弟子入り志願
「あなたは、沙織さんの恋人……ですか?」
間近で彼の端正な顔立ちを見て、思わず口をついて出た言葉だった。
そんな美丈夫が沙織さんのような女性を見舞う、そんな様子を見れば誰でも月並みな発想が思い浮かぶ。
だが彼は苦笑しながら首を振り、左手の指輪を親指で軽く弾いて見せる。
薬指にはめられた飾り気のないプラチナリング。
恋人が相手に贈るステディリングではなく、永遠の愛を誓い合ったマリッジリングのように見える。
俺より四つ五つ年上に見えるが、かといって社会人って感じはしない。雰囲気から察するに大学生といった所だろう。
かといって早まったと思わせない雰囲気。これも人徳って奴だろうか。
「すみませんでした、結婚なされてるとは……」
彼は曖昧な笑みを浮かべ、指で頬を掻く。
だが女房の如く寄り添っていた淑女の霊がフルフルと首を振り、少女の霊が肩の上から呆れ顔を覗かせる。
どうやら二人とも何か言いたげな様子のようだ。
「なんか……彼女らが違うって言っているような……」
「なっ、そんなことはない。女避けのためだとか、そんな情けない状況ではないぞ?」
ぐはっ……、他人事ながら恥ずかしい。語るに落ちたとはこのことだ。
こんな風体をしていれば、言い寄る女の人はひっきりなしに現れるだろう。
特定の恋人がいるにはいるが、彼女はそれを喜ばしく思っていない。
だから指輪を付けさせて、虫が付かないように牽制しているに違いない。
「アレですね……、色々と大変そうで……」
「……まあね」
病室内に妙な空気が流れる。
彼はポケットから手を引き抜き、目の前に差し出す。
俺はズボンで手のひらを擦り、その手を取って軽く挨拶を交わす。
「秋篠と言います。あなたは?」
「……俺の名は――」
彼が名を口にしようとした時、淑女の霊が耳をそばだてて何かを話す。
その刹那、病室の扉が勢い良く開かれ、顔を真っ赤にした春日野さんが入ってきた。
「秋篠くん! 待っていなさいって言ったでしょ! 女の人の病室で男が一人、一体何をやってるの!?」
「あっ、いや……、その……、彼が――」
振り返って彼を紹介しようとしたが、差し伸べた手の先には誰もいない。
「あ……、あれ?」
たった今ここで挨拶を交わしていたばかりなのに、今は微塵も気配を感じられない。
窓辺のカーテンは閉じられたまま、舞う埃はその場を漂っている。
「……秋篠くん!」
「ひぃ! 般若みたいな顔しない! 怖いから……、本当に怖いからやめてっ!」
彼女は無言のままベッドのそばに歩み寄り、沙織さんの布団を捲り上げて身なりを確認する。
マジで疑われてる。病人の寝込みを襲うなんて、そんなことしませんてば……。
「なんか姉さんの肌つやがさっきと違うんだけど?」
「いや……、漫画の世界じゃないんだし、男にはそんな機能ありませんから」
結局軽くボコられ、別れ際までジト目で睨まれるハメに陥った。
夕食を終えて母屋に戻り、ベッドに体を横たえる。
アルトは勝手知ったるなんとやら、パソコンの電源を入れて、インターネットブラウザーを開く。
チラリと横目で見ると、陸上選手のサイトを巡って体力強化メニューを練っている。
まずは走り込みによる心肺機能の強化。運動の基本となる根幹を鍛えようとしているようだ。
俺は天井に腕を伸ばし、ガードレールに座る霊、城戸健次郎爺さんの動きを頭に思い描いた。
追えば逃げ、引けば戻る。まるで磁石のN極とS極のように反発しあう感じがした。
スピードではうさぎと亀。たった一週間で彼の動きを追えるようになるだろうか。
目を閉じてアクセラレートされた状況を思い描き、それを上回る速さで動く彼をシミュレートする。
だが触れることはおろか、掠ることすら想像出来ない。
不意に鼻先をくすぐられるような感覚を感じ、想像の世界から引き戻される。
「アルト……、いたずらはやめ――」
目を開いた先にはアルトの羽ではなく、昼間見た淑女と少女の霊が見下ろしていた。
実体のない霊体、天井の照明が透けて見える。
「若い頃のあやつに似ておると思わんか? トウカ?」
「カナタもそう思うか? ちょっと頼りないところが母性をくすぐるのう……」
トウカと呼ばれた淑女は薄絹で口元を押さえ、カナタと呼ばれた和装の少女は口元を緩める。
慌てて身を起こそうとしたが、横たえた体はピクリとも動かない。これが金縛りという奴だろうか。
それでもかろうじて唇は動く。全身の力を振り絞って彼女らに問う。
「な……んで……ここ……が?」
「おぬしは自分で秋篠と名乗ったじゃろう? あ奴はぼんやりしておるように見えるが、割と目端の利く奴でのう……」
「制服、校章、年格好。見鬼の才があり霊気も人並み外れて強い。それだけヒントがあれば十分じゃ」
カナタという少女が得意げに話し、トウカという淑女は窘めるように口を開いた。
塀の向こうから野太いバイクの排気音が耳に届き、直感的に彼がそこにいると理解した。
