努力が才能を超えるとは限らない
王太子の婚約者であるグレンダ・クラックソン侯爵令嬢は、神童と呼ばれていた。
グレンダは本当に幼い頃から、あっさりと文字や計算を覚えた。同年代の誰よりも賢かった。
同じ年頃の子どもたちがようやく立ち上がった頃に、簡単な本を読めた。子どもたちがようやく簡単な計算ができるようになった頃には、作法をほとんど身につけていた。
グレンダは神童と呼ばれていた。誰よりも賢かった。
これによって、グレンダは六歳にして同じ年の王太子の婚約者になることになる。グレンダの賢さに心酔する人びとは、これで王国の今後も安泰だと大喜びした。
――グレンダが神童と呼ばれていたのは、もう随分と昔の話である。
成長し、王立学園に進学したグレンダは、テストの結果を呆然と見上げていた。また順位が下がっているのだ。
「二十六位……」
愕然と呟く。周りの令嬢たちが、微笑んでグレンダを慰めた。
「グレンダ様は、王太子殿下のご婚約者様として公務も行われていますもの。仕方ありませんわ」
「左様でございます。学園での順位など、それほど気にするようなものではございません」
口々に慰められる。友人の令嬢たちに曖昧に微笑んで、グレンダは逃げるようにその場を離れた。
一人になったところで、ぐっと拳を握る。
「魔法動力学って何よ、魔法解析学って何よ……!」
このところ、グレンダは急速に学園での順位を落としつつあった。それもこれも、グレンダの知識が役に立たなくなってきたからだ。
実のところ、グレンダは異世界の記憶を持つ転生者だったのだ。グレンダが神童と持て囃されたのは、グレンダが生まれたときから大人としての意識と知識を持っていたことに由来するものだった。
幼い頃は良かった。簡単な勉強しかなかったので、グレンダは何の努力もせずとも神童として持て囃された。
けれどそれは、本当に幼い頃だけだ。異世界には異世界の歴史があり、社会情勢があり、文化と文明がある。徐々にグレンダは、転生前の知識でカバーすることが難しくなっていった。
もちろんグレンダは、努力をしなかったわけではない。むしろ未来の王妃として、王国の誰よりも努力していた。
グレンダの前世は単なる会社員だったけれど、王妃という立場の重さが理解できないわけではない。王太子とは上辺だけの関係だったが、政略結婚でこんなことは珍しいことではない。
グレンダは、努力したのだ。誰よりも努力した。努力している。
――なのにその努力が、現実に追いつかない。
「また、順位が下がった……!」
グレンダは唇を噛み、爪を囓ろうとしてから思いとどまった。前世からの癖だったが、こんな行為は未来の王妃として相応しくないからだ。
向かいから、明るい髪の少女が歩いてくる。数人の友人たちに囲まれて、華やいだ声を上げていた。
それから真ん中にいた少女はグレンダに気づいて、友人たちと廊下の端に寄った。未来の王妃であるグレンダに敬意を示すためだ。
「ご機嫌よう、タバサ様」
「ご機嫌よう、グレンダ様」
それからすぐにタバサは雰囲気を変えた。未来の王妃に仕える貴族令嬢から、ただのグレンダの友人へ。
「グレンダ、テストはどうだった? 今回は範囲が広かったね」
「えぇ、そうね……」
ひくりと、グレンダは自分の顔が引きつりそうになるのを堪えた。それというのもグレンダの順位が、タバサに負けていたからだ。
タバサは学年六位。しかも辺境伯令嬢で、未来の王妃としても十分な後ろ盾を持っている。
思わずというように、グレンダは言った。
「……あなたが王太子殿下の婚約者のほうが良かったかも知れないわね」
「わたしが?」
タバサは眼を丸くした。思いがけないことを言われたようだった。
それからからりと笑い飛ばす。
「冗談は止めてくれよ。わたしは飾り立てられてにこにこしているより、泥だらけで動物の世話でもしているほうが性に合っている」
