王立学院の席替えで、私を断罪した王子と隣の席になったのですが、残り半年、話しかけてこないでもらっていいですか?
星辰の抽選盤が、ゆっくりと回転を止めた。
天井から吊り下げられた巨大な魔法具が最後の光を瞬かせ、教室の黒板に銀色の文字が浮かび上がっていく。後期の席順――つまり、卒業までの半年間を共にする隣人の名前が、次々と刻まれていく。
私は自分の名前を探した。
A列3番――ユリアーネ・フォン・グラウフェルス。
隣席――コンラート・フォン・シュヴァルツブルク。
…………。
額に手を当てた。思わず、ではない。意識的に額を押さえなければ、この場で机に突っ伏してしまいそうだったからだ。
コンラート・フォン・シュヴァルツブルク。この王国の第一王子にして、わずか一ヶ月前、大講堂の壇上で私を「学院の秩序を乱す不届き者」と名指しで断罪しようとした人物である。
結果はどうなったか。私の同級生たちが次々と「グラウフェルス嬢にそのような行いはなかった」と証言し、告発の根拠はすべて崩壊した。公開糾弾の行使には相応の証拠が必要であり、証拠不十分の場合、恥をかくのは告発者の側――つまり、王子殿下ご自身である。
あの日の大講堂の空気を、私は生涯忘れないだろう。数百人の視線が壇上の王子に注がれ、その碧い目が動揺で揺れるのを、私は無表情のまま見つめていた。
その男が、今日から半年間の隣人になる。
星辰の抽選盤は古来より不正防止のために導入された魔法具であり、その結果は魔力によって固定される。教官に訴えたところで「変更は不可能です」と返されるのは明白だった。
「……参りましたね」
私は小さく呟き、荷物をまとめてA列3番の席へと向かった。
――すでに、隣の席には金髪碧眼の男が座っていた。
コンラート・フォン・シュヴァルツブルクは、私が近づくのを見た瞬間、明らかに身体を強張らせた。視線がこちらに向き、すぐに逸れ、もう一度向き、また逸れた。その挙動不審ぶりは、王族としていかがなものかと思わなくもない。
私は何も言わず、隣の椅子を引き、座った。鞄から教科書とノートを取り出し、筆記具を所定の位置に並べる。いつも通りの準備を、いつも通りの手順で行う。それだけのことだ。
沈黙が降りた。
王子は横目でちらちらとこちらを窺っている。口を開きかけては閉じ、閉じては開きかける。その繰り返しが視界の端でちらつくのは、率直に言って鬱陶しい。
けれど、私から話しかける理由は一片もない。
授業の鐘が鳴った。教官が教壇に立ち、魔法理論の講義が始まる。私はペンを走らせ、ノートに要点を書き取っていく。隣の気配を、意識の外に追いやって。
それが、最悪の半年間の始まりだった。
最初の一週間で、私は王子殿下の学習態度における問題点をいくつか把握することになった。不本意ながら。
「……消しゴム、貸してくれないか」
三日目の魔法史の授業中、隣から小声が聞こえた。
私はノートから目を上げず、答えた。
「ご自分でご用意ください」
「いや……落としてしまって、今ちょっと」
「机の下にございます。右足の、すぐ横です」
王子が慌てて足元を探り、消しゴムを拾い上げる気配がした。それ以上の会話は発生しなかった。
四日目。
「教科書、同じページ見せてくれ」
「予習という概念をご存知ですか?」
「…………」
五日目。
「今日の課題の範囲、聞き逃したんだが――」
「掲示板に貼り出されておりますが、お読みになれませんでしたか? それとも、掲示板の場所をご存知ないのでしたら、ご案内いたしましょうか」
「……いや、知って――」
「でしたら、ご自分でお確かめください」
六日目には、もう話しかけてこなくなるだろうと予想していた。
六日目。
「なあ、グラウフェルス」
「何でしょう」
「その……昼、食堂で――」
「お断りいたします」
「最後まで聞いてないだろう」
「お誘いでしたらお断りいたします。お誘いでなければ、なおさら私に仰る理由がございません。いずれにしても、お断りいたします」
王子は口を閉じた。今度こそ、完全に。
……と思ったのは、甘かった。
七日目の金曜日、帰りの鐘が鳴った直後、席を立とうとした私の耳に、ぼそりとした声が届いた。
「――来週も、よろしく」
振り返らなかった。聞こえなかったことにした。
教室を出ると、廊下で親友のコルネリアが待っていた。長い赤毛を揺らしながら、彼女は実に楽しそうな顔で私を出迎えた。
「ユリアーネ、今週も殿下を完封してたわね」
「完封も何も、普通に授業を受けていただけです」
「普通に授業を受けながら殿下を六回撃退するのは、普通とは言わないわよ。今や学院中の話題よ。『グラウフェルス嬢と殿下の冷戦』って」
「勝手に名前をつけないでいただけますか」
コルネリアはくすくすと笑い、私の腕に自分の腕を絡ませた。
「ねえユリアーネ、正直なところ――殿下のこと、許す気はあるの?」
私は数秒だけ考え、正直に答えた。
「ありません」
許す、許さないの問題ではないのだ。
一ヶ月前のあの日、私は何の前触れもなく大講堂に呼び出された。壇上に立たされ、数百の目の前で「不正を行った」と告発された。身に覚えのない罪を、弁明の機会もなく突きつけられた。
あの瞬間の感覚を、何と表現すればいいだろう。恐怖。屈辱。そして、理不尽に対する純粋な怒り。
結果的に周囲の証言で事なきを得たが、もし証言者がいなければ――もし、たまたま私の普段の行いを知る人がいなければ――私は退学処分を受け、グラウフェルス家の名誉は地に墜ちていた。
そしてあの王子は、それだけのことをしておきながら、一言の謝罪もない。
代わりに「消しゴム貸してくれないか」である。
「……ありませんね、やはり」
「でしょうね」
コルネリアは苦笑し、それ以上は何も聞かなかった。良い友人だと思う。
残り半年。長い半年になりそうだった。
〜〜〜
席替えから二週間が経った水曜日の昼休み、私は中庭の東屋で薬草学の予習をしていた。
