刃の下に心あり 07
そもそも修業というのは人目を忍んで行うものであり、またどのくらい積み重ねたかを誇るものではない。
人知れず積み重ねることを美徳とし、決して自他を比べてはならない。
これは修行を始める前、爺さんに言い含められた言葉だった。
その一言に含蓄があり、なるほどと感心させられた。
人前で修行を行うと技を盗まれ、どれほどの技量かを覚られてしまう。
またその成果を誇る行為は驕りに繋がり、さらなる自己研鑽への思いが鈍ってしまう。
それらを戒めるため、人知れず努力することを推奨しているのだ。
最後の言葉は俺の中で響いた。
元より俺は体力が無く、努力の成果が現れにくい。一方千帆は日頃から鍛えており、一足飛びで高いレベルに到達した。
まるでうさぎと亀の寓話みたいだが、だからといって腐ってしまったら成長は望めない。
自分にあったスピードを見つけ、たゆまなく努力をし続けることが大切なのだと再認識した。
「――と分かっていても、これは精神的にキツイ!」
「広哉くん! あと一本だよ!」
先を行く千帆は足踏みをして待ち、踏み鳴らす足の動きに衰えは見えない。
対する俺は悲鳴を上げそうな膝を持ち上げ、歩くのと然程変わらない速度で走るのがやっとだった。
午後は徹底した基礎体力の向上を目指し、近くの沢まで短距離走を繰り返していた。
直線にすると二百メートルほどの距離だが、足場が悪く、高低差もあって結構厳しいコースだ。
案の定五往復を終えて復路に差し掛かり、膝が完全に言うことを聞かなくなった。
……いや、むしろ何の問題も無く四往復出来たことが奇跡に近い。
ゴール地点のログハウス前に辿り着いて、何とか課題をクリアしたと気を抜いた瞬間、膝から崩れ落ちてへたり込んだ。
「広哉くん、運動後はきちんとクールダウンをしないと、後で動けなくなるよ」
「――クールダウン? エアサロンパスかなんか?」
「違う、違う。走った直後はウォーキング、軽く体操をしてストレッチで終えるの」
「マジか? これ以上動けんぞ」
「血流を高めて筋肉に溜まった疲労物質を押し流すの。そうするとね、いきなり休憩するより早く回復できるんだよ」
「さすが体育会系――。色々知ってるな」
ゆっくりと腰を上げて立ち、足に鞭打ちながらしばらく歩き続ける。
そして心臓の鼓動が収まりかけた頃を見計らい、屈伸などを行って凝り固まった筋を伸ばした。
「脚は下から上に揉み上げて、下がった血を循環させるようにマッサージするんだよ」
「こ、こうか?」
両手のひらで足首を掴み、膝、腿へと徐々に擦り上げる。
確かにそうすることで心臓の負担が軽くなる。
血液が流れ込み、じんわりと温かくなる感覚。これは中々気持ちがいいものだ。
段階的にクールダウンを済ませると、彼女の言う通り脚が軽くなった。
本調子には程遠いけど、短距離走一本くらいなら走れそうだ。
「お湯と水のシャワーを交互に浴びると、お風呂に浸かるより血行が良くなるんだよ」
「なるほどな。血管を収縮させてポンプ運動をさせる訳か」
「肩こりなんかにもオススメ、揉みほぐす効果もあるからね」
千帆はそう言って額の汗を腕で拭い、涼やかな風に髪をなびかせる。
訓練が終わって夕食を済ませ、再び爺さんが処方した薬を飲む。
効果の程は不明だが、飲んで気分が悪くなることも無い。少なくとも毒ではないとすんなり飲み込めた。
風呂釜に薪を放り込んで沸かし始め、順調に火が燃え始めたのを確認して居間へと戻ってきた。
ジジイは厳しい顔をしながら、台所で洗い物をする千帆をガン見している。
俺はそんなジジイの横に並び、頬杖を付いて美しい膝の裏を眺めた。
「おぬしには勿体無い娘だのう。なんでこんな男を好いとるのやら」
「ん……、やっぱ爺さんもそう思うのか?」
「その気が無ければこんな辺鄙な場所まで来んよ。男と二人で寝泊りする訳じゃし、間違いが起こることも頭の隅に置いておるじゃろう」
「ま、間違いって、男と女が……アレことだよな」