実際にタバサは、とある軍事大国から騎獣舎の幹部候補として誘いを受けているらしい。
「まぁ、仮にも辺境伯家の生まれだってのに、剣の腕はからっきしだけどね! 弱すぎて十歳の弟にも負けてしまう。誰にでも得意不得意はあるもんさ」
自分の弱みをそんな風に軽やかに話して、タバサはからからと笑った。それから不意に心配げな顔をして、グレンダの顔を覗き込む。
「あまり滅多なことを言うんじゃないよ」
いつも磊落なタバサが、こういうときだけは普通の令嬢に見えた。
「そんなことを言うだなんて、あなたは自分で思っているよりも疲れているのじゃないかな。一時的に公務を減らして貰うのも、一つの手だと思うよ」
違う、そうではない、そうではないのだ。
喚きそうになる自分を堪えて、グレンダは微笑んだ。仮にも未来の王妃が、これ以上の弱みは見せられない。
「えぇ、考えておくわ。ありがとう、タバサ」
グレンダが言っても、タバサは心配げな様子を崩さなかった。勘の鋭いタバサには、グレンダが追い詰められていることなどお見通しなのかも知れなかった。
まだ言い募りたげなタバサをいなして、グレンダは廊下を進んだ。そして王太子のために用意された特別な会議室に入る。
会議室の奥に座っていた王太子デイミアンに、グレンダは一礼した。
「ご機嫌よう、殿下」
「また辺境伯家のタバサ・ステイプルドンに負けたそうだな」
グレンダが頭を上げるよりも早く、デイミアンが切り出した。グレンダは唇を引き結んで、さらに頭を下げるしかない。
「……申し訳ありません」
「すでにお前が行うべき公務はギリギリまで減らしている。これでも成績が上がらないのか?」
そうだ、知られていないことだが、すでに公務は減らされている。
成績の低下に焦ったグレンダが望んだことだ。空いた時間を、グレンダは勉強に充てている。
それでも、足りない。足りないのだ。
どれほど努力しても、寝食を削っても、他の令息や令嬢たちが軽やかにグレンダの頭を超えていく。
これは決して、グレンダが馬鹿という話ではない。そもそも王立学園は国内最高学府であって、生徒たちの優秀さは他学の追随を許さない。
つまり上には上がいるという、それだけの話なのだ。
泣きそうな気持ちで、グレンダは頭を下げ続けた。
「申し訳ありません」
はぁー、とデイミアンが、深々と嘆息した。ぽそりと呟く。
「タバサ・ステイプルドンが他国の軍部の幹部候補などでなければ……」
「……!」
グレンダは戦慄した。つまりそれは、グレンダを廃してタバサを王太子の婚約者として取り立てる考えがあったことに他ならなかった。
タバサを横からかっ攫うことは、他国に喧嘩を売るに等しい。だから王太子は動けないのだ。
そういうことを実感して、グレンダは呼吸を浅くした。
グレンダは、努力してきた。ずっとずっと、努力してきた。寝食を削るほど。血反吐を吐くほど。
そういう努力が、それでも、望む結果に届かない。
苛々として足を組み直す王太子は、学年三位。一位ではなくとも、王家としては文句のない成績なのだろう。
王太子はそれなりに優秀で、だから、努力してもできないグレンダの気持ちが判らない。
「……とにかく、次はせめて十位には入れるようにしてくれ。こちらにも王家の面子というものがある」
そう言われて、デイミアンとの話は締めくくられたのだった。
それからグレンダは、努力した。周りが心配するほど努力した。
見かねたタバサが声をかけるほどだった。
「もうお止めよ、グレンダ。体を壊してしまうよ。王族だからと言って、必ずしもお勉強ができなくちゃいけないというわけじゃないだろう」
「――放っておいて!」
追い詰められたグレンダは、金切り声で言い返した。