秋の陽光が教科書のページを温かく照らし、風が木の葉を穏やかに揺らす。学院の喧騒から少し離れたこの場所は、私にとって数少ない安息の時間だった。
「すみません!」
安息は、唐突に終わった。
「あの、グラウフェルス先輩ですよね!?」
顔を上げると、蜂蜜色のくせ毛を持つ少年が、翡翠色の大きな目を輝かせてこちらを見つめていた。制服は最終学年のものとは異なる――一学年下の色合いだ。
「……どなたですか」
「エリアスです! エリアス・フォン・フリューリング! 先週、南方から特別推薦で編入してきました!」
ああ、と思い当たった。太陽属性の回復魔法の使い手が入学したと、教官たちの間で話題になっていた。学院でも数十年ぶりの希少な才能だとか。
「それで、私に何か」
「先輩、覚えてないかもしれないんですけど――僕、編入初日に校舎で迷子になったとき、先輩に助けてもらったんです!」
記憶を辿る。確かに先週、北棟の廊下で所在なさげに立ち尽くしている生徒を見かけた気がする。私は黙って正しい教室の方向を指し示しただけだったが。
「助けたというほどのことは。廊下で立ち止まられると通行の妨げになるので、方向をお伝えしただけです」
「それが助けてもらったってことですよ! あのとき、誰にも話しかけられなくて心細かったんです。先輩が声をかけてくれたから――」
「声はかけていません。指を指しただけです」
「指を指してくれたから、すごく嬉しくて!」
……どこをどう解釈すれば、無言で方向を指差しただけの行為にここまでの感謝が生まれるのだろう。この少年の喜びの閾値は、いささか低すぎるのではないか。
エリアス・フォン・フリューリングは、許可も得ていないのに東屋のベンチに腰を下ろし、「先輩、何読んでるんですか?」と教科書を覗き込んできた。距離感という概念が、この子にはないらしい。
「薬草学の教科書です」
「わあ、すごい! 先輩ってこういうのも勉強してるんですね!」
「最終学年の必修科目ですので、すごくも何もありません」
「でも昼休みに自主的に予習するのはすごいです!」
私は教科書をぱたんと閉じた。ここでの予習は諦めた方がよさそうだ。
「フリューリングさん」
「エリアスでいいです!」
「フリューリングさん。お気持ちはわかりましたが、私は特に礼を言われるようなことはしておりません。お引き取りいただけますか」
エリアスは一瞬だけしゅんとした顔をしたが、すぐに太陽のような笑顔を取り戻した。
「わかりました! でも、また来ます!」
そう宣言して、ぱたぱたと駆け去っていった。
――また来ます、ではないのだが。
エリアスの「また来ます」は、社交辞令ではなかった。
翌日の昼休み、食堂で私がひとりでスープを飲んでいると、「先輩、ここいいですか?」と満面の笑みで向かいに座られた。
翌々日、図書室で文献を調べていると、「先輩の隣、空いてます?」と隣の椅子を引く音がした。
その翌日、廊下ですれ違っただけなのに、「先輩! おはようございます!」と十メートル先から手を振られた。周囲の生徒が何事かと振り返るほどの声量で。
「……あなたは毎日毎日、よくもまあ飽きませんね」
「だって先輩に会えるの、嬉しいですから!」
「私は特に嬉しくありませんが」
「えへへ、すみません。でもまた来ます!」
この少年には、私の冷たい応対がまるで効果を持たなかった。王子殿下に対しては一撃で黙らせる氷の敬語が、この蜂蜜色の子犬の前ではぬるま湯のように無力化される。
理由はおそらく単純で――エリアスには、悪意がなかった。
王子が話しかけてくるのは、断罪の失敗を取り繕いたいという下心があるからだ。だから私の言葉は正確に急所を突ける。けれどエリアスの「先輩が好きです、一緒にいたいです」という感情は、あまりにもまっすぐすぎて、刃の当てどころがない。
犬だ、と思った。大きな目を輝かせて、尻尾を千切れんばかりに振って、「遊んで!」と飛びかかってくる子犬。
……そういう相手を邪険に扱うのは、性分に合わない。
こうして、いつの間にか私の日常にはエリアスという少年が定位置を確保するようになった。
その変化に、最も敏感に反応したのは隣席の王子だった。
授業前、エリアスが教室の入り口まで私を送りに来て「先輩、午後の授業もがんばってください!」と手を振るのを、コンラートは教科書の影から凝視していた。
昼食後、中庭でエリアスと並んで歩く私の姿を、渡り廊下の窓からじっと目で追っていた。
そしてある日の授業中、ついにコンラートは小声で尋ねてきた。
「……あの年下の男は、何なんだ」
私はノートにペンを走らせながら、答えた。
「私の知人です」
「知人にしては、随分と距離が近いが」
「距離の管理は先方の課題であり、殿下にご心配いただくことではございません」
「心配などしていない」
「でしたら、なおさらお気になさる必要はありませんね」
王子は黙った。けれど、そのあとの授業中ずっと、ペンを持つ手に力が入りすぎていたのか、ノートの紙面に妙な筆圧の跡が残っていたのを、私は見逃さなかった。
――滑稽だと思った。
自分が断罪を仕掛けて関係を破壊しておきながら、他の誰かが私に近づくのは気に入らないとでも言うのだろうか。それは、いったい何様のつもりなのか。
もっとも、私が何を思おうと、隣の席は変わらない。この半年間、コンラート・フォン・シュヴァルツブルクは私の隣に座り続ける。
けれど――隣にいることと、隣にいる資格があることは、まったくの別問題だ。
〜〜〜
コンラート・フォン・シュヴァルツブルクは、自分自身に苛立っていた。
原因は明確だった。隣の席の女――ユリアーネ・フォン・グラウフェルスのことが、頭から離れない。
それは当然だと、最初は自分に言い聞かせていた。断罪の失敗で赤恥をかいた相手が、毎日隣に座っているのだ。気にならない方がおかしい。体面の問題だ。王族としての威厳を回復しなければならない。だから気になるのだ。それだけのことだ。
――と思っていたのは、最初の二週間までだった。
