【7】
赤子が来てから忙しくなった。いつ泣くのか分からないし、その音量がどれほど大きいのか、凛は初めての体験に戸惑っていた。こういう時に頼れるのは、母親の定だった。
「はいはい。今度は何で泣くんですか?」
簡単にあやしてしまうので、凛と優は驚いていた。さすがに子どもを2人育てただけある。しかし面倒を見ているのは、赤子だけでなく、優に対してもだった。常に目を光らせ、
「栄養のあるものを食べなきゃ駄目よ」
と食事は凛の部屋でとっているのだが、バランスの良い野菜中心の食事だった。
「赤ちゃんには母乳が必要ですからね。だから優ちゃんが健康な状態じゃないと、赤ちゃんも体調が悪くなっちゃうからね」
「…はい。ありがとうございます」
礼を言う優は本当に感謝しているようで、定のことを本物の母親のように慕っているらしかった。
「そういえば赤ちゃん、何ていう名前なの?」
凛が興味をもつと、優は少しはにかんで答える。
「美明っていうの」
「美明ちゃんか…。いい名前だね」
手を差し伸べると、小さな手がぎゅっと握り返してくれた。凛は驚くが、柔らかな優しい感じに癒やされる。
ー小さくてかわいいな。
そう思いながら、手を動かし、あやしつける。赤子ー美明が寝たところで、凛は申し訳なさそうに告げる。
「あのね、優。落ち着いて聞いて欲しいんだけど」
「何?」
「暴力夫ー慎二だっけ? 店の前をうろついているのよ。困ったことに」
凛は大きく息を吐き出す。さすがに包丁は持っていないが、優が出てこないか見張っているようだった。
ー普通にしていれば、優しそうな男性に見えなくもないけれど。
しかし油断はできなかった。ただ優が言うには、
「そのうちいなくなるわよ。あたしを必要としているんじゃなくて、自分の感情をぶつけられる、弱い女を探しているだけだから。気にしないで」
「そうなの! だったら最低なの!! 女のほうが力が弱いのを知っているくせに!!」
「いいのよ。そういう人間もいるってことを知ってくれれば」
そう言うと、優は申し訳なさそうに続ける。
「お店にとっては、迷惑よね? 大丈夫?」
「ああ、それなら大丈夫。うちのお父さん、ああ見えて強いから」
実際、慎二に目を光らせており、彼は中に入って来ようとしなかった。改めて自分の父親を尊敬し、嬉しくなる。
「そう言えば、優、実家には…?」
今まで何で聞かなかったのが不思議だが、思いきって聞いてみる。
優は躊躇った後、正直に言ってくる。
「お父さんとお母さんとは仲が悪いの。その…結婚したことも気に食わなかったというか…」
「…そうなの?」
こくりとうなずく優に、凛は雅巳を重ねてみる。
ー色んな家族の形があるのね。
世の中、まだ知らないことだらけだと思い知る。だから優にはできるだけ優しく接するように気をつける。
「優、何でもいいから言ってね。協力するから」
「ありがとう。…あ、起きるかな?」
優が急きょ用意した赤子専用の床を覗き込む。少しむずむずと動いたが、起きる心配はなさそうだった。
「美明ちゃん、どう?」
定が来たので、凛は素直に言う。
「よく眠っている」
「そう。それは良かった」
定も床を覗き込み、微笑む。
「あの、おば様、ありがとうございます。いつも見てくれて」
恐縮そうに言う優に、定は母親のように接する。
「いいのよ。それよりも体調は…?」
「調子がいいです。よく眠れるようになりましたし」
「そう。赤ちゃんは四六時中みていないと、駄目ですからね」
「はい。どうもありがとうございます」
「よろしい。赤ちゃんは泣くのが仕事。うちの家族は誰もうるさいと言わないし、むしろ可愛くて仕方がないみたい」
本心を告げてくれたようで、優が泣き出す。
「どうしたの? 大丈夫?」
凛が聞くと、優は手巾で涙を押さえながら言う。
「皆、優しいから…。突然、お邪魔したのに。こんなによくしてくれるとは思わなかった」
凛と定は黙って聞いていた。誰かが手を差し伸べてくれるのを、優は待っていたのかと知り、悔しくなる。
ー何で誰も助けないのよ!! 普通、小さな存在がいたら、手を差し伸べるのが人間でしょ!?
喉元まで出かかったのだが、やめた。今の優は泣くだけ泣かせたほうがいいと判断する。
「さて、優ちゃん。ご飯はどうする? 食べられる?」
「…はい。ありがとうございます」
涙を拭いた優はしっかりと答える。ここ数日で段々と良くなってきているのが、目に見えて分かる。
「凛、手伝って」
「はい、お母さん。優、待っててね」
「うん」
2人は優と美明を残し、厨房へ向かったのだった。