「わたくしは王妃になるのよ! わたくしが未来の王妃なの! わたくしは、誰よりも優秀じゃなくちゃいけないのよ!」
叫んで、ぜぇぜぇと肩で息をする。
言い返されたタバサは、呆然とした。朗らかなタバサは、まさか友人のグレンダにそのように怒鳴りつけられるとは思わなかったのだ。
そんなタバサの表情を見て、グレンダも我に返った。
タバサが嫌いなわけではない。タバサは友人だ。考えが合わないこともあるが、大切な友人だ。
そんなタバサを、怒鳴りつけてしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさいタバサ」
「あぁ、良いとも。きみは疲れているんだろう」
タバサはそっとグレンダの背を撫でつけてから抱きしめた。
それからは、二人で勉強するようになった。孤独な感覚がなくなったからか、グレンダは随分と呼吸が楽になった。
タバサと勉強するようになってから、グレンダは冷静になって、以前よりも随分と頭が回るようになった。けれどそんなグレンダに、冷や水を浴びせる出来事が起きる。
「エリノア・ゴールディング……?」
次のテストで、グレンダは確かに順位を回復した。学年十八位で、タバサには相変わらず負けているけれど、ひとまず二十位以内に入ることができた。
そんな喜びを打ち消すように、今まで見たこともない名前が一位に君臨していた。
しかも、満点どころではない。何かしらで加点がされたのか、貼り出された総得点は満点を上回っている。
あらゆる筆記系教科で二位を大きく引き離して独走している少女の名前を、グレンダは食い入るように見つめた。
呆然とするグレンダの隣で、タバサが片方の眉を上げた。
「あぁ、あの編入生か」
ちょうどグレンダが追い詰められて周囲が見えていなかった時分に、編入してきたらしかった。がばりと振り返るグレンダに、タバサが驚いて教えてくれた。
「公爵家のご令嬢だそうだ。幼い頃は体が弱くてほとんど寝たきりで、体調が良くなってからは療養も兼ねてあちこちに留学していたと聞いたよ」
「公爵、令嬢……」
自分と同じ年頃の公爵令嬢がいるというのは聞いていた。体が弱くて外に出られないということも。
グレンダは気にしたことがなかった。グレンダの眼の前に現れたことがなかったからだ。
その存在が、いま、グレンダのすぐ近くにいる。
グレンダは、ぞっと心臓の底が冷えるような思いがした。そんなグレンダの不安を感じ取ったのか、タバサが慌てて言った。
「将来は魔法大国で研究者になりたいそうだ。幼少期に体が弱かったのはエリノア嬢の魔力が体の小ささに対して大きすぎたからで、エリノア嬢は同じ症状に苦しむ子どもたちを救いたいらしい。立派なことだ」
言ってしまってから、タバサははっとした顔をした。グレンダの不安の矛先であるエリノアを褒めてしまったのだ。
慌てて、タバサは咳払いした。
「少なくとも、王太子に色目を使うような令嬢ではなさそうだよ。気にすることはないさ」
そんなタバサの物言いとは反対に、グレンダの予想は的中することになる。
エリノアがデイミアンにすり寄った、などという事実はない。デイミアンがエリノアに興味を持って近づいたのだ。
「あなたは学年で一位だそうだな」
図書館でエリノアを見付けたデイミアンは、当てこするようにグレンダの眼の前でエリノアに近寄った。話しかけられたエリノアはきょとんとして、グレンダをちらりと見てから、デイミアンににこりと微笑みかけた。
「たまたま教師たちの教え方が合っていたのでしょう。わたくしは同年代に比べて勉強が遅れておりますから、追いつくだけで必死です」
にこ、と微笑みかける。
エリノアと一緒にいた女子生徒たちが、王太子であるデイミアンを前に萎縮している。そういう様子を見て取って、エリノアはさっさと席を立った。
