【18】
「嫌なことはすぐに忘れろ」と言われたので、すっかり忘れたとある夕方。凛が散歩から帰って来ると、室内は良い香りが漂っている。
「ーただいま。これ、何の香り?」
厨房を覗くと、母親の定が「うふふ」と笑う。
「きのこをいただいたの」
「きのこ? 誰からもらったの?」
話しながら、凛は定の側に近づいていく。中華鍋の中に、卵とじの炒め物になったきのこが入っていた。
「近所の白さんから、お裾分けしてもらったの。何でもたくさんもらったから、分けてあげるって」
「ふうん。でも私、きのこはちょっと…」
本音を零すと、凛は肩を竦める。どうもきのこは、食感も味も駄目だった。
「そうね。凛はきのこが苦手だものね」
定が「ふふ」っと笑い、できた炒め物を皿に盛る。その時、清が厨房にやって来た。
「ーただいま」
「あれ、お兄ちゃん、お帰り。今日は遅かったね」
いつもなら、凛が散歩に出ている間に帰って来るのだが、今日は仕事が長引いたようだった。清は苦虫を噛み潰したような表情をすると、
「そういう日もあるさ。これでも早くあがったほうなんだぞ」
「そうなの? お疲れ様」
労りの言葉をかけると、清がこちらに近づいて来る。
「良い香りがするんだけど…。何?」
「あのね、きのこを近所の人から分けてもらったんだって。お母さんが今、炒め物にしてくれたの」
「へえ…。何のきのこ?」
「さあ? お母さん、何のきのこ?」
「えっと…名前なんだったかしら? そこに残りがあるんだけど」
厨房の台の上に、袋が置いてあった。清が覗き込み、そして急に眉根を寄せる。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
「ちょっと待った!! このきのこ…毒きのこじゃないか?」
「え…?」
凛と定が同時に驚き、固まる。清は尚も続ける。
「俺、市場にいるから、分かるんだけど…。ちょっと1ついい?」
袋の中からきのこを取り出すと、縦に裂く。根元に黒褐色のしみが見られ、ますます清は確信をもったようだった。
「これ、ツキヨタケっていう毒きのこだよ!!」
「つ、ツキヨタケ…? 何それ、お兄ちゃん?」
「ムキタケに似ているんだけだど、違うんだよ!! 食べると、嘔吐や下痢になったりするの!」
「嘔吐や下痢!! ま、まあ!!」
定も慌てて作業の手を止める。危ないところだったと、その場の皆が安堵する。
「誰からもらったの、これ?」
「近所の人なんだけど…」
定がそう告げると、清が怖い顔で袋を持つ。
「ちょっと、俺、行って来る。間に合うかな?」
「お兄ちゃん…!!」
いきなり清が走り出したので、凛は焦って呼び止めようとする。しかし清は足を止めず、行ってしまう。
「ど、毒きのこって…本当に?」
凛が皿を覗き込み、凝視する。見た目は普通だが、どうやら見る人が見ると違うらしい。
ーお兄ちゃんが市場にいて良かった。
心から感謝し、清が帰って来るのを待つ。定は定で驚いているらしく、
「こ、これ…!! 捨てたほうがいいわよね」
「待った…!! お兄ちゃんが帰って来てからにしよう? 証拠になるかもしれないし」
「あ、そうか。そうね」
しばし待っていると、清が厳しい顔で戻って来た。
「ど、どうだった…?」
凛が駆け寄ると、清は重々しく息を吐く。
「食べた後だった。症状が出ているようだから、医者を呼んだんだけど…。多分、大丈夫だと思う」
「そ、そうなんだ…。危機一髪だったね」
「ああ。…で? これ、誰からもらったと思う?」
「誰って近所の白さんでしょう?」
「違う。白さんは李さんからもらったって、証言した。うちにもお裾分けしたらとか言ったらしい」
「え…。李さんが?」
大雅の商売仲間が犯人だと知り、凛は愕然とする。わざわざ近所の白を介して渡すということは、周到な嫌がらせである。
「下手すると、死ぬ場合もあるのに…!! 許せない!!」
清がまた出かけようとしたその時、父親の大雅がやって来る。
「どうしたんだ、皆? 何かあったのかい?」
「それが父さん…!!」
清が掻い摘んで話すと、大雅は驚き、きのこの盛られた皿を手にする。
「早く捨ててしまいなさい」
「今、捨てます!!」
生ごみの入れる容器に全部入れると、大雅がきのこの入った袋を手にする。
「父さん、俺も文句言いに行ってもいい?」
清はかなり怒っており、仕方のないことだと思った。
ーもしかして、この前、私が叩いたから…!!