コンラートは断罪の直後から、自分が誤っていたことに気づいていた。イゾルデ・フォン・ハルゲンドルフが涙ながらに訴えた「ユリアーネ様にこんなひどいことをされたんです」という言葉を信じて動いた結果が、あの惨劇だった。
調査してみれば、イゾルデの訴えには証拠がひとつもなかった。それどころか、イゾルデの側がユリアーネの成績資料に不正アクセスしていた疑惑すら浮上した。
つまり、自分は利用されたのだ。
だが、王族が公の場で「間違いでした」と認めることの意味を、コンラートは痛いほど理解していた。弟が着々と宮廷内の支持を固めている今、「判断を誤る王子」というレッテルは致命傷になりかねない。側近たちも「ここは有耶無耶に」と口を揃える。
結果として、謝罪もせず、かといって非を認めないまま、「消しゴムを貸してくれないか」と些細な会話を試みるという、最も中途半端な選択肢を取り続けることになった。
そのすべてを、グラウフェルス嬢は氷の敬語で粉砕した。
毎日。一つ残らず。容赦なく。
そして、あの年下の少年が現れた。
エリアス・フォン・フリューリング。南方の子爵家の次男。太陽属性の回復魔法使い。
蜂蜜色の髪を跳ねさせながら「ユリアーネ先輩!」と駆け寄るその少年に対して、グラウフェルス嬢は――冷たい態度を取りながらも、拒絶していなかった。
あの鉄壁が、揺らいでいる。
自分には一度たりとも見せなかった表情の変化が、あの少年の前ではわずかに生まれている。
コンラートはその事実を認識するたびに、胸の奥に名前のつけられない感情が渦を巻くのを感じた。体面でも威厳でもない、もっと個人的な何か。だが、それが何なのかを認めることを、王子としての矜持が許さなかった。
一方、もう一人の当事者も動き始めていた。
イゾルデ・フォン・ハルゲンドルフは、表向きは断罪事件の後、大人しくしていた。被害者然とした表情で「わたくし、あの件ではご迷惑をおかけして……」と周囲に漏らし、同情を集める日々。だが、その内心では次の策略を練り続けていた。
ユリアーネ・フォン・グラウフェルスの存在は、イゾルデにとって邪魔だった。辺境伯家の令嬢で、成績首席で、容姿も整っていて――王子の配偶者候補としての条件を満たしている。イゾルデの実家ハルゲンドルフ男爵家の財政難を救うには王家との縁組が不可欠であり、そのためにはライバルを排除する必要がある。
断罪が失敗したなら、次は別の手を打てばいい。
イゾルデの目に留まったのが、エリアスの存在だった。あの年下の少年がユリアーネにまとわりついている。ならば、その関係を利用できるかもしれない。
ある日の放課後、イゾルデは中庭でひとり佇んでいたエリアスに声をかけた。
「あら、フリューリングさん。編入されたばかりで大変でしょう?」
エリアスは人懐っこい笑顔を向けた。「あ、ハルゲンドルフ先輩! いえ、みんな親切にしてくれるので大丈夫です!」
「そう。……ねえ、少しだけお耳に入れておきたいことがあるの。ユリアーネ先輩のことなんだけれど」
イゾルデは声を潜め、慈愛に満ちた――ように見せかけた――表情で囁いた。
「実はね、ユリアーネ先輩は殿下と内密にお付き合いされているの。だから、あまり近づかないほうがいいかもしれないわ。殿下のお気持ちを考えると……ね?」
完璧な誘導だった。これで年下の少年がユリアーネから距離を取れば、ユリアーネは孤立し、王子との関係にも新たな噂が立つ。一石二鳥の計略。
エリアスは翡翠色の目をぱちくりと瞬いた。
「え? 先輩に恋人がいるんですか?」
「ええ、だから――」
「そうなんだ! でも、それなら先輩本人から聞きますし!」
「…………え?」
「先輩が好きな人がいても、僕が先輩を尊敬してるのは変わらないので! むしろ先輩に恋人がいるなら、その人ってどんな人なのかなって興味あります! 先輩が選ぶ人だから、きっとすごい人ですよね!」
イゾルデは目を瞬いた。今度はこちらが。
「いえ、あの……だから、あまり近づくと殿下の怒りを買うかも――」
「殿下? えーと、つまり殿下が先輩の恋人ってことですか? でも先輩、殿下のこと全然好きそうじゃないですけど。授業中もずっと冷たいし」
「それは表向きで、本当は――」
「あ、でもそういうのって本人に聞くのが一番ですよね! 僕、明日先輩に聞いてみます!」
「え、ちょっ……聞いちゃだめよ!」
「なんでですか?」
「なんでって……内密だから……」
「内密なのに、ハルゲンドルフ先輩は知ってるんですか?」
「…………」
イゾルデは口を閉じた。
この少年は、馬鹿なのか天才なのか判別がつかない。策略の網が、犬系少年の天然という名の防壁にまったく絡まない。糸を投げても投げても、するりと抜けていく。
「あ、でもハルゲンドルフ先輩、心配してくれてありがとうございます! 先輩って優しいんですね!」
「……ええ、どういたしまして」
イゾルデは引きつった笑顔で去った。
翌日。
「先輩、ハルゲンドルフ先輩がこんなこと言ってました!」
エリアスは実にあっけらかんと、イゾルデの発言内容をそっくりそのまま私に報告した。隠すという発想が、この子の辞書には存在しないらしい。
「――と、いうわけで、先輩って殿下とお付き合いしてるんですか?」
「していません」
「ですよねー! 先輩、殿下のこと明らかに嫌ってますもんね!」
「嫌うという感情すら無駄なので、無関心と言った方が正確です」
「そっかー。じゃあハルゲンドルフ先輩の勘違いか、嘘ですね!」
私はエリアスの無邪気な顔を見つめた。
この子は、嘘を吹き込まれても、まず「本人に確認する」という至極真っ当な行動を取った。裏を読もうともしない。策略を疑いもしない。ただ、まっすぐに事実を確かめようとした。
貴族社会においては致命的なほどの素直さだ。だが――。
「……あなた、馬鹿正直にもほどがあるのでは?」
「えへへ、よく言われます!」
笑顔でそう返されると、怒る気にもなれない。むしろ、ほんの少しだけ――本当にほんの少しだけ――口元が緩みそうになるのを、私は慌てて引き締めた。