「長時間席を占領して申し訳ありません。お譲り致します」
「あぁ、待ってくれ」
一礼して通り過ぎようとしたエリノアの腕を、デイミアンが掴んだ。
エリノアは信じられないというような顔をして、顔を引きつらせた。大切に育てられた令嬢たちが、そもそも男性から許可もなく触れられるなどあり得ないのだ。
そんなデイミアンの手を、誰かがやんわりとエリノアの腕から外した。
「何ごとかお困りですか」
二人の間に入ったのは、司書の男だった。デイミアンも自分がまずいことをしたことに気づいたのか、降参するように両手を挙げる。
「申し訳ない、気が逸ったんだ。エリノア嬢、少し話そう」
エリノアは穏やかに微笑んでいたが、ほんの僅か、頬が引きつった。エリノアの後ろにいたエリノアの友人は、正直に顔を引きつらせていた。
それからエリノアは、いかにも困ったように、頬に手を当てた。
「王太子殿下からお声をかけられるなど、なんて光栄なことでしょう。ですがいまは、研究が詰まっておりまして……。残念ですが、またの機会にさせて頂きます」
いかにもデイミアンと話せないのが残念だ、という空気を保ったまま、エリノアは軽やかに一礼した。友人にちらりと目配せをして、少し足早に図書館から出て行く。
そういう少女たちを見送って、彼らも図書館から出てから、デイミアンはグレンダに興奮気味に話しかけた。
「なんと奥ゆかしい令嬢だろう。素晴らしいと思わないか」
エリノアの感情は、同じ女性であるグレンダには極めて判り易かった。エリノアの微笑んだ表情は、明らかに迷惑だと言っていた。
グレンダは嘆息して、デイミアンを窘めた。
「婚約者のいる殿方が、気安く令嬢に話しかけるべきではありません」
「うるさいな」
それから良いことを思いついたように、デイミアンは高らかに宣言したのだった。
「決めた、俺はエリノア嬢を新しい婚約者にするぞ。お前も新しい婚約者を探しておけ」
そんな宣言に、グレンダは愕然とするしかなかったのだ。
それからデイミアンは、本当にグレンダを伴ってゴールディング公爵家に押しかけた。それをゴールディング公爵家の者たちは、少し呆れた様子で出迎えた。
「そちらのエリノア嬢こそが、王太子である俺の婚約者として相応しい!」
そういう物言いのデイミアンを、父であるゴールディング公爵が睥睨した。
「すでにそちらのグレンダ・クラックソン侯爵令嬢が、殿下の婚約者になってから十年以上が経過しております。グレンダ様が未来の王妃として公務をなさっているのを、貴族たちも、国民たちも知っている。今さら変更は難しいかと存じます」
「だがこの女では、能力が足りないのだ。エリノア嬢は学園で一番の才女だろう」
「王妃が必ずしも完全無欠である必要も、勉学面で天才である必要もありません。そんなものは侍女で賄えばよろしいのです」
あっさりと、ゴールディング公爵は言い返した。
「仮に我が家のエリノアを正妃にしたとして、エリノアはひどく悪く言われるでしょうな。おそらく貴族からも、国民からも嫌われるでしょう。ゴールディング公爵家のエリノアを、正当な婚約者から王太子を奪った阿婆擦れだとでも言わせるおつもりですか」
「政略であると説明すれば――」
「そんな説明に、意味などあるものですか。人びとというのは信じたいものを信じるものです。エリノアは男好きの阿婆擦れだと、未来永劫面白おかしく語られることでしょう」
はぁ、とゴールディング公爵が重く嘆息する。
「王家のために娘を差し出そうとしない、忠誠心のない貴族だと思われても構いません。わたしは殿下にエリノアを嫁がせるつもりはありません。お帰りください」
あっさりとそう言い返されて、デイミアンは追い返されることになる。
それに、デイミアンは、ひどく憤慨していたようだった。忠誠心のなさを悪し様にけなし、自分が国王になったら公爵家を取り潰してやるとまで言い放った。
