刃の下に心あり 04
翌朝――。
下御門さんと待ち合わせした場所に到着し、彼女のファッションセンスに度肝を抜かれた。
ピンク色のパーカーとデニムのショートパンツ、赤のニット帽を目深に被り、カラシ色のトレッキングシューズを履いている。
何より目を惹くのは赤のパンストだろうか。
そこに着目するのは俺だけなのかも知れないけれど、平素の彼女からは想像出来ない派手な装いだった。
「ど派手だね……」
「山ガールファッションを参考にしてみました」
アルトが瞬時に検索を掛ける。
山ガールというのはファッション性を重視して山に登る女性の総称らしい。
原色というか警戒色を身に纏っているのは、それなりに意味のあることなのだと知識を深めた。
「赤のストッキング……、やっぱり派手だった?」
「ん、いや、似合ってるよ?」
「……そうかなぁ。秋篠くんてばそこばっかり見てるから、てっきり似合ってないのかと思ったよ」
女性は視線に敏感だというのは本当らしい。
パンストというのは色の濃淡で立体感を強調し、否が応でも目が行ってしまうのだ。
例えると山。地図で見るとそれほど高く見えないが、等高線をつけると立体的に見える。パンストが織り成すグラデーションはそういう視覚的効果が高いのだ。
もとより女性の脚は男にないしなやかな曲線を持っている。そこにパンストを履くと鬼に金棒だと思う。
「そういう秋篠くんだって、結構イケてるよ。山ボーイって感じ?」
対する俺はコットン地のウィンドブレーカーにタンクトップ。下はグレーのアーミーパンツと、特訓用に買った赤黒のウォーキングシューズを履いてきた。
軽装備だけど野山を歩くのだから、それなりの装備をしてきたつもりである。
ちなみにリュックの中には着替えの他に、携帯用の毛布なるものが二人分入っている。
これは昨日下御門さんと購入したもので、代わりに彼女はタオルなどの日曜雑貨を運んでくれている。
「電車の時間だ。そろそろ行こうか」
「一本乗り過ごすと大変だもんね」
一泊二日とはいえ、移動を差っ引いた自由時間は少ないと見積もっている。
そんな事情で待ち合わせにしわ寄せが来て、今の時刻は午前五時だったりする。
改札を通り抜けてホームに辿り着き、売店でコーヒーを二つ買って電車に乗り込んだ。
ここから目的の南川上駅まで四十分といったところだろうか。
リュックを二つ棚に上げ、座席に座ってコーヒーを開ける。
ふと隣に目をやると、下御門さんは缶コーヒーを見つめ、なにやら不可解な笑みを浮かべていた。
「コーヒー苦手だっけ?」
「あっ、いや、飲んじゃうのは勿体ないと思って」
彼女はそう言って席を立ち、リュックの中に缶コーヒーを押し込める。
非常食として取っておくつもりか。
まあ山小屋っていうくらいだし、食べ物はもちろん、飲み物だって期待できないからな……。
下御門さんは席に座り直して胸を押さえ、チラリとこちらを見てネコ口になる。
「アヒル口は聞いたことがあるけど、下御門のはネコ口だよな」
「そ、そうかな……。意識したことない……けど」
そう言いながらこちらを見ては目を伏せて俯き、先ほどから挙動不審な態度を取っている。
「あっ、もしかして飲まないって言いつつ、実はほんの少し飲みたかったり?」
「あう。違います、違います」
「ちょっと檄甘だけど、飲んでみるか?」
俺は特別コーヒー通って訳じゃない。
無糖ブラックなんて飲めたものじゃないし、シュガーレス系の偽臭いのも勘弁だ。
砂糖を飽和する限界まで溶かした檄甘、朝はこれに限る。
下御門は前に差し出された缶をジッと見つめ、ゴクリと喉を鳴らして手を差し伸べた。
そしてコクリと喉を鳴らし、……案の定喉を詰まらせた。
「ごほっ、ごほっ……、あぅ、甘っ……」
「だから檄甘って言ったろ? 素人お断りの本格的な甘さって宣伝している奴だ」
「本格って……砂糖の味しかしないよ」
「お子ちゃま用だからな」
「お子ちゃまはこんなの飲んじゃいけないと思うよ……」
リュックからハンドタオルを取り、下御門さんに手渡す。
彼女は咳き込みながらそれで口元を押さえ、持て余していた缶を受け取り一口飲んで見せた。
「あっ……」
「ん? 俺は甘いのに慣れてるからな。何ともないぞ?」
「あっ、いや、うん……、なんでもない……」
彼女はタオルをギュッと掴み、真っ赤な顔で俯いてしまう。
