クアデルノ Quaderno 05
「アルト、依頼者のパソコンからチャットソフトを消去してくれ。ログも忘れずに頼むぞ」
「はーい。味見してくるよ」
食うのかよとツッコミを入れたくなったが、結果が伴っていればよし。方法はアルトに任せよう。
こちらもチャットソフトをアンインストールし、肘で小突いて下御門さんに帰り支度を促す。
「終わり……なの?」
「いや、むしろここからが仕事だ」
下御門さんはキョトンとしたまま、オレンジジュースを口にする。
栞さんが俺に仕事を任せるってことは、この案件は荒事になるということだ。
そのヒントで十分だった。何が起こるのか大体の予想が付いた。
「栞さんならマンションから十分作業できる仕事だ。それを俺に任せるってことは――」
「任せるってことは?」
「あの子、相当ヤバイことになっているってこと」
帰り支度を済ませて立ち上がろうとした瞬間、パーティションの向こうで動きがあった。
俺は下御門さんの頭を押さえ、身を屈めてその様子を窺う。
「ヤバイ……、先に動かれた」
依頼者が先に席を立ち、受付へ向かったのだ。
先に支払いを済ませ表で待ち構える作戦だったのだが、これでは依頼者を見失う可能性がある。
「下御門さんは先に出て彼女を追ってくれないか? 俺は支払いを済ませて、すぐに後を追う」
「うん……」
依頼者は支払いを済ませて店外に出る。
俺達は申し合わせ通り分担作業に入り、急ぎ足で受付へ向かった。
「それじゃ、行くね?」
「ちょっと――」
一足先に店を出ようとする彼女を呼び止め、これから何が起こるのかを伝えた。
「携帯の位置情報で分かったことだけど、相手の男がこの近くにいるらしい。これは偶然じゃない」
下御門さんは一瞬目を見開き、口を真一文字に噤んで頷く。
走り去る彼女を目で追い、受付に精算の紙を叩きつける。
「大至急支払いを!」
「はっ、はいっ!」
受付嬢は目を丸くしてレジを打ち始める。
ふと栞さんに言われた一言を思い出し、髪の毛を掻き毟りながら受付嬢に願い出る。
「領収書をお願いします。名前は「上」で」
「はいっ、ただいま」
なぜ領収書がないと経費精算できないのだろう。今度暇な時に調べてみたいと思う。
領収書を手に店を出た時には、二人の姿はどこにも見当たらなかった。
「アルト!」
「地図ね? ちょっと待って!」
アルトは欲しい情報を瞬時に検索し、視界に画像を展開する。
私鉄に向かうなら右、地下鉄なら車道を渡って正面の道へ、バスなら左に向かう。これでは予測の立てようがない。
歯噛みしながら携帯を手に、下御門さんに電話を掛ける。
ワンコール、ツーコール。いくら呼び出そうと、彼女は電話を取らない。
「携帯、鞄に入れてるのか……、それとも……」
最悪の予想が頭を過ぎる。
そんな時シンクレアが肩に座り、ムムムと唸り声を上げた。
「アキシノ、左だよ! バス停を通り過ぎて、別の駅に向かっているって」
「――分かるのか?」
「クアデルノがそう言っているから、間違いないよ」
第三の精霊クアデルノ。彼女がいてくれたか。
鞄を肩にかけ直し、バス停へと向かう道へ駆け出す。
真っ直ぐ走れない程の人の波。アルトは視界に淡い光線を引き、最短の回避ルートを導いてくれる。
そのガイドに従い右に、左に回避しながら前に進む。
高解像度のディスプレイに匹敵する映像を視神経に送り込む。そんなことは今の技術では成しえない。
オーパーツが『OUT OF PLACE ARTIFACTS』ならば、さしずめこれは『OUT OF PLACE TECHNOLOGY』か。
そんな説明のつかないことも、アザルヤの力と思えば納得出来る。
「近いよ、そこの角を右に曲がって」
アルトの叫び声で現実に引き戻される。