グレンダはそんなデイミアンを、繰り返し窘めることになる。それによってグレンダは、デイミアンにますます嫌われたのだった。
さて、それ以降の学園生活でも、エリノアは他者の追随を許さず一位を貫き続けた。
それだけではない。エリノアの天才ぶりは徐々に知れ渡り、若年にしていくつかの特許を持っていることまで生徒たちの知るところになった。
「大したことではないのです」
生徒たちから話題を振られるたびに、エリノアは困ったように微笑んだ。
「わたくしは学校に通うことも難しく、時間ばかりがありましたから……。時間を持て余して幼い頃に遊ばせていた空想を気まぐれに形にしていたら、たまたま幾つかが評価されただけです」
対の指輪で通信ができる魔道具や、自動的に魔素転換して氷魔法が不得意なものでも充填できる冷蔵の魔道具。そういう、人びとの細かな困りごとを、エリノアは次々に解決した。
「こんな開発ができるのも、いま好きに勉強ができるのも、たまたまわたくしが恵まれていたからのこと。だからわたくしは、わたくしの幸運を不運な子どもたちに還元したいのです」
特許は留学する先々で取っていたらしく、エリノアに流れ込む特許料は莫大な額に上った。
そういう資金を、エリノアはまた自分の研究につぎ込むのだった。
中でも王国を賑わせたのが、魔法大国の新型魔列車の開発にエリノアが関わったという話だった。
新型魔列車に使う魔法石の並びを入れ替えることで、魔力効率が五倍ほど向上したのだという。
驚いて生徒たちが問えば、エリノアはまた何でもないように笑った。
「幼い頃に、魔法石で遊んでいたことがあるのです。それでいま一般化している配列よりも効率の良い並びがあるのじゃないか、というのは前々から考えていて……」
思いつきの話をしているエリノアは楽しげで、彼女が心底楽しんでいるのが伝わってくるのだった。
そういう、エリノアの話を聞く度に、デイミアンは身もだえせんばかりに悔しがった。
「お前と婚約さえしていなければ!」
デイミアンはそう言って、グレンダを罵った。
グレンダは俯いて、謝ることしかできなかった。グレンダの学年順位は十五位前後で停滞し、デイミアンの望む成績は取ることができなかった。
「お前と婚約さえしていなければ、今ごろエリノアと婚約できていただろう! そうしたらエリノアの研究も、そこから生まれる莫大な富も、魔法大国からの信頼も、全てローダム王家のものになっていたんだ!」
何度も何度も、デイミアンはそう言ってグレンダを責め立てた。
「お前も何か開発してみろ! 魔法大国に新しい提案でもしてみろ!」
「申し訳ありません……」
グレンダはそう、謝るしかなかった。何しろグレンダの持つ前世の知識に、魔法は含まれていないからだ。
この世界には魔法がある。
だからグレンダの知る西洋中世よりも、この世界はずっとずっと発展していた。今さらグレンダが提案できることなどなかったのだ。
グレンダのそんな様子を見て、気を揉んでいたのはタバサである。
「もう婚約なんか解消しちゃいなよ。今どき王太子と婚約解消したくらいで死にやしないさ。むしろ、このまま王太子の近くにいるほうが死んじゃうよ」
何度も何度も、タバサはそう言ってグレンダを説得した。
グレンダは唇を噛んで、いつも首を縦に振らなかった。
デイミアンを愛していたわけではない。今まで何年も何年も努力してきたことが、何もかも水の泡になると思ったら、どうしても頷けなかったのだ。
一方で、実のところエリノアもデイミアンに迷惑していた。図書館で集中したいときにしつこく話しかけてくるので、単純に勉強や研究の邪魔なのだ。
ある日にグレンダはいよいよ涙目で、タバサに漏らした。
「もう、解消するしかないのかしら……」