ただ、イゾルデが裏で動いていることは看過できない。一度目は断罪という大掛かりな手段を使い、二度目はエリアスへの囁きという小技を使った。手口は変わっても、私を標的にしているという事実は変わらない。
何を企んでいるにせよ、備えは必要だ。
〜〜〜
十月に入り、学院は慌ただしさを増していた。最終学年の一大イベント――対魔法実技演習の時期が近づいていたからだ。
この演習は、二人一組で魔法構築されたダンジョンを攻略し、制限時間内に最深部の魔法結晶を獲得するというもの。卒業試験の評価に直結するため、どの生徒もペアの組み合わせに神経を尖らせていた。
教官が大講堂で読み上げたペアリストに、予想外の名前があった。
「――特例措置として、特別推薦編入生エリアス・フォン・フリューリングの実力評価のため、学年を跨いだペアを一組設ける。ユリアーネ・フォン・グラウフェルスとエリアス・フォン・フリューリング」
隣で、爆発するような歓声が上がった。
「先輩と組めるんですか!? やったぁ!」
エリアスが椅子から立ち上がりかけ、慌てて周囲の視線に気づいて座り直す。だが顔は満面の笑みのままで、翡翠色の目が星でも入っているかのように煌めいている。
私は小さくため息をついた。
「……やったぁ、ではありません。あなたにとっては評価試験を兼ねています。気を引き締めなさい」
「はい! 気を引き締めます! でも嬉しいものは嬉しいです!」
その直後に読み上げられたもう一つの名前にも、私の耳は反応した。
「コンラート・フォン・シュヴァルツブルクとイゾルデ・フォン・ハルゲンドルフ」
教室の空気が、微妙に揺れた。断罪事件の中心人物二人がペアを組む――これが純粋な抽選結果なのか、何らかの意図があるのかは定かでない。コンラートの表情が一瞬だけ曇ったのを、私は横目で捉えた。
演習の準備期間が始まった。
放課後の訓練場で、私とエリアスは連携の練習を重ねていた。
「いいですか、エリアス。基本戦術はこうです。私の風魔法で敵性魔法生物を牽制し、あなたの回復魔法で私の消耗を補う。短期決戦ではなく、持久戦に持ち込みます」
「はい! 僕、回復は得意です!」
「ただし、回復魔法に頼りすぎて私が無茶をする想定は禁止です。攻撃と防御のバランスを崩さないこと」
「わかりました! ……先輩、すごいですね。もう全部頭の中に入ってるんですか?」
「当然です。ペアを組む以上、あなたの能力と私の能力を噛み合わせる最適解を事前に算出するのは基本です」
「かっこいい……」
「褒めても何も出ません。さあ、実戦形式で始めます」
訓練は予想以上にスムーズだった。私の風属性魔法は精密制御に強みがあり、エリアスの太陽属性回復魔法は範囲と即効性に優れている。攻めの風、支えの太陽――相性は確かに良い。
だが、それ以上に驚いたのは、エリアスの学習速度だった。一度説明したことは正確に吸収し、二度目には応用まで利かせてくる。初見の状況でも臆さず、失敗しても笑って立ち上がり、次には修正してくる。
「先輩、今のはどうでしたか!?」
「七十点です。タイミングがコンマ二秒遅い」
「七十点もらえた! 嬉しい!」
「褒めていません」
「でも昨日は四十点だったので、大進歩です!」
……やりにくい。叱咤しようにも、この少年は叱咤すら栄養にして成長する。まるで太陽の光を浴びれば浴びるほど伸びる植物のようだ。
いや、太陽は彼自身の属性か。
練習が佳境に入ったある日の夕暮れ、エリアスが集中しすぎて魔力を使い切りかけた。足元がふらつき、傾いたその体を、私は咄嗟に手を伸ばして支えた。
「無理をしないでください。倒れられると、ペアとして困ります」
我ながら素っ気ない言葉だったが、エリアスの腕を掴む手には、不思議と力が入っていた。
エリアスは私の顔を見上げ、ふわりと笑った。
「先輩、優しいですね」
「事実を述べただけです。あなたが倒れたら演習の成績に響く。私はその事実に基づいて行動しただけで――」
「でも、先輩の手、あったかいです」
「……それは体温の問題であって、優しさとは無関係です」
エリアスが何か言い返す前に、私は手を離して背を向けた。顔が少しだけ熱いのは、夕日のせいだ。間違いなく。
その光景を、訓練場の入り口から見ている人影があった。
コンラートは、足を止めたまま動けなかった。
ユリアーネがエリアスの腕を掴んで支えている。その手つきに、氷の敬語で武装したいつものグラウフェルス嬢の姿はなかった。代わりにあったのは、自然な――ほとんど反射的な――気遣いの動作。
あの表情を、自分は見たことがない。
断罪の前も後も、ユリアーネが自分に向けたのは常に無表情か、冷たい拒絶だけだった。それが当然だと思っていた。自分がしたことを考えれば。
だが、こうして他の誰かに見せるグラウフェルス嬢を目の当たりにすると――嫉妬、という単語が頭をよぎり、コンラートは慌ててそれを打ち消した。
違う。これは嫉妬ではない。体面の問題だ。
――本当にそうか?
コンラートは訓練場の入り口で踵を返しかけ、しかし足が動かなかった。代わりに口が動いた。
「……グラウフェルス。少し、話がしたいのだが」
ユリアーネが振り返った。夕暮れの光を受けた銀灰色の髪が風に流れ、紫水晶の瞳がまっすぐにこちらを見据える。
「授業以外でお話しすることはございません。失礼します」
一瞬。わずか一瞬だけ、目が合った。その瞳の奥に、かつて大講堂で見た怒りの残り火が灯っているのを、コンラートは見た。
ユリアーネはエリアスを促し、二人で訓練場を後にした。エリアスがちらりと振り返り、不思議そうな目でこちらを見たが、すぐにユリアーネの横に並んで走り去った。
残されたコンラートは、誰もいなくなった訓練場の夕暮れの中で、拳を握った。
自分がユリアーネに対して抱いているものが「体面の回復」ではないことを、もう認めざるを得なかった。
だが、それを認めたところで――何ができる?