そこは薄暗い路地。地図上では駅への最短ルートだが、繁華街から離れていて人の姿はない。
いや遠くに三つの影がある。それも最悪の状況で。
大柄の男の背と、腕から出血した依頼者を守り、勇敢に立ち塞がる下御門さんの姿。
男の手には大きなカッターナイフ。キチキチと刃を伸ばし威嚇している。
彼女は一瞬俺を見たものの、先に動いた男に目を向け身構える。
男は半狂乱になり、カッターを振り回して地を蹴った。
全力で走ったが、アルトの計算で結果が見えた。もう間に合わない――。
そう諦めかけた時、俺の耳に精霊達の笑い声が聞こえた。
「アクセラレート」
「クアデルノにも出来るはずよ」
その瞬間下御門さんの体が加速、カッターナイフを靴底で受け止め片足で立つ。
まるで往年のブルース・リーを彷彿させる姿に、思わず見とれてしまいそうになった。
彼女はそのまま素早くしゃがみ込み、両手を地に付けて反転する。そして伸び上げた脚で男の足を薙いだ。
男はよろめいて体勢を崩す。彼女は地を滑るように間合いを詰め、男の腹に蹴りを放って吹き飛ばした。
地面を滑るようにカッターナイフが転がる。男は慌ててそれに手を伸ばし、振り返って下御門さんの方に向き直る。
だが彼女は一手も二手も先を行っていた。
彼女はカッターを持った手に蹴りを放ち、その脚を頭上で反転させて踵を落とす。
思わず目を覆いたくなる鈍い音と男のうめき声が響く。
勝負あったと思った直後、彼女は力尽きたかのようにへたり込んだ。
「霊力切れだわ。危ない危ない……」
そう口にしたアルトの言葉で状況を把握した。
遅ればせながらその場に辿り着き、カッターを遠くに蹴り飛ばした。
俺は下御門さんに手を貸して、傷ついた依頼者の前でしゃがみ込む。
刃傷は腕と手のひらに二箇所。身を守ろうとして受けた傷だった。
ハンカチを出して彼女の細い腕を止血し、下御門さんが手渡してくれたもう一つのハンカチで、手のひらの傷をギュッと縛った。
俺はもう一度地図を確認して、消防に連絡し始める。
「刃物を持った通り魔に通行人が一人切られました。場所は梅枝町三丁目の路地です。警察にも一報お願いします。えっ、名前ですか――」
受話口を手で押さえて下御門さんの顔を覗き込む。
彼女は苦笑しながら人差し指を口元に当てる。やっぱ警察沙汰は勘弁願いたいよな。
「えっと、善意の通報者ってことで。それは困ると言われも……」
食い下がる消防管制室のオペレータには申し訳ないが、断腸の思いで電話を切る。
下御門さんの蹴りを受け、気を失った男の元に歩み寄り、彼のジャケットから携帯電話を取り出す。
そしてその携帯を少女に手渡して、溜まりに溜まった思いを口にした。
「どう生きようと自由だと思うけど、あまり感心しない生き方だと思うよ」
「――っ!」
彼女は携帯を奪い取り、胸の中に抱いて言葉を失う。
彼女は瞬時に俺達が誰か察したのだろう。
サイレンの音が鳴り響き、救急車が路地に入ってくるのが見えた。
俺は下御門さんの手を引き、細い路地に姿を消した。
栞さんのマンションのキッチンでは、料理に命を掛けた二人の女が熱戦を繰り広げていた。
シメジとむきえびを軽く湯引きし、包丁で粗めにみじん切りしてあら熱を取る。
フライパンは弱火。その上にバターを溶かして塩コショウをまぶす。そこにあらかじめ牛乳に強力粉を混ぜておいたものを投入する。
火を強めにして手早くかき混ぜ、適宜コンロから外して火加減を調節し、手際よくベシャメルソースを作る。
火を止めシメジとむきえびを投入し、色つけで刻みパセリをふりかける。
表面が乾かないようにバターを塗り、冷蔵庫であら熱を取って具の完成。
手頃に冷えた具を小麦粉・溶き卵・パン粉の順に付けて高めの温度の油で色よく揚げる。
