刃の下に心あり 02
「――秋篠くん、起きてよ」
朝の一秒は昼間の一時間に匹敵する。
そんな至高の時間を邪魔する声が聞こえたが、抵抗を試みて再び睡眠を継続させる。
声の主は少し不機嫌そうな声色で、仕方ないとばかりに溜息を吐いた。
「布団剥ぎ取っちゃうよ?」
「……そんなことをしたら……一生恨んでやる」
「そんなことで一生恨まれるのは嫌だなぁ……」
悪の声はベッドを軋ませて横に座り、寝乱れていたのであろう布団を掛け直してくれた。
「気持ちよさそうに寝てる。……ふぁぁ。そんな顔を見ていたら、こっちまで眠くなっちゃう」
掛け直されたばかりの布団がふわりと持ち上げられた。
一瞬引き剥がされるのかと思ったが、ベッドがユサリと揺れて静寂が訪れた。
腕に適度な重みがのし掛かり、山桜のような匂いがふわりと鼻をくすぐった。
そばに寄りそう小さな温かみを感じ、不意に妹の愛香を思い出した。
――朝。
さすがに寝過ごしたと自覚する時刻、肌寒さを感じて目を覚ました。
壁掛け時計は六時前を指している。どうやら本当に寝過ごしてしまったようだ。
「よっと……?」
身を起こして横を見ると、蹴り飛ばしたであろう布団がこんもりと盛り上がっている。
そっと布団を捲り上げ、艶やかな黒髪と見覚えのある顔を見て硬直する。
――下御門千帆。
安心しきった表情と見事なネコ口を見て、ああネコとはこういう生き物だと軽く混乱した。
気を取り直して下御門さんの寝顔を見下ろす。
形の良い眉毛に長い睫。人の良さそうな少し垂れたまなじり。
ネコ口をしていなければ、間違いなく美少女と言えるであろう顔立ちだが、性差を感じさせない親近感を抱かせる少女だ。
これがもし栞さんだったとしたら天井に頭を打つほど飛び上がっただろう。
だが下御門さんならそれほど驚かない、彼女はそういう特異な雰囲気を持っている。
良く言えば気さく、悪く言えば無防備――。
路傍に咲く花の如く、小さな命を愛でて癒されもすれば、悪意を持って踏みつけることも出来る。
彼女にはそういう危うさを感じるのである。
もし、その花を手折ろうとしたらどうなるのだろう。――受容か拒絶か、試したくなるのも人情だ。
ネコ口を形成している色艶のよい唇に指を添え、その両端をグイッと引っ張る。
彼女は少し迷惑そうな顔をしてその攻撃から逃れる。どうやらここはウイークポイントらしい。
次に顎の下に手をやり、ネコをあやすように喉をくすぐる。
彼女はグッと身を寄せ、無防備に喉をさらけ出す。どうやらここは気持ちいいようだ。
個人的には膝の裏とか土踏まずを触ってみたいと思ったが、脚フェチだとバレてしまうので封印しておくことにする。
「――ってか、俺を男だと思ってないだろう?」
その言葉に反応し、下御門さんはパチリと目を開けた。
「秋篠くんは私のこと、女だと思って無いもん。おあいこだよ!」
「ぎゃ、逆ギレ?」
下御門さんは布団を頭まで被り、地を震わすようなおどろおどろしい声を出す。
「……アイカって誰?」
「――はぁ?」
「ア・イ・カ・っ・て・誰!」
「そんな滑舌良く喋らなくても、下御門の思いは伝わっているぞ……」
そういえば夢の中に妹の愛香が出てきたような気がする。
下御門さんには妹がいたと話したことがあるが、彼女の名前までは言っていなかった。
「寝言でそう言っていたか? ……俺」
「うん……。アイカ、アイカって……」
寝言を口にするほどではなかったような気がするが、見た夢と台詞はリンクしていないものなのだろうか。
暗いのが怖いといってトイレに連れて行って、眠るまでそばにいてくれと言われている夢だった。
妹も俺と同じく見鬼の才があったように思う。夜は特に苦手で、トイレに行くときは付き合わされていたっけ。
「愛香。愛情の愛に花香るの香、……妹の名だ」
「――っ!」
下御門さんは布団の中で息を呑み、力強く俺を引き寄せて布団の中に引き摺り込んだ。
頭を抱え込むように胸に引き寄せて、申し訳なさそうに小さく呟いた。
「ごめんなさい……」
そういえば妹がどうやって死んだのか、彼女に話したことがある。
だが直接的な死因を話しただけで、死の真相を話してはいない。
