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ALTO+  作者: Mercurius
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シンクレア Sinclair ZX81

 下駄箱に女の子からの置手紙があり、呼び出しに応じると告白された。今時そんなテンプレは廃れたと思っていた。

 なにせ今は電子メールで事足りる時代である。文字の温かみは無いが、ボタンひとつで地球の裏側まで一瞬で送り届けられる。

 平安時代は相手を懸想して恋の歌を送ったらしいが、あの時代にメールがあれば数多くの名歌が世に生まれたであろう。

 とはいえ幾重にもスパムメール対策を施した俺の端末に、見ず知らずの女の子からメールが届く可能性はゼロに等しいのだが――。


 

 眠い目を擦りながら起床、いつもの電車に飛び乗り、欠伸を噛み殺し下駄箱の上履きを手にする。

「おっ?」

 上履きの靴底に小さく結ばれた便箋がひとつ。

 怪しげな物体を見下ろしながらしばし放心、後ろを通り抜けた級友の挨拶でふと我に返った。


 かわいらしい封書でもなければ、クマさんのシールも貼られていない。

 だが本能で察知した。これはラブレターというものではないか――と。

 我が松陽台高校の下駄箱は扉が無い。手紙など置かれていたら他の生徒に気付かれてしまう。

 目立たぬように小さく折り畳んでいたのは、そういったことへの配慮ではないだろうか。

「なんて空気の読める女の子だろう」

 まだ見ぬ女生徒を思い浮かべ、その心遣いに対してワンポイント加点する。

 平静を装いながら靴を履き替え、緩む口元を手で押さえながらトイレの個室へ駆け込み、はやる気持ちを抑えながら手紙を解いた。

 予想通り女の子らしい細く丁寧な文字が羅列されている。どうやら悪戯の類ではないらしい。

「ここでハズレなんて書かれていたら、ショックで立ち直れなくなっていたところだ」

 最悪の予想は覆され、狂喜乱舞しそうなるのを必死で抑える。

「なになに、お話したいことがあります。放課後、屋上でお待ちしています。春日野 栞」

 一語の無駄もない簡潔な文章だった。

 春日野さんといえば二つ隣のB組の女子。

 成績優秀で端正な顔立ち。ぶっちゃけ学年でも五本の指に入るのではないかという美少女である。

 か細く華奢で大人しい雰囲気、ふとすると折れてしまいそうな儚さが男の保護本能をくすぐると評判である。

 その短い文章を三度読み返し、宝物を扱うように丁寧に折り畳んだ。

 春日野さんと俺は違う中学出身だし、高校に入って数ヶ月、クラスが違うので話をしたこともない。

 だが俺は彼女に対し強烈な印象を持っていた。

 そう――。

「青色。深い海の底みたいな黒に限りなく近い紺」

 胡散臭い話だが、俺は幼い頃から人が纏うオーラのようなものが見える。

 

 人によって濃淡はあるけど青、緑、赤、黄、灰色をした霞のようなものが肉体をびっしり覆っている

 彼女はその色が他の人より濃いのである。

 冷静沈着な青、大らかな緑、血気盛んな赤、おっとりと従順な黄色、怒らせると怖い灰色なんて分類付けている。

 これが中々的を射ていて、今のところ百発百中の的中率である。

「春日野さんは青、冷静沈着で自分を崩さない。これまたピッタリじゃないか」

 だが親しい存在となると青は注意が必要だ。

 仲が良くなると相手を自分のレールに乗せようとする。いわゆる束縛するタイプに変貌することが多い。

 だが生まれた時から彼女いない暦を更新中、縛られる苦痛なんて感じたことなどない。むしろちょっとくらい縛られてみたい気持ちもある。

 なにより自分を選んでくれたのが嬉しいし、ヤキモチを焼きたいなら焼いてみろってくらい、異性との関係に飢えている。

 告白されたら勿体ぶらず即答でオッケーを出そう。そう決心を固めて教室に向かった。

 

 