「なるほどね。バターで強力粉を炒めて、後から牛乳を入れるのがスタンダードだけど、牛乳で強力粉を溶くのがポイントね」
「はい。ダマにならないように牛乳に強力粉を入れるのがポイントです」
「むきエビを具に使って、ナンテュアソース風になっているのもポイントかしら?」
「トマトピューレを入れたり、マスタードを入れても美味しいんですよ」
エプロン姿の女子高生がキッチンに立つ姿。オッサン臭い意見だが、これはなかなか良いものだ。
油切りの上に乗せられたクリームコロッケを一つ摘んで味見する。
市販の冷凍物では出せない味だ。シメジが香りを、むきエビが旨みを出し、上手くクリームに絡み合っている。
この手の揚げ物は後味が難点だけど、パセリがいいアクセントになってサッパリ感を出している。
「美味いな……コレ」
思わず口をついて出た率直な意見に、二人のシェフは満足げに微笑んだ。
彼女らはそれを皿に盛り付けて食卓を彩る。
蒸し鶏をそえた中華風サラダとクリームコロッケ。トマトスープとご飯。
それらを机に並べて三人で手を合わせる。
「大活躍だったみたいじゃない?」
「いえいえ、そんな……」
「どこかの誰かさんみたいに筋肉痛で動けなくなることもないし」
「うるせー。普段から部活で体を動かしているからだろ? 帰宅部の俺と比べるな」
下御門さんにはアクセラレート特有のリバウンドが無かった。
それは俺がいかに不健康な生き方をしてきたのかの証であり、栞さんに弄られるのは半ば覚悟していたことだった。
「詳しく説明してなかったけど、報酬は頭割りだからね。事務所の手数料を引いても一五万、ツケの十万を差っ引いて五万円の稼ぎになったわけね」
「えっ……、そんなに?」
「それに見合う活躍をしたし、胸を張って受け取るべきよ」
これで彼女は依頼のツケも払えたわけだし、この仕事を手伝うこともなくなった。
少し寂しい気持ちになるが、彼女には彼女の生き方がある。
「秋篠くん、どうですか。下御門家に伝わる手抜き料理の味は?」
「いや、凄い美味いんだけど。手抜き料理って言わない方がいいぞ?」
彼女はリビングを見渡して微笑む。
「ん、食卓がパソコンの机ってどうかなぁ。もっと家具とかキチンと揃えませんか?」
彼女はクリームコロッケを口に放り込み、幸せそうな顔で咀嚼した。
「だって三人には小さすぎますよ。これから不便になるでしょ?」
栞さんはクスクスと笑い、釣られて下御門さんも微笑む。
これからも一緒にいるという、下御門さんからの意思表示だ。
「じゃあ、下御門さんに仕事を言い渡すわね」
「はっ、はい!」
「明日の放課後、秋篠くんを連れて家具を選んで来なさい。どういう風にするか、あなたに一任するから」
「えっ、本当ですか?」
「あなたの机も忘れないでね。これから一緒にバイトするんでしょ?」
下御門さんはうっすらと目に涙を溜め、口元を戦慄かせて涙を堪えている。
栞さんはフッと鼻で笑い、チラリと俺に憐憫の眼差しを向ける。
「秋篠くんより役に立ちそうだし、私は大歓迎よ」
「なんだその目は! お前、もう用済みだよみたいな!」
「だって、料理は出来るし」
「うぐっ」
「女の私から見てもかわいいし」
「うぐっ」
「体が痛いよ、助けて、栞さんっ! なーんて、のび太みたいなこと言わないし」
「誰がのび太だ。このドラえもんめ!」
「女の一人暮らしだから、下着を物色されないかと心配だったし……」
「そんなことするか!」
「男の子がいたらトイレの掃除とか気を使うじゃない?」
「それは常に気を使うべきだろ!」
夕食の間中、こんなやり取りを続けられた。
どうやら俺の存在価値が揺らいでいるのは間違いないようである。