「なぜ伏字にするのか分からんが、……まあそうじゃ。昼間も長い時間を掛けて、丁寧に体を洗っておったからな」
「――ちょっと待て。なぜジジイが訳知ったりに語っている?」
一瞬ジジイに殺意を覚えたが、そこはそれ、踏みとどまって大人の相談を続ける。
「おぬしはもう一人ツレがいたじゃろ。ほれ、高飛車な女の子。あの子もかなりええ女になるぞ」
「高飛車……、栞さんか」
「ぶっちゃけ、どっちが本命なんじゃ?」
爺さんは意地の悪い笑みを浮かべ、俺の脇腹をグリグリと小突く。
まさにそのことを自問自答し続けているところだった。
「栞さんはキツイ物言いをするけど、実際はすごく気の優しい人なんだよな」
「ほうほう」
「千帆は少し天然だけど、すごく気が付く子だし、非の打ち所なんて無い」
「ふむふむ」
「今の所二人と一緒に居られるだけで、凄く幸せなんだと思っている」
ジジイはポカンと口を開け、首を傾げて見つめ返す。
何か変なことを言っただろうかと自問自答したが、取り立てて変な言動をしていないと思い直した。
「なんだ。何か言いたげなその態度」
「おぬしは阿呆か? なんで一人の女に絞ろうとするんじゃ?」
「爺さんが生きてきた時代じゃないんだぜ?」
「阿呆が。おぬしも千帆を好いておるんじゃろ? その気持ちに偽りが無ければ問題ないわ」
「そんなもんかね?」
爺さんはふと寂しげな表情で遠くを眺める。
「いざ気持ちを伝えたいと思った時には、相手が死んでしもうておらなんだ奴もおる。何故、早く本心を伝えんかったんじゃろうと、今頃後悔しておるよ」
爺さんは多くを語らなかったが、戦争絡みの話であると気付いた。
彼は当時御国のため、民のため、命を掛けて戦った。
なのに戦いに敗れて、本当に守りたかった人を失ったのだ。やりきれない思いで一杯だろう。
「じゃから、女生徒を見ると気持ちが昂ぶってのう」
「それとこれとは話が違うと思うがな」
「千帆のような愛い女の子を見ると、応援してやりたくなるんじゃよ」
洗い物を終えた千帆が振り返り、俺達に向かい小首を傾げる。
「――呼びました?」
「うむ、こやつが千帆のことをな――」
「ふんっ!」
爺さんの首元に肘を落として沈黙させる。
テーブルに突っ伏して動かなくなった爺さんを横目に、何も無かったかのように千帆へ向き直る。
「……い、いや、洗い物を任せて申し訳ないと話していたんだ」
「そうなの? 食器はすぐに洗い終わったんだけど、焼肉の金網に手間取っちゃって……」
エプロンを手早く畳み、椅子に腰掛けて頬杖を付く。
そして何かもの言いたげに微笑むと、とんでもないことを口にした。
「結婚生活ってこんな感じなのかなと思って。洗い物を済ませたら旦那様がいて――」
「なっ、ななな……」
予想超えた話の展開に取り乱してしまい、思考の立て直しが出来ない。
俺と千帆の間にほのぼのとした恋愛空間が広がっていく。こ、これはマズイ、雰囲気に飲み込まれてしまう。
「ふ、風呂を沸かしっ放しだ。ゆ、湯加減を見てくる」
「あっ……」
その場に千帆を置き去りにして風呂場に逃げ込んだ。
そしてまだ温まりきっていない風呂の水を掻き回して、いつまでも本心を偽っていられないと溜息を吐いた。
次にあんな雰囲気になったら抗えないだろう。そう思いながら風呂場を出て、脱衣場のタオルで濡れた手を拭う。
足を忍ばせて自室に戻ろうとしたが、千帆の姿を見て足が止まった。
――嗚咽。
両手で顔を覆い、身を震わせて泣いている。
爺さんの一言がリフレインした。何故、早く本心を伝えんかったんじゃろう――と。
俺は千帆の傍に向かい、彼女の手を引っ張って歩き出す。
玄関で靴を履き、何も言わずに彼女にもそうするように促す。
彼女は必死で泣き止もうとしゃくりをあげ、先に表に出た俺の後を追ってきた。
テラスに出て空を見上げる。
月もなく暗い漆黒の夜空に、まるで星が降ってきそうなほど星々が明るく輝いている。