 幸せな気分のまま放課後を迎え、ゆっくり帰宅準備をして鞄を肩に下げる。

 今日は一日中春日野さんのことを考え、授業の内容など全く頭に入らなかった。

 だが勝ち組ってのは心の余裕が半端無い。貸したゲームソフトを又貸しされてもえびす顔でいられる。

 今なら理不尽な暴力を振るわれても許してしまいそうな聖人っぷりを発揮していた。

「さて、頃合かな」

 悠然と教室を後にし、春日野さんの待つ屋上を目指す。

 我が校の校舎屋上は緑化庭園で、昼休みには生徒が集う憩いの場所になっている。

 だが放課後は利用者も少なく、落陽の庭園はそこはかとなく雰囲気が良い。

 自分には縁の無いものと諦めかけていたが、告白なんかには持って来いの場所だったりする。

 その場所を選択するセンスの良さに感服しつつ、階段を駆け上がって屋上の扉を開いた。

「……いた」

 小さな枇杷の木、その下に佇む女生徒の姿が目に入る。

 細い脚に白の靴下、膝上のスカートにブレザー姿、襟足で切り揃えられた黒髪が白いうなじをさらに際立たせている。

 こうして見ると男子に人気があるのが頷ける。まさに計算されたような清楚の黄金率。パーフェクトだ。

「あっ……」

 扉が風に煽られ勢い良く閉じ、それに気付いた彼女が振り返る。

 彼女の目は扉から俺へ焦点を定め、陽の光を受けて猫のように目を細めた。

「秋篠……、秋篠広哉」

「はっ、はい!」

 思いもよらぬ口調で呼び捨てにされて反射的に背筋が伸びる。

「いや、この場合は敬称を付けで呼ぶべき? そう……、そうよね」

 春日野さんは腕を組んだまま、指を顎に添えて考え込む。

「秋篠広哉……………………くん?」

「無茶苦茶間が空いてるし、しかもなんで疑問符を付ける!」

 再び春日野さんは考え込む。今度は後ろを向いて、なにやらボソボソと独り言を口走り始めた。

「二の足を踏んでいる場合じゃないって分かってるわ、でもね、こういう改まった雰囲気って苦手なのよ」

 まるで誰かに話すかのように独り言を口にする。電波系と思われても仕方ないほどのキモさ加減である。

「えっと春日野さん……、もう帰ってもいいかな?」

「ええい、まどろっこしい。やりたいようにやるから!」

 俺の言葉など完全にスルー。彼女は力強く握り拳を固めて、更なる電波を撒き散らした。

「秋篠くん、あなたのことが好きで好きで仕方ない――」

 待ちに待った告白タイムだが、俺は彼女の放つ電波にドン引きしていた。いや、腰から下はもう逃げ出し始めている。

 だが次に彼女が口にした台詞を聞いて、置かれている状況を完全に見失ってしまう。

「――好きで仕方ないって子がいるのよ。手を貸して欲しいの」

「は?」

「嫌だといってもダメよ。男なら責任を取りなさい!」

 