そんなリアクションを見て、ふと間接キスをしたのだと気付かされた。
少し気恥ずかしい思いをしつつ、昨日栞さんから言われた一言を思い出した。
男は健康、女は安産――か。
人の気持ちも知らず、好き勝手言ってくれたものだ。
ああやって自分以外の男女を冷やかす心理はどういったものだろうか。
恐らく栞さんは俺を異性だと感じていないのだ。悲しいことだが恋愛対象だと思われていないのだろう。
「報われないな……」
決壊しそうな涙腺に渇を入れるべく、缶コーヒーを飲み干して上を見上げた。
南川上駅――。
俺達はホームに立ち、辺りを見渡して立ち尽くす。
いや、見るものがないというか、周囲には目印となる建物が何も無かった。
改札には駅員の姿は無く、自動改札機が一つ設置されているだけで、ホームと外を遮るものは何も無い。
駅舎を出て辺りを見渡すものの、時間のせいかバスやタクシーはおろか、人っ子ひとりいなかった。
仕方なしに地図を頼りに歩き出し、数件しかない駅前の集落を抜ける。
山に向かうに従い舗装された道路が細くなっていく。
そして道そのものが草木に覆われ、俺達の行く手を阻むように立ち塞がった。
俺はその草を手で掻き分け、その先に見える登山道を指差す。
「轍があるってことは、車が走れる道だということだ。雑草の鋸歯で切るかもしれないから気をつけて」
「う、うん、わかった」
踏みしめられたタイヤの部分だけ土が露出し、その他は雑草が生え放題に伸びていた。
それらをかいくぐりながら進むと、どん突きでちょっとした広さの場所があり、そこでタイヤ痕が途切れていた。
その先にはとても車では進めそうにない獣道がある。恐らく迷い込んだ車はここで断念して引き返していくのだろう。
「ここからはハイキング気分では進めないな」
道らしき場所を通り抜け、雨が土を削った痕を進み、沢を跨ぎ、草木を掻き分けた。
獣道を登り始めて一時間ほど。やっとの思いで平坦な場所に辿り着き、人家らしき建物が見えたときには完全に疲弊しきっていた。
「あれか……。山小屋っていうから、どんなところかと思った」
「ログハウスだよね? あれ……」
山を切り開いた土地に、似つかわしくない瀟洒なログハウスが一軒建っていた。
「やっと来たか。まあ入れや」
健次郎爺さんはテラスの安楽椅子に座り、ゆらゆらと椅子を揺らしてご機嫌のようだ。
俺は重くなった足を持ち上げて階段を上り、爺さんの横で床に寝そべった。
「ダメだ。もう帰りてぇ……」
「その体たらくでは麓まで辿り着けんぞ。遭難してもいいなら帰れ!」
爺さんの物言いは気に食わないが、確かに来た道を引き返すのは無理だ。
下御門さんは普段から運動をしているだけあって、俺なんかと比較にならなくらいに元気だ。
彼女はタオルで額の汗を拭い、ペコリと頭を下げて微笑む。
「お世話になります。おじいさん」
「お嬢ちゃんは相変わらずめんこいのう……」
「下御門千帆といいます。挨拶が遅れてすみません」
「千帆ちゃんか。ささ、部屋に案内してやるで、身軽な服装に着替えなさい」
ジジイ、態度が全然違うとツッコミを入れたかったが、とてもそんな元気はない。
ログハウスに消えた二人を見送り、もう一度へたばって溜息を吐いた。
「おじいさん、着替えるから見ちゃダメですよ」
「ワシはもう死んどるからノーカウントじゃ」
「やだ、もう。おじいさんのエッチ」
キャッキャウフウフする二人のやり取りを聞き、気力を振り絞ってログハウスの中に入り込む。
そして扉に張り付いていた爺さんを後ろから蹴飛ばし、殺意を込めた目で睨み付ける。
「そんな……、睨まんでもええやないか」
「ジジイ、関西弁になりつつあるぞ。注意しろ」
「老人の戯れを許容出来んとは、心が狭い男よな」
「ごたくはいいから、もう一部屋都合付けてくれ、荷を解きたい」
「チッ……、こっちじゃ」
案内された部屋はお世辞にも広いと言えなかったが、ベッドの上に真新しいシーツが用意されており、必要最低限の調度品は揃っていた。
「えらく親孝行な息子さんなんだな。掃除までしてくれてるじゃないか」
「ワシに似てええ大人に育ったものよ」
「……息子さんも爺さんの修行を受けたのか?」
「そうじゃ、なんの役にもたたん修行を子供の頃から続けておる。今でも暇を見つけては、ここに来て体を動かしておるよ」