思い当たるとしたら、それしかない。凛は恐ろしくなり、身震いする。
ー殺そうとしたのかしら…? そうだとしたら、鬼だわ、鬼!!
自分のやったことの仕返しに、毒を渡してくるなんて怖かった。巻き添えをくった白が哀れである。
ーぞっとする。もし食べていたら…。
凛は大雅に近寄ると、耳打ちする。
「あの、お父さん、これってこの前の仕返しじゃ…!!」
「多分な」
「何かあったのか?」
清の質問には答えず、大雅は首をゆっくり横に振る。
「残念だが、悪質過ぎる。清、悪いが、役人のところへ行ってくれるか?」
「分かった。きのこは…?」
「一応、持って行ったほうがいい。それと白さんを証人とすることを喋るんだぞ。分かったか?」
「うん、行って来る」
清が忙しそうに、室内を飛び出して行く。残った3人はしばらく沈黙していた。特に凛の顔が青白い。
ー仕返しするなら、口で返せばいいのに…!!
自分が原因だと思うと、頭から水を浴びたように体が冷たくなっていく。
「凛、大丈夫か? 凛?」
「お、お父さん…。私、怖い」
大雅は震える凛を抱きしめると、優しく言ってくる。
「悪いことをしたら、悪いことが返ってくる。神様は何でもお見通しなんだよ。しかも噂はあっという間に広がる。商売をしていて、そんなことも分からないなんて…!! そのほうが腹が立つ!! そんな店、すぐに潰れるさ」
「そ、そういうもの…?」
「ああ、そういうものだ。商売をしていて何が一番気にしなくてはならないのは、金じゃなく、人だ。人と人が支え合っているから、成り立つものであって、自分勝手に行動しようものなら、他人も自分を守ろうとしてくる。人間、恨みごとが怖いからな。商売をやっている以上、気をつけないといけない」
「う、うん…。じゃあ李さんのお店は…?」
「最悪、潰れるな。彼を信頼して食べた白さんが今度恨みにもつ。恨みの連鎖は恐ろしいものだ。うちは清か気がついてくれて良かった」
「そうね。危うく夕食に出すところでした。私も気をつけます」
「いや、定は悪くない。近所の人を信じたんだから。人の縁とはそういうものだ。一度、事が起こると、元に戻るのは難しい。村八分になるかもしれないな」
「村八分…!! そんな、お父さん」
「多分だけどな。やり方が汚すぎる。直接、うちに届ければいいものの…!! 全く。下手すると、役人に捕まるかもな」
「え…!! それって」
「自分のしたことだ。もういい歳なんだし、それくらい責任をとってもらわないと。その覚悟で、うちに毒きのこを渡すようにそそのかしたのだから。社会を甘くみるな!」
「お父さん…」
「お父さんの言う通りよ。やったらやり返される。残念だけど、店が潰れても誰も同情しないかもね」
「お母さんまで…!! あの、私の罪は?」
「だから凛は大丈夫だって言っているだろう?」
安心させるように、凛は頭を撫でられる。そこまで子どもじゃないんだけれどと思いつつ、守られている感じが嬉しかった。
「さあ、料理を続けよう。俺も久しぶりに腕をふるうかな」
「え、お父さんが作るの? 珍しい」
「たまにほいいだろう?」
大雅がお茶目に片目を瞑ってくる。それで少し表情を緩めると、
ー明日、どうなるかなんて誰も知らないものね。
そう結論づけ、喧嘩を売る時は気をつけようと肝に銘じる。その直後、腹がぐうと鳴ってしまった。
「ほほ。早く食事を作りましょう。ね、お父さん」
「そうだな。食べ盛りなんだから、いっぱい食べなさい」
「うん!!」
凛が答えると、ようやく場が明るくなり、いつもの雰囲気に包まれたのだった。