「どうしてこんな冴えない子が……。理解不能だわ」

「何気に酷いことを言われたような気がするぞ。呼び出しておいて失礼極まりない」

 春日野さんはあの後、吸って二度行って落ち着きを取り戻した。

 電波をビンビンに感じることは無くなったが、代わりに言いたい放題毒舌を吐きまくる始末だ。

 どうやら普段は我らが目にしているのは作られた春日野栞であり、高飛車な毒舌を吐きまくる姿が本性らしい。それほどまでに今の口調が自然なのである。

「秋篠くん、もしかして私から告白されると思った?」

「……うっ!」

「授業なんかうわの空で、そわそわと時計を何度も見たり?」

「……図星だけに言葉が出ない」

「春日野さんってかわいい。あんな女の子に告白されるなんて夢のようだ、なーんて舞い上がっちゃったとか?」

「鬼だ。鬼がここにいる」

 言葉の暴力に屈し、力尽きてその場に突っ伏した。

 彼女はそんな姿を見下ろし嘲笑を浮かべる。

「ごめんね、誤解を受けないようにノートの切れ端しを使ったんだけど、免疫の無い子って手紙を貰っただけで舞い上がっちゃうものなのね」

 力尽きて突っ伏した純真な男子に対し、春日野さんはありったけの残弾を撃ち込む。

「でも良かったじゃない。あなたのことが好きで好きでたまらないって子もいるんだから」

 心を閉ざそうとした瞬間、目の前に垂らされた一本のロープが見えた。絶妙の飴と鞭。

「まあ、その子は人間じゃないけどね」

 また鞭を打たれる。本当に絶妙な飴と鞭である。

「まさかペット? 犬か猫が俺に恋したってのか? 春日野さんは『どうぶつの天使様』か?」

 俺の襟首を鷲掴みにして無理やり立たせ、小さい子をにするようにズボンの埃を掃ってくれた。

 そして俺の前に立ち、猫のように目を細めてクスクスと笑う。

「秋篠広哉、四月十五日生まれの牡羊座。ちなみに朝の『もーにんぐっじょぶテレビ』の占いでは、今日の運勢は十二星座中ダントツの最下位」

「ぐはっ、そんなところまでチェック済み!」

「こないだの実力テストの成績は四百人中五十番、上の下ってところ。得意科目は理数系……、ここまで合ってる?」

「ちなみに点数には反映しないけど、古典も得意だったりする」

「ふん、そうなの?」

 どうでもいいと言わんばかりの相槌を打ち、再び尋問めいた台詞を口にする。

「外資系企業に勤める父親が母親を連れて海外赴任、今は祖母の家に厄介になっている。これが重要なんだけど、かなりのパソコンオタク」

 まるで見て来たかのように自信満々だ。言い返せないのが口惜しい。

「てか、なんで実力テストの結果を知っている? 親のことだって担任の先生にしか話してないぞ?」

 個人情報に対する学校の対応は厳。安いテレビドラマのように廊下に成績を貼りだしたりはしない。

 両親のことだってそうだ。緊急連絡先の電話番号だって、教える義務はないくらいなのだから。

「調べたの。今時個人情報なんてボタン一つですぐ出てくるもの」

「なっ――」

 絶句した。嘘を吐いていない目をしているのがまた怖い。

 春日野さんは目を細めてニコリと笑う。

 そしてポケットの中から携帯を取りだし、聞き慣れない名を口にする。

「シンクレア、出ておいで」

 彼女の言葉に呼応するかのように着信音が鳴り響き、あろうことか携帯から小さな人魚が跳ねるように飛び出した。

 全長十センチほどの小さな人魚。微かな光を帯び、背後の風景が透けて見える。

 シンクレアという名の人魚は、優雅にヒレを動かして春日野さん

にじゃれつくように空を泳ぎ回った。

「そ、それは3D?」

「ホログラム機能を持った携帯なんて発売されてないわ」

 そういえばそうだ。ホログラムと疑似3D映像は別物だ。するとコレは――。

 そう思い悩んでいた時、その人魚は警戒することなく目の前まで近寄り、くりくりっとした大きな目を寄せた。

「あなたがアルトの言っていた人?」

 少し甲高くて小さな声。人魚は確かに口を動かして言葉を紡いでいる。

「アル……ト?」

「アルトがあなたの助けを待っているの。あなたじゃなきゃ嫌だって」

 人魚はまるで小さな子供が泣くように、大粒の涙を零しながら目を擦る。

 春日野さんは指でシンクレアを呼び、つかつかと歩み寄って手に持った鞄を肩に掛けた。

「どうやらあなたもこっち側の人間みたいだし、人見知りするシンクレアがここまで近づくなんて……。そういった素養があるかしら」

「……素養?」

「そう、人外を見る目と好かれる素養。なかなか貴重らしいわよ」

 悪人真っ青の笑みを浮かべ、彼女は踵を返して屋上を後にする。

 俺はそんな彼女を見送ろうとしたが、けたたましい怒声を浴びせかけられた。

「なにボーっとしているのよ。行くわよ。足を止めるな、ムーブ、ムーブ!」

 春日野さんはイガイガと前歯を強く噛み合わせ、その横でシンクレアはピチッと跳ねた。

「行くって、どこに?」

「私の家に決まってるでしょ。アルトを見捨てるつもりなの? あなた男でしょ?」

 指をクイクイと動かす春日野さんと人魚シンクレア。

 どうやら俺に選択権はないらしい。

 それにアルトという子の話が気になるし、この話の全容が見えるまで従ってみるのも悪くない。

 

