【5】
「えっと、墨は…」
凛は品出しをしている最中で、店内に客はいなかった。
「凛、そろそろ休もうか」
大雅の声に、凛は顔を向ける。
「あと少しだから待って」
「分かった」
「次は…きゃあ!!」
いきなり誰かが店の中に飛び込んできたので、凛は慌てて横に跳ぶ。
ー誰? 何?
心臓のどきどきをおさめつつ、様子をうかがえば、店内に駆け込んで来たのは女性だった。
「…。あれ?」
落ち着いて見れば、顔見知りだった。まだ少し動揺しながら、凛は声をかける。
「…優?」
そう告げると、優ー高優は顔を向けてくる。しかしその面持ちは恐ろしいものだった。目は血走っているし、頰はこけているし、疲れている様子だった。
ー一体、何があったの?
優の家は近所なので、よく遊んでいた仲なのだが、彼女が結婚してからは遠のいていた。赤子が生まれたと噂は聞いていたが、本当に赤子を抱いているのだった。
「あの…優…?」
本人かどうか怪しみつつ聞くと、彼女はぎょろりと睨んでくる。悲鳴をあげそうになったが、よく見てみると、やはり優なのである。
「何だね、これは…」
大雅も驚いたようで、優の変わり果てた姿を見ている。2人が躊躇していると、彼女が、「しっ」と人差し指を立てる。とうやら外を気にしているので、誰かに追われているのかもしれない。
「詳しいことはあとで。申し訳ありまー」
「ーこら!!」
優が喋り出したところで、男が店に乱入してきた。さらに凛と大雅はぎょっとし、驚いた面持ちとなる。
ー今度は何? 何? 誰?
よく見ると、男はがらのわるそうな表情で、駆け込んできた優を睨みつけている。手には包丁を持っていた。
ー包丁!? …というか、誰?
優は怯えており、赤子が泣きだす。男はじりじりと優に迫っていて、口の端を上げてくる。
「ようやく捕まった」
その声は優しさの欠片もないもので、気味が悪かった。袍ははだけているし、髪もぼさぼさだし、まともな職についているわけではなさそうだと凛は推測する。
「おい、お前!! 行くぞ!!」
男の命令に、優は拒絶する。
「嫌よ!! あたしはここに残る!!」
「何!? ふざけんな」
足元にあった瓶を蹴られ、高い音が響く。店中のものを壊されないか心配だった。
ー優は嫌がっているし。しかも
くたびれた感じから、10代には見えなかった。20は老けて見える。男のほうは痩せており、おそらく20代くらいだろうが確信はなかった。
ー何がどうなっているのよ、もう!!
店中、大騒ぎで人が集まってくる。とりあえず何とかしないとと、男の前に立ちふさがる。
「ちょっと待った!!」
「…誰だ、お前。邪魔だ!!」
包丁を振り回してしたので、慌てて防御しようとする。
「待ちなさい!! 危ないだろう!!」
大雅も参戦し、怯える優を守ろうとする。
「あなた、誰なの?」
内心怖がりつつも、友達のために凛は聞く。男は包丁を振り上げたまま、答えてくる。
「お前に答えるつもりはない。どこか行け」
「どこかって…あのね!!」
「凛、やめて!!」
後ろから襦裙を引っ張られ、凛は驚く。同い年で可愛い子だなと思っていたのに、手はがさがさして酷いものだった。
「やめてって、一体、誰なの? 優?」
「…。旦那なの」
ぽつりと言われた言葉に、凛は「は!」と返す。嘘だろうと思ったのだ。しかしよく聞こえなかったのかと思ったのか、優がもう一度、少し大きな声で言ってくる。
「旦那なの!!」
「…え。本当に?」
男をまじまじと見、固まる。優の旦那を見るのは初めてだった。
「ー妻を渡せ」
ひとまず包丁を下ろし、男が手を伸ばしてくる。しかし凛は後ろを庇い、立ちふさがろうとする。
「駄目よ。渡したら殺すかもしれないし」
凛の言葉は真剣そのもので、赤子が火のついたように、ずっと泣き続けている。
後ろからまた襦裙を引っ張られ、「何?」と振り向く。
「本当なのよ。あたしの旦那ー高慎二なの」
「…。この人が…」
年上と結婚したと聞いていたが、どうも仲の良い夫婦には見えない。どちらかというと、優が怯えるうさぎみたいなもので、慎二と呼ばれた男はそれを狙う狼に思えた。
ーとにかく、今は助けてあげなきゃ。
凛は腕を広げると、優を庇おうとする。
「渡すのはお断りします。まずは包丁を置いて」
「何!? 俺に命令するつもりか。この馬鹿女!!」
間近まで来られたので、避けようとしたのだが、優に襦裙を握られており、動くことができなかった。慎二の平手打ちをくらい、「痛っ」と短く声をあげる。
「凛!! あのお客様」
さすがに見ていられないようで、大雅が割って入ってくる。外には人だかりができはじめ、「大丈夫?」とか「何かしら」とか色んな声が飛び交う。
「凛、大丈夫か?」
大雅が心配そうに言ってきたので、手を挙げて大丈夫と無言で告げる。しかし慎二に叩かれたところはじんじんと痛み、熱かった。
ーやったわね…!! この酒乱!!
