクリプトだが、どういう構造でも結果が伴えば問題ない。
アルトは嬉々とした目でシェルスクリプトを見つめ、食ってもいいかと言わんばかりの潤んだ目を向ける。
だが食わせるのは実行結果が出てからだ。思い切ってリターンキーを押してみた。
「――っ!」
表示された結果を見て、下御門さんが息を呑む。
そしてその結果が分かっていたように、シンクレアがペッとファイルを一つ吐き出した。
該当者の携帯電話番号だった。
「電話してみろってことか?」
シンクレアのアイコンはそれ以上動きを見せず、春日野さんのアバターも無反応だった。
俺は自分の携帯を手に取り、非通知番号を先頭に打ってから、ファイルにあった電話番号を打鍵した。