一ヶ月前にあの女性を壇上に立たせ、衆目の前で罪人扱いした男に、今さら何ができるというのか。
答えは出なかった。夕陽が沈み、訓練場が闇に包まれるまで、コンラートはそこに立ち尽くしていた。
〜〜〜
演習本番まで二週間を切ったある日、私は図書室の奥で古い学籍記録を調べていた。
断罪事件の真相を探っていたわけではない――少なくとも、最初はそうだった。卒業後にグラウフェルス家が不利益を被らないよう、念のため断罪の経緯を記録として残しておこうとしただけだ。いわば「保険」である。
しかし、記録を辿る過程で、予想外の事実に行き当たった。
イゾルデ・フォン・ハルゲンドルフの実家、ハルゲンドルフ男爵家。その財務記録は学院の閲覧制限資料に含まれていたが、辺境伯家の令嬢には上位貴族としての資料閲覧権がある。そして、そこに記された内容は衝撃的だった。
ハルゲンドルフ男爵家は、三年前から深刻な財政難に陥っていた。領地経営の失敗、投機的な事業への失敗、膨らむ借財――。家の存続のためには、王家との縁組による庇護を得るしかない状況だった。
つまり、イゾルデが王子に取り入ったのは恋心ではなく、家の生存戦略だったのだ。そして「成績優秀で、王子の婚約者候補になり得る貴族令嬢」を排除することは、その戦略の一環だった。
私は標的のひとりに過ぎなかった。
さらに調べると、過去二年間で王子の周辺から不自然に「消えた」令嬢が二人いたことがわかった。一人は些細なスキャンダルが噂になり自主退学、もう一人は家の事情で突然転校。いずれも、イゾルデと接点があった。
証拠としてはまだ状況証拠の域を出ない。だが、パターンは明確だった。
図書室を出たとき、空はすでに暗くなっていた。寮に向かう石畳の道で、聞き慣れた声に足を止められた。
「先輩。遅いですよ、もう」
エリアスが寮の入り口の柱に背を預けて立っていた。夜風に蜂蜜色の髪を揺らしながら、いつもの笑顔を――ただし、少しだけ心配そうな翳りを含んだ笑顔を向けてくる。
「……待っていたのですか」
「先輩が夕食に来なかったから。コルネリア先輩に聞いたら『図書室にいるんじゃない?』って」
「お気遣いなく。調べ物をしていただけです」
「先輩」
エリアスは柱から背を離し、私の前に立った。翡翠色の瞳が、夜の薄闇の中でも不思議に明るく見えた。
「先輩、ひとりで抱え込みすぎです」
その声は、いつもの弾むような明るさではなかった。穏やかで、真剣で、年齢にそぐわないほどの芯の強さがあった。
「僕は先輩の後輩で、ペアで、――先輩が信頼してくれるなら、味方です。何か大変なことがあるなら、ひとりで全部背負わなくていいんです」
私は少し驚いた。この子犬のような少年にこんな表情ができるとは。
「……大したことではありません。ただ、断罪事件の裏にある事情が少し見えてきただけです」
「少しって言うとき、先輩はいつも大きなこと隠してます」
「……あなた、いつの間にそんな観察力を身につけたのですか」
「先輩のことはよく見てるので!」
また太陽が戻った。まったく、この子は切り替えが早い。
けれど、エリアスの言葉は正鵠を射ていた。ひとりで抱え込むのは私の悪い癖だ。辺境伯家の長女として、「自分が何とかしなければ」と常に考える習性が染みついている。
私は少し迷い、それから口を開いた。
「明日、教官に相談しようと思います。証拠を整理して」
「うん! それがいいです! 僕も一緒に行きましょうか?」
「あなたが来ると話がややこしくなりそうなので遠慮します」
「えー……」
「ただ」
私は歩き出し、エリアスの横を通り過ぎながら、足を止めずに言った。
「……ありがとうございます。心配してくれて」
背後で、エリアスが息を呑む気配がした。そして、
「先輩が『ありがとう』って言った……! 今日は記念日です……!」
「大げさです。それと、もうこの時間ですから寮に戻りなさい。消灯時間を過ぎて減点されても知りませんよ」
「はい! おやすみなさい、先輩!」
寮の自室に戻り、扉を閉めてから、私は小さく息をついた。
手のひらが少しだけ温かい気がしたのは、きっと気のせいだ。
翌日、私は教官に調査結果を報告した。教官は厳しい表情で資料を確認し、「学院として調査する」と約束した。
そこから事態は急速に動いた。
演習本番の五日前、緊急の教官会議が招集された。イゾルデ・フォン・ハルゲンドルフがユリアーネ・フォン・グラウフェルスの成績資料に不正アクセスしていた魔法痕跡が、正式に検出されたのだ。
さらに、調査の過程で過去二年間に他の令嬢たちへの工作――噂の流布、資料の改竄、証拠の捏造――が芋づる式に発覚した。
イゾルデは大講堂に呼び出された。
皮肉なことに、一ヶ月半前にユリアーネが立たされたのと同じ壇上に、今度はイゾルデが立つことになった。
「ハルゲンドルフ嬢。学院規則第十七条に基づき、あなたに無期限停学処分を申し渡します」
教官長の声が大講堂に響いた。イゾルデの顔から血の気が引いていくのを、私は客席の最後列から静かに見つめていた。
感情は、意外にも凪いでいた。
イゾルデが壇上で崩れ落ちるように泣き始めたとき、隣のエリアスがそっと訊いた。
「先輩、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。――ただ、あの人も追い詰められていたのだとは思います」
「先輩……優しいですね」
「事実を述べただけです」
エリアスは何も言わず、ただ隣にいてくれた。それだけで十分だった。
イゾルデの処分は、コンラートにとって二重の打撃となった。
まず、演習直前にペアを失うという実務的な問題。急遽、教官から割り当てられた代わりのペアとは当然準備が足りず、演習の成績は期待できない。
だが、それ以上に深刻だったのは、自分が信じて断罪まで行った相手が――イゾルデ・フォン・ハルゲンドルフが――そもそも自分を利用していたという事実を、学院中が知ることになったということだった。
大講堂で処分が読み上げられた後、コンラートは周囲の視線を感じていた。哀れみ。嘲笑。そして、「やはり」という確信に満ちた頷き。
――あの断罪騒動は、この令嬢に踊らされた結果だったのか。
――王子殿下は、人を見る目がないのだな。
声には出さずとも、視線がすべてを語っていた。
かつてユリアーネを衆目の前で告発しようとしたのと同じ場所で、今度は自分が裁かれている。直接的な処分はないが、「人を見る目のない愚かな王子」という烙印は、処分よりも重い。
宮廷での立太子争いにおいても、この一件は決定的だった。弟の側近が「兄殿下は判断力に欠ける」と宮廷に吹聴していると、側近から報告を受けた。反論する材料が、コンラートにはなかった。