「下御門……、お前にも話しておこうと思う。妹がなぜ死を選んだか」
「……うん。秋篠くんの辛いこと、みんな受け止めてあげる」
高畑教諭から奪い取ったチャイルドポルノのDVD。その中に妹の姿があったことを話した。
彼女は屋上から飛び降りた時、お腹の中に小さな命を身籠もっていたこと。
そして彼女を薬で陵辱した卑劣な相手が、俺達と同じサイバーフェアリーを所持している能力者であることを……。
「だから秋篠くんは体を鍛え始めたのね?」
「あと……もう一つ話しておかねばならない」
「……ん?」
「女だと思って無いと言ったが、それは大きな間違いだ。先ほどから胸に顔を埋めていて、蕩けてしまいそうになっている」
「な、ななな……、なぁっ!」
布団がガバッと跳ね上がり、強烈な平手が頬を張る。
憤慨して部屋を飛び出した下御門さんは、玄関先で振り返りキッパリと言い切った。
「三分で支度してよね!」
「お前はムスカ大佐か!」
ピシャリと閉じられた玄関を見つめ、四十秒で着替えてやると意気込んだ。
庭先に立って柔軟体操を始める。
寝過ごした俺達には駅前の公園は遠すぎるし、二人揃って遅刻などしたら、何を噂されるか分かったものじゃない。
それに婆ちゃん家の庭先は無駄に広い。軽く体を動かすくらいなら十分すぎる広さを誇っている。
下御門さんと背中合わせになり、彼女を背中に乗せて上体そらしをする。
横に並び両手をつないでお互いに引っ張る側筋伸ばしなど、こういう運動は二人一組でないと出来ない。
腹筋や背筋も補助がいなければやりにくい。下御門さんが来てくれて本当に助かる。
「ね、秋篠くんがやってる太極拳、私にも教えてよ」
「ぬ? あれは見て覚えた奴だし、普通の太極拳とかなり違う奴だぞ?」
「いいからいいから」
赤の霊気を纏う能力者がやっていた忽雷架。
調べたところによると、陳氏太極拳の亜流にあたる套路だそうだ。
大きくゆっくり動く老架式、小さく鋭く動く小架式へと段階を踏むらしく、忽雷架は小架式の変形といわれ、かなり高級な套路らしい。
持ち味は激しく鋭くスピーディに動くことにある。
忽雷とは直訳で閃電、雷光や稲妻のこと。それほど速く動くということを指している。
「揃えた足を肩幅に踏み替えて両手を回して太極気勢。それから両手を前に足を踏む金剛搗碓」
套路というのは短いパートの集合体だ。一つ一つに大きな意味があり、繰り返してやる度に新しい発見がある。
一見格闘とは縁遠い体操だと思っていたが、時々総毛立つほど実戦的な側面が見えてくる。
払い除ける動きの中に打撃の動作が織り込まれていたり、あるパートとパートを融合させれば、恐ろしい結果を招くのが分かったりする。
中国は戦いと弾圧の歴史を繰り返してきた。武術をそれと分からぬように織り込み、日々実践するしかなかったのでは無いだろうか。
「んで、呼吸を整えて収勢――、で終わり」
「おおっ、さり気なく全身運動だねぇ」
下御門さんは動きを真似て一拍遅れで収勢する。
一度の套路で約七分ほど、陳氏太極拳ならば十分近く動く。
ラジオ体操のような繰り返しの動きはなく、一つの動きは一回切りで、覚えるのはかなり大変だったりする。
「今度は私が教えてあげる」
下御門さんはスッと腰を落とし、手を腰の位置で上下させる。ボールを持っていなくても分かる、バスケットのドリブルだ。
彼女は俺の前にスッと入り込んで背を向け、ドリブルしている手に触れないようにブロックし、彼女は素早く周囲を見渡して地を蹴った。
樅の木に向かい走り出し、木の枝に向かい高く飛び上がる。まるで羽根でも生えているかのような滞空時間だ。
彼女は枝をチョンと障り、音もなく着地して上を見上げる。
フープを一回巻いてネットを揺らすボールを見上げ、彼女はそれを受け止めるような動作をした。
「バスケットボールは空間認知。敵と仲間、合わせて九人がどこにいて、どう動いているかを把握して、パスを繋いでいくスポーツなの」
「パントマイム上手いな。一瞬ボールがあるように見えたぞ」
「私の得意なポジションはシューティングガード、素早くカットインしてスリーポイント・シュートを打つポジションなの」