 

 

 春日野さんと一緒に下校して、いかに彼女が人目を惹く存在かを再認識させられた。

 見ず知らずの女子が振り返って目を見開き、涙目の男子が睨みながら意味ありげに携帯を手にする。

 この調子だと数日中には全校生徒に知れ渡ってしまうだろう。そう思えるほどの嫉視を感じた。

 春日野さんはそんな様子を知りながら、なんら取り繕うことなく、隣り合うよう歩調を合わせて歩いている。

 見た目と裏腹に肝が据わっているというか、物事に動じないタイプだな、コイツ。

 既に彼女のに対し可憐な美少女だとか、守ってやりたい保護本能は完全に失せている。

 変わりに底の見えない不可思議さに魅力を感じ始めているのは否めない。

「――ねえ、聞いてる?」

 校内では楚々とした態度を装っていたが、周りに人がいなくなるなり本来の高飛車な態度に戻った。

 返答の遅れた俺に対し、ジト目で睨み上げながら、軽く脇腹にボディブローを打ち込む。

 ハードなスキンシップ。ちょっとしたイジメである。

 ああ、王様の耳はロバの耳、誰かにこの真実を伝えたい。春日野栞は猫を被ってます――って。

「ああ、聞いてるよ。変なものが見えるのは他言されたくない。つーか春日野さんも見えるのか?」

「――ええ。『私、霊感があるの』なんて言ってる奴らの大半がそんな能力を持ってないってこと、知ってるわ」

 回りくどい言い方だが肯定したと受け止めていいだろう。

 俺を含め本当にそういう人外の輩が見える人種がいる。

 この町にも交差点の真ん中に立ち尽くす少女の影や、駅前のガードレールに座って登校する女生徒を眺める爺さんの霊が住んでいる。

 それ以外にも通って良い場所と悪い場所があり、無理して通ると体調を崩してしまうし、運気が著しくダウンのも経験済みだ。

 だがシンクレアのようなのは見たことが無い。幽霊なんかとは一線を画した存在だってのは一目見た時から気付いている。

「ちなみにシンクレアって何の精霊なんだ?」

「パソコンオタクの秋篠くんなら知ってるかしら、シンクレアZX81っていう1980年頃のコンピュータよ」

 ZX81。イギリスのシンクレア社が発売した廉価な家庭用のコンピュータだ。

 家庭用コンピュータがマイコンなんて呼ばれていた時代。一キロバイトなんて、今からでは考えられないほどの小さなメモ

リー領域を持ち、BASICやアセンブラでプログラムを書く。

 親父より年上の世代で受け入れられたマシンだ。古すぎて実物は見たことないけど、四方山話で聞きかじったのを覚えている。

「Z80時代のマイコン……」

「器物百年を経て物の怪になるっていうじゃない? そういうものだと思っておけばいいわよ」

 電子の精霊と言いながら、その実付喪神みたいなものなのだろうか。

 大切にされた茶碗や掛け軸に魂が籠もって、コンピュータに魂が宿らないなんてことはない。これも時代って奴だろう。

 日本でもS社のX68とかN社の9801なんかは信者も多かったらしいし、近い将来そういうのを依り代にした精霊が現れるかも知れない。

「しかしファミコンよりショボイ性能のZX81に、こんな精霊がねぇ……」

「むかっ、むかむかむか!」

 機嫌良く春日野さんの周りを泳いでいたシンクレア。俺の失言に憤慨したのか、頬を膨らませてピチッと跳ねた。

「いやいや、こんなかわいい人魚が生まれるなんて、不思議なこともあるもんだな……と」

 頬を膨らませて怒り心頭かと思いきや、褒め言葉を聞かされて態度は急変、照れ隠しなのか猛烈な勢いで泳ぎまくっている。