因果応報――という言葉が、これほど正確に当てはまる状況も珍しい。
〜〜〜
対魔法実技演習の朝は、雲ひとつない快晴だった。
訓練場の地下に構築された大型魔法ダンジョン。各ペアが時間差で入場し、制限時間三時間以内に最深部の魔法結晶を獲得する。途中には魔法生物や各種トラップが仕掛けられ、ペアの連携力と判断力が総合的に評価される。
「先輩! 準備万端です!」
エリアスが拳を握って気合いを入れている。蜂蜜色の髪にヘアバンドを巻き、目がきらきらと輝いている。不安の色は微塵もない。この少年の心臓は、いったい何でできているのだろう。
「落ち着きなさい。テンションが高すぎると判断が鈍ります」
「はい! 落ち着きます! ……落ち着きました!」
「どう見ても落ち着いていません」
「大丈夫です、先輩と一緒なら何が来ても怖くないです!」
その根拠のない信頼が、不思議と心強かった。自分でも驚くほどに。
「……行きましょう。予定通り、序盤は私が先行します。あなたは後方支援。指示が変わったら、即座に対応すること」
「了解です!」
ダンジョンに入った瞬間、空気が変わった。魔法で構成された石壁が狭い通路を形作り、薄闇の中に魔力の気配が漂う。訓練とは違う、本番の緊張感。
最初の魔法生物――石の蛇が三体――が現れたのは、入場から五分後だった。
「《裂風刃》」
私の風魔法が空気を圧縮し、鋭い刃となって石蛇の胴体を切断する。残り二体が左右から迫るのを、追撃の風刃で叩き落とす。
「すごい! 先輩、かっこいい!」
「実況しないでください。集中が乱れます」
「すみません! でもかっこよかったです!」
序盤は順調だった。私の風魔法で敵を排除し、エリアスは魔力の消耗を随時回復してくれる。練習通りの連携が、本番でも正確に機能している。
中盤に差し掛かったとき、通路が広間に開けた。天井が高く、壁面には古代文字が刻まれている。ダンジョンの中間地点――ここからが本番だ。
広間の中央に、一体の巨大な魔法甲冑が佇んでいた。全高三メートル超。魔力で動く中ボスクラスの敵だ。
「作戦を変更します。あれは正面から削るには硬すぎる。私が風で機動力を落としつつ、関節部を集中攻撃します。回復は最小限に抑えて、あなたも太陽属性で弱点の闇属性コアを――」
言い終わらないうちに、魔法甲冑が動いた。
重い一撃が振り下ろされた。私は横に跳んで回避したが、甲冑の剣が石畳に叩きつけられた衝撃で、破片が散弾のように飛び散った。
その破片のひとつが、私の防御魔法の隙間を突いた。
鋭い痛みが右脇腹を走った。致命傷ではない――が、魔法の反動と合わせて体勢が崩れる。
「先輩!!」
エリアスが叫んだ。太陽属性の回復魔法が即座に発動し、温かな光が傷口を包む。痛みが和らいでいく。
「大丈夫ですか!? 先輩、血が――」
「問題ありません。続けます」
私は立ち上がり、杖を構え直した。右脇腹がまだ鈍く痛むが、動けないほどではない。演習は時間制限がある。ここで立ち止まるわけにはいかない。
「先輩」
エリアスの声が、いつもと違った。明るさが抜け、代わりに静かな強さが宿っている。
「嘘です」
「……何がですか」
「『問題ありません』が嘘です。先輩、痛いときは痛いって言っていいんですよ」
私は足を止めた。
エリアスの翡翠色の目が、まっすぐに私を見つめていた。心配でもなく、同情でもなく――ただ純粋に、「あなたのことを見ています」という強い意志を湛えた目。
その瞬間、何かが緩んだ。
断罪事件以来、私はずっと鎧を着ていた。冷たい敬語で武装し、弱さを見せず、すべてを自分の力で処理しようとしてきた。辺境伯家の長女として、断罪という理不尽に一人で立ち向かった女として、弱みを見せるわけにはいかなかった。
だけど、この少年の前では――
「……少し、休みます」
自分の口から出た言葉に、自分自身が一番驚いた。
エリアスの顔が、ぱっと明るくなった。太陽が雲の切れ間から顔を出すように。
「はい! 僕が守りますから!」
そう言って胸を叩くエリアスの目に、じわりと涙が浮かんでいた。
「……泣かないでください。演習中ですよ」
「泣いてないです! 目に太陽の魔力が入っただけです!」
「あなたの太陽魔法は自分の目には入りません。基礎魔法学の教科書、三十七ページ」
「うっ……」
――馬鹿だ、この子は。本当に、救いようのないほど。
けれど、その馬鹿さに、私は何度も救われている。
「……頼りにしています」
小さな声でそう言うと、エリアスの目から本当に涙がこぼれた。
「先輩……! 先輩が『頼りにしてる』って……! 今日二回目の記念日です……!」
「泣きながら記念日を数えないでください。みっともない」
「はい! すみません! 嬉しくて!」
この少年と話していると、緊迫した演習中だというのに気持ちが軽くなる。不思議なものだ。
短い休息の後、私たちは立ち上がった。
「行きましょう。作戦を修正します。あなたの太陽属性で甲冑のコアを弱体化させてから、私の風刃で一撃。やれますか?」
「はい! 先輩が一撃で決めてくれるなら、僕が全力でコアを炙り出します!」
エリアスの両手に、眩い太陽の光が灯った。黄金色の魔力が広間を照らし、魔法甲冑の胸部が反応して軋む。闇属性のコアが太陽魔法に灼かれ、装甲の隙間から露出する。
「――今です、先輩!」
「《穿風槍》」
圧縮された風が一条の槍となり、露出したコアを貫いた。魔法甲冑が沈黙し、砂のように崩れ落ちる。
「やった……! 先輩、やりましたよ!」
「ええ。よくやりました、エリアス」
初めて名前で呼んだことに、言った後で気がついた。エリアスは目を丸くし、それから今日一番の笑顔を咲かせた。
「先輩が名前で……! 今日は記念日が三回――」
「黙って先に進みなさい」
結果として、私たちのペアは最深部の魔法結晶を制限時間の半分以下で獲得し、全ペア中の最高評価を記録した。
教官からは「風と太陽の稀有な相性。特に連携の質が素晴らしい」と称賛を受けた。エリアスの編入評価も最高ランクとなり、正式に学院への在籍が認められた。
「先輩のおかげです!」
「あなた自身の実力です。私はただ効率的に動いただけ」
「先輩が効率的に動けるように、僕が全力で支える。それが僕たちのチームですよね!」
――僕たちのチーム。
その言葉が胸の奥に落ちて、静かに温かいものを広げた。
演習の結果発表の場に、コンラートの姿もあった。彼のペアは代役との急造チームで、結果は中位――王子としては屈辱的な成績だった。
コンラートの視線がこちらに向けられたのを感じたが、私は振り返らなかった。
もう、振り返る理由がなかった。
〜〜〜