ゆっくり千帆に向き直り、どう気持ちを伝えるべきか言葉を選ぶ。
彼女は暗がりの中で涙を拭き、俯きながら声を震わせる。
「ごめん……なさい。あつかましかったよね?」
彼女はそういって唇を嚙む。
「広哉くん……、ううん、秋篠くんは春日野さんのことが好きだって気付いていたのに、二人の邪魔をするようなこと……」
独白する千帆を止めようとしたが、彼女は後退りながら思いの丈を口にし続ける。
「秋篠くんに千帆って呼ばれて、ちょっと勘違い……しちゃった」
俺はたまらず彼女の手を掴み、無理矢理引き寄せて抱きしめた。
「――勘違いじゃない」
「えっ……」
「泣き止むまでこうしている。千帆の泣く姿は見たくない」
色んな言葉を探し、無い頭をフル回転させた。
だけど口を付いて出た言葉は拙く、気持ちの一分も伝えきれないものだった。
「千帆……」
「え、あ、はい……」
「お前に嘘は吐きたくない。だから……」
「うん……、私も気持ちを偽りたくない」
彼女は覚悟したように身を固め、俺を見上げて目を潤ませる。
息を吸い込んで覚悟を決め、彼女の両肩を掴んで本心を吐露した。
「栞さんと同じくらい、千帆のことを大事に思い始めて……。でも、こんなどっちつかずでいいのかと悩んでる」
彼女は答えを言う代わりに、腕を腰に回して身を寄せた。
「駅のホームで会った時のこと、私ね、本当は凄く鮮明に覚えてるんだ」
「駅――、あの時のことか?」
「うん、私が死のうと決意した……あの時」
盗撮された動画をネタに脅迫され、口止めの対価に体を要求された。
彼女は誰にも相談出来ずに悩み、もう一つの選択肢である死を選んだのだ。
「飛び込む前に周りを確認して、誰にも止められないと思った。でも広哉くんは私を抱きとめてくれたのよ」
「まあ……、あれはアクセラレートを使ったから……」
千帆はゆっくりと首を振り、胸に顔を埋めて話し続ける。
「あとで計算したの。秒速十メートル以上で広哉くんの体重がぶつかったらどうなるか」
「――時速四十キロ近くで五十キロの物がぶつかった計算か。そんなに痛かったか?」
「ううん、逆なの。それが不思議で……」
正確にいうとゼロからの加速だから、初速と終速では段違いの速さになる。今言った等速計算以上の衝撃が加わる。
「私が捨てようとした命と体、この人は大切に扱ってくれたんだって……。そう思ったらね、どんどん好きになっちゃって」
ある人の存在が大きくなってどうしようもない。その気持ちは痛いほど良く分かる。
千帆はスッと身を離し、背を向けて空を見上げた。
「春日野さんを好きでもいい。ほんの少しでも好きでいてくれたら……それでいい」
その気持ち、恐らく本心ではないだろう。
人ならば愛する人の全てを欲する。心の奥で千帆の全てを欲しているように、きっと彼女も同じ思いでいるはずだ。
いくら気持ちを偽っても、高ぶる気持ちは抑えきれない。
「お風呂先に入って……。その後すぐに私も入るから」
「えっ、ああ……」
「お風呂に入ったら広哉くんの部屋に行くから……」
彼女はそう言い終わると、俺の背中をそっと押した。
風呂に入り終え、念入りに歯を磨く。
そして千帆の姿を探しつつ自室に戻るが、彼女とすれ違うことは無かった。
千帆は顔を合わすのが照れ臭いのか、しばらくして千帆の部屋から扉を開く音がした。
スリッパの音が扉の前で止まり、再び歩き出す気配がする。
――お風呂に入ったら広哉くんの部屋に行くね。
彼女が先ほど言った言葉が頭をグルグル回る。
「あわわわ……どうしたらいいんだ? アルト」
ふとアルトがいない不安を感じ、パソコンに向かって呼びかける。
彼女ならこういう時、冷静に判断材料を提示してくれる。
だがいくら呼びかけてもアルトはパソコンから戻ってこない。
ひっくり返して叩いても、キーボードの隙間に入り込んだ埃しか落ちてこなかった。
「存在が大きくなってるのは、千帆だけじゃなかった……」