そう言われてみるとこのログハウスには風の通った後というか、人がいた気配のようなものが何となく感じられる。
「――って、コンセント。電気が来てるのか?」
「沢から水を引いてポンプを回しとるし、屋根には太陽光パネルが貼ってあるぞい」
「マジか?」
窓を開けて外を見ると、見上げても足りない遙か上からビニール管が引き込まれ、それらしき発電機が唸りを上げている。
そして部屋の壁には電力モニターが点灯しており、充電率や消費電力が逐一カウントされていた。
「便所は水洗じゃし、ケツの穴を洗う水も出るわい」
「シャワートイレと言ってくれ。ジジイの物言いはダイナミックすぎるんだよ」
「溜まったクソは電気で分解しよるしな。その当時は最先端の設備じゃったんよ」
「今でも十分最先端だよ……」
山のトイレ事情って奴は厄介らしい。
登ったことがないけれど、富士山のてっぺんは屎尿を処理しきれず、生態系を脅かすまでに悪化していると聞く。
微生物で分解するトイレを設置して対策をしているようだが、それすら処理能力が足りていないと聞いたことがある。
アルトが指で合図を送り、機嫌よさげな声を上げる。
「携帯電話も通じるみたい。アンテナが二本立ってるよ」
「おっ、……本当だ。奇跡じゃないか?」
「馬鹿もん、奇跡でも何でもないわ。裏山にゴルフ場が出来てしもうたからのう、そこから電波が届いておるのじゃろうて」
電気と携帯がオッケーなのなら、パソコン通信も問題ないじゃないか。
リュックからノートパソコンを取りだし、USBモデムを取り付けて電源を点ける。
するとモデムがチカチカと点灯し、リンクアップを知らせる緑のLEDが光った。
「おおっ……」
「わーい。やったやった」
アルトは大喜びして飛び回り、パソコンのモニターに飛び込んだ。
俺はリュックを開き、着替えや携帯毛布を取りだした。
あとリュックに残っているのは非常食と着替えのみ。それらを机に並べてリュックを小さく折り畳んだ。
「ばっ……馬鹿もんが! 食いもんはこれだけか?」
「これだけって……、おにぎりが四つ。ちょっと少ないけど、なんとかなる範囲だと思うけどな」
「体を鍛えようと思う者が、これくらいで足りるのかと聞いておる。全然足りんじゃろうが!」
「……てか、下御門も同じくらいしか持って来てないと思うぞ」
爺さんはニヤリと笑ってあご髭を弄る。
「麓まで降りて買ってこい。肉じゃ、国産の牛肉を一キロな。テラスで焼き肉にしようぞ」
「ばっ、馬鹿言え! 遭難するって言ったのは爺さんだろ?」
「じゃあ、お嬢ちゃんに行ってもらうか? あの子はまだ元気そうじゃしのう」
ジジイは部屋を出て下御門さんを呼び付ける。
「はぁい。呼びましたか?」
「うむ、実はの――」
女の子を危険な目に遭わせて、一人のうのうと修行なんか出来るか。
俺はジジイの口を押さえて遮り、踏ん切りをつけて溜息を吐いた。
「下御門、お前焼肉好きか?」
「え、あ、うん」
「ちなみにどういう食べ方が好きだ?」
「タン塩はレモン、他は玉レタスで包んで食べたりするよ」
「……んじゃ、行っている」
「え、え? どういうこと? どこに行くの?」
空になったリュックを背負い、時計を一瞥して見て走り出す。
ただいまの時刻は午前八時。往復に二時間費やしたとしても十分教わる時間はあるはずだ。
ログハウスを出て登山道を降り始めた時には、もう気持ちは切り替わっていた。
麓に降りたのは九時を少し回った頃だった。
順調に辿り着けたのはいいが、駅前の集落にそんな気の利いた店は無い。
道行く人に道を訪ね歩いて隣町まで遠征、食料品店を見つけた時には十時をすぎていた。
「おばちゃん、焼き肉するんだけど国産牛肉を適当に見繕って。一キロほどね」
「あいよ、朝から景気がいいね。バーベキューでもするのかい?」
「おう。タン塩とチシャ菜があればそれも頂戴」
「野菜は八百屋の役割さ。ちょっと歩いたところに店があるから寄ってみな?」
肉屋のおばちゃんは小分けした肉を秤にのせる。
「はいよ、五千二百万円」
「ベタベタだな。――六千万円ね」
おばちゃんはニコニコ笑いながら釣り銭を手渡す。
袋詰めされた肉をリュックに放り込み、八百屋のあるらしき方向を見つめる。
「どんどん遠ざかっている気がするが、行くしかないか……」
地を蹴って走り出し、買い出しの旅を続行した。