演習が終わり、学院は卒業に向けた最終期間に入った。残り二ヶ月。
教室の席順は変わらない。A列3番の私と、隣のコンラート。半年間ずっとそこにあった組み合わせ。
だが、空気は確かに変わっていた。
王子は、もう些細な口実で話しかけてこなくなっていた。消しゴムも借りに来ないし、教科書のページを聞くこともない。授業中は黙々とノートを取り、休み時間になれば静かに席を立つ。
それはある意味で、半年前に私が望んだ状態そのものだった。
――話しかけてこないでもらっていいですか。
あの願いが、ようやく叶ったのだ。
しかし奇妙なことに、この沈黙にはかつての気まずさがなかった。以前の沈黙は、言いたいことを飲み込んだ結果の重苦しいものだったが、今の沈黙は――何というか、静かな諦めに似ていた。
ある日の午後、授業終了の鐘が鳴った後。
他の生徒たちが三々五々席を立ち、教室が閑散としていく中で、コンラートは席に残っていた。私は鞄に教科書を詰めながら、まだ残っている数人の生徒の気配を意識していた。
「……グラウフェルス」
隣から、低い声が聞こえた。
私は手を止め、横を向いた。
コンラート・フォン・シュヴァルツブルクが、初めて――この半年で初めて――正面から私の目を見ていた。
目を泳がせない。視線を逸らさない。虚勢もなく、気まずさもなく。ただ、静かに。
「あの断罪は、私の過ちだった」
教室の空気が、凍った。残っていた数人の生徒が息を呑む気配がした。
「他人の言葉を鵜呑みにし、確認も怠り、お前を――あなたを、不当に傷つけた。王族の名を持ちながら、その権力を誤った方向に使った」
コンラートは一度目を閉じ、再び開いた。碧い目に、揺らぎはなかった。
「――すまなかった」
王族が、臣下に頭を下げている。
この王国の歴史の中で、それがどれほど異例のことか。側近たちが知れば卒倒するだろう。立太子争いにおいては致命傷にすらなりかねない。
それを承知の上で、この男は今、謝罪した。
数秒の沈黙が流れた。教室の時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。
「……半年かかりましたね」
私の口から出たのは、その一言だった。
許す、とは言わなかった。許さない、とも言わなかった。
代わりに、こう続けた。
「二度と、他人の言葉だけで人を裁かないでいただけますか。王族であるならば、なおのこと。あなたの言葉ひとつで、人の人生が変わるのです。その重みを知ったうえで、権力を振るってください」
それは、断罪された被害者の恨み言ではなかった。
辺境伯家の令嬢として、この国の未来を担う王族に向けた、率直な助言だった。私なりの――この半年間の決着のつけ方だった。
コンラートは長い沈黙の後、「……肝に銘じる」とだけ答えた。
そして、前を向いた。
その横顔に、虚勢はなかった。気まずさもなかった。初めて見る、静かな覚悟のようなものがあった。
この男は、半年かかってようやく、王族として一歩を踏み出したのかもしれない。
だが――それはもう、私の物語ではない。
私は鞄を手に取り、席を立った。
「失礼します」
教室を出ると、廊下でエリアスが壁にもたれて待っていた。私の顔を見て、何かを察したように小首を傾げる。
「先輩、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。……少し、長い話が終わっただけです」
「そっか。お疲れさまです、先輩」
エリアスは深く聞かず、ただ隣に並んで歩き出した。その距離感が心地よかった。
「先輩、今日の夕飯、食堂のメニューがシチューらしいですよ! 先輩シチュー好きでしたよね!?」
「……なぜ私の好物を知っているのですか」
「観察してますから! 先輩、シチューの日はスープをおかわりするんです。普段は絶対おかわりしないのに!」
「……あなたの観察力は、もう少し学業に活かしてください」
「先輩の観察は学業より大事です!」
呆れるべき台詞だ。けれど、口元が緩むのを止められなかった。
廊下の窓から差し込む夕日が、エリアスの蜂蜜色の髪を金色に染めている。太陽属性の魔法使いに、夕日はよく似合う。
――ああ。
と、私は思った。
この温かさを、いつから心地よいと感じるようになったのだろう。
〜〜〜
三月。
王立学院の卒業式の朝は、よく晴れていた。
寮の自室で礼装に袖を通しながら、私は窓の外を見つめていた。学院の庭園に植えられた白木蓮が、春の風に花弁を散らしている。三年間、毎朝この窓から見てきた景色。今日が最後だ。
銀灰色の髪を丁寧に整え、いつもより少しだけ時間をかけて結い上げる。鏡の中の自分は――半年前と比べて、少し変わったような気がした。表情の硬さが、わずかに解れている。
半年前のことを思い出す。
あの席替えの日、私は絶望していた。よりにもよって、断罪を仕掛けてきた王子の隣。残り半年、話しかけてこないでもらっていいですか――と、心の中で何度も叫んだ。
結果として、王子は半年かかって謝罪した。遅すぎるけれど、しないよりはましだった。イゾルデの陰謀は暴かれ、処分された。私の名誉は完全に回復した。
そして――予想もしなかったものを、この半年は私にもたらした。
窓の下から、よく知った声が響いてきた。
「先輩ーーー!」
見下ろすと、エリアス・フォン・フリューリングが寮の前の石畳に立っていた。在校生用の礼装を着ているが、ネクタイが見事に曲がっている。そして、相変わらずの満面の笑み。
「先輩! 卒業式、一緒に行きませんか!」
窓を開けた。春の風が部屋に流れ込む。
「在校生が卒業生の寮の前で叫ぶのは、学院規則に反していませんか」
「調べました! 反してません! 叫ぶことに関する規則はないです!」
「……わざわざ調べたのですか」
「はい! 昨日の夜、規則集を全部読みました!」
その行動力を、本当に学業に活かしてほしい。
「すぐ降ります。そこで待っていなさい」
「はい!」
身支度を最終確認し、寮の階段を降りる。一段一段がやけに短く感じた。三年間住んだ寮を出るのは最後だというのに、足取りに重さはなかった。
玄関を出ると、エリアスが背筋を伸ばして立っていた。
「先輩! あの、これ――」
差し出されたのは、小さな花だった。
太陽花――南方原産の、手のひらに乗るほどの黄金色の花。ひまわりに似ているが、もっと小さく、そして魔力を帯びてほのかに光っている。
「太陽花……?」
「はい! 南方の実家から取り寄せました! この花、花言葉があるんです」
エリアスの翡翠色の目が、まっすぐに私を見つめた。
いつもの天真爛漫な笑顔。だけど、その奥に――今まで見たことのない、真剣な光が宿っている。