慎二の口からは酒の香りがし、臭かった。凛は赤い頬を押さえながら、慎二に向かって言う。
「暴力禁止!! 包丁もなし!!」
「何だと、この女…」
「こら凛。黙ってなさい」
「お父さん…!! でも…!!」
「いいから」
大雅に説得され、凛は優を振り向く。
「大丈夫? 平気?」
無言でうなずく彼女は、酷く怯えていた。赤子も「助けて!!」と必死で訴えている。大雅は慎二と向き合うと
「これ以上、騒ぐと役人を呼びますよ」
と凄んだ。さすがに酒に酔っているだけあり、「ははっ」と慎二は笑う。
「呼びたければ呼べ!! …おい、うるさいぞ!! 見せ物じゃないんだからどこかへ行け!!」
慎二の言葉に、周りの聴衆も頭にきたのか、野次を飛ばしてくる。
「やめろ!! 赤ちゃんがかわいそうだろ!!」
「そうよ!! 凛ちゃんに手をあげるなんて…!!」
そうだ、そうだと、もう店内はぐちゃぐちゃ状態だった。慎二もようやく状況が飲み込めたのか、「ち」と舌打ちする。
「おい、優!! 帰るぞ!!」
「嫌!! こ、怖いもの!!」
本当に怯えており、慎二と一緒にいたら殺されそうだと思い、凛は優の体を抱きしめる。
「優に手出しはさせないわよ!!」
頰が腫れ始めているのか、痛かったが精一杯の勇気を出す。大雅も慎二に負けずと言い返す。
「お客様、お帰りください。当店では扱いきれません」
冷ややかな声音に、凛のほうがぞっとする。
大雅が本気で怒ると怖いことを兄の清から聞いて知っているが、直面するのは初めてだった。
「ちっ。仕方ねえ。優、帰ってくるんだぞ!!」
捨て台詞を吐くと、「どけ、どけ」と言いながら、慎二が大股で去っていく。その後ろから石を投げつける人がいたり、「2度と来るな」と言ってくれる人がいたりと、大騒動になってしまった。
「凛、大丈夫か?」
大雅が急いで振り返り、赤くなった頬を見る。顔つきが怖いものになり、低い声で言ってくる。
「あの男…。許せない」
「お父さん、私なら大丈夫だから」
「そういうわけにはいかない。嫁入り前なのに…」
頬に当てる手に、大雅の手が重なり、さすってくれる。その暖かさに片目から涙がこぼれた。慌てて手巾で拭くと、
「それよりお父さん、皆さんをどうにかしないと」
「ああ、そうだな」
大雅が凛の頭をぽんと叩き、群集のほうへ歩いていく。
「お騒がせして誠に申し訳ありません。皆様には感謝しております」
「大丈夫なのかい? 凛ちゃんは?」
「赤子は? どうするんだ?」
皆、思い思いのことを大雅に告げてくるので、彼は冷静さを取り戻し、言う。
「もったいないお言葉、ありがとうございます。あとは私達が何とかしますから、今はお客様、おひきください。よろしくお願いいたします」
大雅が丁寧に頭を下げたので、凛も頬を押さえながら真似る。相変わらず優は凛の襦裙を握ったままだった。
「そうかい? それなら…」
「何かあったら言えよ」
「はい、ありがとうございます」
周りの人々が少しずつ去っていく。最後の1人が去るまで大雅と凛は見送ったのだった。
ーとりあえず、おさまったわね。
さすが大雅と嬉しさを噛みしめ、彼がこちらに来るのを待つ。
「凛、よく頑張った。頬は…?」
「痛むけど、しょうがない。冷やせば治ると思うし」
「そうか。しかし心配だな。せっかくの綺麗な顔が」
「綺麗な顔がって、お父さん、大げさな」