「さすが小魚。単純で扱いやすい」

「なんか言った?」

「いえ、何も言ってないよ、ちんくれあちゃん」

「ちんくれあ違う! シンクレア! シ・ン・ク・レ・ア!」

「わかったよ……ちんくれあ」

「うわぁぁぁん、ちゃんと名前を呼んでよぅ!」

 小魚一匹と戯れる姿を見て、春日野さんは物言いたげな目付きでため息を吐く。

「秋篠くん……、それ楽しい?」

「おう」

「シンクレアも楽しい?」

「うん、アキシノはたくさん構ってくれるから楽しいよ」

「まったく……。シンクレアと同レベルなんて、常識を疑うわ……」

「そうだそうだ、アキシノの常識を疑ってやるぞう」

 春日野さんの肩に腰掛け、尾びれをピチつかせるシンクレア。自分までもが貶されていることに気がついていない。

 まあこれくらい能天気でないと、春日野さんとやって行くのは無理だろう。真っ当な神経を持っていたら、疲れてしょうがない。

「それはそうと、俺が知らぬ存ぜぬを通し、協力する姿勢を見せなかったらどうするつもりだった? 計算高い春日野さんにしてはちょっと浅はかだと思うんだけど……」

 ちょっとした閑話休題のつもりだったが、春日野さんはピタリと足を止めて振り返る。

「知りたい?」

「おっ、おう」

「本当に知りたいの?」

「マジで怖いよ、お前……」

 彼女は仕方ないとばかりに溜息を吐き、近くの自動販売機に向かう。

 そしてシンクレアを呼び寄せると、むんずとばかりに小さな体を鷲掴みし、自動販売機に向かって投げ付けた。

「おいコラ、ペットに暴力を振るったら、なんとか愛護協会がうるさいぞ」

 そう苦言を呈した瞬間、シンクレアは自動販売機に溶け込むように消え、少しの間を置いて、ポケットの中にある携帯が着信を知らせた。

「学校ではマナーモードのはず……」

 慌ててポケットから携帯を取り出すと、メールが一通届いていた。

 差出人は春日野栞。メール本文には彼女の電話番号とメールアドレスがあった。

「自動販売機って売り上げ管理のため、携帯回線を利用して情報収集を行っているの。知ってた?」

「補充員の人件費や売り切れの機会損失に対応……つーか、そいう仕組みになってるとか」

「シンクレアはその回線を利用して、携帯電話会社内部に侵入した。そこで秋篠くんのメールアドレスを調べ、最寄のサーバから適当なアドレスを拝借して送信したという訳ね」

「ま、マジか?」

「今のメールに返信したらサーバの管理者に届いちゃうわよ。本文内に書いてある私のメールアドレスを登録したら消しておいてね」

 メールの詳細情報を見て溜息が漏れた。

 送信されてきたのはmailroot@を冠したいかにもなアドレスだ。おそらくサーバ管理者のものなのだろう。

「ちなみに送信ログは抹消しておくのがコツよ」

 自動販売機から戻ってきたシンクレアを抱きとめ、ご苦労様とばかりに優しくねぎらう。

 ボールを銜えて来た犬と飼い主のようである。ああやってシンクレアを手なづけているのかも知れない。

「ちなみに銀行に侵入して預金額をゼロにしたり、住基ネットから秋篠くんを抹消することだって可能よ」

「……暴力に勝る脅し文句だな」

「協力的な態度を取ってくれて助かったわ。人を徹底的に追い詰めるのって、意外と体力を使うから……」

「やったことあるような口振りはやめろ。本気で怖ええよ!」

 冗談めかして苦笑してみせたが、こいつはやるといったらやるタイプだ。機嫌を損ねると大変なことになる。

 

 

