クアデルノ Quaderno 01
七月も間近に迫まったある日の昼休み。
頭越しに飛び交うやり取りに愛想笑いを浮かべながら、栞さんの作ってくれた弁当を食べている。
目の前のベンチに女子が二人座り、クスクスと笑いながら声を潜める。
「ねぇ……あれ」
「うんうん、なんかさぁ、修羅場?」
「なんかさぁ、居心地悪いよね? どっか別の場所探そっか?」
彼女らはそう口にし、スカートを翻しながら小走りに駆けていく。
離れゆく安産型の骨盤を目で追いながら、やはり他人の目からはぞう見えるのかと溜息を吐いた。
まあ逃げ出すのも無理はない。
なにせ向かいのベンチでは、両端に栞さんと下御門さんが座り、俺をそっちのけで舌戦を繰り広げている状態だからだ。
なぜこのような事態を招いたのか。
それは昼休み前にさかのぼり、下御門千帆のとった行動から説明せねばなるまい。
四限目の終業の合図が鳴り、受け持ちの教師はさっさと教室を後にした。
閉じられた扉は生徒と教諭の結界。活気に満ちた昼休みになった。
そんな中、自席に近づく生徒が一人。例の一件から話をする機会が増えた下御門千帆である。
「秋篠くん。お弁当、一緒に食べませんか?」
一人分には多すぎるであろう重箱を持ち、下御門さんは俯きながら声を絞り出した。
途端、ざわついていた教室が水を打ったように静かになる。
雑談していた者達は口を閉ざして聞き耳を立て、机に突っ伏していた者はゾンビのように起き上がる。
そして彼女の友達連中は黄色い声を上げて応援し、男子生徒は涙目で喉笛を掻き切る素振りを見せた。
「え、あ……、ここで?」
「ううん、屋上で。春日野さんが待ってるんでしょ? 邪魔しないように気をつけるから……、ね?」
うるる……。健気に振る舞う彼女を見て、クラス全員が涙する。
もしここで断れば完全に悪役だ。それほどの同情票が下御門さんに集まっていた。
俺はおもむろに立ち上がり、彼女を連れて教室を飛び出した。
いわゆる戦術的撤退、または後方に前進せよという作戦だ。決して逃げたわけではない。
「下御門さん……なんてことを……」
「うん、大騒ぎになっちゃったね」
屋上の緑化庭園に辿り着き、いつものベンチへと腰掛ける。
チャイムが鳴ってキッカリ五分後、いつもと同じタイミングで栞さんが登場する。BGMはワーグナーのワルキューレの騎行だ。
彼女は俺に弁当入りの巾着袋を手渡し、横に座って膝の上に弁当箱をそっと置く。
さすがは冷静沈着な春日野栞。何事もなかったかのように振る舞い、弁当の包みを解いて黙々と食べ始めている。
そんな彼女に下御門さんが慌てて身を乗り出す。
「あ、あの……春日野さん。私は――」
「下御門千帆、通称チホ、またはミカりん。血液型はO型で十二月二十四日生まれの山羊座。ちなみに今日の運勢は十二星座中三位」
出会った時と同じようにプロフィールを羅列し、チラリと一瞥してタコさんウインナーを口に放り込む。
相変わらず拒絶なのか受容なのか、いまいち分かりにくいリアクションだ。
ちなみに栞さんからすると友好的な態度らしい。
「下御門さんって一年では割と知られている人だから、それくらいの知識があったとしても不思議では無いでしょ?」
栞さんの不思議なリアクションにどう対処してよいかわからず、戸惑いながら言葉を失う下御門さん。
だが彼女もやられたままでは終わらなかった。
「春日野栞、あだ名は特に無く、血液型はA型で四月二日生まれの牡羊座。今日の運勢は……えっと……」
「もちろん十二星座中一位に決まってるじゃない」
ヤギとヒツジが睨みあう。
火花が飛んでいるかはともかく、とても珍しい取り合わせなのは確かだ。
「今日ここにお邪魔したのは、秋篠くんとお昼をと思ったのもあるけれど、春日野さんとお話する機会が欲しかったからなんです」
「私と? あなたも変わった人ね」
「単刀直入にお伺いしますけど、秋篠くんと付き合ってるんですか?」
いきなりクライマックス、舌戦開始と同時に主砲クラスの砲撃を放つ。
俺としては聞きたいけれど、答えによっては聞きたくない内容だ。もし拒絶されたらどうしてくれる。そこから飛ぶぞ。
俺は半ば現実逃避し、弁当を開けて食べ始めた。
今日は小さなオムレツと一口カツ、青椒肉絲にポテトサラダ。海苔を巻いた俵型のおにぎりが三つ入っていた。
「下御門さん的には、どのラインを越えたら付き合うということになるの? 告白? キス? それともそれ以上の何か?」
「すっ、好きという気持ちの問題です。好きな者同士が一緒にいれば、それで十分付き合っていると思います!」
「あら、割と単純なのね」
そんなやり取りを聞きながら、一口カツを囓っておにぎりを頬張る。
相変わらず栞さんの弁当は美味い。豚肉と衣、白米と塩の完全調和、パーフェクトコラボレーションだ。
「ねえ、秋篠くん。あなた下御門さんのこと嫌ってる?」
「へっ、別に嫌ってないよ?」
「では、好きか嫌いかで言うと?」
「ん……、下御門さんは礼儀正しい子だし、人当たりもいい。好きか嫌いかでいうと好きかな?」
下御門さんは真っ赤な顔で弁当箱を目の前に差し出す。
色とりどりのオカズとお赤飯が敷き詰められた弁当、その中から厚焼き卵を摘み上げる。
ふわふわに仕上がった厚焼き卵、塩ではなく昆布のお出汁を味付けに使っている。
卵焼きというのは手際が肝心、もたもたしていると火が通りすぎて硬くなってしまう。