「大げさなものか。いいかい、凛。勇気を出して飛び込むのもいいが、周りをもっと見なさい。そうじゃないと、自分だけ犠牲になって何も残らなくなってしまうから。真っすぐなだけじゃなく、機転をきかせるんだ。分かったね?」
「…。うん、ごめんなさい」
頭を下げると、大雅がようやく安堵の息を吐いた。
「…それで、その、後ろの娘は…?」
「ああ、この娘は…」
「ーあの!!」
ようやく優が割って入り、場の雰囲気が少し緊張する。しかしぼろぼろの優は、気にしていられるような状態ではないらしく、頭を深々と下げてくる。
「申し訳ありませんでした!! あたしのせいで…!!」
「いいのよ、優。ーあのね、お父さん、こちら小さい頃からよく遊んだ」
「高優と申します。突然申し訳ありません!!」
「…。凛のお友達か。なるほど」
大雅は顎に手をあて、じろじろと優を眺める。他人相手には失礼かもしれないが、父親として凛を守ろうとしているのが伝わってくる。
「…確かに面影があるような」
「お父さん、覚えているの?」
「娘のことだ。何でも知っておくのが親のつとめだ」
「なるほど」
凛が感心したように言うと、優も驚いたように言ってくる。
「あたしのこと…。あの、覚えて…?」
「ああ、覚えているよ。たまに店に来てくれただろう?」
「はい!! あの…!! その…!!」
嬉しいのか、優の目から涙がこぼれ落ちていく。
「大丈夫、優?」
「手巾を使いなさい。ーその前に、赤子をこちらへ」
大雅が手を差し出すと、優は言われるままにした。
「よしよし。怖かったね。もう大丈夫だよ」
あやし始めた大雅を、凛と優は見つめる。外の眩しい光が差し込んでおり、穏やかな雰囲気が戻ってきた。
「…凛、そのごめん」
「何が? どうしたの?」
「あの、頬…。痛いでしょう?」
指摘され、凛は努めて明るく言う。
「これくらい平気よ。男の子と喧嘩したと思えば」
「喧嘩…。ふふっ。懐かしい」
昔を思い出したのか、優がようやく安堵したようだった。そこで質問することにした。
「今のは旦那さんでいいの?」
「…。うん。その、ごめん」
「優が謝ることじゃないわ。それにしても」
凛は優の頬を撫でてやる。なぜか自然と体が動いたのだ。すると優がさらに泣き出した。
「え、ちょっと…」
「凛、ここではなんだから奥へ行きなさい」
「はい、お父さん。でも赤ちゃんは…」
「私が見るわ」
定がやって来て、大雅から赤子を受け取る。
「よしよし。怖かったね。もう大丈夫よ」
さすが母親というべきか、赤子の激しい泣き声が少しおさまった。
「お母さん、ありがとう」
「ありがとうございます。あの、もしかしたらおしめか、その」
「ここは雑貨屋よ? 何でもあるのよ。それよりも早く中へ。客寄せ動物は嫌でしょう?」
「うん。行こう、優」
「…いいの? 面倒くさくない?」
「いいから。行こう。さあさあ」
手を差し出すと、優がようやく少しだけ体から力を抜いた。昔は明るかったのに、彼女に何があったのかと思いたくなるほどだった。
ーでも私のところへ来たということは、助けてあげないと。
見捨てるような薄情な真似はできなかった。雅巳には「お人好し」と言われそうだが、今は優のことで、頭がいっぱいだった。
「優、行こう」
「うん」
ようやく優が立ち上がってくれたので、2人は奥へ向かったのだった。