そう言って膝を折り、体全体で伸び上がってボールを放つ。
「試合でのスリーポイント・シュート成功率は60.5%。中学バスケでは結構有名だったりするんだけど……」
「そうなのか? 確かに下御門ってのほほんとしているから、プレッシャーに強そうだけどな」
「あまり褒められているように思えないんだけど……」
検索した結果、中学バスケは腕力的なものもあり、ほとんどはゴール下からのレイアップシュート。
必然的に自陣を守るハーフコートディフェンスが多くなる。
高校のようなオールコートディフェンスではなく、ガチガチの守りの中に切り込んでの六割なら、相手には相当嫌な選手だったのかも知れない。
「……バスケ部に戻らないのか?」
話す口調で彼女がどれほどバスケが好きなのか分かる。
トラウマの元凶だとはいえ、彼女はコートの中で輝き続けて欲しいと思うのだ。
「ん……、もう無理かな」
「な、なんでだよ。好きなんだろ?」
彼女は手鞠のように手を動かし、不意に目付きを変えて俺に向かってきた。
一陣の風が脇をすり抜け、振り返ると彼女は天高く羽ばたいていた。
油断も隙もなく、手が届いたであろう最短距離をすり抜け、真後ろでシュートを決めたのだ。
「超感覚視認を知っちゃったから、みんなと一緒にバスケをするなんてズルした気分になっちゃうよ。きっと楽しくない……」
彼女はそう言いながらもアクセラレートを使っていなかった。
無意識のうちに一段高みの技であるコンセントレートを使用していたのである。
「クアデルノの補助も無しに……?」
「体育会系だもの。一度体に刻んだリズムは忘れないよ」
下御門千帆は霊力も乏しく、能力者として花咲くことはないだろう――。そんな認識は改めなくてはならない。
もしかすると稀にみる天賦の才を秘めているのではないか、そう戦慄した。
朝食を済ませて学校に向かい、光の速さで四つの授業を消化した。
そして昼休み、いつもの屋上で栞さんとの昼食。もちろん下御門さんも同席している。
そこで城戸健次郎爺さんから言われた、土日に予定している泊まり込み合宿の件を伝えた。
「でさ、……栞さんも来な――」
「私、行かないわよ?」
んでもって、お誘いの言葉を吐く前にキッパリ断られた。
彼女は懐をもぞもぞさせて、小ぶりな巾着を二つ取り出した。
「これは下御門さんに、こっちは秋篠くんにね」
はがき大の巾着には油性マジックペンで『御守り』と書かれていた。
「――てか大きすぎるだろう。御守りの三倍はありそうだぞ」
「あら、知らないの? 大きいってことは、それだけ効果が高いってことなのよ?」
良く触れてみると中には厚紙のような紙と、短く丸い棒のようなものが入っている。
紐を解いて中を見ようとして、栞さんにペチリと手を叩かれた。
「そういうのは見ないものよ。御利益が薄れるじゃないの」
「……ちなみになんの御利益があるんだ?」
栞さんは薄ら笑いを浮かべながら俺達を交互に見つめる。
「秋篠くんはひ弱だから健康祈願、下御門さんは安産祈願かしらね?」
「なっ!」
「ななななっ!」
俺の短いリアクションは、下御門さんの大きなリアクションにかき消された。
彼女は顔を真っ赤にしながら、その御守りを大事そうにポケットに仕舞う。
「だって幽霊が同伴しているとはいえ、一つ屋根の下に一泊するんでしょ? 男は健康が望ましいし、女はやっぱり安産よね? 間違いないと思うけど……」
「あらぬ妄想を全開にするんじゃねぇ!」
妄想の権化である御守りを突き返そうとしたが、栞さんに窘められてポケットに入れられた。
「部屋……、模様替えの準備をしなくちゃいけないから、アルトとクアデルノは秋篠くんのパソコンで預かってね?」
「あ、ああっ、パソコンの電源を抜かなくちゃいけないもんな……」
「というか、もう転送を始めてるから。しばらく点けっぱなしで過ごしてね?」
そういって手早く弁当を包み、チャイムが鳴る前にベンチを立った。
そして振り向きざまに少し寂しげな表情を向け、今生の別れを予感させる言葉を口にした。
「二人とも、元気でね」
そんな突拍子もない言葉に、俺達は呆然とするばかりであった。