そして別の場所ではエリノアも困り果てた様子で、友人たちに零していたのだ。
「無茶苦茶なことを言われる前に、魔法大国に移ったほうが良いかも知れないわ」
さて、長期休みに入る前の全校パーティーが開かれたのは、そんなときだった。
その日、デイミアンはグレンダをエスコートしなかった。憤慨した様子のタバサが、グレンダについている。
そしてデイミアンは、エリノアに纏わり付いていた。さり気なくエリノアが離れようとしても、知らない様子でついてくるのである。
そしてデイミアンはいきなり、エリノアの腰に手を回して、こう叫んだのだ。
「グレンダ・クラックソン侯爵令嬢、お前との婚約を破棄する!」
グレンダが眼を見開いた。
エリノアはそれ以上に驚いて、唖然とした。何しろグレンダと関係の薄いエリノアは、デイミアンとグレンダの仲が致命的に悪化していることに気づいていなかったからだ。
「お前は俺の友人であるエリノアに嫌がらせを繰り返していただろう! 証拠も揃っているぞ!」
そんなことを言われても、当のエリノアに一つも覚えがないのである。
向かいでは、真っ青になったグレンダと、彼女を支えるようにタバサが佇んでいる。エリノアが向かう予定の魔法大国はステイプルドン辺境伯領と近いので、できればエリノアは彼女たちを敵に回したくはない。
エリノアは本来、非常に穏やかな性質である。これは家族たちが、体の弱い末子のエリノアを大事大事にして蝶よ花よと育てたからである。
だからエリノアは、人前で大きな声を出すことに慣れていなかった。それでもさすがにこれはまずいと、エリノアは腹に力を入れた。
「――いい加減にしてくださいませ!」
ざわついていた会場が、普段おっとりとしたエリノアが張り上げた声にぴたりと静まった。
慣れないことをしたエリノアは何度か咳き込んだ。それからなぜか腰を抱いているデイミアンの手を無理やり引き剥がして、そこで力尽きて肩で息をしながら、デイミアンに向き直ったのだ。
「わたくしは誰かに嫌がらせをされた覚えなどございません! そのような嘘八百は、グレンダ様に失礼ではありませんか!」
まさか、今までずっとにこにことした表情しか見せなかったエリノアに、睨みつけられるとは思わなかったのだろう。デイミアンは眼に見えて狼狽えた。
「だ、だが、俺はエリノアと婚約したくて――」
「わたくしを呼び捨てにしないで頂けますか? いくら王太子殿下と言えども、公爵家の人間を許可もなく呼び捨てるなど無礼ですわよ!」
それに、とエリノアは言った。
「婚約とは? 何の話ですか? あなた様からの意味の判らない求婚は、もう何か月も前にお断りしたはずです!」
怒鳴られて、デイミアンが呆然としている。いつもにこやかなエリノアしか知らなかったからだ。
幼い頃に体が弱かったために小さく折れそうな体で、か細い肩をそれでも目一杯に怒らせて、エリノアは言い放った。
「――そもそもわたくし、ひと月ほど前に婚約が決まっております! 迷惑です、お止めください!」
「な――」
デイミアンがかっと怒りに顔を赤くした。恥をかかされたと思ったのだ。
「だ、誰だ! 俺の婚約者に手を出すなど不敬だぞ、打ち首にしてくれる!」
「――わたしだが」
とんでもない事を言い始めたデイミアンに、淡々とした声が答えた。
エリノアがぱっと顔を明るくして、声の主である青年に駆け寄る。
青年の後ろに隠れてから、エリノアは体を震わせ始めた。あまり気の強くないエリノアにとって、やはり、意味の判らない男にものを言うのは怖かったのだ。
そんなエリノアを、青年が労った。
「怖い思いをさせて済まない。遅れて悪かった」
そんな青年を、デイミアンが睨みつける。
「誰だ!」
「カルヴィン・ウェストモアランド。ウェストモアランド帝国の第二皇子だ」
現れたのは、エリノアがもともと就職予定だった魔法大国の第二皇子だった。
