まどろみの異人館カフェ
◯
一階の東側、庭に面したカフェスペース。
その入口に立つと、ふわりと甘い香りが鼻先を掠める。
カーテンを開けた大窓からは真っ白な陽光が差し、テーブルクロスのかかった複数の円卓を照らし出していた。
長い間使われていなかったその円卓の一つに、今は二人連れの女性が腰掛けている。
そこへ、厨房から出てきたエプロン姿のオーナーが、トレーを片手に声を掛けた。
「お待たせしました。日替わりケーキセットです」
穏やかな彼の声が部屋の空気を震わせ、女性たちは「わぁ、美味しそう!」と顔を綻ばせる。
運ばれてきたのはガラスのティーポットに入ったハーブティーと、それから桃の果肉をたっぷり乗せたタルトだった。
「ごゆっくりどうぞ」
にこりと微笑んで去っていくオーナーを、女性たちはしばらく目で追っていた。先ほどはケーキに対して歓声を上げていた二人だが、それ以上にオーナーを見る目も輝いている気がする。
そのうちファンクラブでもできるんじゃないかな……なんてぼんやりと考えながら、私も彼の後を追って厨房に入った。
「順調そうですね、オーナー」
「やあ絵馬。桃のタルト、好評みたいだよ」
私を見るなり、彼はぱっと笑みを浮かべる。その顔は、まるで憑き物が落ちたように晴れ晴れとしていた。
このカフェは、つい今朝から再開されたばかりだった。
おばあ様がここを閉めてから数年の時を経て、オーナーの強い希望によってついに復活を遂げたのだ。
とはいっても、まだ試験運転に近い状態で、営業は昼前後の十時から十四時まで。メニューは日替わりケーキセットのみで、ケーキは私とオーナーが朝方に完成させたものだけだ。
まだ本調子までは程遠い状態。それでも、この空間で誰かが美味しそうにケーキを食べてくれる様子は、私たちが夢見ていた光景そのものだった。
「ようやく、夢が叶いましたね」
私が改めて言うと、オーナーはくすぐったそうに笑った。
「うん。でも、まだまだやりたいことはたくさんあるんだ」
「たくさん、ですか?」
「ああ。細かいものを入れたら数えきれないけど……とりあえず次の目標は、絵馬に名前で呼んでもらえることかな」
あまりにも自然な流れでそんなことをいわれて、私は反応が遅れた。
「えっ」とようやく戸惑いの声を漏らすと、彼はその場を誤魔化すようにシンクのお皿を洗い始める。
その耳がほんのりと赤くなっているように見えるのは気のせいだろうか。
「……できることなら、ルナも一緒にここに立ってほしかったんだけどね」
やがてぽつりと漏らされた彼の言葉に、私はハッとした。
ルナさんも一緒に、この厨房に立ってほしかった。
あるいはホールで、一緒にお仕事がしたかった。
けれどそれは、もう叶わない。
なぜなら彼女は——
「にゃあーーん!」
厨房の扉の外から、何やら大声が上がった。
人の声、ではない。おそらくは猫の鳴き声だ。
「あの声は……」
あることに思い当たり、私は慌てて扉を開ける。
すると、足元の絨毯の上にはちょこんと一匹の毛玉が座っていた。
すっと背筋を伸ばしたしなやかな体に、美しい青灰色の毛。三角形の二つの耳に、細長い尻尾。
「ルナさん。どうかしましたかっ?」
猫の姿のルナさんが、そこに座っていた。
彼女はカフェスペースの入口に鼻先を向け、「なーん」ともう一鳴きする。
促された先を見てみると、入口で新しいお客さんがオロオロとこちらを窺っていた。
私とオーナーは顔を見合わせ、慌てて私がホールに出る。
「す、すみません! すぐお伺いしますね!」
どうやらルナさんは「来客だぞ」と教えてくれたらしい。私は彼女に小さくお礼を言って、お客さんのもとに向かった。
先月、この館へ戻ってきたルナさんはすでに高齢のために体が弱っていた。
もはや人間に変身する余裕もなく、おそらくはそう先も長くない。
余生はただ穏やかに、自らの望んだ場所で過ごすことになる。
その最後の場所として、彼女はこの館を選んでくれたのだ。
普通の猫に戻ってしまった彼女は以前のように仕事はできないけれど、そこを補うのが私の役目だ。
館は今日もなんとか回っている。
そして少しずつ、前に進んでいる。
「あのー。ここって、今やってますか? 予約してなくても入れますか?」
入口で待機していたお客さんは、丁寧に確認を取ってくれる。
私は「はい、大丈夫ですよ!」と頷いてから、とびきりの笑顔で歓迎した。
「ご来店ありがとうございます。『まどろみの異人館カフェ』、本日も営業中です!」
神戸北野 まどろみ異人館の魔法使い(終)




