刃の下に心あり 06 >>
春日野栞は旅行鞄を地面に置き、とある都市にある高層ビルを見上げて目を細める。
フォーチュンタワー・ベイサイド。
大手ゼネコンがシンボルタワーとして建設した建造物で、二百メートル越えを目指した超高層ビルである。
「さあて、どこに泊まろうか……」
「インターネット接続出来るホテルがいいな」
シンクレアはそう口にして、該当するホテルの情報をピックアップする。
栞はその中からフォーチュンタワー・ベイサイドに隣接するホテルを選び、宿泊料金を見て嘆息する。
「シングルで一泊二万円って、いったいどんなもてなしをしてくれるのかしら……」
彼女はそう口にしながらホテルのロビーを目指す。
アレイスター・ベイサイドホテル。香港にある最高級ホテルの系列で、オリエンタルな雰囲気が漂うインテリアが目に新しい。
栞はフロントに歩み寄り、呼び鈴を押してクラークを呼ぶ。
「いらっしゃいませ」
控えていたクラークが顔を出し、身なりを整えて慇懃な挨拶を向ける。
「数日滞在したいのですけれど、お部屋を用意していただけますか?」
彼女らしからぬ丁寧な言葉使いで宿泊を願う。
これは秋篠広哉が言う猫かぶり状態であり、彼女が出来る最大限の外向的な態度といえるものなのである。
「連泊……ですか?」
「ええ……。四、五日滞在したいと思っています」
フロントクラークは訝しげな目を向け、宿泊管理コンピュータと栞を見比べる。
そしてキーを操作する素振りを見せ、さも申し訳なさそうに頭を下げた。
「お客様、申し訳ございません。ここ数日は予約が殺到しておりまして、お部屋をご用意することが出来ません」
栞はさもあらんと溜息を吐いた。
今は午後八時、宿泊を願い出るには少々遅い時刻だ。
それに齢十六になったとはいえ、栞は年齢より幾分若く見える。
そんな少女が一人高級ホテルに連泊を願い出る。フロントクラークは家出人ではないかと訝しみ、敬遠したのである。
「なるほど、予約率四十七パーセントがこのホテルの許容限界であると……?」
「――っ。いやっ、そのようなことはございません。確かに本日は……」
「春日野栞――」
「はっ……、はい?」
「春日野栞という名で予約をしてあります。事前払いで決済も済ませていますので、もう一度ご確認下さい」
フロントクラークは慌ててコンピュータを操作する。
そして検索結果には確かに彼女の名があり、スイートルームを一週間予約済であると表示していた。
「申し訳ございません、ただいまご用意いたします。こちらにサインをいただけますでしょうか」
フロントクラークは深々と頭を下げ、近くにいたベルマンに合図を送る。
栞はサインを書き終えキーを受け取ると、傍に立つベルマンに鞄を預け、案内されてエレベーターへと向かった。
二十八階に到着し、扉の前でベルマンが頭を下げる。
「こちらでございます」
「ありがとう。用があればお声を掛けさせていただきますから、案内はここまででいいわ」
彼女はそういいながらバッグの中から財布を取り出し、ベルマンに一万円札を握らせる。
「数日お世話になりますから、ご面倒をお掛けすると思います。これは少ないですが心付けです」
「あっ、いや、当ホテルでは――」
「黙っていれば分からないわ。受け取っておきなさい」
栞はクスッと悪戯っぽく笑い、部屋の扉をそっと閉めた。
彼女は部屋の灯りを点け、扉という扉を開けて溜息を吐いた。
「売り言葉に買い言葉でやっちゃったけど、辻褄合わせに四苦八苦しそうね……」
彼女はシンクレアを使いコンピュータをハッキングし、宿泊管理情報を改竄したのである。
クイーンサイズのベッドに腰掛け、荷を解いてノートパソコンを取り出すと、テーブルの上にあるツイストペアケーブルに接続して電源を入れた。
そしてバスルームに向かい、壁の操作パネルで湯を張り始めた。
彼女は誰に憚ることなく服を脱ぎ、生まれたままの姿で鏡の前に立つ。
年相応に肉付きの足りない肢体だが、花の蕾のように焦れた色香が漂う。
ストッキングが締め付けた太ももを撫で、未成熟な胸をそっと手で押さえる。
そして適度に湯が張られたバスタブに向かい、惜しげもなく高級なシャワーソープを注ぎ入れる。
彼女は浴槽のそばにあったスイッチを入れ、ジャグジー機能を作動させて湯船を泡立たせる。
そっとつま先から湯船に浸かり、毛先の柔らかいボディブラシで丹念に磨きを掛け始めた。
小一時間後――。
栞はバスローブを巻き、パウダールームで髪を乾かし終えていた。
そしてクローゼットに掛けた服を選り、長袖のシャツにキャミソールを合わせ、タイツの上からスリムなジーンズを履く。