 彼女の住む家は電車で数駅行った内侍原という場所にあった。

 駅から程近くにあるレンガ造りのマンションを見上げ、クイッと首を動かしてここだと知らせる。

 そのエレベータでマンションの最上階に移動すると、最奥の部屋の前でポケットから鍵を取り出した。

 表札は間違いなく春日野と書かれている。

「何ボーっとしているの? ご近所さんの目があるから早く入って」

 半ば強引に玄関に引き入れると、鍵を閉めてチェーンロックを掛ける。

 そして玄関先に揃えられたスリッパを履き、廊下を真っ直ぐ進んだリビングルームへと通された。

 おおよそリビングルームなんてものは、家族の憩いの場として調度品を揃えるものだと思っていた。

 だがここは幅の広い事務机が二つ置かれただけの殺伐なものだった。

 壁に沿って書棚が四つ、風景や人物のポートレート集など、美術系の画集が所狭しと並べられている。

 机の上には大画面のモニターが三つ並べられ、手元にはプロ仕様のタブレット。机の脇には素人にはちょっと手が出ないMACプロが置かれていた。

「……人をパソコンオタクとか言っておいて、自分はなんだよ」

 書棚にはウン十万するソフトが何本もあるし、本格的なカラー複合機まで置いてある。まるでデジタルアトリエのようだ。

「昔は腐女子向けのBL同人誌とか描いていたけど、今はちゃんとした絵を描いて生計を立てているの」

「マジっすか!」

「食っていくためにはお金が必要なのよ……」

 そう言えば書棚の端にはそれらしいオフセット本。指でそっと引き出してみると、庭球の王子様とかそれっぽい奴ばかり。

 リョウマ=手塚が薔薇に包まれる世界。この手のはどうにも理解不能だ。

「コンピュータから生まれた精霊は、とてもユニークな個性があるの。描画機能の乏しかったシンクレアは絵に執着があるみたい」

「コンピュータグラフィックなんていって重宝がられていた時代だし、大抵の廉価機は文字を表示するのが精一杯だったからな」

「シンクレアの主食は絵。それも気に入った絵しか食べない」

 春日野さんはポンとキーを弾いて、パソコンの電源を立ち上げる。

 二十七インチのモニターが三台も並ぶと壮観だ。

 壁紙が三つのモニターをブチ抜いたショタキャラの全裸でなければ、もっと気持ちよく感激出来ただろう。

「春日野……。モザイクくらい掛けろよ」

「嫌よ! 美しくない」

 しかしこれが春日野の描いた絵だとすると、同人誌ってのは結構売れたんじゃないだろうか。

 オリジナリティを残しつつ、絵師らしい特徴があるし、何より欲求を満たすための描写がハンパじゃない。

 俺はマウスを動かして局部にアイコンを配置し、ホッと胸を撫で下ろした。

「ちなみに今あなたが動かしたアイコン、それがアルトよ」

「モザイク代わりにしちまったよ!」

 アイコンのグラフィックは涙目の女の子。まるで生きているように目をキョロキョロさせている。

 春日野さんはマウスを手に取り、そのアイコンを選択してワンクリック、プルダウンメニューのウイルススキャンソフトに読み込ませた。

 瞬く間に何十もの検索ログが表示され、ウイルスと思しき名前が表示される。

「アラバスターっていうウイルスに感染しているみたい。プログラムが活動し始めると、感染したファイルをランダムに改変する。そのせいでアルトは実体化することが出来ない」

 春日野さんはそう言いながら、ALTOという名のアイコンをクリックした。

 画面には羽のある妖精の姿が表示され、かわいらしいお尻の部分には丸っこい虫が歯を立てて噛り付いている。

「こ、これは……」

「ええ……」

「お尻かじり虫?」

「アラバスターよ」

 非常にコミカルなキャラクターを見せられ、緊迫感がいっぺんに吹き飛んだ。

「単純にウイルススキャンして、駆除してしまえばいいんじゃないか?」

「人でなしの秋篠くん。スキャンソフトにガリガリと無作為に改変されて、この子が苦痛を感じないと思う?」

「そだそだ、アキシノの精霊殺し!」

 春日野さんは画面の端に置かれたアイコンをクリックし、バイナリーエディタを起動させる。

 まさかとは思うが、手打ちでファイルを修正しろと言っているのか?

「秋篠くんなら治せるって……、アルトがそう言ったのよ」

 春日野さんの目には有無を言わせぬ迫力と、生き物を慈しむ優しさが垣間見えた。

 傍若無人で不遜な奴だが、割といいところがあるじゃないか。

 それにアルトって妖精。どこで俺のことを知ったか知らないが、なかなか良い人選だ。

 こういうのは俺の得意分野だからな。

「よっし、一丁やるか。単純作業上等!」

 俺は椅子にドッカと座り、キーボードを前にして手を擦り合わせた。

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