「『あなたに向かって咲く』――です」
春の風が、金色の花弁をわずかに揺らした。
「先輩がこれからどこに行っても、僕、先輩のところに咲きに行きますから」
世界が、少しだけ止まった気がした。
……いや、止まったのは世界ではない。私の思考だ。
数秒間、私は何も言えなかった。額に手を当てた。いつもの仕草。混乱したとき、困惑したとき、自分を落ち着かせるための動作。
だが、その手の隙間から――自分でも制御できないほどに――口元が弧を描いていた。
「……意味をわかって言っているのですか」
「はい! 調べました! 花屋のおばさんにも確認しました!」
「花屋のおばさんに確認……」
「『この花を贈るのは、ずっとあなたのそばにいたいという意味ですよ』って教えてもらいました! だから間違いないです!」
この少年は、花屋のおばさんにお墨付きをもらってから告白に来たのか。
馬鹿だ。本当に、どうしようもなく、救いようのないほど馬鹿正直だ。
策略も計算もない。裏の意図もない。ただまっすぐに、自分の気持ちを太陽のように差し出してくる。
半年前の私なら、こんな告白は一蹴していただろう。時間の無駄だと切り捨て、感情に構っている暇はないと背を向けていたはずだ。
けれど、今の私は――。
「…………あなたは本当に、救いようのないほど馬鹿正直ですね」
「先輩にそう言ってもらえると嬉しいです!」
「褒めていません」
「わかってます! でも嬉しいです!」
私は太陽花を受け取った。小さな花は、手のひらの中でほのかに温かかった。太陽属性の魔力を帯びた花。この少年そのもののような、無条件の温かさ。
「……大切にします」
「え……! 先輩、それって――」
「花を、です。花を大切にすると言っただけです。それ以上の意味を読み取らないでください」
「はい! でも花を大切にしてくれるだけで充分嬉しいです!」
「……はぁ」
ため息をひとつ。けれど、それが半年間で一番穏やかなため息だったことを、私は自覚していた。
寮の前から学院の正門へ向かって歩き出す。エリアスが当然のように隣に並ぶ。半歩だけ後ろに下がっているのは、卒業生である私への敬意だろうか。それとも、隣を歩く許可をまだもらっていないと思っているのか。
「エリアス」
「はい!」
「隣」
「……え?」
「半歩下がらなくていいと言っています。隣を歩きなさい」
エリアスの目が大きく見開かれ、それからくしゃりと笑った。今日何度目かの満面の笑み。でも、その目尻には光るものがあった。
「はい……!」
「泣かないでください。式の前に顔を腫らすつもりですか」
「泣いてないです……! 嬉しくて目から汗が……」
「人体構造的にあり得ません」
エリアスが慌てて袖で目元を拭う。その所作があまりにも不器用で、私は足を止めた。
「……ネクタイ」
「え?」
「曲がっています。じっとしていなさい」
手を伸ばし、エリアスのネクタイを直す。結び目を整え、位置を正す。その間、エリアスは石像のように固まっていた。耳まで真っ赤に染まっているのが視界の端に映る。
「――はい。これでいいです」
「あ、ありがとうございます……先輩の手、今日もあったかいです……」
「体温です」
「……体温、好きです」
「…………歩きますよ」
顔が熱い。春の日差しのせいだ。断じて。
学院の正門へ向かう並木道を、二人で歩く。白木蓮の花弁が風に舞い、石畳の上に春の模様を描いている。
すれ違う生徒たちが「あ、グラウフェルス先輩とフリューリング」「一緒に来てる……」「花持ってない?」とひそひそ囁くのが聞こえたが、もう気にならなかった。
正門が見えてきたとき、反対方向から一人の人影が歩いてきた。
金髪碧眼。王族の礼装。
コンラート・フォン・シュヴァルツブルクが、正門に向かって歩いてくる。
距離が縮まり、すれ違う瞬間――コンラートの視線が、私とエリアスの間を行き来した。エリアスが私の隣を歩いていること。私の手に小さな太陽花が握られていること。そして――私の表情が、半年前とは比べものにならないほど穏やかであること。
コンラートは一瞬だけ目を伏せた。
それは、諦めでも未練でもない――ただ静かに「理解した」という表情だった。
彼は何も言わず、通り過ぎていった。
私も振り返らなかった。
「先輩、今の……」
「何でもありません。行きましょう」
「……はい!」
エリアスは一瞬だけ後ろを気にしたが、すぐに前を向いて笑った。聡い子だ。聞かなくていいことを、聞かない判断ができる。そういうところが、あの子犬のような見た目からは想像できないほど――好ましい。
好ましい、と思った自分に少し驚いた。けれど、否定はしなかった。
正門をくぐると、式場に向かう卒業生の列ができていた。コルネリアが列の先で手を振り、「ユリアーネ! こっちよ!」と呼んでいる。その目がエリアスを捉え、にやりと笑った。後でいろいろ聞かれるのだろう。覚悟はしている。
「先輩」
エリアスが足を止めた。在校生はここから先、別の入口に向かう。
「卒業、おめでとうございます」
まっすぐな声だった。いつもの弾むような明るさと、今日だけの少しの寂しさが混ざった声。
「先輩がいなくなったら、学院寂しくなるなぁ……」
「あなたにはあと一年あります。しっかり学業に励みなさい」
「はい。……でも、さっきの約束、忘れないでくださいね。僕、先輩のところに咲きに行きますから」
「約束した覚えはありませんが」
「花を受け取ってくれたじゃないですか! あれは約束です!」
「独自の解釈が過ぎます」
「えへへ」
笑っている。泣きそうな顔で笑っている。
私はため息をつき――それから、太陽花を胸ポケットに挿した。礼装の深い紺色に、黄金色の小さな花がひとつ。
「……先輩」
「卒業式に花がないのは寂しいので。実用的な判断です。それ以上の意味はありません」
「…………はいっ!」
エリアスの顔が、今日一番の――いや、私が出会ってからの半年間で一番の笑顔になった。目尻から涙がこぼれているが、もう指摘しなかった。
「では。卒業式で」
「はい! 行ってらっしゃい、先輩!」
私はコルネリアの方へ歩き出した。三歩、五歩、十歩。
振り返らないつもりだった。けれど、足が止まった。
ほんの一瞬だけ振り返ると、エリアスがまだそこに立っていた。満面の笑顔で手を振っている。
私は小さく手を上げて応え、前を向いた。
春の風が、胸元の太陽花を揺らした。
最後まで読んでくれた皆様、本当にありがとうございます!
他にもいくつか短編を掲載しています。私のユーザページから見れるので、読んでもらえればとても嬉しいです! 感想、リアクションもお待ちしています。よろしくお願いします!