机の上で充電しておいた携帯をポケットに差し、筆箱から大量の油性ペンを取り出し握りしめる。
「さてと……」
彼女はそう区切りを付けて部屋の照明を消した。
栞の周囲を泳ぎ回っていたシンクレアが情報を提示する。
二名(にみょう)ヘッジファンドコンサルティング株式会社。
証券会社出身でもなく、官公庁に身を置いたこともない素人が立ち上げた投資顧問会社。
だがそのコンサルティング力は神掛かっており、ここ数年で莫大な投資を受けて業界で幅を利かせている。
彼が絡む株式投資、企業の買収や合併は荒れると評判で、同じ土俵でやり合うことを避けている投資家も多いと聞く。
先のフォーチュンタワー・ベイサイドはこの会社が拠点としていることでも有名だった。
彼女はホテルを出て隣接するフォーチュンタワー・ベイサイドへと向かう。
午後九時だというのにロビーは照明が灯り、受付にいた女性がスッと頭を下げた。
栞は受付嬢に向かい、柔らかい笑みを浮かべる。
「夜も遅いというのにご苦労様。四七階の二名(にみょう)代表取締役に繋いで下さるかしら」
彼女はそう口にしながら入所管理カードに名を、面会者の項目に『二名雅樹』と記載した。
「春日野……栞様ですね。アポイントは確かに承っております」
受付嬢は脇にある入館証から、栞にあてがわれたビジターカードを用意する。
首にぶら下げるストラップタイプの入館証を手に、受付嬢が指し示すエレベーターホールへと向かった。
四七階――。
エレベーターホールに掲げられた見取り図を一瞥し、目的の会社を目指し入り口に立つ。
カードリーダーに入館証を近づけると、軽いギヤモーターの作動音がして解錠を知らせた。
中には事務所らしき場所と打ち合わせスペース、最奥が社長室になっていた。
彼女は突き当たりまで進んで、社長室の扉を開いた。
薄明かりのダウンライト、整然と並べられたソファーテーブルの向こう、煌々とパソコンのモニターが窓際の席を照らし、その先の人物を浮き上がらせていた。
「やっと来たね。心待ちにしていて、今日は仕事が手に付かなかったよ」
「敵である私に入館手続きまでしてくれるなんて、あなた相当イカレてるわね」
男は肩を揺すって苦笑し、書きかけのメールに結びの言葉を打ち込んで送信する。
「満更知らない仲でもないだろう? 三年ぶりかな。当時の栞ちゃんは、それはもう可愛いかった」
「今はそうでもない。……そう言いたげね」
「女は加齢と共に美しさを失っていく……。そう実感したことはないかね?」
栞はキッと鋭い目を向け、一歩踏み込もうとして足を止めた。
男の周囲、いや部屋中に滞空する霊気の塊を目にしたからだ。
大スズメバチ――。一目でそう判断出来るほどの精巧なフォルム。
霊気で象られた蜂達が無数に飛び交い、彼女の侵入を今か今かと待ち構えていた。
「強い霊気を持つものは若さを維持するというが、君は満開に咲いた花のようだね――」
男はそう一区切りし、遠目からでも分かるほど口元を歪めた。
「栞ちゃん……いや、――退魔士、春日野栞と呼ぶべきだろうか」
「タンディラジオシャックを開放しなさい。そうすれば危害を加えない」
栞はそう口にしながら、ポケットから極太のマジックペンを両手に握りしめる。
だが男は椅子を回して彼女から背を向け、窓辺を見て肩を竦める素振りを見せた。
「退魔士ランクB+、それが確か三年前の実力だったね。今は腕を上げ、満を持して交渉の場に立ったという訳か?」
「さあね。あの業界とは縁を切ってるから、ランク付けなんてアテにならないことは確かだけど」
男は背を向けたまま指を動かし、パソコンの中からタンディラジオシャックを呼び出す。
男の腕に蛇の尾を絡めるタンディラジオシャック。蛇の半獣神ラミアをモチーフにしたサイバーフェアリーだ。
「一つ聞きたいことがあるんだけど」
栞はそう前置きして話を続ける。
「サイバーフェアリーを使えば、通帳の残高を増やすなんて訳ない。なのになぜこんな会社を作ったの?」
男はフッと目を細めて屈託無く笑う。
嘲笑――。本心から栞を小馬鹿にしたような笑いだった。
「貨幣価値なんてものは、穴の空いた石と同じで約束事の一つに過ぎない。例えば国家予算に匹敵する金を入手したとして、結果はどうなると思うかね」
「紙幣価値は暴落し、紙切れ以下の価値に落ちる」
「そうさ、金なんてものはそんなものだ。コンサートのプラチナチケットは貴重だから女の気を惹ける。何枚も存在したら無価値は無くなってしまうものだ」
「――で、話が逸れてしまったけど?」
「ルールのある遊びだ。株価を操作したり、企業のスキャンダルをリークしたり、それなりの悪さはしているがね?」