「そ、それは……」
思わぬ大物の登場に、デイミアンが口ごもる。
カルヴィンはエリノアと、デイミアンと、それからグレンダたちを順番に眺めた。そして状況を見守っていたらしい侍従らしき男から報告を受けてから、そっと額に手を当てた。
「ローダム王太子が、何をしているんだ。あなたには侯爵家の婚約者がいるだろう」
「ち、違う! エリノアのほうが公爵家だし、それに、……あ、あの女が馬鹿なのが悪いんだ!」
追い詰められたデイミアンが、グレンダを指さした。
思いがけずエリノアが声を上げたことで、エリノアに注目が集まった。その間に幸いにも、グレンダは侯爵令嬢として自分を取り繕うことができた。
体の後ろで、タバサが励ますようにそっと手を握ってくれている。グレンダは、慎重に呼吸を整えた。
グレンダは、今まで努力していた。努力して、努力して、努力した。
それら全てが、いまこの瞬間に、水の泡に変わった。そのことを、グレンダは、受け入れなくてはいけなかった。
震える唇を、無理やり引きつらせるようにして微笑む。
「――殿下からの婚約破棄を承りました」
ほほ、とグレンダは笑った。震える体を押し込めて、精一杯悪辣に。
「どうぞ、殿下お好みの優秀な女性とご婚約くださいませ」
ぱちりと、グレンダとエリノアの視線が合った。エリノアがこっそり親指を立ててくれたので、グレンダは思わず笑ってしまったのだった。
さて、勝手なことをしたデイミアンは、その後両親である国王夫妻から大目玉を食らうことになる。
とは言え、ローダム王国の王族は数が少ない。学生の話であり、廃太子にまでするかと言われれば微妙なところだった。
これによって王太子は、王弟一家の元で鍛え直されることになる。
その後の王太子の新しい婚約者探しは困難を極めた。身分の高い女性たちには相手にされず、身分は低いが優秀な女性たちにはみな国外に逃げられるか、高位貴族家の庇護下に入られてしまったのだ。
最終的に見かねた王妃が、自分の元筆頭侍女でありいまは伯爵家の未亡人である女性に職業王妃として声をかけた。
親子ほど年の差がある二人が結婚することになり王太子は随分と不満げだったが、優秀な女性に頭を押さえられてそれなりに上手くことが運んだという。後継は王弟の孫から選ばれることになった。
一方で婚約を解消された――最終的に、破棄ではなく穏便な解消ということで話がついたのだ――グレンダは、タバサに誘われて軍事大国に渡ることになる。そこで磊落だが裏表のない男と出会い、それなりに幸せに過ごした。
そして魔法大国の第二皇子妃になったエリノアは、魔道具の開発による人びとの生活の向上と、病を得て生まれた不運な子どもたちの救済に力を尽くした。グレンダとタバサとエリノアは、手紙を送り合ったり送り合わなかったりしながら、それなりに細くも長く交流が続いたという。
悪役令嬢小説って幼い頃から婚約者が決まってたりするけど、幼い頃に賢かったからって大人になっても賢いとは限らないよな、そもそも後からもっと条件の良い相手が出てきたらどうすんのかな、ってのが疑問だったので書きました!
悪役令嬢は天才だとか学年一位だとかって設定が多い気がしますが、そもそも王妃が天才である必要はあるか? って、わたしはそこも疑問に思います。頭は良いけど性格やコミュニケーションに問題がある、頭は良いけど王妃には向かない、とかってパターンいくらでもあると思うので、悪役令嬢が天才だから云々ってのはないんじゃないかなー、などと思う次第でございます。ので、そういうこともちらっと入れ込んでみた
とりあえず思いつきを形にできたのでスッキリ。お暇潰しにDOぞ!
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