パソコンに向かい、ターミナルソフトを起動させて指を鳴らす。
セキュアshellを起動させて、自宅のパソコンにアクセスを試みる。
# ps -ef | grep ALTO
root 4570 1 60 Jul09 00:00:02 /usr/local/bin/ALTO_Main
root 4571 4570 10 Jul09 00:00:02 /usr/local/bin/ALTO_Speech_center
root 4572 4570 10 Jul09 00:00:02 /usr/local/bin/ALTO_Storage_thread
アルトの実体、特にメインプログラムのCPU使用率が上がっている。
活発に行動しているってこと。散歩に夢中になっているのだろうか。
「栞さんの部屋か。シンクレアと遊んでいるのか?」
栞さんの部屋は固定のグローバルIPアドレス。俺のパソコンからならアクセス出来るようになっている。
ノートパソコンから自宅にアクセスしたように、自宅のパソコンを踏み台にしてアクセスを試みる。
だがルータにログインは出来るが、パソコンへの接続は出来なかった。
どうやら栞さんはパソコンの電源を切っているようだ。PINGを打ってもDestination Unreachable、終点到達不能を表示した。
「――広哉くん」
軽いノックの音が響き、扉の向こうで千帆の声がした。
席を立って扉を開き、恥ずかしげに俯く千帆を招き入れる。
彼女をベッドに座らせて、少し距離を置いて隣に座る。
「分かってると思うけど……経験無いから。どうやっていいか分かんないぞ」
「う、うん……」
「言ったように栞さんのこと好きだから。そんないい加減な奴でいいのか?」
「……でも広哉くん、私のこと好きって言ってくれたよね?」
千帆はスッと真横に座り直して、もどかしく手に触れてきた。
手と手を重ねるだけのコミュニケーションだったが、今の状況では最終兵器に匹敵する破壊力を持っていた。
「千帆……」
その手をギュッと握りしめ、彼女の体を引き寄せた。
彼女は少し震えていたが、そっと目を閉じて身を委ねてきた。
目の前に千帆がいて、唇と唇が触れ合おうとしている。
そんな刹那、パソコンの画面が明るく光り、画面から二体の精霊が飛び出してきた。
「広哉ぁぁぁぁ」
「アキシノォォォォ」
その勢いは剛速球。俺の額に連続ヒットして、部屋のあちこちにぶつかり、勢いを衰えさせた。
額から煙を出す俺を見下ろす千帆。彼女がその剛速球の正体を口にした。
「アルトちゃん、それにシンクレアちゃんも……」
アルトは千帆の頭に飛び乗り、こっそり息を潜めていたクアデルノに抱き付く。
シンクレアは尾ビレをピチピチ跳ねながら、俺の上で鯛やヒラメの舞い踊りを披露した。
「あ、アルト……、どうしたんだ? 全然帰ってこないから……」
「外に出たら、パソコンの回線が切れたんだよ。自動的にセッションを切る機能だよっ!」
「ああ……、繋ぎっ放しにしないように、モバイルカードはデフォルトで切れるようになっている。それで帰れなかったのか?」
なるほど、得心いった。
昼間パソコンを繋いだ時、外への接続を試みた。
調子に乗ったアルトはいつものように外に飛び出したが、セッションが切断されてここに戻れなかったのだ。
「――てか、携帯に戻れよ」
「あっ……、慌てて携帯の存在を忘れてた……」
アルトは舌を出して苦笑する。
というか、どれくらいパニックになっていたのだろうか。
そこにシンクレアが割って入り、勢い良く尾ビレをピチらせる。
「大変、大変なんだよ。栞が大ピンチ。タンディラジオシャックと戦って――」
「なっ……、なんだって!」
千帆と向き合い、無言のまま頷く。お互い何をすべきか分かり合えたようだ。
「シンクレア。そのお馬鹿な脳みそをフル回転、状況を出来るだけ詳しく話して聞かせろ」
「おうさ」
彼女は胸を叩き、栞さんの行動を事細かに話し始めた。