「くだらない。必ず勝つ勝負のどこが面白いの?」
「まあそう言うな。これは中々便利なアイテムでね。手放すのは少し惜しいと思っているが――」
男はゆっくり振り返り、頭の先からつま先までを舐め回すように見つめて、嗜虐的な笑みを浮かべる。
「――君の態度次第では一考の余地はあると思っている」
「私はタンディラジオシャックを消滅させ、姉を苛んでいる事象を一つ消す。それ以外は全てノーと返答する」
これは栞からの宣戦布告だった。
彼女はマジックの蓋を指で弾き飛ばし、空を舞う蜂達にペン先を向ける。
彼女は虚空に『消』と走らせ、目の前の蜂達を霧散させる。
「うむ、三年前と比べると、幾分キレが増したね」
男は指をパチンと叩き、蜂達に攻撃の指令を与える。
栞はスッと身を屈め、地を蹴って前に飛び出した。
目の前に襲い来る蜂に筆を走らせ、男の懐に飛び込んで額と喉にペン先を突き付けた。
背後で蜂達が霧散して消え、残りの蜂達は旋回して、ピタリと動きを止めた。
「『眠』と書けば文字が消えるまで眠り続け、『止』と書けば呼吸を止めることだって出来る」
「チェックメイトというわけだね」
男はスッと目を閉じ、机に肘を付いて手のひらを重ね合わせる。
「君は盤上に上がる前に負けている。滑稽なのはそれに気が付いていないことだね」
「な、なにを――」
「……ペンを捨てろ」
男がそう栞に囁きかけると、彼女の手からペンがこぼれ落ちた。
「さあ、三年前と同じ状況になったね。あの時のように鼻水を流しながら泣き、生かしてくれと懇願してみろ」
「――鼻水を流したり、命乞いをした覚えはないわ」
「そうだったね。力及ばす敗北したが、精神は決して屈しなかった。面白い逸材だと思って、生かしておいたんだ」
男は動かぬ栞の体を指で直立させ、胸を鷲掴みにして、尻を撫で回す。
「女の子らしい体に育ったじゃないか。胸は小ぶりだが、いい形をしている」
「――っ!」
栞は身動きせずその手を受け入れ、身を捩ることさえ出来ない。
「蜂毒をどこでもらったか分かるか? ①部屋に入った瞬間 ②突進する刹那――」
「受付を行っている時ね……?」
栞は唇を嚙んで悔しがる。
何の変哲もない受付嬢に気を中てるわけにはいかない。一般人を装った瞬間が唯一その時だけだったのだ。
「跪け。そして靴を舐めろ」
彼女はその言葉に反応し、膝を折って男の前に跪く。そして口を開いて舌を出し――。
「こんな汚い靴を舐める馬鹿はいないわよ」
彼女は床に転がったペンを拾い、男の足に筆を走らせる。
斬――。そう書き終える前に男の蹴りがペンを薙ぎ払う。
だが栞はもう一本ペンを引き抜き、タンディラジオシャックに『消』と書き終えた。
同時に栞の体に蜂の毒針が食い込む。
一本、二本、そして数え切れないほどの蜂が彼女を包み込む。
「そうか、自分自身に文字を刻んだんだな? さしずめ『解毒』と――」
「正解」
無数の蜂に襲われながら、彼女は震える手で携帯を持ち、それを二つ折りにして破壊した。
その刹那、彼女に付き従っていたシンクレアの姿が消える。
「これで姉さんが助かる。あなたはサイバーフェアリーを失って、彼女に怯えながら過ごすといい」
男は初めて驚愕の表情を見せた。だがそれも一瞬のこと、パチンと指を弾いて蜂達を消し去り、動けず体を痙攣させた栞を見下ろした。
「三年前は蜂を使った身体操作しか出来なかったが、……今は違う」
男は指を動かし、目の前に一際大きな蜂を作り出す。
「女王蜂。こいつの毒はちょっと面白くてね。人間を発情させ、感覚を鋭敏にさせる媚薬の効果がある」
「……モテないな男の考えそうなことね」
「打ち込まれたらどんな貞淑な女でも発情した雌豚に変わる代物だ。お前から望んで男を銜え込むようになる」
女王蜂は栞の首元にへばり付き、卵を産み付けるように身を伸縮させる。
その行為は時間にして十秒足らず。無数の卵を栞の中に産み、役割を終えたように姿を消した。
男は足元に転がる栞を蹴り飛ばす。
「痛みも気持ちいいだろう? 性感が馬鹿になってるからな」
男の言葉通り栞の口から悲鳴に似た嬌声が漏れていた。
「タンディラジオシャックがいなくとも、お前を飼い慣らせば結果は同じ。姉も妹相手にはやりにくかろう?」
「馬鹿ね。私があなたの思い通りに動くと思ってるの?」
「寝たきりの患者が起き上がるまで何ヶ月かかると思っている? その間お前はその焦れた感覚を味わい続けるんだぞ?」
「く……、くだらない。こんなの、屁でもないわ」
男はふと立ち上がり、栞の胸に踵を落とす。
その刹那、栞の体はビクンと跳ね、今度はハッキリと分かる喘ぎ声を上げた。