だがこれは手際よく焼き上げたようで、味も食感も文句なしの出来上がりだ。
「下御門さんは秋篠くんのこと、……好き?」
「はい!」
「なら二人は好き同士ってことにならない? 付き合っているのと変わりないと思うのだけれど……」
「えっ、そ、そうだったんですか?」
下御門さんは嬉しそうな顔をして、弁当箱を栞さんに差し出す。
栞さんは差し出された弁当箱からクリームコロッケを摘み上げ、代わりに一口カツを弁当箱にそっと乗せた。
いや下御門さんよ、論理のすり替えだと思うんだが、冷静に考えてみようよ。
一瞬納得しかけた下御門さんだが、ふと我に返って栞さんを睨み付ける。
「私は春日野さんの気持ちを聞いているんです! 言葉尻を掴まえて、のらりくらりと逃げないで下さい!」
栞さんは知らぬ顔でクリームコロッケを口にし、目を見開いて口元を押さえた。
表情から察するに、クリームコロッケの味がかなりお気に召したようだ。
「私と秋篠くんの間柄は、好き嫌いなんて言葉で語りたくないわね」
「――では、どういう?」
「信頼……。同じザイルに命を預け、一緒に山登りをする。彼が落ちれば私も死ぬ、もちろんその逆も十分ありうるわ。それでも彼が彼であり続ける限り、私はザイルを離すことはないし、彼もザイルを離さないと信じている」
くう~っ。
不覚にも涙が出そうになった。
なんて嬉しい言葉だろうか、グッと胸に熱いものが込み上げてくる。
もちろん男ならば好きと言われたい、だけど彼女はそれを超越した言葉をくれたのだ。
「……やっぱりそうだわ」
下御門さんはフォークで一口カツを突き刺し、大きな口で頬張った。
「春日野さんっふぇ……」
「下御門! 口に物を入れてしゃべるな!」
彼女はフォークの先を栞さんに向け、ちょっと待てと言わんばかりに挑発のポーズを取り、もしゃもしゃと咀嚼を始める。
そして二十秒後、再び先ほどのシーンをリテイクした。
「春日野さんって、私を助けてくれたシンクレアさんじゃないの?」
二十秒待たされただけあって、とてもデンジャラスな一言を吐いた。
栞さんの眉がピクリと上がる。だが慌てること無く、ポットを捻りお茶を注いで口にする。
表情に出せば下御門さんに覚られる。ここは静観しながら栞さんのアドリブに任せよう。
「なにを根拠にそんな訳の分からないことを言うのかしら?」
「だってチャットのアバターが春日野さんにそっくりだったんだもん」
うむ、その意見には激しく同意する。
まさに栞さんをそのままデフォルメしたようなアバターだったし、俺もあの時はさすがにヤバイと思ったからな。
「――それだけ?」
「いいえ、話し口調や秋篠くんと親しくなったタイミングとか。だって秋篠くんそれまで全然女っ気なかったし、あの事件を境に二人が仲良くなるなんて……変よ」
栞さんは顔色一つ変えずに弁当を食べ、そして不意に箸を置いて下御門さんを一瞥した。
「あれは数カ月前、入学式の朝、私はパンを齧りながら家を飛び出し、曲がり角で秋篠くんとぶつかって――」
「それは流石にベタすぎるだろ!」
栞さんは欲しいところにツッコミを貰い、ニヤリと満更でもない表情をする。
「夕暮れの図書館、棚の上にある本に手が届かなくて難渋していたら、この本でいいのかいと優しく声を掛けられたわ。それが――」
「俺は栞さんとそんなに背丈変わんねーから無理だって!」
「ならば――」
「ならばってなんだよ! まだやんのか!?」
下御門さんはそんなやり取りをジト目で睨み、咳払い一つで俺達を黙らせてしまった。
くそう、下御門にはこの手のごまかしは効かないか……。
「それに秋篠くんの部屋、女っ気ゼロだもん」
名探偵ミカりん。なかなか痛いところを突くじゃないか。
「ハッハッハ……、バレたら仕方ない」
「認めんのかよっ! しかも棒読みだし」
ある程度予想していたであろう下御門さんも、その一言に息を飲み込んだ。
弁当を俺に手渡して、栞さんの前に立ち深くお辞儀をした。
「その節はありがとうございました。おかげで真っ当な生活を送れています。感謝の言葉もありません」
深く頭を下げたままの彼女を見て、栞さんは目を細めて優しげな表情をする。
「事情があってお代金をお支払いするのが遅れています。けど、必ずお支払いしますから、少し待ってください」
栞さんは肩を叩いて頭を上げろと促し、ようやく頭を上げた下御門さんをジッと見つめる。
「十万円、返す宛はあるのかしら?」
「うっ……」
「噂ではドーナツ屋のバイトをクビになったらしいじゃない。パニックになって倒れたとか」
「なぜそんなことまで……」
「器量よしとはいえ、メンヘラな女子高生を雇ってくれるところなんてないわよ?」
「……ごめんなさい」
「別にあなたが謝ることじゃないわ、悪いのは性欲全開の馬鹿教師達なんだから」
栞さんはクリームコロッケを指で摘み、口に運んで再び恍惚とした表情をする。
「私達の仕事を手伝ってみない? メンヘラ女子高生でも問題ないし、ボーッとして見えるけど、結構洞察力ありそうだし」
「えっ、は……はい?」
「とりあえずは……そうね。このクリームコロッケの作り方を教えてよ」
栞さんの提案に目を丸くしたのは、下御門さんよりむしろ俺のほうだったと思う。
「見習いだから時給二百五十円ね」
「安っ!」
こういうボケを忘れないところが栞さんらしい。