「突然のことで、やむなく姿を隠してしまった。直接会えないが、詫びて欲しいとな。それを告げに立ち寄ったのじゃよ」
――姿を隠した? アレはそういう特殊な能力なのだろうか。
意図したパズルのピースを見つけたように、ふと頭の中で何かが結びつく。
彼に霊気の使い方を教えてもらえば、城戸健次郎爺さんに対抗する手段になりえるのではないか。
漠然とした直感が頭をよぎった。
「彼は……この近くに住んでいる……のか?」
「いや、あ奴は遠いところに住んでおる。今回は別の用件で立ち寄ったのじゃ」
「……そうか。もう一度話をしたかったんだけど……、それは叶わないのかな?」
二人の霊体は見つめ合い、少し困ったような表情を見せた。
そして一言二言耳打ちをして、相手のヒソヒソ話に耳を傾ける。長いようで短い一時。
「ちと待っておれ」
不意に彼女らが姿を消し、体に掛かっていたプレッシャーが消えた。
俺は額に浮かべた汗を拭い、ベッドから飛び降りて窓を開けた。
『明日の朝、五時に高架下の児童公園で――』
一陣の風に運ばれ、二人の囁きが耳に届く。
同時に塀の向こうでバイクの走り去る音が鳴り響いた。
「朝、朝だよ~、朝ご飯食べて学校行くよ。朝、朝だよ――」
愛用のケロちゃん時計が起床の時間を知らせる。
午前四時過ぎ。彼との約束の時間に寝過ごさないよう、この時間に目覚ましをセットしていた。
布団から跳ね起きてジャージ姿に着替え、まだ寝ぼけ眼でいるアルトをひっ掴んで離れを出る。
高架下の児童公園といえば、思い当たる場所は一箇所しかない。ゆっくり歩いて十分程、走れば数分で辿り着ける距離だ。
俺は軽く足腰をほぐし、靴紐を硬く締め直して走り出した。
正直ここ数日の運動で、特別鍛えられたと感じていない。だが運動をし始めた時に、体は『またか』と感じ始めている。
ここいらを走る電鉄は高架式線路を採用している。
おかげで踏み切り事故は皆無、電車が遅れるようなことはない。
彼が指定した児童公園は二つの駅の中間地点にあり、市が買い占めて公園にしている場所だ。
駅から高架沿いを走り、駐車場や駐輪場を越えると、突然風景が一変して公園になるといった、とても奇妙な場所だ。
その公園の金網に寄り添うように停められたバイク。好戦的な深紅のフォルム、ドゥカティ1098R。
アルトが検索したデータによると排気量1198ccで180馬力、乾燥重量は165kg、パワーウェイトレシオは0.92を切る性能を持つ。
そっと金網から公園を覗き込むと、彼は砂場に立って体を動かしていた。
脚を広げて立ち、ドンと砂を踏みしめる。
手を大きく右に左へと動かし、臍の前で勢い良く重なり合わせる。
アルトは金網に張り付いて動きを見つめ、振り返って検索結果を伝える。
「モーショントレースしてみたけど、太極拳の忽雷架という套路に酷似しているよ」
「太極拳……」
俗にいう健康体操の太極拳ではない。より実戦的に練られたものだと、素人の俺が見ても分かる。
緩急のある鋭い動きに合わせ、玉の汗が飛び散る。彼の動きを見ただけで、努力を重ねた年輪が窺える。
それに比べ俺はなんだ。手っ取り早く強くなりたいと思っていなかっただろうか。
教えを請うことばかりに必死になり、本来の目的とかけ離れたことに注力している。
自分が酷く狡くて矮小な人間に思えてきた。
「……ヘコんだ」
膝をついて地に伏せ、自分の情けなさに涙する。
「秋篠くん、早いじゃないか!」
彼は太極拳の套路を中断し、手を振って首に掛けたタオルで顔を拭う。
ヘコんでばかりはいられない。彼との出会いは得難いものであり、同時に千載一遇のチャンスなのだ。
俺は彼の前に歩み寄り、地に膝を付けて土下座をする。
「不躾な頼みごとかも知れませんが、頼れる方が他にいません。俺を強くして下さい!」
自分で口にしながら支離滅裂な台詞、語彙の少なさに涙が出る。
だが思っている気持ちをそのままぶつけてみるしか、手立てが思い浮かばなかったのだ。
「強く……ねぇ。良かったら訳を話してくれないか?」
彼は訝しげに口を開いたが、強い拒絶はしなかった。
「実は――」
妹の事件、動画の男、サイバーフェアリー。そして俺の決意……。
ついには春日野さんに抱くほのかな想いすら聞き出してしまう。聞き上手とはこういう人のことをいうのだろう。
「大筋は理解した。キミの気持ちはよく分かるよ」
「じゃあ、強くなる秘訣を――」
「それとこれとは話は別。師匠に気安く技を伝えるなと言われているからね。残念だけど……」
「そこをなんとか!」
藁にもすがる思いで彼の足にしがみつく。
彼は困ったような表情で頬を掻き、仕方ないと言いたげに手を差し伸べた。
「流派の心得みたいなものは伝授出来ないけど、一般的な常識なら教えてあげられるかもしれない」
その時彼が天から舞い降りた大天使のように見えた。
だが彼の言う一般的な常識というのは、一般人にとって非常識だと言うことに、まだ気付いていなかった。