インターミッション シンクレア
誰もいない病院の待合室。
手持ち無沙汰に耐えきれず、肩でうたた寝していたアルトを起こした。
「涎垂れてるぞ。……ったく、ますますシンクレアに似てきたな」
「私が? お姉様に?」
にへらと締まり無い顔で笑うアルト。
彼女のシンクレア信仰は、もはや病気の域に達していると言えよう。
「ちなみにシンクレアのどこが尊敬に値するんだ? 小魚だし、適当だし、知性の欠片もないだろ?」
「広哉はまだお姉様の良さに気付いていないだけです」
「ふーん、そうかね?」
「なんならお話しして聞かせましょうか? 少し長くなりますけど――」
アルトはそう断りを入れて、熱を帯びた口調で話し始めた。
あれは二年前。正確に何月何日かなんて端折ります。
私は栞さまのパソコンで目を覚まし、まだ言語中枢アルゴリズムがなんの学習もしていなかった頃。
シンクレアお姉様は私より先に目覚め、栞さまの指先に契約の糸を巻き付けていました。
だけど目覚めたばかりの私達には何の力もありません。
沙織さまを目覚めさせる手がかりを探していた彼女に、何の力を貸すことも出来ませんでした。
「あーっ、イライラする。これじゃあパソコンでハッキングした方が早いわよ」
「……ごめんね」
栞さまは手順書通りに能力が開花しないことに苛立ちを感じ、シンクレアお姉様も自分の無力さに口数が少なくなってしまう。
――悪循環。
そんな日々が何日も続きました。
そもそもシンクレアZX81はホームコンピュータ。
ネットワークの概念など知らないし、お世辞にも高性能だとは言えない廉価機です。
私は子供心に『私の方が栞さまに向いているんじゃないだろうか』と思っていました。
「気分を変えて夏コミ出品用の六ページ物でも書こうかしら」
「絵……描くの?」
「仕方ないじゃない。お金を稼がなきゃ飢えて死んでしまうもの」
「死ぬ……ダメ。シンクレア、手伝う」
「何? あなた手伝えるの?」
シンクレアお姉様はグラフィックボードすら無い廉価機です。
けれどそんなお姉様だからこそ、絵には誰よりも興味があったのです。
「手伝う……、手伝わせて……」
「そ、そう? じゃ三コマ目のベタを塗って頂戴」
「ベタ?」
「黒く塗りつぶすことよ。瞳の部分のハイライトを残して、周囲をベタ。髪の毛は天使の輪を残してトーンを貼って」
シンクレアお姉様は指差しして三つ数え、コマの中にペンを走らせます。
繰り返しますが、シンクレアお姉様はグラフィックボードすら無い廉価機です。結果は見えていました。
「あっ、ちょっと! 上にレイヤーを張って書きなさいって、コマを全部塗り潰してどうするのよ!」
「はへ?」
「もういいわ。気分が滅入りそうよ」
栞さまはそういってフォトレタッチソフトを強制終了して、自分の部屋に籠もってしまいました。
それを見送るシンクレアお姉様の痛々しい姿。思い出しただけで胸が張り裂けそうになります。
「――栞さんって、昔からツンなんだ」
「それはもう、ツンツンのツンでした。触れれば怪我をする有刺鉄線のような感じでした」
「シンクレアは今より出来が悪かったのか? 救いようがないな……」
「それはもう、私の目から見ても恥ずかしくなるくらいのダメっぷりで……」
「……それ、言っていいのか?」
「……内緒にしておいてください」
けれどそこからがお姉様の凄いところなのです。
栞さまが寝静まってから、パソコンのフォトレタッチソフトを起動させ、ペンタブレットを手に絵を描くことを学び始めたのです。
新規作成、アンドゥ、拡大縮小、レイヤー、乗算……。
ある時はネット絵師のサイトに出向き、ある時はフォトレタッチソフトの操作ガイドを読み漁る。
そして苦心の末、一枚の絵を描き上げました。
それは写真立ての中でしか見たことのない、栞さまの笑顔。
正直贔屓目にも上手だとは言えない絵でしたが、凄く栞さまを想っている気持ちが出ていたと思います。
朝起きてパソコンの前に立った栞さまは、その絵を見てはにかんだように微笑みました。
そしてペンタブレットの上で眠るシンクレアお姉様を愛おしく見つめ、指で優しく撫でたのを覚えています。
それ以来、あのデコボココンビ……もとい、名コンビが生まれたという訳です。
出来ないことがあれば努力で乗り切り、ネットワークの理も根性でねじ伏せました。
私はそんな努力を影から見ているうちに、お姉様のことが好きで好きで仕方なくなったのです。
「正直お馬鹿でのほほんとしているけれど、シンクレアお姉様は尊敬に値する方だと思うのですよ」
「そっか……、人間……もとい、精霊もがんばれば、何でも叶うってことだな」
「ちなみに今では、ベタやトーン貼り、栞さまの補助は何でも出来るようになりました」
「どうでも良くないか? その機能……」
「それを言ってはお終いです」